七色に滲む君の色

 美術室の扉を開けると、すでにイーゼルが立てられているのが見えた。キャンバスには、先日僕の描き上げた君の絵が立てかけれていて、近くには開きっぱなしの色図鑑も見られた。


 戻ってきた君が僕の姿を認めると、じわっと顔を綻ばせながらにじり寄ってくる。そして僕の手をひったくって引いていく。


「ちょうど良いとこに来たね、ダーリン。描いてくれた絵にね、色乗せようと思って準備してたんだー」


 ああ、もう君はしまっているのか。手を引き戻そうとすると、君は露骨に眉をひそめる。僕は、諦める事にすっかり慣れてしまっているようだ。


 イーゼルの正面に置かれた椅子に、なぜか僕を座らせる。やがて、背中に重みが襲ってくる。


「んー。ダーリンの背中。大きい。心地いい…いい匂い」


 頭に鼻先を寄せて、すんすんと息を吸う気配を感じる。こら、嗅ぐな。


「えー、だめ?むー。…んじゃまた今度嗅がせて。なら良いでしょ?」


 いや多分ダメだけど…ここで食い下がるとどうなるか分かったもんじゃない。曖昧めに返事をして、君を引き離す。


 やがて君は僕の背中に引っ付いたまま、絵筆とパレットを持ち出した。


「あれ、どうしよ。ダーリン、思ったより邪魔だ。どうにかしてこのまま描きたいんだけど」


 勝手に人の背中に乗っかっておいて、酷い言い草だ。君の腰に手を回し、するりと薙いで僕の膝の上に乗せる。


「この絵に色乗せるのね、胸元いっぱいにダーリンを感じながらやりたかったんだけど、結局こうなっちゃうんだね。難しいなー」


 耳元いっぱいに近づいて、囁くように君は言う。そしてイーゼルの方に向き直ると、君は僕の両手をひったくり、お腹の前で組まさせた。


「こーやって私を抱きしめてて。離さないで?」


 仰せのままに、お嬢様、と、冗談めかしながら僕は言う。次の瞬間、君の表情から色が抜け落ちていくのが見て取れた。


「お嬢様なんてやだよ、ダーリン。貴方は私のダーリンなの。私にとって貴方以上に、愛しい人なんていないんだから。だからお嬢呼びは、なんか寂しいよ。やだよ…」


 パレットも絵筆も手放して、君はひたすらに僕の胸元に頬を額を擦り付ける。落ち着いてから、真っ赤に腫らした双眸を覗いて、どうしたのと問いかける。


「ううん。大丈夫だよ、ダーリン。昔を思い出してただけだから」


 君は絵筆とパレットを手に持って、キャンバスに向き合った。絵の具をパレットに乗せながら、君は訥々と話しはじめる。


「ええと…ダーリンはどこまで知ってるんだっけ。共感覚の事は話したし、色覚の事は知ってるよね。それが原因で小さい頃、クラスで浮いちゃってた話は?」


 想像はつくけれど、初耳ではあった。でも君の様子からして、否定的な言葉はちょっと言いづらくて、僕は必死に言葉を探す。


「…ダーリンってそういうとこ優しいよね。素直に知らないって言えば良いのに。えっとね、私、色についてはみんなとまるきり感覚が違ったせいで、図工の時間は本当にサイアクだったの。見たままに絵を描いただけなのに、みんなと色が全然違うんだから。そんな色じゃないじゃんって笑われて。国語の時間もサイアクだった。みんなが文章や文字から色が感じ取れないなんて知らなくて。感じたままの色で表現してたら、私、変な子になっちゃった。表立っていじめられる事は少なかったけど、避けられるというか、からかわれるというか。すっごい寂しい思いをしたんだ」


 ぽんぽんと手毬を掌上で弾ませるような、軽い口ぶりで君は続ける。


「だからね、私、みんなが見てる普通の色を、必死に勉強したんだ。お姉ちゃんが買ってきてくれた色図鑑とか写真集とかとにらめっこしながら、これは分かる、これは分からないって確かめてもらったの。そしたらね、どんな色が見分けがつかないのか、分かるようになってきたんだ。色について妙に詳しくなっちゃったの、そこからなんだよね」


 君は驚くほど軽く言うけれど、そこに隠れた君の心情を思うと居た堪れなくなる。君を抱く腕に、力が篭る。


「中学に上がるまでにはみんなの感覚も馴染んできたんだけどさ、レッテルっていうのかな。みんなからの私の評価ってそうそう変わらないわけでさ。だから中学生になったら絶対失敗しないんだーって意気込んでたんだ。でも実際に中学に上がって、美術部の体験入部に参加した時に、私、ついのめり込んじゃってさ。みんなには見えてないって分かってるはずの色を、入れちゃったんだよね」


 そのことは、僕も鮮烈に覚えている。その独特な色彩に、魅了されてしまったのだから。


「あー、やっちゃったって思ったよね。でも、それをバカにするような人は、そこには一人もいなくてさ。驚いちゃった。しかも一人、どうやったらこう描けるんだろうって唸ってた先輩がいてさ。どうやったらこんな美しい色が出せるのか教えて欲しいなんて聞いてくるんだよ。嬉しかったけど、訳分かんなくなっちゃったよね。コンプレックスになってたこの色覚がなければ、あるいはちゃんと隠せてたら、ダーリンと出会うことは多分なかったんだから」


 確かにあの時、君が僕の関心を引くような絵を描いていなければ。君の隣にいるのは僕じゃなかったろうし、きみがうちに進学してくることもなかっただろう。そう考えると、人生って不思議なものだって思えてくる。


「でさ、ダーリンは私の見る色の話をさ、飽きもせずに聞いてくれるじゃない。どころか、目をきらきら輝かせて、感心しながら聞いてくれるじゃない。そしたらさ、私のこの色覚も、悪くないもんだなーって思えるようになったんだ。ダーリンのおかげなんだよ?私が、変だと思ってた自分の特性を、愛せるようになったのは」


 僕の知らないうちに、僕は君を救っていたのか。にわかに、目頭が熱くなった。


 ひと通り話し終わって、満足したらしい君はキャンバスに目をやる。そして、苦笑いを浮かべながらこちらに振り返る。


「あー。やばい、やりすぎたかも。色、ぐちゃぐちゃかも。でも悪くない?ピカソ的な?…うーん、ダーリン。もう一枚、ちょうだい?」


 目の前のキャンバスには、複雑に入り乱れるようにたくさんの色が滲み出ていて。魅入ってうちに、すうすうと寝息が立ち始めた。君は何もないと言ったけど、とても疲れるようなことが、きっとあったんだね。そういうのもいつか聞かせてくれる事を願いながら、据わらない首を抱き寄せた。


 やがてウェストミンスターの鐘が鳴る。外を見やれば青い薄明が広がっていて、七色に分たれた光が、空に弧を描き出すのを見つけ出した。


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僕と彼女の心象風景。 げっと @GETTOLE

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