【短編】ある朝登校すると、俺の下駄箱にガラスの靴が置かれていたから、全力で対処した

渡月鏡花

ガラスの靴

 電車から降りる時、イヤホンが緩んでしまった。

 その途端、俺の脳内に雑音が入り込んできた。


『ーーつまんねー』

『なんで私がーー』

『眠いーー』


 ーーうるさい。

 でも今朝の音は、耐えられないほどではない。

 それはきっと車内にいる人の数が少ないからかもしれないし、発車のベルがちょうど鳴ったため、かき消されただけなのかも知れない。

 

 緩んだしまったイヤホンを耳にしっかりと装着し直した。

 そして頭に残った雑音をかき消すように二、三度首を振った。

 

 俺は改札口へと向かった。


 

 10月1日月曜日の朝。

 いつも通りの変わらない休日明けの憂鬱な日。

 朝日が登り、名も知らない鳥の囀りが聞こえ始めて頃。

 街が動き出し、生活の音が支配し始めた7時少し前。


 4月に入学して以来、見慣れてしまった通学路。建て替えられたばかりの真新しいコンクリートの校舎。


 着崩した制服を着て、ワックスで少し伸びた髪をセットして俺は登校していた。イヤホンを耳から外して、校舎へと続く遊歩道を歩いた。


 少し離れた校庭では朝練に精を出しているサッカー部や陸上部の練習風景が視界に入る。カラカラとする秋風が頬にあたり、少し肌寒さを感じた。


 気が付けば高校に入学してもう少しで半年になろうとしていた。


「おーい、浅井あさひー。おはよー」

 校庭から、越谷俊哉の人懐っこい声が聞こえた気がした。俊哉はサッカーボールを片手に持っている。

 おそらく、休憩していたのだろう。

 俺は右手を上げて、あいさつした。すると、俊哉は先ほどよりも大きな声で「後で、数学の課題答え合わせしようぜー」と言った。


 俺は右手をひらひらと上下に振って適当に返した。

 

 肌寒さから逃れるように、校舎に足を踏み入れた。



 早朝ということもあり、校舎は静寂に包まれている。

 中庭に植えられた名も知らぬ大きな木が植えられている。枝葉から漏れる日の光が昇降口の窓を通って差し込んでいる。


 今日もピアノの音が微かに聞こえる気がした。

 『楽しそうな』でも、どこか『何かを諦めたような冷めた』感情で、『ゆっくりとしたリズム』が俺の脳内に反響する。

 

 なんという曲かなんて知らないが、自然と耳から離れない。


 もちろん、音楽室からのピアノ音が昇降口まで届くはずがないのはわかっている。しかし、ある時を境に、俺の耳は少しばかりよくなってしまった。


 特にーー人の気持ちが、遠く離れていても、近くで話していなくても脳内に断片的に聞こえてくるようになった。


 肌感覚で言うと、半径30メートルくらいまでの距離の音は拾ってしまっているようだ。

 詳しいことはわからない。


 もちろん、こんな話をしたら、頭のおかしいやつだと言われるのがオチだから、誰にも言っていないし、そもそも誰かに言うようなことでもない。


 ただ、俺からすると、非常に困る話だ。

 この能力的なものを手に入れて以来、散々なストレスにさらされてきた。例えば聞きたくない愚痴や他人を見下す声が聞こえてくるのは日常茶飯事だ。


 そのため、できるだけ人に近寄らないようにするなど、細心の注意を払って生活している。


 今ではイヤホンを着けることでシャットダウンする方法や一つのものごとに集中するようにすると他の雑音ーー他人の心内が聞こえなくなることがわかったため、なんとか生きていけている。


 そんな俺ーー浅井あさひは、図書館で朝の自習をしてから教室に向かうのが日課だ。朝から自主的に登校するなんて奇特な高校生は少ないため、俺は静かな環境で勉強するため、運動部でもないのに早く登校していた。


 決して早朝のピアニストーー深瀬瑠奈の奏でるピアノの音色が聴きたいからではないし、根暗なストーカーでもない。


 そうあれは確か……ある日のことだった。

 図書室で勉強しているときに、たまたま音色が聞こえて来た。楽しそうな音を奏でるのは一体全体誰なのか気になった。それから、なんとかピアノを弾いているのが誰なのか調べ、ついにそれが隣のクラスの深瀬瑠奈であることを突き止めた。


