私の好きな彼は旦那の愛人の兄
あいむ
前編
「杉野さん、これ、確認お願いしていいですか?」
「ええ。」
資料を受け取り、デスクに向かうふりをしてチラリと去っていく彼の姿を見る。
桜井大助。私の…好きな人だ。
いや、旦那がいるのに好きな人だなんて言っていいものかもわからない。
でももうこの気持ちは誤魔化せない。
平然を装いながら密かに胸をときめかせ、彼の目に少しでも留まろうとしてしまう。
これはまさしく恋心だ。
こんな気持ち、いったい何十年振りだろうか。
旦那との関係はすっかり冷え切っていて、今や旦那にとっては家政婦兼子どもたちの母親という認識でしかないだろう。悪くはないが円満でもない。そんな〈家族〉という関係になっていた。
それが一回りも年下の男性に心ときめかせているのだ。
最初は自分でも信じられなかった。
そもそも、今更誰かに恋心を抱くだなんて想像もしていなかった。
旦那に不満足もなかったし、家族も上手くいっていた。誰かに恋心を抱く余地なんてないと思っていた。
でも気が付けば、恋に落ちていた。
初めの出会いは、春だった。
新入社員として配属された桜井くんの教育係を上司に押し付けられたのが始まりだ。
「本年度採用され、うちに配属された桜井くんだ。」
「本日からよろしくお願いします!」
スポーツをしてきたのであろう青年らしく、明るくはきはきとした声で彼は挨拶した。
「あー。じゃあ、杉野くん。新人指導、よろしくね。」
今年も新入社員の季節かぁなどとぼんやり挨拶を聞いていると、突然白羽の矢が立った。
「え!?私ですか!?」
「そうだよ。君のようなベテランに学んだ方が桜井くんも勉強になるだろう。」
驚く私にさも当然のように桜井くんを引き渡す。
「新人指導ならそろそろ山内さんとかに任せた方が彼女も勉強になるんじゃ…」
「よろしくね。」
逃れようとする私の提案も空しくスルーされ、上司は念を押すようによろしくねと言って去っていった。
「まじか…。」
正直当時は手に持っている案件が多すぎて仕事でいっぱいいっぱいで、新人教育なんてする余裕が私にはなかったのだ。
「なんか…すみません。」
隣りに立つ桜井くんがなぜだか申し訳なさそうに言った。
「あー、ごめんごめん。桜井くん、だっけ?は悪くないから。こっちは仕事手いっぱいだってのに任せてきたあのハゲが悪い!まー、でも任されたもんはしょうがないね。がんばりますかぁ。」
そう言って、デスクに腰掛ける。
「桜井くんも適当な椅子に座って。まずは基本的なことから教えるね。」
私がそう言うと、桜井くんはすかさずメモを出し、手近な椅子に座って熱心に私の話を聞いた。
それからも様々なことを教えたが、彼は毎度熱心にメモを取った。
その甲斐もあってか、吸収も早かった。分からない事や不安な事は必ず聞いてくれて、信頼してくれているのだと感じた。
今は新人期間を終えているが、今でも重要な案件の確認をお願いされたり相談に乗ったりしている。
そう、最初はただの後輩だった。
若い子にしては気が遣える優しい青年だと思いながら、ただ彼の成長を喜ばしく思っていた。
それがただの後輩と思えなくなってきたのは、彼が入社して半年経った頃だった。
「あーーー!!!もう、ふざけるんじゃないわよ!」
残業で一人残った会社の中で頭を抱えて叫ぶ。
ようやく完了するといったところで、まさかの大幅な仕様変更を先方からの言われてしまった。しかも納期は変わらないらしいからたまったものでは無い。
「そもそも納期ギリギリだというのに、この大幅仕様変更…間に合うわけないじゃないのよ~!」
悲鳴をあげながら必死に手だけはフル稼働だ。
これでもとても間に合う気がしない。
「大丈夫ですか?」
そう声掛けてきたのは、コーヒーを持った桜井くんだった。どうぞ、とコーヒーを私のデスクに置く。
「桜井くん?まだ残ってたの?」
一瞬チラリと振り向いて、またデスクに向かい必死に手を動かす。
コーヒーに対してありがとうと言う余裕すらない。
