1-2

 カ国。

 レイナが乗っていた客船の船体部分がまだ発見されていないことから、それの漂着した先を探して、探して、手を尽くして。

 航路と海流からいっても可能性はゼロではないと、最後の最後にすがった先がその国だった。

 しかし、もうずいぶんと長い間カ国は鎖国をしていて、遠い他大陸からの親書はかえって彼らを頑なにし、情報の切れ端どころか難破船が漂着したのかすら教えてもらえなかったのだ。


 あの国に彼女がいるのだという確証はない。

 しかし、『そこにいるかもしれない』と思うことは、彼にとって残された最後の希望だった。

 強大すぎる軍事力を持つカ国は、周囲のあらゆる国と国交を断っている。それでも成り立つだけの国力が、その国にはあるのだ。

 ハリスたちから見ると不可解で神秘的な文化をもち。高度な封建国家であると伝え聞くが、国民の半数以上が奴隷であるとも言われている。


 風土も、社会も、道徳観すらも違う国。

 ハリスはなんとかそんなカ国から情報を引き出そうと努力してきた。しかし、納得の行く回答を得られないまま、年月だけが悪戯に過ぎ、もう……十五年だ。


 腹の子供が生まれていれば、声変わりをしているのだろうか。

 いや、花冠の似合う少女に成長しているだろうか。

 自分が年を重ね、もはや中年と呼ばれるに相応しい年齢に差し掛かってきて。

 諦めろと、周囲は言う。

 栄えあるジルド公爵家の血筋を絶やすのかと、叱責もされた。

 公爵家の縁者たちはハリスに後妻を持つよう何度も進言し、時には縁談を強行されそうにもなった。


 しかし。

 諦めきれるものではない。忘れることなど出来ない。 

 たとえ何年経ったとしても、ハリスの唯一。ただひとりの愛する女。

 彼女と、彼女の腹にいた子供の消息を得るまでは、彼の中で何も始まらないし、終わらないのだ。


「お着替えは馬車に」

「ああ」

 斜め後ろを歩くトーマスの台詞に、ハリスは低く答える。

 急ぎ足で進む彼らを遮る者はおらず、むしろ混雑しているロビーの人ごみが向こうから左右に割れていく。

 ホテルのロビーを抜けたエントランスに、公爵家の紋章はないが豪華な黒い馬車が止まっていた。

 車体も黒いが、それを引く二頭の馬も見事なまでに漆黒だ。

 お忍びだということを主張した配色だが、誰もがジルド公の乗り物だと知っている。

 現に、見送りに出たホテルのスタッフは皆最上級の礼を取り、客たちも通行人も有名人を見たという興奮に染まった表情でこちらを見ている。


 馬車に近づくと、フットマンのウェインがどこからともなく現れて、恭しく扉を開けた。

 ウェインとトーマスの目が素早く見かわされ、長年の阿吽の呼吸で逸らされる。

「今わかっていることをまとめておきました」

 ハリスは頷きながら馬車に乗り込んだ。

 続いて乗り込んできたトーマスが、内側からドアを閉めながら低い声で続ける。

「とはいえ見かけないタイプの大型艦ですので、詳しいことは陛下のほうがご存知かと思います」

「ハッサム港か?」

「入港の許可が出ないので、沖で停泊中です」

 衆目を浴びるのは慣れているが、ストレスに感じないわけではない。席に腰を落ち着けるなり、カーテンを引こうと手を伸ばして……

「……トーマス」

「はい、我が君」

 ハリスに続いて馬車に乗り込み、主人と同じように周囲の野次馬たちの目をカーテンで遮ろうとしていたトーマスが、訝しげにこちらを向く。

「あれは幽霊か?」


 口の中がカラカラだった。

 上手く声になっている自信すらなかった。

「どうされ……」

 首を伸ばし、小さな窓の外に同じものを見たのであろうトーマスが、大きく息を飲むのがやけに遠くに聞こえた。



「申しわけありません、見失いました」

 着替えを終えたハリスは、普段の彼からは想像も付かないほど呼吸を乱したウェインを、険しい表情で見下ろした。

「ですが確かにあれはボイドでした。年を取りましたが、顔のあの傷は見間違いようがありません」

「年を取っているということは、幽霊ではないな」

 ハリスは己の声が震えていることを自覚していた。

 いや声だけではない。心臓が、肺が……手も足も顔もすべて、ありえないほどにブルブルと小さく振動している。

 喜びに、ではない。

 馬車の壁にかかった鏡に映るのは、血の気の失せた顔。まるで死神からの告知キスを受けたかのような、蒼白さ。


「我が君」

「大丈夫だ」

 ハリスはぎゅっと奥歯を噛み締めた。

 ボイドはかつて、公爵家の家人だった。

 元々は軍務についていたのだが、先の戦争で身体の右半分に酷いやけどを負い、退役してからはハリスの私的使用人として仕えていた。

 そして決定的な悲劇が起こったあの日、身重の妻の護衛として共に客船に乗り込んでいたひとりなのだ。


「……いや、大丈夫じゃないな」

 ガチリと奥歯が鳴って、ハリスは自嘲の笑みをこぼした。

 この震えが、馬車の揺れのせいであればいいのに。

 考えれば考えるほど、良くない考えが湧き上がってくる。


「どんな些細な情報でも欲しかった」

 ぎゅっと目を閉じて、鏡から顔を背けた。

「生きているのか、死んでいるのか、それすらわからないのは生殺しのようだと思っていた」

 震えの止まらない両手を、血が出るほどに硬く握り締める。

「……だが、怖ろしい」

 彼女を失って以来、ここまで弱気になったことはなかった。

「真実を知るのが、死ぬほど怖ろしい」

 それは、生きているという希望があったからだ。自分を置いて彼女が死ぬはずはないという、そんな甘い幻想があったからだ。


「……ボイドが生きて帰国したのに、名乗り出てこないのは何故だと思う?」

 答えはひとつしかなかった。

 レイナは死んだのだ。

 その結論に至ったのはハリスだけではないのだろう。トーマスが黙って震える拳に手のひらを添える。

「……ッ」

 くぐもった声が喉からこぼれ落ちた。

 慟哭は低く車内に響き、抑えきれない悲しみが全身からあふれた。


 ハリスは両手で顔を覆い、滂沱とこぼれる涙を受けた。

 悲しみが、現実の痛みとなって彼を苛む。

 魂の半分を失ったのだ。失くした片翼は、永遠にもどっては来ないのだ。

 どうか間違いであってくれと、祈るように思いながらも、押し寄せてくる痛みが現実の非情さを突きつけてくる。

 

 今、自分の中の何かが死んだ。

 心の大部分が、動きを止めた。

「我が君、まずはボイドを探しましょう」

 肩に置かれたトーマスの手が、ぎゅっと肉に食い込むほどの強さで握られた。

「必ず御前に連れてまいります」

 しかし、その痛みは遠い。

 忠実な己の執事が何か言っているのは聞こえていたが、意味までは届いていなかった。

 ただ悲しい。苦しい。

 痛みが痛みを呼び、このまま心臓が止まってしまいそう……いや、止まってしまえと願う。

「……それまで早まったお考えはなされませんように」

 ハリスは懇願するような乳兄弟の台詞を聞いてはいなかったし、現実、己の心の半分が愛する妻の元へ行こうとしているのを止めるつもりもなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る