 図書室は5階に位置しており、ちょうど向かい側に第一音楽室の窓が見える。そのため、ピアノの音色をうまく拾うには絶好の場所だ。


 つまり、俺と深瀬瑠奈の間には物理的にかけ離れているとも言えるので、決してストーカーなどではないことは明らかだ……うん、誰がなんと言おうと違う。


 校舎はコの字になっている。そのため、窓を全開にしておかないと彼女のピアノの音が聞こえない。だから、俺はいつも窓を全開にしていた。


 そのおかげで、毎朝、司書の狭山さんからは『少し寒いから閉めるね?』などと生ぬるいことを言われて、閉められそうになる。


 もちろん、全力で俺は癒しーーいや生き甲斐を死守する。

 そのために、あれやこれやと理由を言っては、窓を開け続けた。


 しかし、なかなか言い訳が思いつかなくなり、もっぱら最近に限っては『ガイヤに呼ばれている気がするっ!窓を閉めたら、う。腕がっ!』と厨二病患者を装った。すると、それ以降は特に何も言われなくなった。


 その代わりに暖かな目で見られることになってしまったが、些細なことだ。

 

 そんな感傷に浸っている場合ではなかった。

 つい、目の前の光景に衝撃を受けてしまい、思考が現実逃避をしてしまっていた。


 そう俺は今年の4月から履き慣れたローハーを脱いで、室内用の靴に履き替えようとしたところだった。

 

 そして少し汚れた下駄箱の扉を開けるとーー

 

 ガラスの靴が置かれていた。



 さてどうしたものか。


 おそらく右足用のガラスの靴だ。

 おおよそ男子高校生には全くもって似つかわしくない靴に違いない。俺の足のサイズは26センチであり、目の前で存在感を露わにしている女性物の靴とは形があっていないことが明らかだ。


 そもそも、俺は女性用の靴を履くという趣味や嗜好も持ち合わせていないわけだが……


 とりあえず幻覚でも見ているのかと思って、一度扉を閉めた。

 深呼吸した後でもう一度扉を開けるとーー


「普通にあるんだよな……」


 意味がわからない。

 誰かが誰かの下駄箱と間違えて入れた可能性は……ないよな。下駄箱にはネームプレートで『浅井あさひ』とはっきりと書かれていることが確認できる。

 

 そもそも、冷静に考えると、ガラスの靴を貸し合う仲というのも明らかにおかしな話に違いない。ましてや右足用の片方のみの靴を貸し合うことなんてあるわけがないだろう。


 そうなると考えられる答えは、一つしかない……演劇部の小道具に違いないだろう!


 俺は某メガネをかけた小学生探偵の如く閃いてしまった。


 先週の金曜日はちょうど演劇部の舞台があったばかりではないか!やれやれどうせ演劇部が落とした小道具を、通りがかった誰かが適当に俺の下駄箱に入れたのだろう。


 困ったものだ。


 俺はやれやれ系主人公の如く、演劇部の部室へとガラスの靴を届けに行った。


 もちろん、その後で図書室から第一音楽室の窓が見える特等席に着席し、懸想相手である深瀬瑠奈による心地よい演奏を聴きながら、数学の宿題に取り掛かった。


 この日もまたいつものように窓を全開しにしていたら、司書のおばーー狭山さんに閉められそうになったため、『め、目があああ』と厨二病患者を装うことで、回避した。


 主に狭山さんからの信頼をさらに失ったが、しかし成功するためには、時には何かの犠牲を払う必要があることを学んだ。



 翌日の火曜日。

 眠たい眼を擦って、なんとか朝の校舎へと足を踏み入れた。

 

 残念ながら、瑠奈の心の声は全く聴こえてこなかった。

 少し、いやかなり重く感じる足を動かしてなんとか下駄箱へと歩んだ。


 そしてローハーを脱いでから、下駄箱を開けた。

 下駄箱にはーーまたもや『ガラスの靴』が置いてあった。


 ふむ……訳がわからん。

 

 透明で少し重みのあるその靴はおそらく昨日の朝に演劇部の部室前に置いておいたものと同じものに違いない。

 

 艶のある光沢が下駄箱に不釣り合いなくらいに靴を輝かせている。まるで宝石のような輝きは、昨日よりも心なしか自身の存在感をアピールしているかのようだ。


 演劇部の小道具ではなかったから返却されてしまったということなのか……?

 そうであるとすれば、誰のものだというのだろうか。


 そんな迷宮に迷い込んだ愚かな冒険者のような焦りというか、疑問に頭が支配され始めた時、背中越しに誰かの気配を感じた。


「おはよう。あさひ君……?」

「ーーっお、おはよう。深瀬瑠奈さん……」


 危ないところだった。

 咄嗟に下駄箱の扉を閉め、回れ右して背中で隠すことに成功した。こんなところで、元サッカー部の反射神経を発揮することになるとはなんという行幸!