「杉野さんが大変そうだったので…あの、何かお手伝いさせてください。」
そう真剣な声で言う。顔を見る余裕はないからどんな表情かは分からないが、きっと真剣な表情で言っているのだろう。
今は猫の手も借りたいほどだ。
「助かる!これ、お願いしていい?」
そう言って資料を渡す。
「わかりました。」
彼は資料と受け取ると、手早く仕事に移った。
その後も、私が愚痴や弱音を零す度に彼は「頑張りましょう。手伝います。」と励ます言葉をかけ続けてくれた。
テキパキと仕事を手伝ってくれた彼のおかげもあり、どうにか納期に間に合いそうな程度には区切りがついた。
「はぁ…やっと一区切りね。これだけやれば、明後日の納期にも間に合うはず。」
「良かったです。」
長い時間拘束して手伝わせたにも関わらず、優しく微笑んで桜井くんは言った。
「桜井くんも遅くまでごめんね。こんな時間まで大丈夫だった?」
時間は21時を過ぎていた。さすがに手伝わせすぎたかもしれない。そんな懸念を彼はあっさりと払拭した。
「大丈夫です。むしろいつもお世話になってる杉野さんのお役に立てて良かったです。」
なんという好青年だ。こんなに慕い、協力してくれた後輩は今までいなかったかもしれない。私は感動すら覚えていた。
「本当にありがとう。助かったよ。おかげで納期に間に合いそうだし、ご飯でも奢るよ。」
「いえ、大丈夫です。日頃の感謝のお返しなので。」
余程日頃の指導に感謝してるらしい。有難いやら恥ずかしいやらだ。
「そう?じゃあ、気をつけて帰ってね。」
「杉野さんこそ、気をつけて帰ってくださいね。女性なんですから。」
帰り支度を整えながらサラリとそんな事を言う。
「妙齢の女性じゃあるまいし、こんなおばさん誰も何もしてこないわよ!」
そう笑い飛ばすが、久しぶりに女性扱いを受けてなんだかフワフワしたような居心地悪さみたいなものを感じていた。
「そうですか?俺は杉野さんは十分綺麗だと思いますよ。だから、気をつけてくださいね。」
そう念を押される。
「な、何言ってんの!」
その場は笑って誤魔化したが、久しぶりにされた女性扱いと優しさに浮ついたような居心地の悪さは誤魔化せなかった。
そして、この誤魔化せなかった居心地の悪さが後にときめきだったのだと気づく。
それからは、自然と彼を目で追ってしまっていた。
それに自分で気づき、この気持ちを悟られまいと彼に避けるような態度をとってしまっている。
「はぁ…。」
化粧室で鏡に向かい溜め息をつく。
彼のさり気ない優しさと先輩として信頼を寄せてくれているその気持ちに、どうしても心が浮ついてしまう。
困ったことに、好きになるとますます彼が素敵な男性に見えてくるものだ。
「こんなんじゃダメだなぁ…。」
頬を軽く叩いて、自分に喝を入れ直しデスクへと戻った。
「杉野さん、さっきの資料どうでしたか?」
デスクに戻ると絶妙なタイミングで桜井くんが声をかけてきた。
どこかいつもよりも緊張した面持ちだ。
それもそのはず。さっき渡された資料は大手取引先に提出する資料。
桜井くんも任された取引先が大手とあり、いつもより慎重になっているのだろう。
私は心の中でもう一度喝を入れ直し、仕事モードで彼に接しようと心掛けた。
「そうね。ここを直せば、先方も納得するんじゃないかしら。」
そう言って資料を指差しながら具体的な修正案を告げる。
寄り添うように資料を覗き込む桜井くんに心の中では近い近い近い!とドキドキさせていた。
「ありがとうございます!修正して先方に出してみます!」
相変わらず明るくハキハキとした様子で桜井くんは礼を言い、すぐさま自分のデスクへと去っていった。
私の気持ちなど知る由もないのだろうとほっと心を撫で下ろす気持ちと寂しい気持ちとが交差する。
それらを振り払うように仕事に向かった―――
「よくやった!」
気持ちを振り払うように仕事に励んでいると、上司の声が突如耳に入った。
上司の前には桜井くんが立っている。
突然の大きな声にみなが上司と桜井くんに注目していた。
