参拾 普通の人生
病院に戻るとスタッフからこっぴどく叱られ――はしなかったが、ネチネチと文句を言われた。二週間寝たきりだった患者が二人も無断で抜け出し、一人はあちこちに切り傷を作り、さらに新しい患者を背負って帰ってきたのだ。
厚かましいとかいう次元ではなかったが、
手当てを受け、もろもろの検査をされ、とっとと出て行けと言わんばかりに退院手続きをさせられる。時刻はそろそろ夕暮れ時だった。
そういえば、昼にゼリー飲料とプロティンバーを
以前のように、食べた物が腐敗してしまうことを心配しているのではない。次に行く時は、八尋と祝杯を上げるために取っておくのだ。
乗はコンビニに足を向け、夕食を物色した。
◆
地上に出て二人がかりで入り口の石を閉めると、夜志高はワゴン車からノミとハンマーを持ってきた。「こっちの彫りは専門じゃねえんですけど」などと言いながら、戸石の表面に彫刻を始める。小一時間ほどで、霊符のような溝が
道具を傍らに置き、夜志高は手のひらを模様に当ててつぶやく。
「折れた小枝の音から生まれいで、吠えながら噛みつくものよ。近くへ針を刺し、遠くへ針を刺して、熊に引きずられていくものよ。村々の墓に紐を巻きつけて、座敷の中をミシミシと歩き回るものよ。そなたら迷わず
最後の部分は乗には聴き取れなかったが、何らかの儀式は滞りなく済んだらしい。夜志高は手を離して立ち上がる。
「さて、これで一応はマシになりますかね」
八尋の姿も完全に人間のもので、蜘蛛の形は跡形もない。
ついでにボトムもなかったので、乗が夜志高から借りていたコートを巻いてやると「それ、もう返さなくていいです」と言われてしまった。悪いなとは思うが、他の服も切り裂かれて血まみれなのだから、どのみち捨てるしかない。
「終わった……んだな」
親友を首にかけるように担ぎ上げながら、乗は安堵と共に訊ねた。
「さあ?」と夜志高は無情に言う。「なんせ相手は神さまで、その眷属に後釜も据えず、無理やり奪い取りましたからね。また何かしっぺ返しがあるかもしれません」
「おい!?」
そんな話は聞いていない。八尋を取り戻せばすべて終わるはずだったのではないか? 乗が抗議の声を上げると、
「後でヒトガタでも作って、生け贄の代わりに持って行くとかはした方がいいかもねー。でも安心して、
「そういう
〝他の怪異〟なんていてたまるか。
そう
乗は深々とため息をついた。
◆
事務所、兼、自宅には何かが訪ねてくることはなく、ベッドで眠っても悪夢を見ない。久しぶりに、平穏な日常というものを彼は噛みしめた。
八尋が目を覚ましたのは、乗が午前中に訪ねた数時間後だ。診察が終わるまでしばらく院内をぶらぶらして、戻ってくると親友はベッドの上でぼうっとしていた。
「よっ、八尋。なんか久しぶりだな」
うん、と吐息なのか声なのかもつかない返事がある。それからゆっくり、八尋は青白い顔で首を巡らせ、二つの眼で焦点を合わせた。
「乗……もう、大丈夫か?」
「おかげさまで。つか、そりゃこっちの台詞だっつーの」
笑って肩を小突くと、ふふ、と八尋も小さく笑みをこぼす。冬の弱い光に当たりながら、その姿は色が抜けて、今にも溶けて消えそうに見えた。
だが彼は確かにここにいるし、蜘蛛の化け物でもない。
「おまえさ、あそこでのこと、どんだけ覚えてる?」
沈黙。絞り出すと言うより、注射器で抜かれたような細い声で答える。
「……また、人を殺した」
「ああ、オレやおばさんやおじさんのためだろ? あと
病院に来る前、
念のためにと夜志高に持たされたお札も反応しなかったし、彼らはねぶらまに襲われた後、八尋の手で連れ戻されたのだろう。
体ごとくしゃっと握りつぶされるように、親友はますます声を小さくした。
「そんな……ことは……」
「オレの前でんな声出すなって。おまえはよくやった! 他に連れて行かれた人は、もう戻ってこねえみたいだけどさ……オフクロの仇だって討ったんだ」
この
「だから、これで大団円だ。ハッピーエンド万歳。後はおまえが退院して、居酒屋で乾杯してサッパリ! そうだろ?」
「……うん。うん」
ようやく、八尋の声に精彩と存在感が戻った。
「あ、後な、タトゥー見せてくれよ。下半身の方は、ホラ、その……だいたい見ちまったけれど、やっぱ全体で見ねえとな」
「あんなことしたから、たぶんもうご利益はないと思うけれど、うん。けっこう格好良いよ……ちょっと残高は大変なことになったけど……」
