後編

その日は、久しぶりに休日が合った友人とランチをしようと会うことになっていた。

美味しいランチを食べ、他愛のない話で盛り上がり、そろそろ帰ろうかという折り、友人は重い口を開くように話し始めた。

「あのさ…」

「ん?なに?」

「その…たまたま見かけて、人違いかもしれないんだけどさ…」

「うん…?」

「これって…あんたの旦那?」

そう言って、スマートフォンの画面を見せる。そこに映っていたのは、間違いなく旦那だった。しかし、その旦那に腰を抱かれて隣を歩いている女は私ではない。

「え…?」

「やっぱりか…。もしかしたら、と思って写真撮っておいたんだよね…。」

さっきまでの楽しかった雰囲気が嘘のように重苦しくなる。

「ねえ…あんた、どうすんの?」

驚いて言葉の出ない私に友人は問いかける。

「どうするって言われても…子どももいるし…」

困惑する頭でどうにか考える。見るからに若い女だ。旦那の一回りは下だろうか。そんな女に本気になるだろうか。女の方も旦那のようなおじさんに本気になるだろうか。

許すだとか許さないだとかそういう考えにならない程度には夫婦間の愛情はすでに冷め切っていた。旦那は旦那でしかなく、子どもたちの父として一家の稼ぎ手として立派に役割を果たしていて、そのことにお互い満足している。そんな家族だ。

裏切られたというよりかは、旦那も他のところで発散していたのだとそういう気持ちが大きかった。私自身がすでに旦那以外の人に好意を抱き始めていたからかもしれない。

「ただの…火遊びなんじゃないかな…」

長考の末、私は絞り出すように言った。

「火遊び…?」

「本気じゃないんじゃないかなって。相手が若すぎるし、浮気というよりは愛人みたいな感じなんじゃないかな…。」

写真だけでは詳しいことは分からない。だけど、若い女に本気になって一緒になろうと思っているなんて、そんなバカな男だと旦那のことを思いたくない。

「愛人ねぇ…。」

本当にそれでいいのかと問うように友人は私を見つめる。

「子どもたちのためにも離婚しないほうがいいだろうし、息抜きに愛人作ってるだけだって思っておくわ。」

そう思っておきたい。と思っていることを友人も感じ取ったのかもしれない。

友人はそれ以上追及してこなかった。

しかし、その女が私が思いを寄せている男性の妹となると、話がややこしくなってくる。

そう思いながら、ふらふらと帰路につく。どうやら飲みすぎたらしい。

画像を桜井くんに見せられてから更に酒をあおったのか、それからの記憶があまりない。

「ただいま~」

玄関をくぐり、ふらふらと家の中を歩く。子どもたちはもう寝たらしい。

「おい。大丈夫か。」

あまりに千鳥足だったらしく、たまらず旦那に声を掛けられる。

「んー…ちょっと飲みすぎたみたい。大丈夫よ。」

心配する素振りを見せる旦那を小憎らしく思いながら適当にあしらい、シャワーを浴びるため浴室へと向かった。

シャワーを浴びながらも頭の中はグルグルと考えていた。

桜井くんの妹が旦那の愛人?本当に?