 まさにこの瞬間のために6歳の頃から中学3年生までの約10年間サッカーを嗜んでいたのだと言っても過言ではないかもしれない!


 危うく、女性用のガラスの靴を私物として持ち歩いているような変態に思われてしまうところだった。


「どうしたの?」

 瑠奈のアーモンド色の瞳がチラッと下駄箱から俺へと向けられた。

 ってか、キョトンと少し首を傾げた姿がめっちゃ可愛いんですけど!しかも、ふわっとした黒い髪が靡いて、微かにシャボンの香りを運んでくるから、より一層のことーーごほんごほん。


「いや、なんでもないんだ。ただ、上履きを忘れてしまったことに気がついて、自分の不甲斐なさに愕然としていたところ」

「えっと、そうなんだ?一緒に、スリッパ教員室に借りに行く?」

「……!?ーーはい、喜んで!」

 ついテンションの高い店員さんのような返事をしてしまった。


 いやいや、なんということでしょうか。

 こんな心の優しい女の子がこの世に存在しているなど……まさに奇跡に違いない!

 神様!千載一遇のチャンスをありがと!今ならば水を葡萄酒に変えたことだって信じられます!

 

「ふふふ、大袈裟だよ」と瑠奈は口元を隠すようにして小さく笑った。


 その後すぐに俺は脳内をフル回転させて、なんとか話題を出した。

「……っ!ピ、ピアノの練習は順調?」

「うーん……まあまあかな?コンクールはもう少し先だから」

 そう言って、瑠奈は俺から視線を逸らした。瑠奈は少し体勢をかがめてローハーから上履きに履き替えた。その時、色白くて少し細い足がスカートの奥からチラついた。


 つぶらな瞳が真っ直ぐ俺を捉えた。


「行こっ?」

「ああ」


 俺はただハーメルンの笛につられて連れていかれてしまう子供のように瑠奈の隣を歩き始めた。


 その後、俺と瑠奈は教員室へと行き、その後音楽室と図書室へと別れるまでたわいもない話で盛り上がった……と思いたい。


 いかんせんこれまで二人きりで長く話すことはなかったから、口が滑っておかしなことを言わなかったか気がかりだ。

 

 しかし、それ以上に、瑠奈と二人きりで過ごせたことがたまらなく嬉しかった!


 そしてその日、俺はテンション爆上げで学校生活を過ごした。


 昼は弁当を忘れたため食堂で食事をしたのだが、不幸にも頼みたい生姜焼き定食が完売してしまい、苦手なピーマンの肉づめ定食しかなかった。しかし、苦手な料理でもバクバク食べ、楽々と食べることができた。


 午後の体育では、全力でサッカーに興じた。

『熱くなれよっ!それでもサッカー部か、お前らはっ!』

 などと馬鹿みたいにはしゃいで、サッカー部を煽った。すると、休憩中に、ベンチで座っていると、サッカー部にめちゃくちゃ勧誘されてしまった。


『実は怪我をしてーーもうサッカーができない身体なんだっ!』

『いや、お前さっき普通にカードもののタックルかましていただろ!?さっきまでのファールスレスレの動きはなんだったんだよ!?』

 越谷俊哉は、少し堀の深い端正な顔を崩してキレのある声でツッコんだ。サッカー部の次期エースと言われている上に、イケメンで人当たりが良いため、めちゃくちゃモテる男だ。

 

 瑠奈はどんな人を好きになるんだろうか。


 そんな疑問が浮かんだ時だった。


 ちょうど瑠奈たちのクラスが渡り廊下をぞろぞろと歩いていた。少し背の低い瑠奈の姿を探した。クラスメイトたちの最後の方にいた。にこりと微笑んで、瑠奈が小さく手を振ってくれた。


 俺はうちから込み上げてくる色々な感情がごちゃ混ぜになってしまい、気がついたら、ミニゲーム中のチームに乱入しボールを奪って、ゴールまでドリブルを開始していた。


 そしてランナーズハイ状態が抜けた放課後。

 俺は放置したままだったガラスの靴を美術部の部室前に置いて帰宅した。どうせデッサン用の小道具か何かに違いないだろうという推測のもと、ガラスの靴を部室前にちょこんとおいておいた。


