6月7日(火)
思い出の味を食べに弘前へ
6月7日7時34分、僕は新高岡駅にいた。
当駅始発の北陸新幹線“はくたか”の車窓からは僕たちを取り囲む立山連峰のシルエットが、はっきりと見える。
結局、僕はバイト先の
実は、僕は本来二日間しか弘前にいられないはずだった。しかし、大将に青森に行くことを伝えると、何と気前よくもう一日休みを追加してくれた。
僕が休んで空いたシフトは、大将の娘が代わりに入ってくれるそうだ。
駄目もとで頼んでみてよかった。大将の心遣いが身に染みる。寿司屋へのお土産は何がいいだろうか。
そういえば大学を卒業してから社会人になって三年間、僕は弘前に一度も帰っていない。会社員時代は今よりお金もあったし、大型連休で九日間は休みをもらえた。
弘前に帰る機会があるのに帰らなかったのは、いったいなぜだろうか。おそらく、当時は東京の楽しさに自惚れを感じていたのだと思う。それに、大学卒業からあまり時間が経っていなかったせいで、弘前に帰るという行為がしっくり来なかったというのもある。
ともあれ、大将も僕の熱意を買って休みをくれたのだ。
僕を送り出す時「もう一日休みをやるから、あっちでゆっくりしてこられ」と労ってくれた大将の優しさが身に沁みる。
結局、貯金を切り崩したおかげで、来月の生活費は苦労しそうだ。
しかし、僕は妙に清々しい気持ちでいた。
今回の出費は痛かったが、この機会を逃せば一生弘前には行かないだろう。
僕は「あの時行けばよかった」と後悔したくはなかった。
そう思い、僕は弘前に帰ることを決めたのだった。
久しぶりの新幹線は椅子の座り心地が抜群だった。
富山土産を三人分買い、車内に乗り込むと、すぐに新幹線が走り出す。
梅雨前の空はカラッカラに乾いていて、汗ばむほど暑かった。
富山の6月は半袖でも十分だ。そのため、行きの服は縞の半袖シャツを着ていった。周りを見ても、半袖の人がちらほらいる。
窓の外は、富山平野の田園風景が広がっていた。
5月の田植えからすくすく育っている早稲の青々とした光景が目に飛び込んでくる。
田んぼに張った水が太陽の熱気に当てられて、微かに薄曇りの靄も立ち上らせていた。
ここ数年、自然の風景をまじまじと見る時間もなかったな。
営業カバンを片手に、コンクリートジャングルを練り歩く日々。
富山に帰ってきてからも、都会疲れが抜けず、仕事場と家の往復で人生を楽しむ余裕なんてなかった。
そうやって自分を押し殺していた反動が今やってきたのだろう。
ムクムクと創作欲が沸き起こってきて、頭の中にふと、句が思い浮かんだ。
全国を徘徊……俳諧した松尾芭蕉もこんな感じだったのだろうか。
久々の創作欲に悦びを感じ、僕は思いついた句を忘れないように、すぐにTwitterに書き込んだ。
映える早稲田の
富山平野(字余り)
新幹線は新高岡から富山、黒部宇奈月温泉を通り、新潟との県境を通過する。
このあたりは、
左手には日本海と港町が映える絶景スポットで、遮断器の向こうには海から続く脇道が見える。
もし僕が映画を撮るなら、あの遮断機の向こうには、麦藁帽をかぶった白いワンピースの少女を立たせるだろう。
実際、遮断機の向こうに立っていたのは半そで短パンの若い男性だったが。
それでも、車窓から見える風景に、他人の日常が映り込んでいるという体験は心を躍らせる。
自分が知らない人が自分の知らない生活を送っているのだと思うと、なんだか感慨深い。知らない土地に垣間見える生活感ほど、郷愁を誘うものはないと思う。
心地よい脳内麻薬をとくとくと放出する僕の頭の中には、通り過ぎる風景に合わせて次々と句が浮かんでいた。
トンネルを
抜けた先には
ジェイドグリーン(字大余り)
あの人の
いない砂浜
通り過ぎ
翡翠の海から続く道を
ただまっすぐに歩いてくる
あの人は若かった(もはや自由律詩)
僕は満足げな顔でTwitterを閉じる。
少しして確認すると、いいねもRTもついていなかった。
まあ、創作は孤独な作業だしな。ほんの時たま、社会との接点が出来ることはあれど、基本的には自己満足の産物なんだし。
真っ青な空に浮かぶちぎれ雲の群れに寂寞感を懐きながら、僕は目線をドリンクホルダーの缶ビールに戻した。
新幹線の中で、僕はビジネスリュックサックに仕舞っておいたテスカトリポカを取り出す。ハードカバーは旅のお供には欠かせない。ノートパソコンと本を詰め込んだだけでリュックサックはパンパンになってしまった。リュックの中身は、着替えは縞の半袖Tシャツ、長袖が一枚ずつとパンツが四枚、靴下二組しかない。
しかし、二泊三日、男の一人旅はこれだけあれば十分だ。
東北は今、雷雨警報が出ているらしい。風に負けないよう、傘は立派なものを一本持ってきた。旅に持ち歩くには少し重いが、致し方ない。
ちなみに僕は晴れ男なので、旅行中の三日間は雲ひとつ無い快晴で、傘を使う機会はついに訪れなかった。
新幹線は大宮で乗り換え、北へ向かう。仙台、盛岡、八戸を過ぎ、新青森駅に降りた。
新幹線を降りる乗客はスーツ姿のサラリーマンばかりだった。
なんだか半袖の自分は浮いている感じがする。というよりも、明らかに富山よりも気温が低い。まあ、これから暖かくなるかもしれないし……。嫌な予感がしつつ、新幹線からローカル線のプラットフォームに移動すると、何と弘前行きの電車の乗客は、みんなアウターを着ている。第三者が見れば、明らかに、僕が南から来た旅行客だと察するだろう。リュックの中を覗くと、長袖シャツが一枚しか無い。
ここで僕は思い出した。弘前は、富山よりも北にあるから寒いってことに。
目的地について早々、僕は寒風吹きすさぶ北の大地で、長袖Tシャツ一枚で三日間を過ごす羽目になった。これは、幸先が悪いぞ。
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