信じられない気持ちで何度も何度も考えた。

布団に入って寝る前にも、頭の中はグルグルと答えのない問いを繰り返していた。


翌朝。

いつもより寝不足に感じながら、いつも通り朝の支度をし、いつも通り子どもたちを見送り、いつも通り出社した。

それでもまだ頭の中は整理がつかない。

旦那の愛人の存在を知った時よりもダメージがでかいかもしれない。

「杉野さん、昨日あれから大丈夫でした?」

出社早々、桜井くんが心配そうに声を掛けてくれた。

「昨日?」

「すごいお酒飲んでふらふらなのに、大丈夫だって一人で帰っていったんですよ。無事お家に帰れましたか?」

どうやら昨日は相当酔っていたらしい。

「あー、大丈夫。ちゃんと家に帰れたわよ。心配かけてごめんね。」

「そうですか。それならよかったです。」

桜井くんは安堵した様子を見せると、自分のデスクへと去っていった。

しかし、それどころではない。頭の中は、桜井くんの妹が旦那の愛人かもしれないということでいっぱいだ。

仕事もなかなか手につかない。

それでも仕事は仕事。どうにか気持ちを切り替えて、今日も桜井くんの相談に乗りながら昼休憩へと向かおうとしていると、受付から女性の声が聞こえてきた。

「桜井に資料を届けに来たんですけど…」

その声の方を見ると、そこには昨日桜井くんのスマートフォンの画面で見た女が立っていた。

「麻衣?」

桜井くんが声を掛けると、女性は振り向いた。

「あ、お兄ちゃん。これ忘れてたよ。大事な資料なんじゃないの?」

そう言って、A4サイズの封筒を桜井くんに手渡した。

桜井くんが封筒の中身を確認する。

「おー、うっかりしてた。ありがとな。」

いつもの爽やかな笑顔で礼を言う桜井くんだが、こちらは気が気ではない。

悩みの根源である女が目の前にいるのだ。

「あ。どうも、兄がお世話になってます。…ちなみに、杉野さんの奥さまですよね?実は、旦那さんにもお世話になってて…お会いできて嬉しいです。」

礼儀正しいかと思いきや、いきなりぶっこんできた。

あー…などと曖昧に返すことしかできない。

「あれ?知り合いなの?」

桜井くんも驚いた様子だ。

「ちょっとね。」

麻衣と言われた桜井くんの妹は兄にそっけなく返す。

よもやこの人の旦那の愛人ですなどと言うわけにもいかないだろう。

「もしかして、今からお昼休憩ですか?よかったらランチご一緒しません?」

驚くほど積極的に来る。ランチなどしていったい何を話すというのだろう。

断りたいところだが、上手い断り文句も出てこない。

「じゃあ、行きましょう!」

返事をしないことを肯定と受け取ったのか、麻衣に腕をつかまれ会社の出口へと向かわされてしまう。

取り残された桜井くんがあっけに取られている様が妙に印象に残った。


「――すみません、急に誘っちゃって。」

近くの店に入り、気もそぞろにメニューを決めて注文すると、麻衣が言った。

「いえ…旦那がお世話になってます。」

それしか言う言葉が出てこない。それ以外に何といえばいいのだろうか。

「旦那さんから奥さんの話を聞いていたので、どうしても話してみたくって。一緒にランチ食べれて嬉しいです。」

ニコニコとした愛想のいい笑顔で麻衣は言う。旦那も彼女のこの愛想の良さに惹かれたのだろうか。

そう思っていると、麻衣は一変して真剣な表情になり、改まるようにして口を開いた。

「奥さん、もうお気づきかもしれないんですけど、私、旦那さんとお付き合いしてます。」

「…」

言葉を失う。何と言えばいいのだろう。旦那を譲ってくれとでも言われるのだろうか。そう身構えていると、それがどうやら彼女にも伝わったらしい。慌てたように言い添えた。

「あ!でも安心してください!ご家庭を壊す気はないんです!なんというか、いわゆる愛人のようなもので、恋愛感情はないので!その、よくある不倫みたいに杉野さんに離婚してもらって結婚したいとは思っていないので!今日はそれをお伝えしたくてお誘いしたんです!」

