六 住之江アザミ(二)

 窓の外を小さな雑居ビルが流れていく。南太宮を縦断する幹線道路。セダンを運転しているのは補佐官の小高。不幸にも呼び出されてしまった彼女に任せ、アザミは助手席で目を瞑る。

 課長からの指示――水曜学習会のメンバーが潜伏していると思われる某住宅に向かえ。

 赤磐逮捕の直後、捜査チームは水曜学習会のうち赤磐と行動を共にしようとしていた中核メンバーを一気に逮捕していた。メンバーの半分近くはそのまま確保されたが、逆に言えば取り逃がしたメンバーもそれなりにいるということだ。赤磐の証言で、取り逃がしたメンバーの居場所もいくらか明らかになった。アザミはその残党狩りに駆り出されたのだ。

 こんなことより、“梟”の居場所を直接追わせてほしかったが、アザミの不服な思いを見透かしてか、課長は梟が取り逃がしたメンバーの中にいるかもしれないと説得してきた。実際はアザミに勝手な行動を取らせないために適当な餌をぶら下げておいたというだけだろうが、アザミは命令をはねつけて独立行動を取るだけの情報は持っていなかった。

「あのう、住之江さん」

 運転席の小高がおずおずと声を上げる。

 小高こだか恵那えな――公安課の魔法使補佐官。魔法局には魔法使だけでなく、魔力の扱いはできないものの魔法の知識を備えた専門官や一般の捜査官がその補佐として多く所属している。小高はその一人で、今回たまたま手が空いていたためにアザミに連れ出された。

「何?」

「これから向かう場所って、もしかしたら魔獣がいるかもしれないんですよね」

「あくまで可能性だけど」

「そう……可能性、はあるんですか……」

 あからさまに声が小さくなる。小高はけして小動物的な外見ではなく、むしろ女性としてはかなり大柄な方だったが、見た目に似合わず非常に臆病な性格をしている。そのせいで、住之江から魔獣の一言を聞いただけでこれだけ縮こまってしまっているのだ。

「別に気にすることはないですよ。魔獣が出てきたら私がどうにかしますので」

「はあ……よろしくお願いします……」

 そう言いながら、小高にはまるで安心したような様子は見えない。きっと今頃小高の脳内では、アザミが殺されて一人右往左往している妄想でも上映されているのだろうとアザミは思った。


 目的の建物の付近へ到着する。緑やピンクなどカラフルに壁を塗られた平屋が建ち並ぶ、一般的な住宅地。その一角にある家に、メンバーの一人が潜伏しているという話だった。

 歩いて区画に入っていく。子供たちが縄跳びなどをしている脇を通り抜け、速やかに目的の家に着く。扉を蹴破って中に入ろうとしたが、そのとき区画の突き当たりに、ちょうど走ってどこかへ去って行く男の姿が見えた。

 平日の真っ昼間だ。この時間にこの場所で、成人した男があんなに急いで何をしようと言うのだろうか。

 なんとなく、怪しく思えた。

 アザミは小高の肩をつついた。

「小高さん、あの男、追えます?」

 小高は驚いてアザミに振り向く。

「へえっ? 私一人でですか?」

「私は家の中を見てきます。何もなければ戻ってきて良いです。別に捕まえようとはしなくて良いので、尾行だけ」

「は、はい、わかりました!」

 そう言うと小高は男を追いかけ始める。長い足で走って行く小高は、あっという間に視界から消えていった。


 杖はケースから取り出してある。カートリッジを挿入し、杖が動き出したのを確認すると、アザミは青色をした家のドアを開けた。無理矢理こじ開けるつもりでいたが、鍵はかかっていなかった。走り去る男を見たときの予感が、一つ一つ外堀を埋められていく感覚がする。

 そっと中に入る。部屋を各個確認する必要は無かった。

 予感は的中する。

 玄関から直接見えるリビングに、男が一人胸から血を流して倒れている。

 左目が疼いた。

 リビングに侵入する。あたりを見回し、まだ潜伏している人間がいないことを確認してから、倒れている男の様子を見た。胸から血が流れている。刃物で刺されたようだが、場所が悪かったのか即死している。体温はまだ残っていたが、男の肉体は明らかな死の兆候を示していた。アザミは小高に携帯で連絡をする。