 その後、電車を待っているときにふと思い出した。

 そういえば……なぜ今朝、瑠奈はバックパックも手提げも何も持たないで登校していたのだろうか。


 それにーー瑠奈の近くだと全く心の声が聞こえてこなかったのはなぜなのだろうか。物理的に離れているとーーそう、音楽室と図書室ほどの距離であれば聞こえて来ることがあるというのに……そんな疑問がわずかに頭の片隅に残った。


 

 本日ーー水曜日は晴天である。

 木の葉が散り、枯れ葉が校舎の中庭に落ち始めた。すっかりと秋景色に変わりつつある。生命活動が途端に衰え始めているようで、少し寂しげな光景が視界に入り込む。

 そのような光景に同期するかのように、俺の気持ちは急降下した。

 いや風情に対して感傷に浸っているからだけではない。

 昨日と同様に、心地の良いピアノの旋律ーー瑠奈の声は全く聴こえてこない。おそらく、瑠奈は音楽室にいないのだろう。


 そしてそれだけでなく諸悪の根源は右手に抱えるぶつにもある。

 視線を落とすとーー俺の視界は、ガラスの靴を捉えた。視界に入ったことで、靴の重さがわずかに重くなった気さえした。


 光沢のある輝きが少し疎ましく思える。


 そう、本日もまた俺の下駄箱の中に、ガラスの靴が片方だけぽつんと置かれていたのだ。もはやここまでくると、事件性を疑った方がいいのかもしれない。


 名付けてーーガラスの靴盗難・置き去り事件。

 もちろん、犯人によって俺は濡れ衣を着させられている訳だが、一向に手がかりが掴めていない状況だ。そのため、もしも警察による捜査の手が入ってしまった暁には、きっと誤認逮捕だって起こりうるかもしれない。

 そんなゾッとするような未来を想像してしまって、軽い眩暈がした。


 ……ここまでくると個人的な嫌がらせに違いない。

 俺のような寛大で寛容な人間であっても、そろそろ堪忍袋の緒が切れる頃あいかもしれない。

 

 そんな災厄という名の絶望を抱き、俺はガラスの靴の処分に困った。

 

 ……光沢のある靴が少し疎ましい。



「おはようございます」

「おはよう。いつもよりも遅かったみたいだね?」

 司書のお姉さんーー狭山麻衣さんは壁にかけられている時計をちらっとみてから、不思議そうに首を傾げた。茶色に染められた髪が少しだけ揺れた。


「はい……」と俺は短く答えて、吸い込まれそうなほど大きな茶色の瞳をじっとみた。それこそ、俺はさながら飼い主に捨てられた子犬の如く、立ち続けた。

 すると、狭山さんは観念したようにため息をついた。

「もーなんだか聞きたくないのだけれど、仕方なーく一応聞くね。どうしたーー」

「そうなんですっ!少し悩ましいことがありまして!」

 ついつい待ちきれずに口が滑ってしまった。

 すると、狭山さんの頬は若干引き攣った。桜色の唇をわずかに曲げて、小さく「私、落ち着きなさい。この子が自己中なのはいつものことでしょーー」と呪いのように唱えたような気がした。それから、コホンと感情を押し殺すように言った。

「へー君でもそんなまともな感情や悩みがあるんだー」

「なんて失礼なっ!俺だって恋に恋するお年頃で、悩みの一つや二つくらいあります!まあ、狭山さんみたいに三十路に近いおばさんからしたらーーっ!?」

 シュッと俺の顔のすぐそばを何かが飛んでいった。


 ーーあっぶないな!?

 鋭利な何かが頬をかすったような気がしたんですけれども!?


