銀の龍金の姫

安東真波

灰色の海

1-1

 夢だ。ハリスにはわかっていた。

 ああ、夢なのだ。 


 腕の中にある眩いばかりの笑顔に、溢れるほどの幸福感が押し寄せてくる。

―――レイナ

 愛しい妻の名前を囁く。

―――なぁに? 旦那さま。

 返ってきた声は懐かしく、愛おしく。


 ふっくらと膨らんだ腹部。真夏の太陽のような黄金色の長い髪。

 喉に引っかかった慟哭とは裏腹に、夢の中の己は鮮やかなその幸せの形に酔う。

 

 細かな刺繍の施された白いワンピース。

 レースのつば広帽子。

 その縁をつまんで飛んでいかないように抑えているのは、純白の絹手袋に包まれた華奢な手だ。


 レイナ、レイナ、愛する妻よ。

 未だ見ぬ、愛しい我が子よ。

 かつてはこの両腕の中に閉じ込めていた、かけがえのない幸福よ。

 夢だと分かっていても、泡沫のように手の届かないところに消えてしまうと分かっていても……願わずにはいられないのだ。


―――どこにもいかないでくれ

―――ええ? どうなさったの?

 笑う彼女。

 白いほおに小さく浮かぶ笑窪。

―――ずっとそばに……

 不意に、強い風が吹く。

 美しいレースのつば広帽子が宙に舞う。

―――あ!

