02.もっと本気で王冠を狙わないと

 昨夜殺したのは男だった。

 体は大きかったし、腕も相当太かった。怪力から繰り出された最初の一撃を避けられたのは、運が良かった。

 共闘できる相手がいたのも、運が良かったのだ。

 久しぶりだ。誰かが一緒にいたというのは。

 その一晩の同士となった女は、月光の下であでやかに笑っていた。


 そこまで考えて、フィリベールはのろりと起き上がった。

 カーテンを締め切った部屋は今日も暗鬱としていた。誰もやってこない、静かな空間。独りで衣装を整えて、外へ出る。


 朝を迎えた王宮は、近衛兵も召使いたちもとっくに動き出している。

 その中をフィリベールが歩いていくと、手を止めて会釈してくれる。だが、それだけだ。


 辿り着いた部屋も静かで、どんな音も余計に響いてしまいそうで、溜め息を吐くのも難しい。

 広い空間に、大きな樫の机。椅子に腰掛けているのは、白髪の男。

「父上」

 傍に寄って、声を掛ける。

「おはようございます、父上」

 大きな声は出せず、代わりに肩をわずかに揺すった。

「朝食は召し上がりましたか? ちゃんとお目覚めですか?」

 返事はない。頬杖をついて、目を閉じた父の顔は皺だらけだった。その皺は、この数ヶ月で一気に増えた気がする。


 椅子に深く座ったままの父をどうしようかと悩んでいると、廊下が騒々しくなった。


 来た、とつい声が出る。

 国王の執務室前でここまで賑やかなのは一人しかいない。

「父上。ミュラン宰相が来ました」

 確信を持って、言う。まもなく、部屋の外にいた近衛も同じことを告げてきた。


 昨夜の宴の疲れを感じさせない顔で、宰相はやってきた。背後にぞろぞろと従僕と侍女を引き連れて。


 赤い衣装を着こなす、堂々たる体躯。髪こそ白くなったものの、顔の皺は少ない。目は爛々と輝いている。

 彼は、机の三歩前までやってきて、慇懃に頭を下げた。


「国王陛下におかれましては、本日も恙なくお過ごしのこととお慶び申し上げます。フィリベール殿下もご機嫌麗しく」


 曖昧に頷くと、宰相は微笑んだ。


「昨夜の宴は如何でしたか?」

「……あそこには長く居なかったんだ」

「それはそれは、なんて勿体ない!」


 宰相は、大きな動きで天を仰ぎ、目元を押さえた。


「弟君のお祝いだというのに、ご欠席だったのですか」

「いや、最初は居た」

「最後までいらっしゃれば良かったのに。実に賑やかな会でございましたのに、なぁ。兄上が不在とあっては、ジスラン王子も寂しかったのではないですか?」


 それはない、という言葉は呑み込んだ。相手はわざと言っている。その証拠に、口元だけはニヤニヤと崩れていた。


 宰相はフィリベールが邪魔なのだ。

 政敵の娘が産んだ王子より、自分の娘の胎から生まれた王子のほうが可愛いだろう。だから、何かにつけて、フィリベールを遠回しにおとしめる。

 そういう宰相に乗せられて、弟も、誰もかも。


 ――考えたくない。


 フィリベールが視線を逸らすと同時に。

「陛下は宴でお疲れですかな」

 と、宰相は言った。


 フィリベールと宰相が話している間に、父王は大きく船を漕ぎ始めていた。

 慌てて、その父の肩を掴んで揺する。


「父上。ミュラン宰相が来ました」

 もう一度告げる。

「公務の時間ですよ」

 だんだん強く揺する。

 何度もそれを繰り返してやっと、父は目を開いた。

「うむ…… フィリベールか」


 とろん、と微睡んだ瞳。視線がうまく合わせられなて、息を呑む。


「本当にお疲れのようだ」

 と、宰相は大声を張った。

「お休みになられたほうがいい。誰かいないのか?」


 すると、宰相が来たのとは別の小さな扉から、長身の従者がひょっこりと顔を出した。

「サロモン。陛下を寝室にお連れしろ」

