04.見せてはいただけないのですか

 十二日目。

 どさりと音を立てて置かれた布の山に、アニエスは目を丸くして見せた。


「フィリベール様のお召し物よ」

 と、三年先輩だと威張る女官は言った。

「殿下はね、新しいお召し物をなかなか用意したがらないのよ。その分、手入れが多くてね」

 嫌になっちゃう、と零す彼女に、アニエスは親しげに微笑みかける。


ほつれを繕ったり」

「うんうん」」

ボタンを付け直したりすればよろしいのですね」

「分かってるじゃない!」


 さすがね、と彼女はアニエスが着る服に意地悪な視線を投げてきた。

 今日のドレスは褪せた青。いつも意識して旧い意匠で古びた生地のドレスを着ている。彼女のような女官へのとするために。


 微笑みを向けたままのアニエスに、先輩女官はよろしくねと言って、去って行った。

 すぐに、アニエスは笑みの形を変えて。大急ぎで仕事を終わらせた。

 報告に行けば、女官長は喜んで、衣装を詰めた箱を運ぶための従僕を出してくれた。

 さらに、水あげされた後のライラックを渡される。


「殿下のお部屋に飾ってきてちょうだい。殿下は決まった女官や従僕を置いてないから、常に気を払う人がいないのよ。だから、こういうことは思い出した時にやらないと。殿下のお部屋がどんどん殺風景になってしまう」


