参拾 普通の人生

 病院に戻るとスタッフからこっぴどく叱られ――はしなかったが、ネチネチと文句を言われた。二週間寝たきりだった患者が二人も無断で抜け出し、一人はあちこちに切り傷を作り、さらに新しい患者を背負って帰ってきたのだ。

 厚かましいとかいう次元ではなかったが、じょうは平謝りして八尋やひろをあずけた。

 手当てを受け、もろもろの検査をされ、とっとと出て行けと言わんばかりに退院手続きをさせられる。時刻はそろそろ夕暮れ時だった。


 そういえば、昼にゼリー飲料とプロティンバーを夜志よしたかにもらっただけで、何も食べていない。どこかの店に立ち寄ろうかなと思ったが、やめた。

 以前のように、食べた物が腐敗してしまうことを心配しているのではない。次に行く時は、八尋と祝杯を上げるために取っておくのだ。

 乗はコンビニに足を向け、夕食を物色した。



 地上に出て二人がかりで入り口の石を閉めると、夜志高はワゴン車からノミとハンマーを持ってきた。「こっちの彫りは専門じゃねえんですけど」などと言いながら、戸石の表面に彫刻を始める。小一時間ほどで、霊符のような溝が穿うがたれた。

 道具を傍らに置き、夜志高は手のひらを模様に当ててつぶやく。


「折れた小枝の音から生まれいで、吠えながら噛みつくものよ。近くへ針を刺し、遠くへ針を刺して、熊に引きずられていくものよ。村々の墓に紐を巻きつけて、座敷の中をミシミシと歩き回るものよ。そなたら迷わずかつえずえきに就け……」


 最後の部分は乗には聴き取れなかったが、何らかの儀式は滞りなく済んだらしい。夜志高は手を離して立ち上がる。


「さて、これで一応はマシになりますかね」


 八尋の姿も完全に人間のもので、蜘蛛の形は跡形もない。

 ついでにボトムもなかったので、乗が夜志高から借りていたコートを巻いてやると「それ、もう返さなくていいです」と言われてしまった。悪いなとは思うが、他の服も切り裂かれて血まみれなのだから、どのみち捨てるしかない。