「はい? 住之江さん、どうでしたか」

「小高さん、その男、絶対に逃さないでください」

「何かあったんですか?」

「家の中に死体がありました。そいつが犯人かもしれない」

「ええっ」

「私もこれから向かいます。それまで振り切られないで」

「は、はい!」小高はそう応答したが、すぐに慌てた声を出した。「ああっ、でも向こう、もしかしたらこっちに気付いてるかも」

 アザミは顔をしかめる。「何?」

「彼、何回もこっち振り返ってます。私尾行得意じゃないんですよ、ほらこんな図体してるから……って、なんか取り出してます。何だろうあれ」

「なんだかよくわからないけど、死ぬ気で食らいついてください。なんなら、もう捕まえちゃっても構いません」

「そんなぁ」

 小高が情けない声を出す。アザミは小高にはそれができるだろうと考えてそう言ったが、

「えっ嘘!」

 大きな波しぶきが上がったような音と共に、小高の素っ頓狂な叫びが耳を刺す。

「どうしたんですか!」

「魔力撃ってきた! あれ杖ですよ、魔杖持ってます!」

――杖!?

 なんで杖を持っている!?

 アザミは方針を変えた。

「小高さん、無理に追わなくて良いです。向こうが追撃してくるようなら逃げてください。できれば私の方へ――」

「わかってますよぉ!」

 何度かしぶき音が鳴り、そのたびに小高の悲鳴が上がる。音から判断して、単純な魔力放出だった。それなら距離を取ってただ避けていればそうそう当たらないはずだ。

「とにかく、急いでそっちに行きますから! それまでなんとか逃げてください」

「わ、わかりました」

 アザミは携帯をしまい、走り出した。


 道行く人々に男の特徴を伝えて方向を尋ね、指で差された方へ走る。それを何度も続けていくと次第に魔法をその目で見たという人も現れはじめ、追うのはより容易になっていく。魔法が一度街中で行使されれば、逃げ出す人の流れが生まれる。あとはそれに逆行するだけだ。

「ああ! 住之江さん!」

 途中でこちらに走ってきた小高と合流する。どうやら無事だったらしい。

「犯人は?」

「見失いました……逃げるのに精一杯で」

 申し訳無さそうに小高は言う。 

「なら探します。ついてきてください」

「本当ですかぁ!?」

「相手は殺人の容疑者ですよ」

「それは、そうですけど……」

 小高が言い訳を始める前にアザミは再び流れに逆行して走り始める。もう流れの起点に近付いたのか、人はぽつぽつとまばらになっていく。しばらくそうしていると、人混みの中でたった一人、筒状のケースを抱えて走っている男がいた。

「あいつ、あいつですよ!」

 小高が大きな身振りでアザミに伝える。

 相手が杖を持っている以上、容赦する必要は何も無い。

 アザミはカートリッジを装填したままの杖を振りかざして魔法を放つ。

「《蛇鎖じゃぐさり》」

 杖から赤い線条が放たれ、杖の男まで向かう途中で枝分かれしてその足に絡みつこうとする。しかし逃げる男はそれにいち早く気付くと、ケースから杖を取り出して《蛇鎖》に向けて魔力を小刻みに撃ち放つ。正確な射撃に《蛇鎖》が砕け落ちる。

 それからアザミは何度か《蛇鎖》を男に絡ませようとしたが、男はその対処法を理解しているようで、全身を拘束される前にその全てを打ち砕いていく。

 男が逃げるのを止め、アザミに向き直る。

 二人とも空になったカートリッジを同時に捨て、新しく装填する。

 それと同時に撃ち合いが始まる。

 互いに引き金を引き、相手の魔力が到達する前に自分の魔力をぶつけてそれを食らうのを防ぐ。赤い影が男とアザミの間を高速で行き来しては弾け飛ぶ。あたりに漂う赤雲の濃度は無害な領域を超え始め、小高は巻き添えで被呪障害を負わないように直ちに引き下がった。