 随分な言い方だ。


「また陛下が寝室でお過ごしだから、そちらに人手を割かないといけないですからね」


 言うほどやることもないだろうに、と突っ込みたかったけれど。心配している顔で集まることに意味があるのだろう、ここの女官たちには。

 それに、とアニエスは思い直す。


 これは、王太子に再び近づける機会なのだ。


 セドリックが描いた道筋とは違うが、目的が果たせるのだから問題ないだろう。

 そういう目的があるから、一人のほうが気楽だったと思いながらも。愛想笑いを従僕に向ける。彼もヘラヘラと笑い返してくれて、共に問題の部屋の扉を叩いた。


 先に入っていったのは、箱を抱えた従僕だ。

 彼は、箱とは別に封筒も王太子に突き出した。


「お手紙が届いています」

「……誰から?」

 部屋の真ん中のテーブルに突っ伏していたフィリベールが、うっそりと顔を上げる。

「ミシェル・ヴィクトワール・ベニシュ卿――ブランドブール辺境伯です」

 従僕の答えに、フィリベールはすこしだけ笑った。


 廊下に立ったまま、アニエスは頷く。

 ブランドブール辺境伯の現当主。王太子の従兄に当たる人物。

 年若い故に、一族を掌握するのに手こずっているらしい彼は、内紛を収めるために、今は領地にいる。

 そこからの手紙だ。王太子にとってはい知らせなのか悪い知らせなのか。


 王太子が手紙を読み始めたのを認めると、従僕はそそくさと出て行った。

 脇を抜けて走っていった従僕を視線だけで追って、わずかに笑みを浮かべる。


 誰も近寄らない王子。

 金の髪は長く伸びて、肩の上で一つに括られている。深い紺色の上着は、確かに新しくはないけれど、生地が体に柔らかく馴染んで動きやすそうだった。そしてやはり華奢だ。

 そんなフィリベールを真っ直ぐに見据えて、アニエスは部屋に踏み込んだ。


 瞬間、風が紙を踊らせた。

 それなりの広さがある部屋の床一面に、紙が広がっていく。

 白いままのものもあれば、鉛筆の線が縦横に走ったものもある。

 よく見れば、それらは絵だった。ダニューヴ河を渡る船、牧場を駆ける馬、庭園に咲いた花。あるいは、人の顔。


 その紙の嵐が収まってしまうと、とても静かだった。

 開け放たれた窓から吹き込む風の音しかしない。

 人の声がしない。誰も近寄らない、決まった女官や従僕がはいない、というのは誇張でも何でもなかった。


 立ち尽くす格好になったアニエスに、椅子に座ったままのフィリベールは見向いてこない。

 無表情な横顔からは、手紙の内容は探れない。

 だから。

「殿下」

 声を上げた。


 すると、フィリベールは大きく肩を揺らして、振り返ってきた。青い――アクアマリンのような淡い青の――瞳に、吹き出すのを堪えるアニエスが映る。


「またお会いできて嬉しいです」

「嬉しくない」


 ぷいっと。フィリベールは顔を背けた。やや頬が赤い。

 アニエスは笑んだ。


「私はただの女官ですので」

「嘘をつけ」

「すくなくとも今は、女官として参りました。こちらの花束を飾ってもよろしいでしょうか」


 両腕に抱えたままだったライラックの花束をわずかに掲げる。

 ちらりと視線を寄越して。手紙をくしゃくしゃに丸めてから、フィリベールは頷いた。


「花瓶はそこにある。水は汲んでこい」

「かしこまりました」


 頷いて、外に出る。

 丸められたということは、手紙の内容は碌でもなかったのかもしれない。

 水を汲んで帰ってくると、部屋の真ん中のテーブルに向かったままのフィリベールは、今度は鉛筆を紙に走らせていた。

 好奇心のまま覗き込んで、アニエスは驚いた。


「絵を描かれるのですか? 殿下が?」

「悪いか」

「いいえ、そんなことは……」


 ないけれど、と瞬く。


 紙の上に線を結んで形作られていたのは、パンだった。

 今朝食べたのかもしれない、ロールパン。


「可愛いですね」

「煩い」

「絵を描くのはお好きですか」


 笑いながら問うと、幼い頃からの趣味だ、とフィリベールは受けた。


「この馬の絵もスケッチも、みんな殿下が描かれたのですか?」

「そうだ」

 悪いか、ともう一度。フィリベールは口を尖らせた。

 アニエスは首を横に振った。


 王太子にこんな面があるなど知らない。知らされていない。

 セドリックも誰も、先に忍んでいた間諜たちは気付かなかったのだろうか。

 それに何より。

 女官たちの間で話に上がったこともない。


「絵の師匠などは」

「今はいない」

 昔はいたということか、と瞬く。フィリベールはさらにむくれる。

「それに、最近は時間も道具も無いから、大きな物は描かない」


 アニエスが言葉を続けないでいると、フィリベールは紙に向き直ってしまった。

 だから、アニエスも本来の作業、花瓶にライラックを活けることを始める。


 しっかり水を吸い上げたライラックはふっくらと膨らんでいた。その枝を白い陶器の大きめの花瓶に挿す。

 薄紅、紫、白の花の山がふわふわと揺れる。

 窓際の台に置くと、風を受けて、香りが広がった。


「これで如何ですか」

 振り返って問うと。

「そのまま動くな」

 と王太子は言った。


 え、と返す。

 フィリベールの右手は鉛筆を握ったまま。


 その鉛筆がざくざくと紙の上を走る。アニエスを描いているのだと気がついて、目を丸くした。


「殿下」

「動くな。描きづらい」


 何故、という問いは言えない。

 やがて描き終えたらしい王子は、書き上がった作品をキャビネットへと突っ込んだ。


 ほうっと息を吐いて、首を振る。体中が強張ってしまったと笑いながら。

「見せてはいただけないのですか」

 と言ったのに。

「お断りだ」

 フィリベールはまた頬を染めて、そっぽを向いた。


 その時ちょうど、外で時計台の鐘が響いた。鳴り止むのを待って、彼は立ち上がる。


「出かける」

「どちらへ」

「父上の見舞いだ」


 寝ているという父王を気に掛けていたらしい、とアニエスが納得している横で。

 上着の襟だけ直して。

 従者も騎士も、誰も従えず、彼は独りで歩き出した。


 また独りだ。


 そう思うと同時に廊下に飛び出して、アニエスはフィリベールの後ろに立った。

 胡乱げに振り返る王太子に笑いかける。


「お供致します」


 何故、と彼は唸った。


「殿下をお守りするためです」


 答えて、首を傾げてみせる。


「もしもの時、人を殺すこともできますよ?」


 極上の笑みをよこしてやったつもりだった。

 フィリベールは唇を歪めた。

「勝手にしろ」

 後ろ向きな許可だ。そう取って、アニエスは彼の背に付いた。


 ――死なせるな。

 今のアニエスの中ではその命令が生きているから、付いていく。

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