「っち」

「今、舌打ちしましたよね!?」

「ふふふ、ごめんね。私は『まだ26歳』なの……だからかな?ちょっと手が滑ってしまったのかな?」

 狭山さんの口元はにっこりと笑みを浮かべているのに、なぜか眼力の強い二重はこれでもかと開かれていた。

 さながらホラー映画に出てくるB級ヒロインがゾンビ化した後のような顔だ。

 狭山さんはそんなドン引きする俺の内心を悟ったようだった。狭山さんは少しやり過ぎてしまったことを後悔するような真面目腐った口調で言った。

「こほん……それで、どうしたの?」

「いや、やっぱりなんでもないーーっ!?」

「全く面倒くさいわね!とっとと言いなさい!」

「わ、わかりました!」

 狭山さんの気分を害してしまったようで、俺は手っ取り早く抱えているガラスの靴を差し出した。決して鬼のような形相に恐怖を抱いてしまったわけではない。


「この……ガラスの靴です」

「……?」

 狭山さんはポカンとした表情をした。そして何かを察したように、はっと息を飲んで、顔を少し赤面させた。色白い頬が朱色に染まり、俺を少し見上げるようにしてつぶやいた。

「わ、私にくれるということ?」

「欲しいのでしたら差し上げますけど?」

 何をそこまで、狭山さんが恥じらっているのか判然としない。

 処分に困っていたガラスの靴を処分できさえすれば、俺はなんだって良い。とっとと変態の汚名となりそうな危険物を手放したい、それだけだ。

 特に、深瀬瑠奈に見つかってしまったら、とんでもないことだ。


 一瞬いやな光景が脳裏に浮かんでしまった。

『へーあさひ君って、靴とか足フェチなんだーきもーい』

『いや、これは俺のじゃなくてーー』

『必死になって、言い訳しているところが益々怪しいー』

 瑠奈のアーモンド色の瞳がすっと細められ、俺の見下した。


 ーーーーいやいや、そんなこと決してあってはならないことだ。

 絶対に、いや何がなんでも避けなければならないことなのだ!


 そんなことを考えながら、狭山さんにガラスの靴を差し出し続けていると、狭山さんはなぜか大切なものを扱うような慎重さでゆっくりと腕を伸ばした。少し青白い腕は普段外出していないことを表しているかのようだ。

 ピンク色に染められたネイルの指が俺の右手の甲を包むように添えられた。少しひんやりとした掌に、一瞬、ドキューーーーンとしてしまったが、きっと気のせいだろう。


 狭山さんは俺から視線を逸らして、ぶつぶつと何かを早口で言った。

「ーー突然デレた……?も、もしかして今まで私を困らせていたのはーー」

「……どうかしましたか?」

「ううん、なんでもないわ。気にしないでちょうだい」

「あ、はい」と俺が答えると、狭山さんは俺の手から完全にガラスの靴を受け取った。相変わらず、狭山さんの頬は赤く染まっていた。


「し、仕方ないから受け取ってあげる。博士論文を書くために、週3日間しか勤務できていないけど、わ、私のことをそんなにす、すきになっていたなんて知らなかったから……うん、でもありがと。君の気持ちはちゃんと考えさせてもらうから」

「はい……?」


 なんだかよくわからないが、俺は肩の荷が降りたような気がした。

 世界いや地球を救うために最後まで宇宙船に残ることを決めた宇宙飛行士のような、そんな使命感を全うするのに全集中していたからに違いない。その使命から解放されたことで、すっかり安堵してしまった。

 それからはいつものようにホームルームが始まるまで早朝の勉強に着手できた。


 そういえば、なぜか狭山さんの心の声も聞こえてこないんだよな……

 そんなくだらないことが頭に思い浮かんだ。



 放課後ーー俺は図書室で勉学に勤しんだ。

 昨日、瑠奈から聞いた話によると、放課後はピアノの個人レッスンがあるらしい。そのため、直帰していると言っていた。一方で、朝早く登校して、先生に言って音楽室を貸してもらっているらしい。

 おそらく集中して練習ができるからなのだろう。

 なんてーー努力家なんだ!


 今朝同様に、相変わらず狭山さんから向けられる視線は謎だったが、なんとか数学の問題集を潰すことができた。


 吹奏楽部や軽音部から流れてくる音ーーいやいや演奏する演奏者たちや命令された指令を淡々とこなすロボットのような無機質な音が聞こえて来た。普段はノイズキャンセリングイヤホンで耳を塞いでいたり、目の前のことーー例えば数学を解くことに集中するように心がけることで、音がシャットダウンされるが、イヤホンをなくなってしまった。


 制服の内側に入れておいたはずだが、どこかに落としてしまったようだった。そのため、これから地獄のような帰宅時間を過ごさなければならない。


 こんな時に、瑠奈の弾くピアノの音色が聞けたら良いのだが……

 あの美しい音色。

 のびのびとそして心の奥底から、楽しそうに弾いていることが伝わってくる思い。その気持ちに偽りがないのだろう。この忌々しい能力を手に入れてから、初めてのことだった。


 きっと、彼女ーー深瀬瑠奈は色白い指先で鍵盤の上を優雅に動かして、楽しそうにピアノを弾いているのだろう。この先ーー少なくとも高校生活は、この厄介な能力を持ち続けている限り、俺は自主的に人の集まる部室や授業は取らないだろう。


