第3話
病室の窓から外の景色を眺めていた私は、白いカーテンを静かに閉める。母と兄は荷物を取りにいったん自宅へ戻ったので、病室に居るのは私と父だけだった。
父は横になったままテレビを見ていた。
ベッドの脇に備え付けられているテレビには、再放送のバラエティ番組が流れている。音量は小さく設定されているようで、雛壇に座っている多くの芸能人が楽しそうに笑っていてもその声は微かにしか聞こえない。やがてその番組がカップラーメンのコマーシャルに入ったところで、私は呼びかける。
「ねぇ」
少し間が空いて、返事が聞こえた。
「どうした?」
「お父さんは宇宙飛行士になりたかったの?」
「本当にどうしたんだ、いきなり」
困惑したような口調だったが、その声音はどこか愉快そうでもあった。今からでも月に行けると思うか、なんて質問をしてくるような人が戸惑うのはどうなんだと言いたかったけれど、口には出さない。
「いや、月に行ってみたかったって言ってたから」
「ああ──」
父はベッドから身体を起こそうとする。それを支えようとすると、父は片手を小さく挙げて私を制した。
「たしかに子どもの頃は宇宙飛行士になる夢を持ったことがあるさ」
そのまま父は近くに置いてあったリモコンを手に取り、テレビの電源を消した。一瞬だけ、この病室から音がなくなった。
「無重力を体験してみたい。月面を歩いてみたい。青い地球をこの目で実際に見てみたい。そんなことを考えていた。少年野球に熱中している子どもが、プロ野球選手になった自分の姿を想像するみたいにな」
「そうなんだ」
「けれど、成長するにつれてそれを仕事にしたいとは考えられなくなった。自分にとって、宇宙はもっと遠く離れたものであってほしかったんだ」
「遠く離れたもの?」
「手の届かないものと言ってもいい。物理的な意味じゃなくてな」
まぁ物理的な意味でもあるんだが、と言って父は首に手を当てる。その動作が自身の思考を整理するときの癖だということに私が気がついたのは、いったいいつの事だっただろう。いったい私はあと何回、この癖を見ることができるのだろう。
「七海は、流れ星を見たことがあったか」
「あるよ。何回か」
父と天体観測をしたときに何度か流れ星を見たことがある。夜空に流れる雫のような星は、見つけたと思ったらすぐに消えてしまい、あれが光っている間に願いを三回唱えるなんて芸当は困難であるということを知った。
そうか、と頷いて父は続ける。
「宇宙に漂うちりのような物質が猛烈な速度で大気圏に飛び込む。地球の大気との摩擦によって燃えて、発光する。その物質が燃え尽きる現象が流れ星だ。そして燃え残って地上に落下したものを隕石と呼ぶ。つまり、呼称が異なるだけで元はほとんど同じだ」
「うん」
「まだ小さかった俺は、流れ星というものはきっと間近で見ても美しいのだろうと勝手に思っていた。この世界の誰もが等しく価値を感じるくらいに綺麗なものだと。けれどその事実を知ったとき、とても落胆したことを覚えている。自分の中にしまっていた大切な宝物が、粉々に砕けたみたいだった。それからだな、宇宙が手の届かないものであってほしいと思うようになったのは」
病室の扉を挟んだ廊下から、からからと台車を引いているような音が小さく聞こえる。きっと入院している患者に食事の配膳をしているのだろう。もうすぐここにも運ばれるはずだ。
配膳の順番には決まりがあるのか、徐々にその音は遠ざかっていく。それを見計らったかのように父は言った。
「俺は、宇宙に対する疑問や謎を解き明かすことよりも──空想することの方が好きだったんだ」
「空想?」
「ああ。宇宙の成り立ちも、宇宙が何でできているのかということもそこまで重要じゃなかった。解明されていない事象に、自分だけの物語を生み出す。それが好きだった」
「え、うん」
夢想家と言えばいいのか、それともロマンチストと言えばいいのか。父にもそういった一面があることが私には意外だった。それは宇宙飛行士というよりも、むしろ作家に近いのではないか。
「例えばどんな物語なの?」
「それは言えないな。かなり恥ずかしい」
「そういうものなんだ」
「引き出しの奥に隠していた日記を読まれるのと同じだ。悪いが諦めてくれ。──だからそうだな。答えなんて、求めているようで求めてなかったのかもしれない。宇宙はどうして大きいのか。分からない。でもそれでいい。分からない状態である限り、そこには無数の空想が広がる」
父はそっと目を閉じる。日々を過ごしている病室よりも広い、そして遠い場所へと思いを馳せるかのように。
「宇宙に果てがない限り、空想にも果てはないんだ」
私はいつかの父の言葉を思い出していた。
正しい答えが出なくても許されるから宇宙が好きなんだ。父が宇宙を好んでいたのは、空想の余地があったからなのだろう。
では、その空想を許さないものとは何なのか。