 魔術以下の単純な魔力放出による攻防。要求されるのは単純な魔力の残量と多少の射撃の正確性、それと反射神経だけのシンプルな戦いだ。

 こうした光景は、カートリッジによって扱える魔力が制限されている魔杖使同士の戦いでのみ見られるものだ。他の二種を相手に同様の戦法をとった場合は、必ず先にカートリッジの残量が尽きる魔杖使の方が競り負けるからだ。同じ魔杖使が相手ならば問われるのは魔力残量と腕だけになり、いくらか戦いの中で使う手段としての妥当性も上がる。

 だがアザミにはわかっていた。このまま続ければ自然にアザミが競り勝つ。相手の魔力放出を観察しながら、アザミは相手の粗さに気付いていた。相手の魔力はどう見ても威力と魔力消費がつり合っていない、つまり効率が悪い。どこの工房のどんな杖だか知らないが、低級品であることがうかがえた。

 男の顔に焦りが浮かぶのが、赤雲の向こうに見えた。

 《破柘榴やれざくろ》の敵じゃないな。

 アザミは相手の魔力放出に合わせて適度に受け流し、相手が残量をあらかた使い終えたあたりで再び《蛇鎖》を放とうとしていた。

 だが相手はこのままではジリ貧であるということに気付いたらしく、愚かな勝負に出た。わずかに残されたカートリッジの残りを全て消費して、アザミを量だけで圧倒しようとしたのだ。

 結果的に言えば、それは男にとって最悪の結果をもたらした。

「――!」

 男の指の動きから、アザミは男が何をしようとしているのかにはすぐに気がついた。

 男の判断それ自体は問題ではなかった。アザミは魔力を節約して消費していたから、男が残りの全てをつぎ込んだ一撃を放ったとして、決して対応不可能ではなかった。むしろ、男よりも遙かに多い魔力を残していたことがアザミの手を狂わせた。

 アザミは急な魔力量の増大に対応するため、とっさの動きの中で念を入れ、魔力量を数段階上げた。それは男の最後の一撃を打ち消すどころか、その向こうにいる男を一瞬で絶命させるだけの威力を持っていたのだ。

 《破柘榴》の高密度の魔力放出をまともに食らい、男は後方に吹っ飛んで倒れた。

 アザミは魔力の調節に失敗したことに気付くと、すぐに倒れた男に駆け寄る。

 言うまでも無く男は死んでいる。

「……くそっ」

 アザミはそう吐き捨てる。生きたまま捕らえられない相手ではなかった。勝利の喜びも何も、あったものではない。

「ねえ、その杖、見てくださいよ」

 赤雲が晴れるのを待って、小高が現れる。

「杖?」

 小高は首を傾げながら男の脇に転がっている杖を拾い上げ、アザミに見せた。

「さっき見たときも思いましたけど、これ、杖にしては変ですよ。なんだか、骨みたいじゃありませんか?」

 アザミはそれを間近で見る。

 確かに、それはアザミの知っているどんな杖にも似ていなかった。小高は骨みたいだと言ったが、アザミにはむしろ何本か骨そのものをくっつけて、むりやり一本の杖にまとめたものように見えた。

「新型とか?」

 小高が言ったが、アザミは首を振った。

「だとしたら、性能が低すぎますよ」

「ですよね……。なんというか、雑じゃありませんか? 工房の仕事にしては……」

 アザミはその言葉に同意する。造りが荒いだけでなく、部品の組み方も適当に見える。杖として最低限の構造は備えているようではあるが、こんなものを作る工房があったとしても、誰もそれを買わないだろうと思った。

