人魚の軋音

瀬野荘也

人魚の軋音

 今日も夜が訪れる。細やかな物音一つでさえ響き渡るボロアパートで、俺はその時を待っていた。

 軋む階段。足音は止まり、古びた鍵がゆっくり回る。

 開かれたドアはこの部屋のものではない。視線を壁に向ければ、隣に住む女性の溜息が聞こえてきた。






 一人暮らしをする為に得た本は、想像以上に重かった。

 掃除、洗濯、生命の維持に必要な事。一般的な常識を含めれば、人一人殴り殺せそうな分厚さだ。

 中でも難しかったのは、他者とのコミュニケーションを保つ類。

 他人ヒト見知りで他人ヒト嫌い。そんな俺は、外に出て暫くも新たな繋がりを作ることをしなかった。



「分かり合えるはず、ないもんなぁ」



 本を閉じながら零す声。それを拾う者は勿論いない。

 独りでいることは楽だった。人々の生活を苦痛と捉える事が嫌だったし、そんな醜い姿を咎められたくなかったから。

 窓から見た町からは、あらゆる音が溢れている。そのどれもが生を感じさせるものであり、賑やかである反面、一層の孤独を突きつけられた。



 無音を求めて籠る日々。隣室の声が気になったのは、春にはまだ遠い頃の事だった。

 薄い壁の向こうに住んでいるのは、近所のスーパーで働いている二十代前半程の小柄な女性。手早いレジ打ちに愛想のいい笑顔が印象的で、いつでも他人に囲まれていた。


 社会の中でうまく生き、社会と共に生きている。自分とは異なる、真逆の存在。

 そんな彼女の部屋からは、外と同じような音がしていたのに、この日聞こえた音はどこか腑抜けきっている。



「……お酒でも、飲んでるのかな」



 動画でも流しているのか、流行りの曲が聞こえてくる。

 お笑い番組に切り替わり、接客時とは違う自然な笑い声も響いてきた。

 気にも留めない呟きに、肩が痛いとゴネる声。お風呂が面倒だというため息が聞こえたところで、ハッとイヤホンに手をかける。


 これは聞いてはならない音だ。私生活を覗いてしまったようで、凄まじい罪悪感が込み上げる。

 それでも酔い続けている彼女の声は、カナルタイプのイヤホンをも突き抜けた。

 五月蝿いとは思わないけど、何故か非常に気になる音。仕方なく俺は、イヤホンジャックの先をポータブルピアノへと差し込んだ。


 趣味かと言われたらそうでもない。寧ろ歯磨きや衣類の着脱にも似たような行為である演奏を、俺は必死に行った。

 好きな曲なんてない癖に、必死で音を紡ぎ出す。途切れて仕舞えば罪を重ねてしまうようで、彼女が就寝するその時まで、調子外れのメドレーで掻き消した。


 そこまでお酒に強く無いのだろう。彼女はその後、時計の針が天井を指さないうちに入眠した。

 ホッとすると同時に、緊張で強張った身体がずるりとベッドに沈んでいく。



「仕事、大変なんだろうなぁ……」



 そう呟いた瞬間、頭を振って吹き飛ばす。

 聞いてはならない音だった。だから俺は、彼女のことなんて知らないままでいなければ。


 お酒が入っていない日の夜は、いつも通り静かなのだ。しかし最近は仕事続きで忙しいのだろう。夜が訪れては耳を塞ぐ日々が続いていた。




 ある日、ポータブルピアノが故障してしまった。普段なら気にも止めないところだが、外に出た今は違う。

 業者さんに預かっていただく間、彼女の声を塞ぐ術を失うのだ。耳栓やら携帯に繋ぐケーブルやらを購入すればよかったのだが、気づいたタイミングが遅すぎた。


 こんな時に限って、彼女はまた酒を飲んだ。近所迷惑にならない程度の絶妙な声で、愚痴やら笑い声やらを上げている。

 もうどうにでもなれ。完全にお手上げの状態の中、果てのないイヤホンをつけたままベッドへと潜り込む。

 眠るなりなんなりして、意識を手放して仕舞えばいい。流石に夢の中までは響かないだろう。

 だが、突如訪れたその違和感に、俺はふと眼を開けた。


 彼女の声が、歌に変わった。

 始めは口ずさむようにしていたが、興に乗ってきたのか、次第にリズムが生まれてくる。

 素人にしては、上手すぎた。いや、寧ろ何かそういった経歴でもあるかのように、彼女の歌は空気を鮮やかに彩っていく。


 無意識にイヤホンを耳から外す。美しいその歌声に、壁の向こうへ視線を向ける。

 透視能力があるわけでもないのだが、胸元に手を当て、伸び伸びと歌い続ける彼女の姿が浮かび上がる。制服姿の彼女を幾らも見たことがあるはずなのに、その記憶が霞むほどだ。

