03.我らが真実の王に仕えよ

 女官は、小間使いと違うから掃除や調理に精を出すことはないけれど、それなりに忙しいもの、と認識していたのだが。

 ベルテールの王宮の女官はなかなかに暇だった。


 仕える女官の数に比して、仕えられる貴人が少ないのかもしれない。

 国王クレマン七世とその妃ジェラルディーヌ。王太子フィリベールと第二王子であるジスラン。普段はそれくらいだ。

 時折やってくる王家の血筋に連なる貴人や外国の要人たちに付く以外に、増える役目はない。

 自ら何かを探して、別の役目を増やそうとする気配もない。


 現状に満足しているとも、ただただ怠惰なだけとも取れるその姿勢は、平穏を享受し過ぎたせいなのだろうか。

 長く栄えるベルテール王国。

 この国が亡くなる日など、王宮にいる誰も想像していないに違いない。



 だから、アニエスが女官として仕えて十日目となる今日も、何も起こりそうにない。

 お喋りに興じる人たちが至る所にいることに、アニエスも慣れた。

 その周囲に気を配らない人々のお蔭で、容易に庭園へと抜け出せる。


 ライラックに混じって薔薇が香り始めた中を抜けて、椎の木の蔭へ。

『おいで』

 と言って、指先を空に伸ばす。そこに、鳩が静かに降りてくる。

 鳩の足には小さく折り畳まれた紙が括り付けられていた。

 それを摘まんでから。

『お行き』

 鳩が止まったままの手をさらに高く伸ばした。

 羽の音は小さい。鳥は静かに空へと遠ざかっていく。夏に向かう、青が濃くなってきた空に。


 鳥が小さな点となって消えてから、一度周囲を見回した。誰もいない。

 それから手元に残った紙を広げる。

 掌ほどの大きさの紙にはただ、この国の言葉とは違う綴りで『我らが真実の王に仕えよ』とだけ記されていた。


「命令は変わらない」

 呟いて、紙を細かく破る。すこしずつ、別々の茂みの中に紛れ込ませる。

 それから何事もなかったように、建物へと戻る。



 戻って、階段を登る。お喋りが続く廊下を抜けていこうとしたところで、後ろから足音が聞こえた。

 振り返ると、歩いてくる男と目が合う。


 年は三十手前といったところ。髪の短い、中肉中背の目立たない男だ。渋い緑色のゆったりとした服は、この国の文官ならではの装束。

 その中で目立つ特徴は、右にかけられた片眼鏡モノクル


 彼は真っ直ぐにアニエスに向かってきて。

『我らが真実の王に仕えよ』

 追い越しざまにささやいた。

 そのまま何気ない顔で歩いていく男を、アニエスも素知らぬ顔で追う。


 二人はさらに階段を上り、長く続く廊下の真ん中でようやく立ち止まった。


 窓の外の、王都の家々の屋根と、ダニューヴ河を見下ろしながら。

「よく見えて、会話も筒抜けになりそうなところだ。逆に怪しまれまいよ」

 男が笑う。


 彼の名はセドリック・オードランという。

 アニエスをこの王宮へと引き入れた、間諜としての上役だ。もう長く王宮に忍んでいるのだと聞く。

 そう。二人とも本当はベルテール王国の人間ではない。


ベルテールこの国の宮殿に身を置いているわけだが、我らはハルシュタット北の国の王に仕える身だ」

 セドリックが微笑む。アニエスは頷いた。

「分かっています」


 とはいえ。

 潜り込んだ先に同じ目的を持った者がいるという状況に、馴染めずにいる。今までは、一人で送り込まれることが多かったから。周囲は全員敵だと思っていないと、もしもの時に危うくなる。

