送雨
「待たせたな」
「え?」
「すまない。畏まって言われたので、私も動揺して。君に断りを入れる前に先にお風呂に入らせてもらったのだが。ちゃんと浴槽は洗い直したから大丈夫だ。と、思うが。も、もう一度、洗って来るか」
「梅田さん」
「な、何だ?」
頭が働かない。
どうして梅田さんが風呂に入ったのか。
どうして梅田さんは離婚届を持っていないのか。
「あの、俺。俺、風呂に行って来る」
「ああ」
感情が抜け落ちた声だっただろうか。
感情が詰め込まれた声だっただろうか。
どっちにしろ間抜けな声だったと思う。
俺はのろのろと動き出して、梅田さんの横を通り過ぎて、部屋を出た。
随分と時間をかけてしまったのに、梅田さんは俺の部屋に居てくれていた。
「あの。じゃあ。よろしくお願いします」
「ああ」
俺が椅子に座ったまま膝同士がくっつくくらいに近づいて、両腕を肩の位置まで水平に広げて言うと、梅田さんが膝同士を密着させて、俺の肩に額を預けて、背中に手を回し、やわく抱きしめてくれた。
震えが来た俺は腕を下げたが、梅田さんを抱きしめなかった。
今は。
我が儘だ。
抱きしめてほしかった。
「ありがとう。梅田さん」
「ああ」
五分、くらいだっただろうか。
抱きしめられている間、震えは治まらなかった。
だが、恐怖は内に沈んだ。遠ざかった。
「ありがとう」
俺は梅田さんの目を真っすぐ見て言った。
「ありがとう」
梅田さんは俺の目を真っすぐ見て言ってくれたら。
俺の身体は治まろうとしていた震えがまた出てしまった。
俺は笑った。
梅田さんは少しだけ眉を下げて、身体を少しだけ前のめりにして、俺の両の手をやわく握ってくれた。
かと思えば、視線を下げて或る一点に定まった。
俺の髭だ。
え、もしかしておかしいのかおかしいのかなおかしいのね。
でも俺はこの形が気に入っているし。
とりあえず、は。
「梅田さん。俺の髭、が、どうか、した?」
「いや、その」
口ごもるくらいにおかしいのか。
甚大な衝撃を受けた俺は、やっぱり病院に行って脱毛の道をひた走るべきかと思っていたら。
「さ」
「さ?」
さ。
さっさとその鬱陶しい髭を切りやがれ?
「触ってみてもいいか?」
「え。あ。うん」
思いもしない申し出に丸くした目はますます丸くなっていった。
照れ隠しなのかな多分そうだと思います。
一気にガっと両手で俺の顎を確保した梅田さんが、恐る恐る右手の親指だけを動かして、俺の髭を触った瞬間。
瑞々しくしとやかで奥ゆかしい親指の感触を脳が認知した瞬間。
瞼が痛いなと感じたかと思えば、視界がまっくらくらになりました。
もしかして、眼球が落っこちていませんか?
いやいや違うでしょ。
意識が遠のいてんだよ。
「野中さん。すまない。強く掴み過ぎた。野中さん。野中さん。しっかりしてくれ」
少し痛い頬叩きに、意識が戻るどころか遠ざかって行っているなあと感じる中。
どうしてか思ってしまったんだ。
長いながい、一つの梅雨を送る事ができたんだって。
(2022.9.20)
送り梅雨 藤泉都理 @fujitori
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