私の予想通りだった。やはり恋愛感情のない愛人関係だったらしい。

その事実に密かに胸を撫で下ろす。

そうであってほしいと願っていた通りならば、これほどいいことはない。

だが彼女にとってはどうなのだろう。その思いが一瞬心によぎる。

いや、そんなことは私の気にすることじゃない。ともかく家庭を壊されるようなことはないのだろう。他でもない当事者の彼女が言うのだから。

「そう…わかったわ。」

そう返事をすることしかできなかった。

追及することもできず、伝えに来てくれたことをありがとうと言うにもどこかおかしい気がして、ただ受け止めることしかできなかった。

別れてくれるのが一番だけど、それを言うことは出来ないと思った。なぜなら私も旦那以外の人に思いを寄せているのだから。

その後のランチでは彼女が「ここのランチ美味しいですね!」などと何事もなかったかのように話し、驚くほど和やかに時間は過ぎた。

帰り際に「ありがとうございました。」と兄の桜井とよく似た爽やかな笑顔で礼を言うと、麻衣は去っていった。

きっと、もう会うこともないだろう。

もし次会うとしたら、その時は恐らく家庭の危機だ。

そう心の中で思いながら、会社へと戻った。

決着はついた。悩みの種は解決した。

そう思うはずなのに心はまだモヤモヤとしていて、仕事にもどこか集中しきれずにいた。

そんな様子に桜井も気づいたらしい。

息抜きに休憩室に行くと、桜井がコーヒーを持ってきてくれた。

「大丈夫ですか?」

以前にも、こうしてコーヒーを手に声を掛けてくれたっけなどと思い出す。

「ありがとう。」

コーヒーを受け取り、礼を言う。

「僕でよかったら話を聞きますよ…?」

心配そうに言う桜井くんにまたも胸がときめいてしまう。

「ふふ。そういうところ、好きだなぁ…。」

思わずこぼしてしまった。空気が固まったような気がした。

桜井くんの顔を見ることもできない。困っているだろうか。戸惑っているだろうか。それとも驚いているだろうか。想像すらできない。

「あ、いや、そういう優しいところ、魅力的だなぁと思ってね!うん、そういうところが桜井くんもてるんだろうね!」

慌てて言い訳するも、やはり空気はぎくしゃくしている気がする。

こんなつもりじゃなかったのに!と思いながらも、もう後の祭りだ。

「わ、私先に戻るね!」

空気に耐えられずそう告げると、私はそそくさとデスクへと戻っていった。

こんなつもりじゃなかったのに。思いを伝えるつもりなんてなかった。

そう何度も後悔しながらも、仕事をこなす。

桜井くんとの間には、何とも言い難い気まずい空気が流れていた。

いつもは積極的に助言を求めに来る桜井くんも、声を掛けに来ない。

気まずいまま仕事を終え、そして、その翌日も気まずいまま仕事をする。

桜井くんに連絡事項があって声を掛けても、何とも言えない気まずい空気がある。

このままじゃ良くない。仕事にも支障が出かねない。何より私自身がこの状況が辛かった。

起こってしまったことは仕方がない。いつも通りに過ごしたいのなら、決着をつけなければならない。

私は意を決して、その日、帰り際の桜井くんを呼び止めた。

就業後の静かな社内。二人きりのミーティング室で私は重い口を開いた。

「この間は、ごめんなさい。心配して声を掛けてくれたのに…。今日呼び止めたのは、昨日のことを謝りたくて…それから…」

桜井くんは何も言わずに真剣な表情で聞いてくれている。

私が何を言わんとしているのか気づいているのかもしれない。

「私ね、桜井くんのことが好きなの。だけど、私は既婚者で、桜井くんはお付き合いできないって言うと思うから、これからも先輩後輩としていい関係でいさせてほしい。…勝手で、ごめんね。」

そう告げると、桜井くんは真剣な表情のまま答えてくれた。

「僕の方こそすみません。杉野さんの言う通り、杉野さんの気持ちには応えられないです。だけど、杉野さんのことは先輩としてすごく尊敬しています。」

彼の言いたいことは分かる。

これからも先輩として頼らせて欲しいと言いたいのだろうが、それをおこがましいと思っているのかもしれない。

「私もね、桜井くんのこと後輩として誇らしく思ってるよ。良かったらこれからも頼ってね。」

「はい!」

笑顔でそう言うと、桜井くんは嬉しそうに返事をした。

二人一緒にミーティング室を後にし、会社の前でまた明日と別れた。

これでいい。モヤモヤしていた気持ちはスッキリと晴れ晴れしい気持ちになっていた。

少し冷ややかな夜風が肌に心地いいと思った。

それからも、思いはなかなか吹っ切れられず自然と目で追っちゃうけど、ひっそりと思いを寄せたまま、彼の前ではいい先輩でいるようにしている。

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私の好きな彼は旦那の愛人の兄 あいむ @Im_danslelent

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