 味方と敵が分かりにくく混じりあっているのが、疲れる。


 そう考えた結果で肩が強張っているのが通じたのか、セドリックは殊更ゆっくりと言った。

「警戒しなくていい。我らは同士だ」

 だから、アニエスもゆっくり息を吸って、もう一度頷く。


 さて、と一度言って。セドリックは笑みの形を変えた。

「呼び止めたのは聞きたいことがあるからだ。強運な同士よ。今日届いた指示は何だったかな」

「我らが真実の王に仕えよ」

 アニエスは言って、恭しく礼をした。

「ですから、今後も北の地に在らせられるエドゥアルド王のお考えに沿ってまいります」


 エドゥアルド王の考え。言葉にしたら簡単な話だ。

 の王は、今はベルテール王国と呼ばれている土地を、自ら治めたいと狙っている。


 だが、事を進めるのは簡単ではない。

 ベルテールが豊かな国故に、狙っているのはエドゥアルドだけでないのだ。

 広がる肥沃な農地。北の山脈に繋がる鉱山。西の大海へこぎ出せる港。どちらを向いても魅力的だから、南に面するイリュリア国も狙っている。


 現状、一歩先んじているのはイリュリアだろう。王女と王子を婚姻させることで、国の中へ踏み込もうとしている。

 だが、いくら平和けした国とは言え、ベルテールの人間がそれを容易に認めることはないだろう。だから、婚約したのは王太子ではなく第二王子なのだ、とハルシュタットの重鎮たちは言っていた。


 その上で問題になるのが、ベルテール王国で国王を凌ぐ権勢を誇る宰相だ。


 この、ミュランという男が曲者だ。

 国王クレマン四世の最初の妃が亡くなると、喪が明けるなり自分の娘を次の妃にと送り込んだ。

 それで生まれた王子がイリュリアの王女と婚約したジスラン。実の孫を王位に就けて、自らが権勢を振るいたい宰相は、この婚姻をジスラン王子が王位を継承する理由にしようとしている。


 そうなると邪魔なのは、王太子であり、ジスランの腹違いの兄であるフィリベールだ。

 先の王妃――フィリベールの母はとうに身罷っている。だが、本来であれば、彼女の実家が後ろ盾となってくれるはずで、誰もがそのつもりだった。王妃の死後ほどなくして立った年若い当主を巡って内紛を起こしたりしなければ、東の重鎮ブランドブール辺境伯の一族はフィリベールを支えていたはずだ。だが、今はそれができていない。

 無防備な王太子を、ミュラン宰相もイリュリアも、亡き者にしようとしている。


 このような状況の中で、とセドリックは首を傾げた。

「おまえの役目は何だったかな?」

「クレマン四世一家を死なせないことでございます」

「そう。私の役目もそうだよ。エドゥアルド様がこの土地を治めるための駒として使うまで、死なれては困るんだ。国王も王太子も」


 頷く。

 セドリックの笑みが深くなる。

「それで、おまえを強運な同士と呼べるようになるわけだ」


 どういうことだ、と目で問うと、セドリックはますます笑った。


「ジスラン王子と踊っただろう」

「……ご覧になっていたのですか」

「勿論」


 文官は生真面目に、眼鏡を押し上げた。


「第二王子は気まぐれだ。気に入った娘がいるとすぐに手を出そうとする。婚約があるというのにね」

 つまり、とアニエスが眉を寄せると、セドリックは低く喉を鳴らした。

「第二王子に近づくのは簡単だということだ」

 そして、策を打て、と言う。

「そこから王妃に近づいていく道ができるだろうな。そうしたら国王へ、そして王太子へと繋がれる」


 ふう、とセドリックは大きく息を吐いて。微笑んだ。


「死なせるな。ジスラン王子は勿論、クレマン王も、ジェラルディーヌ王妃も、フィリベール王太子も、全員だ」


 生き残らせてどうするのだろう、とアニエスは尋ねてしまったことがある。

 すると、セドリックは穏やかな笑顔で告げた。


 彼らはその首から流れる血で以て、王家の終焉を告げなければいけないのだ、と。


「エドゥアルド様のお望みを忘れるな」

「はい」


 セドリックの向こうにエドゥアルド王の蔭を見て。そっと目を伏せた。

 そのアニエスの耳にセドリックが囁く。


「我らが真実の王に仕えよ」


 合言葉は、会話は終わりとの合図。

 セドリックはこの国の文官の顔をして去って行った。


 アニエスもまた、古いドレスの裾を翻して歩き出す。

 誰が王であっても自分には関係のないこと、と思いながら。

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