世知辛い話だが、後先考えず七桁の金を一度に出せばそうもなる。
「それから猫だ! 早く退院して迎えに行ってやれ、クーに顔忘れられるぞ」
「そんなことないよ、あの子は生まれた時から一番僕に懐いていたんだ。でも、そうだね、一応家に置き手紙をしておいたけれど、クーに寂しい思いをさせたなあ」
二人が盛り上がっていた時を狙いすましたように、柊姉弟が部屋に入ってきた。
「やっほ~、丹村さん白草さん。無事みたいねえ、おめでと~」
夕起子は朗らかに手を振りながら、「これお見舞いね」とシュークリームの箱を
彼はニコリともせず、ベッドの前に立った。ツンツンした毛先のオールバックに、イエローレンズのサングラス、手や首にのぞく
見知った姿だが、ただでさえ迫力のある実体感が、今日は一段と重々しい。周囲のすべてにプレッシャーをかけ、ブラックホールに引きずりこむような。
八尋がとった行動にまだ怒っているということは、乗にも見当がついた。夜志高はしばらくベッドの主をにらみつけていたが、やがて手を伸ばして顔を指さす。
「白草八尋」
刑罰を言い渡すような口調だった。サングラスの下で、同心円状の模様を持つ黄金の瞳が、
「おれは止めたが、てめぇは聞かなかった。あんたのダチは必死で取り戻したが、運命は既に定まっている。それは、分かっているな?」
刑場に座らされ、すべてを諦めた罪人のような横顔で、八尋は厳粛にうなずいた。
それを見届けて夜志高は腕を下ろし、黙って背中を向ける。乗は呼び止めて、今の言葉はどういう意味か問おうと考えたが、無駄な気がしてやめた。
きっと、八尋に訊いても答えてはくれないだろう。親友に対する信頼も親愛の情も変わらないが、なぜかそこだけは、決定的に触れてはいけないのだと直感した。
「それじゃ、フツーの人生、大事にね」
夕起子も長い金髪をひるがえし、出口で手を振って去る。
◆
病院の玄関を出るなり、夜志高は煙草をくわえて火をつけた。胸くそが悪くて悪くて、一刻も早く肺にヤニを入れなければ、居ても立っても居られない。
夕起子が疲れたようにぼやく。
「……やっぱりさあ、人が自分から地獄を選んじゃうのって、イヤだね」
それには答えず、深々と紫煙を吸いこみ、兄妹は駐車場へ歩き出した。ワゴン車の助手席に乗りこんだ夕起子が「あ」とスマホを取り出す。
「そういや、例のサーバーってどうなったんだろ」
もはや夜志高には興味のない話題だ。管理人だった
姉がちょいちょいと袖を引っぱるので、仕方なく液晶ディスプレイを見た。
***
眠りの森がメッセージをチャンネルにピン留めしました。
ピン留めされたメッセージを全て表示。
— 2018/12/11
昨日 12月11日 12:00
〝眠りの森〟@R.I.P.Life1212
【重要】突然のお知らせで申し訳ありません。本日限りで私は当サーバーの管理人を引退いたします。コミュニティの閉鎖は行いません。
引き継ぎの方について、後ほどまたご連絡いたします。
***
「あたしが目ぇ覚ましたのがお昼過ぎで……善根世さん、まだこの時生きてた?」
いいや、と否定する。八尋が善根世の首を落としたのは、正午の前だった。力と立場を奪い取られたはずのあの男が、なぜまだWebに書きこめるのか。
夕起子がスクロールしていくと、ちょうど自分たちが洞窟内で八尋と対峙していたころの時間帯に、次の管理人を指名するメッセージが書きこまれている。
そのアカウントは、ピンクの髪を被った髑髏のイラストアイコンだった。
***
今日 12月12日 09:00
〝メノウアセロラ〟@Agate&Rosetta
【⭐重要⭐】皆さまごきげんよう!
眠りの森さまから、管理人の大任を仰せつかったメロウアセロラです🌱
サーバーのルール改定などはありませんから、安心してくださいね👌
また、【あの世が見える棺】も、わたくし引き継ぎました🎈
[白木の棺桶の写真].png
というわけで、恒例のアオギリ会参加者募集も始めます🎂
まだ見たことがない皆さんも、軽い気持ちでどしどし参加してみてください👀
開催予定日は来年の……
***
姉弟はしばらく、無言で顔を見合わせていた。
「丹村サンにゃ悪いが、あのまま白草を、墓守に据えときゃ良かったかな」
「やめな。罰当たりだよ、ヨシ」
できることはもう、何もない。
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