「何かの試作品かも」アザミは言った。

「それもあんまりピンとは来ませんが……。いったい、何なんでしょうね」



 本部に戻り、事の顛末を報告する。被害者と加害者はどちらも水曜学習会のメンバーであることが確認された。どういう経緯があったかはわからないが、仲間割れをしたらしい。

「……それで、犯人は死んだというわけだな」

 そうしただいたいを口頭で説明すると、石鍵が淡々と確認した。どんよりとした垂れ目の奧に何を隠しているのか普段からよくわからない男ではあったが、その口調は特段アザミを責めているようではなかった。だからアザミは率直に言った。

「私の判断ミスです」

 石鍵はじっとアザミを見定めるようにしていたが、くるりと椅子を回転させて窓の方を見た。

「まあ良い、どうせ殺人犯だ。小高が殺されなかっただけ良しとしよう」

「ありがとうございます」

 たいして譴責もすることなく、石鍵はすぐに話題を変えた。

「殺人の被害者は刃物で殺されていたらしいな」

「ええ、凶器と思われるナイフも、その場に落ちていました」

 杖の男とナイフに残された指紋は一致していた。アザミは間違えて無実の人間を殺したわけではなかったというわけだ。

「なぜ杖を持っているのに、魔法を使わなかったんだろうな?」

 石鍵がぼんやりと言った。それが純粋な疑問か、それとも何か確信があって聞いているのか、アザミにはどちらかわからなかった。

「カートリッジの消費を避けたかったのかもしれません。それとも、魔法で目立つことを避けたかったのか」

「どうだろうな」

 石鍵はまだ窓の方を見ている。石鍵は何か知っている。そうアザミには思えた。

 石鍵は言った。

「今後の犯人の追跡は別の捜査員に任せよう。改めて犯人の居場所がわかったら魔法使を向かわせる」

「……」

 それは、どういう意味だろうか?

 アザミが続きを促すように黙っていると、石鍵は椅子を戻してアザミに問いかけた。

「聞きたいことがあるか?」

「二つほど」

「言ってみろ」

 アザミは言った。「私はこれから何を?」

「気になるよな」

 石鍵がようやくこちらの目を見る。その質問をするのを待っていたとでも言わんばかりに。

「お前、あの杖を見たな?」

 あの杖――殺人犯が持っていた、簡素な白い杖のことで間違いないだろう。

「ええ」頷く。「なんなんですか、あれは?」

「まあ、俺も詳しいことは知らないんだが」

「はあ」

「聞いたところだと」そこで石鍵は一拍置いた。「近々、東野はとある事件に関して大規模な捜査班を立ち上げるらしい。なんでもどこからか密造された魔杖が流出しているから、その元を探そうとしているとか」

 やけに具体的な伝聞情報だと思った。

「密造された魔杖、ですか」

「ああ。あいつらが探している杖は、ちょうど白い棍棒のような見た目をしているとも聞いた。お前たちが見たものはそれだろう」

 アザミは無言でそれを肯定した。

「その杖は非常に粗悪な造りをしているが、シンプルな構造をしている分、素人にも扱いやすいらしい」

「危険ですね」

 アザミは言った。杖を持った男と戦っている最中、相手の魔力の扱いはやけに慣れていなかったが、どうやらそういうことらしい。

 石鍵は続ける。

「お前が見た殺人の現場だが、あれはきっと、杖を奪い合った結末だろう。素人同士が杖の所有権を巡って争いになって、どうしてもそれを欲しがった方がナイフで相手を刺し殺したんじゃないか……と、俺は思う」

 確かに、それは納得の行く解釈ではあった。

「だとしたら、どうして所有権争いになったんでしょうか」

「さあな。まあ実際にどうだったかは、当事者が両方死んでいる以上何も聞き出せない。これからの調べでわかってくることもあるだろうが、まだ何も言えんな」

 石鍵はそうやって喋っていたが、いまいち話が見えてこなかった。刑事課の探している奇妙な杖にたまたま遭遇したからといって、アザミにどうしろというのだろうか。

 アザミはしびれを切らして言った。

「……それで、私は何をすれば?」

 石鍵は言った。「スパイだ」

 思わず声が出た。「スパイ?」

「お前にはこれから東野の班に潜り込んで、密造杖の捜査情報を逐次こちらに流してもらいたい」

「……」

 驚いた、と同時に呆れと納得があった。

 身内を相手に探りを入れろと言うとは、さすがは魔法局でもとりわけ陰湿な組織でトップに立っている人間だ。それが明るみに出たときに組織内の信頼関係がどうなるかなど、考えてもいないらしい。

