愛は王冠より冷たい

秋保千代子

01.人殺しなんて簡単にできるわけない

 噴水に死体が沈んでいく。

 それは早咲きのライラックが香る庭園にひどく不釣り合いな光景だったし、為したのが絹の衣装に身を包んだ男女だというのもまた滑稽だった。


 ゴボゴボという排水の音を聞きながら、二人は顔を見合わせる。

「おまえ、何者だ」

 先に口を開いたのは男のほう。

「ただの女官です」

 と女が答えると、男は顔をしかめた。


「そうじゃない」

「あら? お聞きになりたいのは、役職ではなくて名前ですか? アニエス・カロンと申します」

「だから違う、そうじゃない。王宮に出入りするような令嬢が、人殺しなんて簡単にできるわけないだろう。そういう意味で何者なのかと聞きたいんだ。ただの女官なわけないだろう」

「人殺しなんて簡単にできるわけない。そのお言葉、そっくりお返ししますよ。王太子殿下」


 くすりと笑って、アニエスは相手をまっすぐ見つめた。

 彼はこの国の王太子だ。名はフィリベール。今年で二十一歳になったと聞く。


 月光に照らされた影は細い。撫で肩の華奢な体躯で、背も高くない。

 その身を包む衣装は濃い、夜の闇に溶け込む色。

 一つに結わえられた長い金の髪は月光を受けて輝くけれど、顔ははっきりと見えない。

 姿絵で見た限りでは青かったと記憶しているその瞳は、まっすぐにアニエスへ向けられていた。


「何者なんだ。言う気はないのか」

 当然か、とごちてから。ふいっとフィリベールは視線を逸らした。


何奴どいつ此奴こいつも、おれには何も言いに来ない」

「誰が、何を、殿下にお伝えしないのですか?」

「煩い」


 奥歯を鳴らして、王太子はまた睨んできた。


「逆に、おまえはおれが人殺しだと言いふらす気だろう?」

「いいえ、まさか」


 目を丸くする。両手を体の前で振りながら、言葉を繋げる。


「ですけれど、人殺し云々はともかく、現状は広く知らせてもよろしいのではないですか? まさか、王太子殿下が暗殺者に狙われていて、自らの手で討っているなんて。誰も知らない」


