第2話
そんな私も幼い頃に何度か、父に天体観測へ連れられたことがある。
最初に行ったのは小学生のときだった。そのときは兄も一緒だった。
深夜。ちょうど日付が変わったようで、カーナビに表示されている時刻のデジタル数字が一斉にゼロとなる。自宅から離れていくにつれ、窓の外に広がる景色は徐々に明かりが少なくなり、たまにトンネルの中に入っては橙色の光が車内をふわりと包み込んでいた。
こんな時間に外に出ているのは初めてのことだった。普段から夜更かしをしていない私は、次第に真っ暗な景色しか流れなくなった窓の外に目を向けるたびに少しだけ興奮を覚えていた。夜遅くまで起きているという背徳感がきっとそう思わせていた。
ふと、車を運転している父が後部座席に座っている私たちに話しかける。
「今日は星がよく見えそうだ」
「分かるの?」
「ああ。綺麗な星を見るには、いろいろと条件があるんだ」
外は寒いだろうから気をつけろよ、と言いながら父は車の暖房をつけた。
天体観測をするために適している条件は、空に雲がかかっていないこと。空気が澄んでいること。周囲に街明かりなどの余計な光がないこと。そういった様々な条件が揃うことで美しい星空を眺めることができるらしい。確かにどうせ見るのであれば、何もない寂し気な夜空よりも、騒々しいくらいに瞬いている夜空のほうがいいだろう。
季節は冬に近い秋だった。
湿度の高い夏より、大気が乾燥している冬の方がよく星が見える。冬ということは当然のことながら気温は低い。私も兄も、この季節に着るにはまだ少し早いであろう厚手のコートやネックウォーマーを膝の上に置いていた。
やがて、県内の外れにある大きな公園に着いた。
自分の居る場所が公園だというのは帰ってから知ったことで、そこは公園だと言われても分からないくらいに辺りは暗かった。車から降りるときも足元がよく見えず、まるで暗闇に飛び込むような気分だったほどだ。
暖房が効いていた車内から降りた途端、冬の冷気がぴったりと顔に貼りつく。私は慌てて首に巻いていたネックウォーマーを鼻のあたりまで覆い、コートのポケットに入れていた使い捨てカイロを握りしめる。手袋をしていても指先に冷たさを感じた。
寒さに身を震わせながら、私は暗い部屋の中で手探りをするかのように上を向く。
──あれ、と私は戸惑った。
夜空を見上げたら、いったい自分がどこにいるのか分からなくなってしまったからだ。
空と呼ぶべきではなく、違う表現をするべきだと感じた。
地球に被さるように覆われた幕のようでもあるし、空に浮いている海のようでもあると感じた。もちろん澄み切った青空であっても、どんよりとした曇り空であっても、どこまでも広がっていることには間違いないのだろうけれど、目の前にあるこの夜空はそれよりももっと巨大なもののように見えた。それこそ果てがないくらいに。
青く光っている星もあれば、赤く光っている星も白く光っている星もある。それは一面に宝石が散りばめられているような光景のようでもあった。けれどあれは宝石ではない。あれは星なのだ。
寒さなんてものはすっかり忘れていた。
ただ綺麗なだけではなく、このままじっと見つめていると吸い込まれてしまうのではないかという恐怖すらも抱かせるほどに、目の前に広がっている夜空と、そして満天の星は神秘的で、私はただひたすらにその光景に圧倒されていた。
「──ああ、やっぱり今日はよく見えるな」
そこで私ははっと我に返る。父の声が聞こえるまで、この空を独り占めにしているかのような錯覚を覚えていた。もちろん私だけのものではない。夜空は誰のものでもない。
後ろを振り返ると、いつの間にかヘッドライトを頭につけている父が、書斎にあった天体望遠鏡を組み立てようとしているところだった。地面に立てた三脚の上に、長い鏡筒が取り付けられる。家で見たときには分解されていたので分からなかったが、実際に組み立てられたものは思っていたよりも大きかった。
兄はその隣で双眼鏡を携え、先ほどまでの私と同じようにぼけっと夜空を見上げている。
私ももう一度、上を向く。
果てのない夜空も、その夜空に煌めく星々も美しいと思う。それは確かだ。
けれど、父のような楽しみ方はできないだろうと感じたことも事実だった。
私はただその美しさを享受できるだけで満足だった。
目の前に綺麗な宝石があったとする。例えるのなら、私はその宝石の美しさをきっと見たままに美しいと感じて満足できる。それに対して父はきっと、その宝石を眺めながら「なぜ宝石は美しいのか」といった考察に頭を巡らせることを楽しむ。
どうして宇宙は大きいのか。なぜ星は美しいのか。そういった好奇心が私に訪れることはなかった。
次第に時間が経ち、私や兄は身体的にも精神的にも成長するにつれて天体観測へ向かう回数は少なくなり、父はひとりで星を見に行くことが多くなっていった。
どうせなら夫婦水入らずで星を眺めるといった
やがて兄が就職し、私が県内の大学へ進学してからも、父は趣味として宇宙についての勉強や天体観測を続けているようだった。
そんな父が癌を患っていることが発覚したのが、今からちょうど一年前だった。
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