灰と流星
鹿島 コウヘイ
第1話
真っ白なベッドに横たわったまま、父は呟いた。
「生きている間に一度くらい、月に行ってみたかったんだ」
病室が水を打ったような静けさに包まれる。そんな空気に構うことなく父は続ける。
「──今からでも行けると思うか?」
「何を馬鹿なこと考えてるの」と呆れたように母が言った。「かなり難しいんじゃないかな」と冷静に口を開いたのは兄だ。予想通りの答えが返ってきたことが面白かったのか、父はうっすらと笑っていた。
偶然にもこの場に居合わせていた女性の看護師はどういう表情をするべきか迷ったのか、結局は無言で苦笑いを浮かべることにしたようだった。もしかするとそれが正解で、母や兄よりもずっと正しい反応だったかもしれない。何がどう正しいのかは分からないけれど。
私も何も言わなかった。けれどそれはどんなことを言うべきかを悩んでいたのではなく、もっと別の理由からだ。私はなぜか、人類が初めて月面に着陸した際の宇宙船はいったいアポロ何号だったかということを考えていた。
ぼっくらの生まれてくる、ずっとずっと前にはもう。
頭の中で歌詞とメロディを辿り、アポロ11号は月に行ったっていうのに、の部分でそういえば人類を初めて月面へと着陸させることに成功した宇宙船はアポロ11号だったこと、そして絶望的な状況から奇跡的に地球への生還を果たしたのがアポロ13号だったことを思い出した。
連鎖的に人名も思い出す。点から点へと、線を繋ぐように。
アポロ11号。船長はニール・アームストロング。操縦士はマイケル・コリンズ、バズ・オルドリン。
アポロ13号。船長はジム・ラヴェル。操縦士はジャック・スワイガード、フレッド・ヘイズ。
間違いなく父の影響だろう。私はいつの間にか、月への有人宇宙飛行計画──アポロ計画と、その乗員がすぐに連想できるくらいにはそれらに関する知識が頭に定着していた。覚えていて損はないだろうけど、得にもならない。少なくとも、宇宙にそこまでの興味を持てなかった私にとっては。
病室の壁に掛けられた時計を見ると、時刻は正午よりも少し前だった。この時間だと、きっとまだ空に月は浮かんでいない。
だから私は、自分の頭の中に月を浮かべる。
宇宙服を身に纏ってふわふわと月面歩行をしている父の姿を想像すると、確かに母の言うようにそれは馬鹿みたいというか、気の抜けてしまう光景だと思った。
◇◇◇
昔から父の書斎には、宇宙や天体に関する書籍が多くあった。雑誌や単行本のエッセイ、分厚い専門書などその種類は様々で、それらはどれも背の高い本棚に整然と詰められていた。
その本棚と向かい合うように置かれている透明なディスプレイケースには、部品ごとに保管されている天体望遠鏡や、一眼レフのカメラが収納されていた。聞いた話によると、そのデジタルカメラはどうやら天体望遠鏡とも接続が可能な代物らしく、スマートフォンで撮るよりも鮮明な写真が撮影できるらしい。
もちろんそれらは趣味の範疇で、父は学問として天文学や宇宙についての研究をしていたわけでも、そういった仕事に就いているわけでもなかった。ただ学生時代は天文部に所属していたらしく、大人になってもその延長で趣味として続けていたようだ。
「お父さんは、どうして宇宙が好きなの?」
まだ幼かった私にはそのことが疑問で、父に何度か聞いたことがある。
当時の私にとって宇宙は、ただそこにあるものに過ぎなかった。
宇宙というものは、地面と同じだ。生きている限り、下を向けば必ずそこには地面がある。上を向けば空があり、空の上には必ず宇宙がある。私が意識していても意識していなくても、私がこの世界に居ても居なくても、地面や宇宙は常に存在している。
私はそういったものを好きになれる理由がよく分からなかった。
例えば私は犬が好きだ。実際に飼ったことはないけれど、一般的な動画サイトでは個人で撮影されたものが多く投稿されていて、暇なときはそういった動画を視聴することが多い。
犬は宇宙ではない。
哲学的なことを言いたいわけではなく、ただ漫然とそこにあるものではないということだ。
犬には生命がある。生まれたからそこに犬は存在している。そして犬には感情がある。生きているからこそ感情を持っていて、きっと嬉しいから動画を撮影している飼い主へと駆け寄り、画面の向こうにいる私にもぶんぶんと尻尾を振っているのだ。
それに対して宇宙はどうだろう。私が知らないだけかもしれないけれど、なぜそこにあるのか分からない。もちろん感情なんて持っていないだろう。それでもただそこにあって、きっとこれからもずっと存在し続ける。そんなものは好きになりようがないし、嫌いになりようもない。
どうして宇宙が好きなのか。そう私が尋ねると、父はいつも笑みを浮かべていたように思う。
「大きいからだな。それも、とてつもなく」
「どうして大きいと好きになるの?」
「そうだな」と父は書斎の椅子に座ったまま首に片手を当て、背もたれに身体を預ける。
「宇宙っていうのは本当に大きいんだ。変な言い方になるが、どのくらい大きいのかを表せないくらいに大きい」
「え? うん」
あまりよく分からなかったけれど頷いた。どのくらい大きいのかを表せないのなら、私が想像しているよりもはるかに大きいのだろう。
「どうしてそんなに大きいのか。宇宙というものはなぜ生まれたのか。そもそも宇宙とは何か。未だに解明されていないことが数えきれないくらいある。ということは、それを考えることにも果てがないっていうことだ」
「果て?」
「果てがないっていうのは、ほとんど無限っていうことだ。そうだな。学校のテストだとしたら、どれだけ頑張って問題を解いたとしても次から次へと出題される。その中には答えの出せないような問題もあれば、そもそも答えなんて存在しないような問題もある」
「えー」
「嫌か?」
「うん」
いくら考えても答えが出なかったりそもそも答えが存在しないような問題なんて、私だったら解きたくない。そんなことは時間の無駄だとさえ思う。きっとすぐに嫌気がさして放り出すだろう。
「確かに普通の試験だったらみんな嫌だろうな。たしかに宇宙は大きくて、分からないことばかりで、考えていると自分がちっぽけに感じることもある」
「ちっぽけ」
例えば答えのないような問題について考えて、いくら考えても解けなかったときに、はたして自分のことをちっぽけだと感じるだろうか。いや、きっと感じない。分からないものは分からないのだから、そんな問題が悪いのだ。
「けれど、なんだろうな。試験と違って分からなかったとしても自分が惨めになるというか、苦しかったり悲しかったり、そんな気分になるようなものじゃない。何でも受け入れてくれるというか──正しい答えが出なくても許されるから好きなんだ」
許される、という言葉が引っ掛かる。いったい誰が許して、誰が許さないことなのだろう。いよいよ父の言っていることが私の中で嚙み砕けなくなってしまった。
そんな考えが顔に出ていたのか、父は笑って私の頭を撫でた。
「──
「ふぅん」
父が言うのであれば、きっといつか分かる日が来るのだろう。多少の疑問は残りつつも、私はそう自分を納得させた。
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