 フィリベールが言うと、承知、と返ってくる。その彼に担がれるようにして、父王は部屋を出て行った。


 扉が閉まるなり。

「殿下にはお役目が」

 宰相の視線が厳しくなる。

「分かっている」

 俯いて、父が座っていた椅子に掛けた。


 そして机に広げられる、報告と名付けられた書類。

 中でも決済が必要なものには、国王代理として、王太子として名を記す。


 黙々と捌いていった最後の一件は、特に署名はいらなかった。

 南のイリュリアから大使が来るという知らせだ。

 昨年、弟とイリュリアの王女が婚約した。兄であるフィリベールではなくて、弟が、先に。この弟、ジスランが成年を迎えたことで、いよいよ王女の輿入れの話を進めたいということだ。


「一ヶ月後」

「庭園では薔薇が満開になっているでしょうなぁ。お見せしなければ」

 大使が訪れるのだという日を、フィリベールが呟くと、宰相は体を揺らして笑った。


 明るい笑い声。楽しいからだろう、当然だ。

 この婚姻は宰相の肝入りで成立したのだ。弟の立場を強固なものとする目的で。

 今回に限らない。フィリベールそっちのけで決まる事柄のほとんど全ては、宰相が、やがて自分の利益となると狙って行うことだ。


 笑い声の果てにやがて、独り執務室に残された。


 窓から見えるのは窮屈そうな町並み。ごちゃ混ぜの色合いの屋根が続いて、その隙間から生活のための煙が細々とあがっているのが見える。

 何をするのでもなくその景色を眺めていたら。


「お仕事、終わってました?」


 ひょっこり顔を出したのは父の従者だった。先ほど、寝室へ国王を連れて行くよう、フィリベールが命じた男。


「サロモン」

 名前を呼ぶと、彼はずかずかと中に入ってきた。

 此奴も背が高い。ついでに腕と脚が長い。上着の袖も下衣の裾も長さが足りていなくて、細い腕と足首が覗いている。


「陛下はベッドでぐっすりお休みですよ」


 そう言って、彼は合わせた両手を頬に添えて、首を傾けた。動きに合わせて、銀の髪がさらりと鳴る。


「最近眠ってばかりですねー。起きていてもぼんやりされてますし」

「そうだな」

「お疲れなんですかね。そりゃあね、ミュラン宰相の相手ばっかりしてちゃ疲れると思いますけど」

「……滅多なことを言うな」


 睨む。サロモンは肩を竦めた。


「フィリベール様もお疲れでしょ」

 言って、彼は長い指先をひょいっとフィリベールの口元に向けた。

「お父上と同じくらい老け込んでますよ。唇は渇いているし、肌も当然ガサガサじゃないですか。隈も酷い。爪も割れてます。髪は伸びっぱなしで、枝毛が目立ちます。お手入れされてます?」

「煩い」

「まあ、このストレスじゃあ、お手入れしても無駄になりそうですよねぇ。本当にもう」


 と、一度サロモンは首を振った。


「このままでいいんですか? もっと本気で王冠を狙わないと、いずれ宰相に潰されちゃいますよ?」


 言われなくても分かっている、と睨む。くくく、とサロモンは喉を鳴らした。


「まずは味方を増やすところから始めないとですね! とはいえ、愛は王冠よりも冷たい。権威のない貴方に誰も寄って来ないのは当然の流れですので。どうしたものでしょうねえ」


 喉を鳴らし続けるサロモンを、フィリベールはじとりと睨んだ。


「その理屈でいくと、おまえは物好きなんだな」

「ええ!? どうしてそういう発想になるんです?」

「おれに話しかけてくる」

「あー、成程。そういう意味ではそうですね」


 笑うサロモンからは、ふわりと甘い香りがする。


 物好きという意味では昨夜の奴もだな、と。フィリベールはまた彼女のことを思い出していた。

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