 初めてではないでしょう? そう、言外に問いかける。

 最初の一撃を交わし、庭園の中でも舗装された小道に誘い込み、その石畳に頭を打ち付けて殺す。そして、死体を、容易に浮かんでこないだろう噴水の中に隠す。

 一連の動きは、あまりに手慣れていた。

 今宵までに何度も何度も死線をくぐってきたのだと予測できてしまうほどに。


「知ってしまった以上、殿下が殺されるのを黙って見ているわけにはいきませんから」

 言うと、溜め息を重ねられた。

「それは忠誠心か?」

「さて、どうでしょう?」

 首を傾げてみせる。また溜め息が響いた。

「訊いたおれが莫迦だった……」

 言って、王太子は踵を返した。


「さっさと立ち去れ」

「殿下はどちらへ?」

「部屋に戻る」

「宴の席に、ではなくて?」


 アニエスが問うと、彼は一度、庭園の向こうの明るい空間へ、視線を向けた。


彼処あそこにおれの居場所はない」


 まさか、そうですか、とは言えず、アニエスは目を伏せた。

 その代わり。


 ――わたしが命じられたのは、貴方がたを死なせるな、ということですので。


「またお会いしましょう。これからも王宮にお仕えするつもりですので」

 アニエスは笑った。

「今度も死体の始末を手伝わされるだけかもしれないぞ?」

 会いたくないとうそぶいて、奥の宮へと王太子は去って行った。


 彼の背中が立木の葉の向こうに見えなくなってから、アニエスもまた歩き出した。

 フィリベールとは真逆、明るい方へ。豪勢な宴の間へ、だ。


 外の壁まで隙無く飾られた宮殿。

 昼間と変わらぬ明るさは、惜しみなく使われた燭台のおかげだ。

 シャンデリアが煌めく下を、人々は、絹の衣装を翻して回る。王家万歳、ジスラン殿下万歳、と大声で称える。

 その喧騒の中へ、まさに今、主役が奥の階段に姿を見せた。


 今宵の此処は、第二王子の誕生祝いの場だ。

 十八歳、この国で成年と認められる年齢になった王子。階段の中ほどで一度足を止め、ぐるりと広間を睥睨する様は堂々たるもの。肩からかけた毛皮も、権威に似合う豪華さだ。


 そう。威風辺りを払う彼だけど、第二王子のはずだ。

 盛大に祝われる弟王子。この状況に、祝う側は何も感じないのだろうか。もしかしたら、感じていても敢えて言わないだけかもしれないが。


 勢いのある方に従うのが通常の処世術だと、アニエスでも分かる。

 今日この場に集まっているのは、通常の判断をした貴族たちだ。


 場を揺らす拍手。それから弦楽器が高い音を立てて、祝福を告げる。

 充分な時間を掛けて広間に降り立った王子は、ひときわ華やかなドレスの令嬢の手を取って、踊る。

 その一曲が終わると、するりと相手の手を離して、王子は歩き出した。次のダンスの相手を探すためだ。

 彼が探すまでもなく、令嬢たちは我先にと寄っていく。自分の身内を薦めたい者も含めれば、老若男女関係なく、吸い寄せられていく。


 その流れに紛れた。ただの女官ですよ、という顔で。

 死体の始末もできるけれど、ごくごく普通の人間として振る舞うのも問題ない。

 時と場所によって顔を変える。これまでずっと、そうやって過ごしてきた。


 可憐な令嬢の佇まいで、広間の隅、出口にほど近い壁を背に立つ。会場を巡る王子の目につくように。

 丁寧に梳いた濃い栗色の髪に、濃い紫のドレスを合わせた。意匠や布の傷み方を見れば、古い品だと分かるそれの何重にも重なった襞を、注意深く広げて、その瞬間を待つ。


 ざわめきが近づいてきて、やがて、正面で靴の音が止まった。

 顔を上げれば、視線が絡む。


 他ならぬ今宵の主役だ。

 たっぷり見つめて、ほう、と息を吸って。目を伏せた。


 さあ、来い。


 近づいてくる靴の音に、心の底で嗤う。


「隅にいてもつまらないだろう」

 視界の隅で、大きな掌が広げられた。

「さあ、おいで」


 ゆるゆると首を振って、細い声で応える。

「私はただの女官でございます。とても、殿下と共に中央へ、などと」

「構うものか」


 胸の前で組んだままの手を取られた。強引だ。そうでなければ困るのだが。


「一晩の想い出だ」

 見上げると、王子が、サファイアのような瞳を輝かせて。傲慢な笑みで見下ろしてきた。


 本当に背が高い。アニエスの背は彼の肩をやっと越すぐらいしかない。

 肩も広く、胸も厚い。

 王太子と兄弟だ、と信じられそうなのは金の髪だけだ。


 宝石が縫い取られた装束の腕の中に囲われて、弦の音に釣られるように歩く。踊る。


 上手じゃないか、と王子は息を吐いた。

 だから、アニエスは目を伏せる。遠慮がちの小娘に見えるように。


「君のことを覚えておきたい。名前は?」

 踊りながら、王子は耳元で囁いてきた。

 だからこちらも、寄せられた顔の側で呟いた。

「アニエス・カロンと申します」

「俺のことは分かるな?」

「ジスラン殿下」


 ずっと知っていた名前を答える。

「よし――いい子だ」

 第二王子は満足げに頷いた。


 一曲終わると、また会おうと言って、ジスランは次の令嬢の元へと歩いていった。

 顔を伏せたまま、足音が遠ざかっていくのを聞く。

 胸の裡でひっそりと笑う。


 王国の二人の王子。アニエスが死なせるなと命じられた兄弟たち。

 一晩のうちに両方にまみえたとはこの上ない僥倖だ。

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