弐拾玖 知朱(クモ)の意図

 所は七守ななかみちょうあかみつぎ、時刻は昼下がり。

 どんよりした雪雲の灰色が空を覆い、銀世界という言葉はここに当てはまらない。建ち並ぶ家々や行き交う人の姿は墨絵のようで、ひどく平板へいばんだ。

 隣接する音切おんきり町も田園風景が広がる平坦な景色だったが、それでも所々にドラッグストアやホームセンターなどが凹凸おうとつを添えていた。七守にはそれすらない。


(まさか本当に、堂々と正面玄関から病院を抜け出せちまうとはなあ)


 夜志よしたかが運転するワゴン車が白重しらえがわに架かる無刀むとうばしに差しかかり、じょうは手にしていた野帳フィールドノートを閉じた。夕起子ゆきこが、八尋やひろのまとめたレポートと言って渡したものだ。

 みっちり細かい文字で濃密な情報量が詰めこまれ、わりと読むのが疲れた。しかし、それが八尋らしい。


 夜志高への百万を超える彫り代も、事前に銀行から一括で振りこんであったという。まったく、律儀なことだ。八尋は八尋のまま地獄への道を選んだ。

 だが、やがて彼自身というものは失われていく。


 川を越えた先は、繁茂はんもする植物と雪に覆われた廃集落・崩艮くえやまだ。山間に入って少し進んだ所で夜志高は車を停め、地下の入り口へと案内する。

 石碑の下を男二人で動かすと、分厚い蜘蛛の巣でさらに塞がれていた。


「こんなの前あった?」と夕起子。

「いや、白草しらくさだな。曲がりなりにも、を止めようとしたか……」


 姉に答えながら、夜志高は足で蜘蛛の巣を蹴破ってサングラスを外す。雪の湿り気とはまた違う、ひやりとした湿度が高い空気に、乗はの気配を覚えた。

 背中が総毛立つのを感じながら下りると、あまりの暗闇に圧倒される。だが、この闇の先に八尋がいるのだ、ひるんでいる暇はない。


 先んじていた夕起子が「ぐえ」と妙な声を出す。


「うわ~、さっそく敵意飛ばしてくんね。きつー」

「ホントとっとと終わらせて寝てえなあ」

「どうしたよ?」


 一人状況が理解できない乗に、夕起子が「丹村にむらさんは平気? 頭痛いぐらい眠いとかない?」と訊ねた。二週間以上寝ていた体は、寝るにも少々飽きている。


「ぜんぜん平気? ふーん、どこまでも丹村さんには害を加えたくないんだねえ。愛されてるぅー♪」両手ピストルのハンドサイン。

「今のあいつの攻撃って、要するに呪いか何かだろ? ヤバくねえの?」


 夕起子はおどけてみせたが、二人に何らかの呪詛が仕掛けられていると思うと、乗は気が気ではない。この地下で一人になったら、生きて帰れないだろう。

 帰ってくるとしても、それは本人ではなく、だ。


「心配ご無用ですよ、丹村サン。私ら〝ひい来帰らぎ〟は、この程度でやられるほどヤワな鍛え方していないんで」

「ねー」


 見えない所でどのような超常的な攻防が行われているが、乗には見当もつかなかった。ただ寝たきりでなまった体で、二人の後をついていくのに必死だ。

 進むごとに蜘蛛の巣は大きく、広く増えていった。ここに何百、何千匹ひそんでいるのか知らないが、明確に侵入を拒む意志を感じる。

 数階下まで来ると、今度は白い糸でぐるぐる巻きにされた動物や、人間のような物体がそこかしこに転がりだした。おそらくこれも蜘蛛の仕業だろう。


「これ、全部だね」


 と、夕起子は猫らしきものをなでてつぶやいた。


「捕まえられはしても、潰す力まではねえわけだ」


 夜志高が辛辣な口調で吐き捨て、乗の方を向く。


「ずいぶんと〝ねねさま〟に逆らっているようですが、この調子じゃ夜明けを待つ前に、白草はすり切れるでしょうね」

「――っ、じゃあ、急がねえとな」


 道を塞ぐ白い網はどんどん厚みと頑丈さを増し、一行を苛立たせた。そうして小一時間ほど経ったころ――とうとう我慢できず、乗は疑問をぶつける。


「なあ、ここ……オレら以外にもなんかいねえ?」


 前を行く夜志高と夕起子が振り返ると、四つの満月に見つめられるようだった。


 一度異界へ取りこまれた影響で、乗も少しこの世ならざるものを感じ取れるようになったらしい。だが気配止まりで、ハッキリとは知覚はできていなかった。


「まさか。何もいませんよ」

「そうそう、ネズミとか虫じゃない?」


 自分たちを取り囲む異形を見ながら、夜志高と夕起子は曖昧に笑って誤魔化す。


「そっかあ……」


 乗は歩みを再開した。