 妻の美しい翠の目がその行方を追い、ダメだとわかっていても、己もそれを見上げて……。


 一瞬にして、色を失う世界。

 いつのまにか彼は一人で、冷たい色の海が広がる岸壁に立っている。

 何もない両腕を呆然と見下ろす。

 あと一歩踏み出せば、崖下まで一直線だ。


 ああ、これはあの頃か。

 彼女の行方が知れなくなってから、はたして自分が生きているのか死んでいるのか、そんな事ですら定かではなかったあの時期だ。


 愛するひとが居なくなって。

 生まれてくるはずだった子供も、幸せに続いていくはずだった人生も、なにもかも全てを失ってしまって。

 直後に勃発した隣国からの侵攻がなければ、絶望に耐え兼ね自死していたかもしれない。

 足元から小石が落ちる。遥か下方、冥界の色にも似た海原へと。

 見下ろした海は昏く、水飛沫を上げてうねっていて。

 連れて行ってくれ。彼女のもとへ連れて行ってくれと、恥も外聞もなく懇願し……

閣下ミ・ロード

 レイナ、レイナ、愛する妻よ。

「……閣下」

 お前が冥府にいるというのであれば、すぐにでも駆けつけるのに。

「起きてください、時間です」

 ああ、だがすまない。天界であれば、会えぬかも知れない。

「予定の刻限まであと半時です。そろそろ起きていただかないと」


 ずっしりと全身にまとわりつく疲労感に息を付きながら、目を開ける。

 暗い視界に、見慣れた従僕フットマンの顔。

「……ウェイン・ロー」

「あと一刻足らずです」


 愛する妻を失って、もう十五年。

 子供が生まれていれば近く成人を迎える年になる。

 年相応に皺のできた従僕の顔をぼんやりと見上げて、ああ、己も年をとったなと漠然と思う。


 あの時、死を選びはしなかった。

 何故なら、希少な穀倉地帯に隣国の精鋭が軍を進めてきたからだ。

 敵国は強大な軍事国家で、どちらかというと貿易に特化した我が国に勝ち目は薄く。


 すぐにでも逝けると思っていた。

 彼女はきっと待っている。生まれてくるはずだった子供を抱いて、「よく頑張りました」と迎えてくれる……そう信じていた。

 事実前線は凄まじい有様で、公爵位にある己ですら幾度となく傷を負った。命を危ぶまれたこともある。

 だが、死ぬことは許されなかった。

 この国は、妻の生まれ育った地。長らく彼女の父親が国王として善政をしき、跡を継いでその長姉が辣腕を振るっている。

 彼女が愛した国だと思えば、すべてを投げうってでも剣を構えずにはいられない。

 やがて訪れるであろう死の瞬間を待ち望みつつも、ハリスは十五年たった今でもなお、妻の愛したこの国を守り続けている。


 寝たはずなのに倦怠感の失せないまま、ようようベッドから身体を起こす。

 二十年以上身の回りの世話を任せている従僕が、手馴れた様子で手水桶を差し出してくる。

 軽く顔を洗って、タイミングよく差し出された布で水気を拭って。

 不精に伸びた灰色の髪をいつものように梳き、蒼い組紐でひとつにまとめてくれる。

「そろそろヒゲをあたっても? いい加減見苦しいですよ。ご婦人がたが山賊が来たと逃げ出してもよろしいので」

「寄ってこられるよりマシだ」

 そう、彼は豊かな領地を保有する高位貴族で、王族とも縁が深い。

 妻を失ったその年のうちから、後添い希望者が長蛇の列をなし、それは十五年たった今でも無くならない。

 いまだ四十に届かぬ男盛りで、地位も名誉も財産もある男だから、無理もないことではある。

 だが彼女しかいらない。

 己の妻は、あのはちみつ色の髪をした美しい彼女だけだ。


「閣下にはまだ後継がいらっしゃいませんから、それはもう目の色をかえますよ。仕方がありません」

「じき養子を取ると言っているだろう」

「ですが、お子を挙げるとひっくり返せますからね。養子よりも実子のほうが後継としては強いので」

 ジロリと睨むとウェインは小さく唇を笑みの形に綻ばせた。

「奥方様のことを覚えている者も少なくなってまいりました。閣下がどう思われていようとも、後継問題は避けては通れません」

「……わかっている」

「ならば、早く手続きをなさるべきです。もし今の状況で閣下に万が一のことがありますと、ジルド公爵家は相続で割れます」

 微笑む少女。淡い金色の長い髪。無垢に微笑む、わずかに色づいた唇。

「……」

 いつしか遠い記憶の中にしか存在しなくなった愛する人の面影を求め、きつく目をつぶる。

 笑っている彼女。怒っている彼女。

 遠い日に失ってしまったものを思い出しながら、薄れ行く記憶を手繰り寄せるように……


 いつからだろう、彼女の顔をはっきりと思い出せなくなった。死ぬまで忘れないと誓った、軽やかな笑い声が記憶から遠ざかっていくのに気付いた。

 それが悲しくて、寂しくて。

「・・・・・我がミ・ロード

 無造作にタオルを返すと、ウェインはなおもまだ言葉を続けようとしたが、聞きたくなかった。

 理性ではわかっている。

 しかし、十五年たった今もなお、諦めたくないのだ。


 彼女は、その乗っていた客船ごと行方不明になった。嵐による座礁で転覆したということは確認している。

 だが同じ船に乗った大勢の遺体をみても、無残に折れたマストを見ても、彼女がもうこの世にいないのだと認めることができない。


 誰もが彼女は死んだのだという。

 ハリスも、そうなのだろうと理性ではわかっている。

 ただ、心の奥底の感情の部分が、認めなくないと泣くのだ。泣き叫び、その涙も枯れ果ててなお、頑なに望みを捨てきれないのだ。


 ハリスが寝室から出ると、見知った顔が立っていた。

 一瞬目を見開いて、もの言いたげなその顔を見て、唇をゆがめる。

 彼の名前はトーマス・ラプスウェル。いわゆる乳兄弟で、執事バトラーとしてハリスの公私のすべてを把握している男だ。

「なんだ、お前もお小言か?」

「至急お耳に入れておきたいことが」

 ウェインとは正反対の気質で、常に折り目正しく冷静な言動を崩さない。

 トーマスがハリスの言動を咎めたてることはあまりないが、乳母と同じ色の瞳でじっと非難の目を向けられると、口で責められるより心に刺さるのだ。

 用心しながら薄暗がりで目を凝らすと、目線が僅かに上のほうにある己の執事長は、いつもの表情筋がないかのような顔に、ほんのわずかな緊張をたたえていた。

 ハリスも自然と、眉間に皺を寄せる。


「・・・・・・よくない話か?」

「判断はできません」

「珍しいな、お前が」

「我が君」

 常に優秀な執事として側近くに在る男の、これまでに見たこともない表情にフェイロンの足が止まる。

「カ国の船が国交を求めて港に」

 息が、止まった。

「現在特別全権大使が陛下に面会を求めているようです」

 脳裏に、やわらかな少女の笑顔が過ぎった。

「陛下より急使で、急ぎ登城をと」

 ハリスは無言で踵を返し、大股に廊下を歩き始めた。

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