私の想像でしかないけれど、それはきっと身近にある社会や、自身を取り巻いているこの現実なのではないかと思う。生きている限りは逃れられず、そして宇宙よりもずっと得体が知れないようなものに父は辟易していたのかもしれない。
「まぁ、これも言い訳になるのかもな」
私は顔を上げる。
「言い訳?」
「幼いときに抱いた純粋な夢が自分の努力や能力では叶えられないことを知って、もっともらしい理由で自分を正当化した。目を背けていただけで、そういう部分もある」
「……そうなんだ」
自分が小さかったときになりたかったもの。将来の夢。私にもあったはずだけれど、不思議と思い出せない。父の言うように、私も自分の夢から目を背けて、潰れてしまうくらい心の奥へと押し込んでここまで来たのだろうか。
今でこそ私は大学生という身分だが、数年後には社会人となっている。子どもの頃から思い描いていた夢というものがあったとして、それを諦めるにはまだ早い。けれど、今からその夢を追い求めるのはもう遅い。そんな気がする。
「まぁ、流石に月に行くのは無理なんてことは分かってるさ。だから今は
「リュウセイソウ?」
耳慣れない単語だからか、頭の中ですぐに漢字を当てはめることができなかった。
「遺骨や遺灰の一部をカプセルに詰めて、それを人工衛星に乗せてからロケットで打ち上げる。打ち上げられたロケットから人工衛星が切り離され、地球の周りを周回して、いずれは大気圏に突入して燃え尽きる。──それこそ流れ星みたいにな。それが流星葬だ」
「それって──」
「ああ。流星葬っていうのは葬式のひとつだ。──うん、そうだな。自分が亡くなった後は流星葬がいい。残りの遺灰は自然葬にしてくれ」
私は言葉に詰まる。
それは、遺言なのだろうか。
癌が発覚してから一年。投薬治療を続け、手術も行った。それでも病状は快方に向かわず、ただ病だけが静かに、そして緩やかに父の身体を蝕んでいった。医師から余命を告げられたとき、私は覚悟をしたつもりだった。父が亡くなった後のことを。
両親と兄、そして私。何年もの時間を共有してきた私たち家族が四人から三人になった時、私自身は家庭の中でどうあるべきかということも少しくらいは考えていたはずだった。
それらが今、当人である父の一言で揺らぎそうになっていた。
癌で入院しているとはいえ、自分で身体を起こすことも、こうして普通に会話をすることもできる。
それでも、父に残された時間はそう多くないのだ。そのことが信じられなかった。
「どうして流星葬にしたいの?」
動揺を悟られないように、質問で場を濁す。返ってきたのは当然と言えば当然の答えだった。
「どうしてって、そりゃあ宇宙が好きだからだろう」
「いや、まぁそれはそうだろうけど」
果たして本当にそれだけだろうか。
いや、きっと違う。おそらく父は、遺される私たちのことを気にしている。
癌という病気で亡くなるにしては、父はまだ若い年齢だ。そして私は学生で、兄も社会人になって間もない。まだ大人でもなければとうに子どもでもない私たちにとって、家族の死という出来事を少しでも受け入れやすくしようとしているのではないか。
宇宙に遺灰を打ち上げるなんて、それこそ空想上の話のようだ。
家族が亡くなるという悲壮感や虚無感を、ずっと遠くへ置き去りにするくらいに。
もちろんそれは私の勝手な解釈で、もしかすると本当に宇宙に行きたいと思っているだけなのかもしれない。その真意は父だけが知っている。
何にせよ、私の答えはひとつだった。
「──いいんじゃないの。お父さんがそうしたいなら」
父がそうしたいのであれば、私には反対する理由がない。おそらく兄も賛成するはずだ。けれど、母はどうだろうか。
子である私たちと、妻でもある母。家族ではあるが、その立場が違っていれば葬儀に対する価値観が異なっていてもおかしくはない。むしろ異なっている方が自然だろう。
「でもそれ、お母さんには言ったの?」
「いや。まだ言ってない」
父の口から伝えるべきだ。そう感じた。
「言った方がいいよ。早いうちに」
「そうだな」
こん、と控えめに病室の扉がノックされる。どうやら配膳の順番が回ってきたようだ。
「──病院食にもとっくに慣れたな」
小声で呟いた後、父は扉に向かって「どうぞ」と声をかけた。
それから何度か家族で話し合い、父が亡くなった後は自然葬として霊園に埋葬すること、そして流星葬としても葬送することが決まった。
きっと私の居ないところで父から話をしたのだろう。話し合いの際に母は反対しなかった。
流星葬をしたいという願いについて、夫婦でどんな会話を交わしたのか。それはふたりだけが知っていればいい。
そして、そのおよそ一年後に父は亡くなった。
安らかな死だった、と思う。
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