「みんな聞け!桜井の企画がウィザー社との間で採用されたぞ!」
ウィザー社は大手取引相手だ。大きい会社ということもあり、企画を渋られることも多いのだが、若手の桜井くんの企画が通ったらしい。
「なんだって!?」「やるじゃない!桜井くん!」などとざわつき始める。
「今夜は祝杯だ!定時で上がってみんなで飲みに行くぞ!」
珍しく上司もテンションが上がっている。急遽飲み会が決定された。
みんなからも歓喜の声が上がり、全員で定時に上がるべくやる気に満ち溢れて仕事に向かい始めた。
「よかったわね、桜井くん。」
デスクへと戻ろうとする桜井くんにさりげなく声を掛けた。
「杉野さんのおかげです。何度も資料を見てくださって、さっき修正の指摘をしてくださったおかげで企画が通りました。」
相変わらずの低姿勢だ。謙遜する姿にも密かに胸をときめかせてしまう。
「それでも桜井くんの努力のたまものだよ。おめでとう。企画の運営も頑張ってね。」
「はい。ありがとうございます。」
笑顔で返すと桜井くんは自分のデスクへと戻っていった。
私も帰りが遅れることを家族に連絡すると、定時で上がるべくデスクへと向かった。
―――そして、定時の18時。なんとか全員が定時までに今日の分の仕事を終わらせた。
上司に店の手配を任された社員について全員でわらわらと移動する。
任された社員が手配したのは賑やかな雰囲気の居酒屋だった。
広い御座敷の席へと案内される。
「さあ、今日は俺のおごりだ!みんな好きなの頼め!」
みんながそれぞれ席に着くと、上司が景気よく言った。
大手との企画が決まったからか、それを若手がやってのけたからか、上司も大盤振る舞いだ。
「まずはビールか?」と誰かが言い始め、通路に近い社員が「ビールの人~?」と自然と音頭をとる。
ほとんどの人がビールを頼み、お酒が飲めない数人がウーロン茶を頼んだ。
最初の一杯を待ちながら、料理は何を頼むかわいわいがやがやと決める。
近くの人同士で相談し、大皿を頼んで取り分ける流れに自然となった。
そうこうしているうちに、最初の一杯が届き、バケツリレーの要領で飲み物を回していく。
「みんな持ったかー?」
上司が確認のために声を掛け、それぞれに返答した。
「よし。じゃあ、まずは企画を通した桜井!一言!」
「え!?僕ですか!?」
驚く桜井くんに上司がニコニコと上機嫌に頷く。みんなが桜井くんに注目した。
桜井くんはビール片手に立ち上がって言った。
「えーっと…今回は、みなさんの助言やご協力のおかげでこんな若手の僕が企画を通すことが出来ました。みなさん、本当にありがとうございます!企画運営にあたっても、若輩な僕にどうぞ助言やご協力よろしくお願いします。」
そしてぺこりとお辞儀をした。
「それでは、企画採用を祝して!かんぱーい!」
桜井くんのお辞儀を合図に、上司が音頭を取りみんなで乾杯をした。
乾杯の後は、みなそれぞれに話し始めた。
私も席の近い同僚たちと何気ない話をしながら料理をつまむ。
こういう時には仕事と関係ない話になりがちだ。
時間が進むほどにそれぞれが話したい相手と話すために席も移動し始めた。
それでも変わらずに同じ席のままでいると、桜井くんが隣にやってきた。
「杉野さん。」
声を掛けられ振り向くと、グラスを向けられたので乾杯をする。
「本当にありがとうございました。」
「あはは、まだ言ってるの?桜井くんの努力のたまものだよ。」
「それでも、杉野さんの助言あってのものだと思うので!今回の企画は特に!本当にありがとうございます。」
そう真剣な眼差しで言った。
「どういたしまして。本当に企画通ってよかったね。」
若手の彼が大手取引先との企画立案を任された時は正直どうなることかと思ったが、いい結果となって本当に良かった。
上司は、勉強になるからだとか、若手の新しい風が必要なんだとかどうとか言っていたが、実際こういう結果になることは見越せていなかっただろう。
なにせ大きな会社だということを笠に着て、なかなか企画を通してくれない取引先だったのだ。