 授業が単位制だし、授業も少人数制で心底よかった。そもそも、それが理由で急遽志望校を変えて、この高校を選んだのだから、当然だ。


 ただそれでもやはり脳内に不協和音が響くことを避けられないのは仕方がない。


 俺は雑音の混じる放課後の校舎から急足で出ようとした。

 いつものように下駄箱を開けてローハーに履き替えようとしたがーーそれは叶わなかった。


 ガラスの靴が置かれていたのだ。

 夜空に輝く星のようにガラスの光沢が煌めいていた。まさに下駄箱という暗闇に浮かぶ星々のように……などと御託を並べている場合ではない。


「ほんと……勘弁してくれ」


「……あさひ君?」

 とっくに帰宅しているはずの瑠奈が、俺の横に立っていた。


 最悪だ……。



 俺たちは高校近くの公園ーーイロドリ公園という大きな国立公園に来ていた。瑠奈は俺の横で噴水を眺めている。長いまつ毛や桜色の唇、色白いほほ、全てが可愛いと思えた。


 そんな俺の気色の悪い視線に気がついたのだろう。

 瑠奈が申し訳なさそうに言った。

「……急に呼び止めちゃって……迷惑だったよね」

「いやいや、全然迷惑じゃない。むしろ、嬉しいくらい」

「ふふふ、本当にそう思ってくれているんだね?いつだって、あさひ君は……」

 瑠奈は儚げに笑みを浮かべたが、最後の言葉を言い淀んだ。

「……?」

「ううん、なんでもないの。今日は話したいことがあったんだ」

「そうか」

「ちょっと、長くなるかもしれないけれど、大丈夫かな?」

「全然大丈夫。むしろ今日はなぜか寄り道して、公園で誰かと歓談を楽しみたい気分だったから!」

「ふふふ、ありがと」

 優しい嘘なんだね、そう言った気がした。

 

「実は私ーー人の嘘がわかる時があるんだよね……人が嘘をつくと、頭の奥の方が圧迫されるような感じがするんだ……」

「そうか……」

「変だよね?それに……気持ち悪いよね?」

 瑠奈の瞳には、うっすらと涙で滲んでいた。


 嘘がわかる……?

 聞き間違いでは……ないよな。

 そんなことを言って、俺からの同情をあえて引く意味だってないだろうし、涙を浮かべる演技で悲劇のヒロインを気取る意味だってないだろう。


 すでに俺はーーこんなにも瑠奈に惹かれているんだから。

 

 それよりもまず考えるべきことがあるではないか。

 どうすればーー瑠奈が安心するのだろう。

 どうすれば瑠奈が泣き止んでくれるのだろう。

 少しでも長く瑠奈の笑顔が続くようにするにはどうすればいいのだろう。


 そんな疑問が次々と溢れてくるけれど、俺はなんと言えばいいのかわからなかった。ただ一つわかるとすればそれはーー伝えなければならないことがあること。

 

「少し驚いたけど、全然気持ち悪くなんてない。むしろ、瑠奈のことが知れてよかった。それにーー」

 

「……?」

「俺は……他人の心の声が聞こえる時があるんだ」

「それって、もしかしてーー」

「俺の場合は半径30メートルくらいまでにいる人たちの心の内が読める時があるんだけど……でもいつも聞こえる訳ではないんだ。ただ、学校だとか電車の中だとか、そういう人混みの中は必ず誰かしらの心の声が漏れ聞こえてくる……俺は事故というか……中学3年最後のサッカーの試合中に頭をぶつけてからこうなった」