 イメージは独り歩きする。深い夜。闇を沈めたような海。下ろした長い髪と、普段は隠している妖しい姿。

 何かの本で見たことがある。確かそう、あれはセイレーンだ。

 美しい魔物はまさにぴったりの印象で、俺は物語に沿う様に、彼女の歌へと惹き込まれていった。



 ポータブルピアノが返ってきても、イヤホンジャックを繋がない日々が続いていた。いや寧ろ、彼女の歌を聴きながら演奏さえしていたのだ。

 とはいえ、曲を響かせる程の度胸がある筈もない。卑しい俺は音源を切り、指先を押し込めて自分だけの演奏にしていたのだ。


 空っぽの音は彼女に聞こえない。だから今日も、彼女は夢を見るように歌っている。

 流行りの曲。アニメの主題歌。繰り返し歌い続ける歌手のものもあり、気づけばアルバムを購入していた。

 空の鍵盤を鳴らし続けている間に込み上げるそれは、間違いなく多福感だ。

 俺だけが聞ける美しい歌。その間違った独占欲に嫌悪を抱く事もあったのに、気づけば彼女の帰りを待っている。

 止めてほしい。いや、止めないでほしい。猛毒の酒を喜び呑む日々が、暫くの間続いていた。



 今夜も彼女が帰ってきた。ホワイトデーでの残業があったのだろう。いつもより少し遅い帰宅だった。

 飲んでいたジュースの缶を机に置き、当たり前のようにポータブルピアノを手繰り寄せる。

 今日はどんな歌だろう。いつもの恋愛の曲だろうか。

 彼女の物音が聞こえる中、指先を添えて時を待つ。


 ハタリ、と隣から音が聞こえなくなった。いつもなら入浴の後に晩酌をするので、それが聞こえるにはまだ早い。

 だが、彼女は歌い始めた。静かに呼吸を整えて紡がれたその迫力に、ビリビリと空気が震えだす。


 息を飲む。そのあまりにも澄んだ、悲痛さに。

 刃を振り下ろされたような鋭い痛みが胸を刺す。勢いのままに、落ちていく。

 引き摺り込まれたと気づく頃、俺はその歌が何なのかようやく理解した。


 ああ、これは諦念の歌だ。拾い上げられないと知る、死を待つ者の歌なのだ。

 首を締められるような孤独。いっそ窒息さえしてしまえばいい。そんな彼女の叫びが、歌の形をとっている。


 深海魚すら存在しない闇の中。そんな海の片隅で、膝を抱え込む彼女の姿が浮かび上がる。

 光はない。温度もない。声すら音にならないそんな海を、俺もよく知っている。

 真逆の存在だと思っていた彼女も、またこの深い海の中にいたのだろう。

 俺よりずっと擬態が上手く、俺よりずっと、社会の中で傷つきながら。



 彼女が疲れ果てるまで、終ぞ俺は、鍵盤から指先を離すことができなかった。

 あの歌に、沿う曲が見つからない。どれだけの孤独にいるかを知りながら、俺は彼女の名前すら思い出すことができないのだ。


 眠れないままに朝がきた。彼女は今日も仕事だろう。昨日のことなど何一つ感じさせない音の中、身支度を整えている。

 他人に関わるのは嫌いだった。どうせ同じ世界にいることはできないし、所詮何処までも別の生き物だと信じて止まかったから。

 けど俺は、同じ世界の住人を知った。知ってはならない筈なのに、深い海に沈む彼女の歌が脳裏に残って離れない。



 彼女が部屋を出た直後、俺もゴミ袋を下げていた。

 階段を降りればすぐ、ボロボロのゴミステーションが見えて来る。彼女は丁度、燃えるゴミを投入し終えたのか、錆びた蓋を下ろしていた。


 風になびく毛先を見る。

 深夜調べた話によると、歌声を聞かせて生き残った者がいた場合、セイレーンは自害してしまうらしい。

 では彼女は。いや、俺が聞かれたことに気づかないフリをしたならば、彼女は生き永らえる。

 でも、と、心が呼び止める。

 彼女はきっと、その逆なのだろう。人知れず歌い続け、人知れず消えゆく彼女を思った時、また別の姿が重なった。


 他人ヒトの知らない生き方ならば、他人ヒト知れず最期を迎えるだろう。

 それはきっと、岩となって残るセイレーンではなく、泡となって消えてしまう乙女のように。



「……おはよう、ございます」



 噛みかけた挨拶に、彼女が振り返る。

 朝日の中にいた彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの笑顔を作り、軽く会釈をするのだった。



「おはようございます」



 いつもと同じ笑顔。いつもと同じ声。

 ただその目元にコンシーラーが塗られていることに、一体どれだけの者が気づくだろう。


 たった一言の挨拶だった。それ以外話すことはなく、彼女は職場へと向かっていった。

 その姿が眩しくて、しかしその影の濃さに胸が締め付けられ、俺は彼女が泡にならないよう無音の中で見送った。

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人魚の軋音 瀬野荘也 @s-sew

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