上司も予想外のいい結果にテンションが上がった結果がこの飲み会なのだろう。
「杉野さん、今日急に飲み会になりましたけど大丈夫でした?」
自分が祝われる立場とはいえ、家庭を持つ先輩のことは気になるのが彼らしい。
「大丈夫よ。そもそも残業が多いから夕飯も作り置きしてあるし、家族には連絡しといたから。」
「そうですか。よかったです。」
安堵のため息を漏らして桜井くんはそう言った。本気で心配してくれていたらしい。
「お子さん、おいくつでしたっけ?」
「中学2年生と小学5年生。これくらいの年齢になると自分のことは自分でしてくれるから助かってるわ。」
「そうなんですね。僕が小学5年生の時そんなにしっかりしてたかなぁ…。」
料理をつまみ、酒を飲みながらそんな他愛のない話をする。
そういえば、仕事の話はよくしていたがこんな話はしたことなかったかもしれない。
「桜井くんこそしっかりしてたように見えるけどね。」
「どうなんでしょうね。長男だからかもしれませんけど。」
「へえ~、長男なんだ。そりゃしっかりしてるわけだわ。下は弟?妹?」
「妹です。」
「妹かぁ。仲いいの?」
「小さい頃は喧嘩が絶えなかったですけど、今は仲がいいですよ。」
「妹さんとは似てるの?」
「男女の兄妹なんで、あまり似てるとは言われたことないですね…。妹は、よく芸能人の皆月花蓮に似てるって言われてますね。」
「皆月花蓮に似てるってことはショートカットなの?」
「そうですね。茶髪のショートカットですね。」
ここで自然と記憶に引っかかる。皆月花蓮に似たショートカットの女。それは、最近見覚えがあった。でも、そんなまさか…。そう、皆月花蓮に似たショートカットの女なんて、他にもいくらでもいるはずだ。
拭い切れない疑念を抱きながら私は桜井くんと会話を続けた。
「ショートカットが似合う女性は小顔で美人って聞いたことがあるわ。」
「どうなんでしょうね。自分の妹だと美人かどうかもわからないですね。」
ハハハと爽やかに笑いながら桜井くんは返した。
しかし、私はそれどころではなく、そんなわけはないと思いながらも拭い切れない疑念に心は平静さを失っていた。
もし本当に私の知っている皆月花蓮に似たショートカットの女が桜井くんの妹だとしたら、それは旦那の愛人ということになる。
そんな偶然あるわけないと思いながらも、疑念は拭い切れない。
これが女の勘というやつなのだろうか。
この拭い切れない疑念を払拭するには、実際にその妹の写真を見るしかないと私は思った。
「妹さんの写真とかないの?皆月花蓮に似てるならきっと美人だと思うから見てみたいわ。」
「妹の写真かぁ…あるかなぁ…」
そう言いながら桜井くんはスマートフォンの画像ホルダーをスクロールして妹の写真を探し始めた。
その間、私は心臓がドキドキして酒を飲まずにはいられず、ゴクゴクとお酒を飲みながら待った。
「さすがに写真はないですね…」
どうやら写真はなかったらしく、桜井くんが申し訳なさそうに言う。
どこか安心したようながっかりしたような気持ちになる。
「この年になると、一緒に写真撮ったりもないですしね…。すみません。」
「いいのいいの。ちょっと見てみたかっただけだから。」
そう諦めようとしていると、「あ。」と桜井くんが言った。
「でもSNSの画像なら…」
そう言ってまたスマートフォンを操作すると、あるところで操作をやめ、画面を私にいせてきた。
「ほら、ありましたよ。この画像の左側が妹です。」
見せられたスマートフォンの画面をのぞき込み、言われた画像を見ると、そこに映っていたのはまさしく、あの女だった。
あの日も同じようにスマートフォンの画面に映っている画像を見ていた。
そこには、旦那に腰を抱かれて一緒にホテルへと入っていくショートカットの女の姿だった。
あの日の記憶をまざまざと思い出していた。
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