「そうだったんだね……」

「瑠奈はその……いつからなの?」

「私は中学3年生の終わりくらいから……」

 瑠奈は少し俯いた。

 おそらく詳しく話したくないことなのだろう。

 それに俺の聞き方が悪かったに違いない。

 俺は別の質問をした。


「なんで、嘘がわかることを俺に話してくれたんだ?」

「それは……」と瑠奈は少し俺から視線を逸らして言い淀んだ。そして、何かを決意したように、浅く息を呑んでから言った。

「覚えていないかな……ゴールデンウィークに入る前の頃なんだけど」

「ゴールデンウィーク前のこと……?」

「うん、放課後の屋上」

 瑠奈は小さく首肯した。


 ゴールデンウィーク、放課後の屋上……

 あ、確か……先輩らしき人が女の子に告白していた場面に遭遇したことがあったような気がする。


 その時の先輩らしき人は、根が腐ったみたいな男だったんだよな。なんか『やりたいやりたい』と内心連呼しているようなやつだったことは覚えている。


 それに女の子の体調が悪そうなことも気にしないで、迫っていたから、途中で割り込んだんだ。


「……もしかして上級生らしき人に告白されていた子のこと?」

「うん、そう……実は、私なんだよね」

「ほんとに?」

「ほんとだよ」

「いや、でも髪の色が全然違うような……」

「うん、誰かさんは黒い髪の女性が好きみたいだったから」

「……そうか」


 ……全然気がつかなかった。

 確かあの日……俺はたまたま屋上にいたんだ。

 クラスメイトの女の子が掃除当番を俺に押し付けて来た。部活があるからなんとか言っていたが、内心では『彼氏と遊びに行く』という声が聞こえてきて、辟易として適当にあしらった。そしたら、ぐちゃぐちゃと雑音が増して来て、頭の中が狂いそうになった。

 だから、誰もいなさそうな屋上に退避したんだ。


 そんな時、後から二人がやってきたんだった。

 俺の存在に気がつかずに男の方が女の子に告白し始めた。


 でもなぜか女の子の方の心の声は全く聞こえてこなかった。

 それで気になって屋上のプランター横から姿を見てみたらーー女の子の足元はふらついているし、それに顔は伏せているものだから、体調の悪そうなことは一目瞭然だった。


 でも男の方はそんな女の子のことなんてこれっぽっちも気にも止める気配がなく上部だけの告白を続けていた。男の方は気色悪いくらいに『俺にうさわしいのは君だけなんだ』とか口説いていたが、内心は『やりたい』という猿のような盛ったようなことをずっと言っているようなろくでなしだったことは覚えている。


 だから俺は、女の子を庇うようにしてーー強引に連れ出したんだ。


 でもあの女の子は今の瑠奈の姿とは違って金髪に近い明るい色に染められた髪だった。それに毛先をカールさせており、顔も伏せていた。

 今の瑠奈とは全然違うような気がした。


 瑠奈の優しい声が、俺の脳内を支配した。

「あの時からだったんだよね……私がーーあさひ君を好きになったのは」

「…………え?」


 聞き間違いではないよな……

 と言うことは、俺は今さらっと告白されたのか!?

 こんなに可愛くて心だって綺麗な子に!?


「だって、君はいつだって嘘をつかないんだもの。少なくとも私と話すときは一度だって悪意を持って嘘をついたことないでしょ?自分をよく見せるためだとか、自己保身のためだとか、全然繕わないんだもの……」

「いやいや、買い被りすぎ。俺だって嘘の一つや二つ言うし……自分をよく見せたいと思うから……」


 そう特に好きな女の子の前では。


「ふふふ、いいの。今だって嘘はついていないでしょ?」

「そうかも知れないけど……」

「それが何よりも嬉しいの……やっぱり、私はあさひ君のことが好き。私がほんとのことを言っているってことは心の声でわかるでしょ?」

「いや、実は瑠奈の近くだと、瑠奈の心の声は全く聞こえないんだ」

「そうなの……?」

「俺もよくわからないんだけど、少し離れたーー例えば音楽室と図書室くらい物理的に離れたところから、多分10メートルかそれ以上離れている場合だと、聞こえるんだけど……多分、人によって聞こえてくる範囲みたいなものが違うみたい」

「ふふふ、ってことはーー私の心の声は普段から聞いていたんだね?」

「なっ、誘導尋問だったのか!?」

「ふふふ、いいの。私だって何度もあさひ君のこと試していたんだもの」

「……そ、そうなのか」


 まあ、人の嘘がわかるんだから、それりゃあ試したくもなるよな……

 警戒心を持つのは当たり前に違いない。

 俺だってこの厄介な能力を持ってから半年くらいしか経っていないが、人間不信に陥りそうになったことは何度もあったのだから。

 