 だが、相手も一筋縄ではいかない相手だ。どうやって懐に飛び込むか、あまり現実的な算段は立たなかった。

「しかし、どうやって?」

 アザミがそう尋ねると、なんてことは無い、石鍵は既にその道を用意していた。

「別に難しいことはない。主宰は刑事課だが、俺は東野からこちらの応援を何人か呼べないかと聞かれている。真っ正面から、堂々と行けばいいんだ」

「なるほど」

 それなら話は変わる。アザミは東野に怪しまれることなく班で活動し、その内部情報を容易に石鍵に流すことができるだろう。急に事態は簡単になってきた。

 だが。

 アザミは同時に苛立ちを感じていた。上官の命令ではあるが、大きすぎるリスクに対してこちらの得るものが何もない。そもそもアザミは赤磐を捕まえた自分が赤磐の尋問から外されていることに対して、それほど納得していない。本当なら自分が赤磐を絞り上げ、梟の魔獣使を追っているはずだった。だが石鍵は、アザミにそうすることを許さなかった。

 だからアザミは石鍵に尋ねる。

「ところで課長。赤磐については、何か進展はありましたか?」

 石鍵はアザミの目を見ることもなく言う。

「お前が聞きたいのは赤磐ではなく、梟の魔獣使についてだろう」

「……」

 石鍵は言う。

「そいつが何者か、わかったことは少ない。魔獣使は確かにしばらく赤磐と行動を共にしていたようだが、赤磐には名前一つ名乗らなかったと言っている。わかったのは性別だけだ。赤磐はそいつを梟の男と呼んでいた」

「鑑識から、何か上がりませんでしたか?」

「それらしい毛髪や指紋なんかを回収させてみたが、あの部屋には大勢が出入りしていたんだろうな、どれが誰のものかもわからん」

 つまり、何もないということか。

「もう少し尋問させてみるが、赤磐の言葉を信じるなら、梟の男は徹底して身元を隠していたらしい。果たして有意義な情報が出てくるかどうか」

 アザミは表情に出ない程度に歯を噛みしめる。昨日の今日ではあるが、何も進展がない。いったい尋問で何をやっていたのだろうか。自分ならもっと何か吐かせられるだろう。アザミの拳に力がこもる。

 だが――アザミは思った――石鍵は本当に全てをアザミに述べているのだろうか?

 まさか。そんなわけがないだろう。

 石鍵はよくわからない小間使いにアザミを使っていることからもわかるとおり、この件にこれ以上アザミが深入りすることをよく思っていない。アザミに余計な情報を与えて暴走させないために、曖昧なことを言って煙に巻こうとしているんじゃないだろうか?

 というか、間違いなくそうだろう。考えれば考えるほど確信が強まっていく。

 腹が立った。アザミにとって何よりも追い求めている相手へ繋がる鍵がそこにあるのに、それを無視して仕事をしろと言われても、できるわけがない。

 これ以上、良いように使われてたまるか。そう思って、アザミは石鍵に言った。

「わかりました。スパイ、やりましょう」

「そうか」

 石鍵は気怠げに息を吐く。アザミはさらに続けた。

「ですが――」



 本部の巨大な会議室。

 指定された席に座って会議の始まるのをしばらく待っていると、隣に若い――というより若すぎる男が座ってこちらに手を差し出した。

「住之江さん? 朱紙征人です。よろしく」

「朱紙……」

 聞き覚えがあった。ないわけがなかった。それは相手が最年少で入局を果たした天才魔術師として有名というだけでなく、今回の捜査班で基本的な行動を共にすることになったパートナーであるというだけでもない。朱紙という姓が表すものの意味は、アザミにとって大きすぎるものがある。