「終わった……んだな」


 親友を首にかけるように担ぎ上げながら、乗は安堵と共に訊ねた。


「さあ?」と夜志高は無情に言う。「なんせ相手は神さまで、その眷属に後釜も据えず、無理やり奪い取りましたからね。また何かしっぺ返しがあるかもしれません」

「おい!?」


 そんな話は聞いていない。八尋を取り戻せばすべて終わるはずだったのではないか? 乗が抗議の声を上げると、夕起子ゆきこが「まあまあ」となだめた。


「後でヒトガタでも作って、生け贄の代わりに持って行くとかはした方がいいかもねー。でも安心して、丹村にむらさんの周りでは、もう変なこと起こらないからさ」

「そういう摂理ルールが仕上がっていますからね。他の怪異に出会ったら知りませんが」


〝他の怪異〟なんていてたまるか。

 そう反駁はんばくしたかったが、あんな神さまが地元に存在したということは、世の中には思ったより本物の幽霊や化け物が存在するのかもしれない。

 乗は深々とため息をついた。



 事務所、兼、自宅には何かが訪ねてくることはなく、ベッドで眠っても悪夢を見ない。久しぶりに、平穏な日常というものを彼は噛みしめた。

 八尋が目を覚ましたのは、乗が午前中に訪ねた数時間後だ。診察が終わるまでしばらく院内をぶらぶらして、戻ってくると親友はベッドの上でぼうっとしていた。


「よっ、八尋。なんか久しぶりだな」


 うん、と吐息なのか声なのかもつかない返事がある。それからゆっくり、八尋は青白い顔で首を巡らせ、二つの眼で焦点を合わせた。


「乗……もう、大丈夫か?」

「おかげさまで。つか、そりゃこっちの台詞だっつーの」


 笑って肩を小突くと、ふふ、と八尋も小さく笑みをこぼす。冬の弱い光に当たりながら、その姿は色が抜けて、今にも溶けて消えそうに見えた。

 だが彼は確かにここにいるし、蜘蛛の化け物でもない。


「おまえさ、あそこでのこと、どんだけ覚えてる?」


 沈黙。絞り出すと言うより、注射器で抜かれたような細い声で答える。


「……また、人を殺した」

「ああ、オレやおばさんやおじさんのためだろ? あと智鳥ちどりか。おまえは蜘蛛の化け物になっても、必死で糸を張って被害が広がらないようにした。すげえよ」


 病院に来る前、白草しらくさ家に適当な理由をつけて立ち寄ったが、八尋の両親と、普段は京都にいる弟の智鳥もみんな健康そうだった。

 念のためにと夜志高に持たされたお札も反応しなかったし、彼らはに襲われた後、八尋の手で連れ戻されたのだろう。

 体ごとくしゃっと握りつぶされるように、親友はますます声を小さくした。


「そんな……ことは……」

「オレの前でんな声出すなって。おまえはよくやった! 他に連れて行かれた人は、もう戻ってこねえみたいだけどさ……オフクロの仇だって討ったんだ」


 この七守ななかみどうにも、その外にも、に連れて行かれ、こわされたままの人々が大勢いるのだろう。けれど、それは自分たちにも、夜志高たちの手にも余る。


「だから、これで大団円だ。ハッピーエンド万歳。後はおまえが退院して、居酒屋で乾杯してサッパリ! そうだろ?」

「……うん。うん」


 ようやく、八尋の声に精彩と存在感が戻った。


「あ、後な、タトゥー見せてくれよ。下半身の方は、ホラ、その……だいたい見ちまったけれど、やっぱ全体で見ねえとな」

「あんなことしたから、たぶんもうご利益はないと思うけれど、うん。けっこう格好良いよ……ちょっと残高は大変なことになったけど……」


 世知辛い話だが、後先考えず七桁の金を一度に出せばそうもなる。


「それから猫だ! 早く退院して迎えに行ってやれ、クーに顔忘れられるぞ」

「そんなことないよ、あの子は生まれた時から一番僕に懐いていたんだ。でも、そうだね、一応家に置き手紙をしておいたけれど、クーに寂しい思いをさせたなあ」


 二人が盛り上がっていた時を狙いすましたように、柊姉弟が部屋に入ってきた。


「やっほ~、丹村さん白草さん。無事みたいねえ、おめでと~」


 夕起子は朗らかに手を振りながら、「これお見舞いね」とシュークリームの箱を床頭台しょうとうだいに置く。後ろからはのっそりと、天井に頭をこすりそうになりながら夜志高が現れた。今日はキリストが十字架で殴りかかってくる絵のシャツだ。

 彼はニコリともせず、ベッドの前に立った。ツンツンした毛先のオールバックに、イエローレンズのサングラス、手や首にのぞく黒一色のタトゥーブラックワーク


 見知った姿だが、ただでさえ迫力のある実体感が、今日は一段と重々しい。周囲のすべてにプレッシャーをかけ、ブラックホールに引きずりこむような。

 八尋がとった行動にまだ怒っているということは、乗にも見当がついた。夜志高はしばらくベッドの主をにらみつけていたが、やがて手を伸ばして顔を指さす。


「白草八尋」


 刑罰を言い渡すような口調だった。サングラスの下で、同心円状の模様を持つ黄金の瞳が、らんと輝いているのが分かる。


「おれは止めたが、てめぇは聞かなかった。あんたのダチは必死で取り戻したが、運命は既に定まっている。それは、分かっているな?」


 刑場に座らされ、すべてを諦めた罪人のような横顔で、八尋は厳粛にうなずいた。

 それを見届けて夜志高は腕を下ろし、黙って背中を向ける。乗は呼び止めて、今の言葉はどういう意味か問おうと考えたが、無駄な気がしてやめた。

 きっと、八尋に訊いても答えてはくれないだろう。親友に対する信頼も親愛の情も変わらないが、なぜかそこだけは、決定的に触れてはいけないのだと直感した。


「それじゃ、フツーの人生、大事にね」


 夕起子も長い金髪をひるがえし、出口で手を振って去る。



 病院の玄関を出るなり、夜志高は煙草をくわえて火をつけた。胸くそが悪くて悪くて、一刻も早く肺にヤニを入れなければ、居ても立っても居られない。

 夕起子が疲れたようにぼやく。


「……やっぱりさあ、人が自分から地獄を選んじゃうのって、イヤだね」


 それには答えず、深々と紫煙を吸いこみ、兄妹は駐車場へ歩き出した。ワゴン車の助手席に乗りこんだ夕起子が「あ」とスマホを取り出す。


「そういや、例のサーバーってどうなったんだろ」


 もはや夜志高には興味のない話題だ。管理人だった善根世よねせしんこと〝眠りの森〟がいなくなった以上、あのコミュニティも自然消滅するだろう。

 姉がちょいちょいと袖を引っぱるので、仕方なく液晶ディスプレイを見た。


 ***

眠りの森がメッセージをチャンネルにピン留めしました。

ピン留めされたメッセージを全て表示。

— 2018/12/11


昨日 12月11日 12:00


〝眠りの森〟@R.I.P.Life1212

【重要】突然のお知らせで申し訳ありません。本日限りで私は当サーバーの管理人を引退いたします。コミュニティの閉鎖は行いません。

 引き継ぎの方について、後ほどまたご連絡いたします。


 ***


「あたしが目ぇ覚ましたのがお昼過ぎで……善根世さん、まだこの時生きてた?」


 いいや、と否定する。八尋が善根世の首を落としたのは、正午の前だった。力と立場を奪い取られたはずのあの男が、なぜまだWebに書きこめるのか。

 夕起子がスクロールしていくと、ちょうど自分たちが洞窟内で八尋と対峙していたころの時間帯に、次の管理人を指名するメッセージが書きこまれている。

 そのアカウントは、のイラストアイコンだった。


 ***

今日 12月12日 09:00 


〝メノウアセロラ〟@Agate&Rosetta

【⭐重要⭐】皆さまごきげんよう!

 眠りの森さまから、管理人の大任を仰せつかったメロウアセロラです🌱

 サーバーのルール改定などはありませんから、安心してくださいね👌

 また、【あの世が見える棺】も、わたくし引き継ぎました🎈


[白木の棺桶の写真].png


 というわけで、恒例のアオギリ会参加者募集も始めます🎂

 まだ見たことがない皆さんも、軽い気持ちでどしどし参加してみてください👀

 開催予定日は来年の……


 ***


 姉弟はしばらく、無言で顔を見合わせていた。


「丹村サンにゃ悪いが、あのまま白草を、墓守に据えときゃ良かったかな」

「やめな。罰当たりだよ、ヨシ」


 できることはもう、何もない。

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