 俺の場合対処方法が偶然わかったからなんとかなっているが、もしも瑠奈の場合、対処方法がわかっていないのだとしたらーー


「うん、とにかく私はーーあさひ君のことが好きなんだよね。多分、これから先、君以上に誠実な人はいないんじゃないかって思うの」

「ありがとう。なんて言わばいいのかわからないけれどーー」

「ふふふ、返事はいいの。私が言いたかっただけだから」と瑠奈は俺の言葉を遮った。そしてなぜか俺から一度視線を逸らしてから言った。

「ところで……下駄箱に入っていた『あれ』どうするの?処分に困っているようだったら、もらってあげるよ?」

「え?」

「ガラスの靴のこと」と瑠奈のアーモンド色の瞳が俺へと向けられた。

「ああ、も、もちろん!差し上げます」と俺は咄嗟にバックパックから取り出した。

「ふふふ」と瑠奈はなぜか満面の笑みを浮かべて受け取った。それから、たまたま持ち合わせていたというタオルのような布に包んで、バックにしまった。


「あのさ、一応誤解される前に言っておくけれど、俺のじゃないからね!?」

「うん、わかっているから安心して?」

「信じてもらえて何よりだ」

「うん、でも他の人はどうなんだろ……ね?」

 そう言ってわずかに瑠奈の口元が吊り上がった。そして悪戯を考えている幼い子供のような無邪気な笑みを浮かべた。それになぜか心なしか楽しそうな声色な気がした。


「……脅しですか?」

「ううん、全然違うよ?」

「誰にも言わないでもらえると助かりますっ!」

「うん……でも1つ条件があります」

「……?」

「できるだけ……ううん、今後は離れていても絶対に私の心の声は聞かないようにしてもらえると助かるかな?」


 俺は全力で首を縦に振った。

 決して脅されたからではない。そう、ただ瑠奈の少し頬を赤く染めて恥じらう姿にズッキューんとなったからに違いない。


 その後、俺たちは無言のまま駅へと向かった。

 夜空にはキラキラと輝く星々が見えた。星座の位置や名前なんて詳しく知らなかったが、なぜか無性に気になった。


 公園の遊歩道は、街灯の明かりで照らされている。自動販売機の横を通り過ぎて、公園の出口に差し掛かった時ーー俺の左手は、瑠奈の小さな右手に触れた。


 瑠奈は『今日はちょっと寒いよね』と言って左手をぎゅっと握ってくれた。


 10月の夜は少し肌寒いはずなのに、なぜかちっとも寒さを感じなかった。


 ∞


 後日談。

  

 いつものように早朝の図書室の扉を開けた。

 狭山さんに『まだ論文書き終えないんですかー?大丈夫ですかー?』と散々揶揄った。するとなぜか狭山さんは歯切れ悪く『ごめんね、そんなに私を揶揄ってアピールしてくれてたんだよね……うん、でもまだ決められないの。だって私たち8歳以上も差があるしーー』などと意味不明な返事をされてしまった。


 俺はとりあえず日々の研究と司書のお仕事で疲れているのだろうと、お昼に飲む予定でコンビニで買ってきたエナジードリンクを渡しておいた。


 それからいつもの定位置に向かった。俺は鞄を置いて、席に座った。

 その時少し離れた席からーー少し眠そうな声で挨拶された。


「うーん、おはよ、あさひ君」

 瑠奈は広げているノートから視線を上げた。ミディアムボブの黒い髪が微かに揺れて、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「ああ、おはよう……ってなんでいるの!?ピアノの練習は?」

「今日の練習はおやすみ」

「そ、そうか」


「ところで、狭山さんのことは好きじゃないんだよね?」

「もちろん、俺が好きなのはーー」

「そう……だったら、いいの。私がガラスの靴ももらったんだから」と瑠奈は俺の言葉を遮った。


「ガラスの靴……?」


 そうだ。昨日渡したのだった。

 なんせ瑠奈の告白のことで一杯一杯だったから……すっかり忘れていた。

 

「ふふふ、その様子だと、まだ意味には気がついていないみたいだね?」

「意味?」

「うーん、ネットで検索してみれば?」

 ふふふと何かを堪えるような笑みを浮かべて、瑠奈が机の上に置かれたスマホへと視線を向けた。


 なんだかよくわからなかったが、すぐさまスマホを制服のポケットから取り出して、『ガラスの靴』『意味』と打って検索した。


「……プロポーズ!?」

「狭山さんの誤解は、しっかりと解いて来てね……?」

「は、はい!」


 瑠奈は少し怒ったような声で言った。

 俺はすぐに席を立って相変わらずモジモジとする狭山さんへと向かった。


 その時、背中越しから『私にだけ渡してもらうはずだったのに……そのために何度も用意したんだから』と聞こえた。

 そんな瑠奈の少し呆れるような声が聞こえた気がしたのだが、きっと気のせいなのだろう。


 なんせ俺の能力は、なぜか瑠奈の近くでは瑠奈の心の声を全く聞くことができないのだから。


 この後、狭山さんの誤解を必死になって解いたり、実は、狭山さんも人の心が色として識別できる能力を持っていることが判明したりと色々あったが、それはまた別のお話である。


                               (終)

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【短編】ある朝登校すると、俺の下駄箱にガラスの靴が置かれていたから、全力で対処した 渡月鏡花 @togetsu_kyouka

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