 アザミはその手を握った。

「住之江アザミです、よろしく。あなたの父上にはお世話になりました」

「父に?」

 アザミは普段は着けている左目の眼帯を取った。朱紙が、変質した眼球に反応を見せる。

「六年前に追った被呪障害です。あなたの父上があのときあそこにいなければ、きっとこんなものでは済まなかった。直接言えない代わりに、あなたに感謝を伝えさせて欲しい」

 朱紙が神妙に頷いた。

「伝えておきましょう。父が救ったものの多さには、俺も驚くばかりだ。俺も父に恥じないよう、果たすべき役割を果たそうと考えています」

「責任感が強いんですね。立派だ」

「そうでもないですよ」

 朱紙は若干嬉しそうにそう言うと、前方に向き直って深く腰掛けた。

 アザミはその横顔をぼんやりと眺めたあと、すぐに自分も同じようにした。

 東野が現れ、捜査班の最初の会議が始まる。


 石鍵から下された二つの指令。

 一つは、密造杖捜査班に協力して捜査の進展に貢献すること。

 もう一つは、その捜査情報を石鍵と共有すること。

 石鍵はこう考えているらしい。水曜学習会の事件と密造杖はどこかで繋がっている。それがどの程度かはまだわからないが、少なくとも二つの課が並行して捜査している二つの事件は、一つの綱の両端をそれぞれ引っ張っているだけかもしれない。その可能性を知っているのは、今は石鍵とアザミ、それと小高だけだ。

 石鍵はこの状況を利用して、水曜学習会の方面から事件の全貌をいち早く引きずり出し、東野の事件を横取りしようとしているのだ。

 局内の権威の争奪戦、そのまっただ中にアザミは立たされていた。


「ですが――」

 アザミは指令を下された日、石鍵に対して要求を突きつけた。一方的な命令を、相互的な取引に変えた。

「いくら課長の命令とはいえ、班外への捜査情報の漏洩はペナルティがあるでしょう。危険な橋を渡る以上、私も何か得るものがあるべきです」

「俺からの評価だけでは不服か?」

「ええ」

「……」石鍵はどんよりした眼で、じっとこちらを見ていた。「何が欲しい?」

「梟の男について。私が渡す情報と引き換えに、そちらの情報も開示してほしい」

 石鍵は少し黙って、そして頷いた。


 おそらく石鍵は、こうなることを予測していただろう。予測していたどころか、こうなるように仕組んでいたのかもしれない。うまい取引ができたと信じるには、アザミにとって石鍵という男はわかりにくく、自分という人間はわかりやすすぎた。

 だからアザミは石鍵の言葉を頭から信用しない。きっと石鍵は自分の都合の良いように情報の開示を絞ってくるだろうし、アザミは石鍵が何を明らかにし、何を隠そうとしているのかを見極めないとならないだろう。きっと二つの任務の隙を突いて、梟の男を独自に調査しなければならないタイミングも来るだろうとアザミは思った。

 だが、だからこそ、まずは与えられた任務を不審がられない程度にこなさないといけない。

 会議が終わり、正式に魔法使たちのパートナーが発表されると、改めてアザミは朱紙と握手した。アザミは普段の自分からは想像もできないほど朗らかな表情を意識して作り、朱紙に微笑みかける。

「改めてよろしく。ねえ、堅苦しい言葉遣いはやめにしない? これからしばらく一緒なんだし、確か私とあなたは同期だったはず」

「ああ、そうしよう」

 朱紙も頷いた。

 水曜学習会と密造杖は同じロープの両端にある。

 そして、その線上のどこかに梟の男がいるのだとしたら。

 東野が密造杖の線を引き、石鍵が水曜学習会を引いている、その中間で誰よりも早く梟の男にたどり着けば良い。そのためには東野と石鍵、双方から与えられた役割を果たし、どちらからも利用されながら、どちらも利用しなければならない。

 くだらない綱引きの中心で、全てを巻き上げてしまえ。

 アザミはそう決心し、椅子を立ち上がった。

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ブラッズ・スコーリング 石木半夏 @iskhng

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