 場違いな歌声が響く。


――ねむこはもちやろ、やろ

――つみとが、まつぼってしょいこもお

――ねんねんながら、ねんねがらぁ


 黒洞々こくとうとうとした闇の中、それでもくっきり浮かび上がる暗黒は、一目でそれがこの世にあってはならぬモノだと直感させた。


 足を止めたのはすくんだからではない、観察するためだ。そろりそろりと明かりを向けると、光のもとにあってもなお黒い巨大な塊。

 上半身のシルエットは人だが、下半身は牛ほどもある蜘蛛だった。こちらに背を向けているらしく、歌声がそちらから聞こえる。

 乗は声をひそめて姉弟に訊ねた。


「あんたら、あんなのと戦ったのかよ」


 善根世よねせもこんな姿だったとしたら、違う意味で八尋が首を落としたのが信じられなかった。夜志高は「いや」と声のトーンを落として否定する。


「前はここまでヤバくありませんでしたね」

「うーんとね、たぶん白草さん、一回〝ねねさま〟の物になった魂を現世に返しちゃったり、他のを縛っているから、その反動で代償支払っているっぽい」

「マジか」


 もはや一刻の猶予ゆうよもない。乗は打ち合わせどおり前へ出た。


――おーよらせっせ、たまや、とーこーしょ

――おーよらせっせ、たまや、とーこーしょ


「八尋! 何してんだよ、こんな所で!」いつものように声をかける。


 親友がゆっくり振り返ると、その顔は知ったものではなくなっていた。髪の感じや輪郭は共通しているが、すべて黒に塗り潰され、そして。

 そして、鬼灯ほおづきのように輝く八つの眼が開いている。

 八対十六個、顔面の左右にそれぞれ弓なりに並んで、瞬き一つしない。人の顔と言うより果物の断面を思わせる。ああ、これはまさに、蜘蛛の眼だ。


 乾いた喉に落ちる唾は、潤うどころかこすれて痛い。


 腰を抜かし、悲鳴を上げて乗が逃げ出しても、誰にも責められないだろう。むしろそうすることの方が正しい気がする。すっかり感覚がバカになったようだ。

 八尋は自ら正気をかなぐり捨てたようだが、自分も正気ではない。

 それでも構わなかった。せめてこいつを、こちら側に引き戻したかった。


 きち、きち、かち、と硬質な音を立てて八つの脚を動かし、八尋は体全体で乗に向き直る。これが乗り物だったらユニークなのだが、それは腹の下からしっかりと繋がっていた。笑えない。まったくもって、笑えない。


「……乗? どうしてここに来ちゃったんだ」


 杭のように牙が並ぶ口から、やや不明瞭な発語が流れる。乗は大げさにため息をついて、わざとらしく腰に手を当てながら、日常と地続きのように告げた。


「おまえを迎えにきたに決まってんだろ、バカ野郎」

「そんなこと言ってない。嘘をつかないでくれ」

「は、え?」


 予想外の反応に乗はどもってしまう。言葉の意図を理解しようと試みたが、どう考えても前後の脈絡がつながっていなかった。


「その次の生がどうであろうと、すべての人はいずれどこかで神に捕まるオモチャさ。サイコロと同じ。この命は宝くじの景品なんだ」


 口を挟ませない勢いで八尋はまくしたてる。


「僕は百点を取って褒められたかったけど、すぐ飽きちゃったんだ。頑張って勉強している子や、両親には悪いことしたよ。でも赤点だらけのテスト用紙って面白くてさ、破くと水曜日になって、昨日は満月だった。すごいと思わないかい?」


 ケラケラケラ、と部品がきちんと接合されていない楽器のように笑う。


「宅配便がやり返したからイチゴが居座って詐欺だよ。ガソリンスタンドが的中して良かったけど、レボンボの骨を消毒して、風媒花が姑息な手段で百鬼夜行を始めたんだけれどどうしよう? やだな、こんなこと言わせるなんて恥ずかしいじゃないか」

「待て、待て、待てよ!」


 支離滅裂になっていく言動は、目の前で大切な思い出が朽ちていくのを見せつけられるようだった。知らない間にヒビが入っていた器が、突然ぱかりと割れてしまったような。当然あると思っていたものが、気がつくと取り返しのつかないことになって、自分を責めればいいのかさえ分からない、途方に暮れる心地。


 何十年後かには、母も年老いて痴呆を発症するのかと心配していたこともあった。親しい相手が壊れていく様を、こんな所で体験させられるとは。

 そもそもこれは、本当に八尋なのかと怖気が走る。


 自分の親友は蜘蛛の化け物ではない。

 こんな気の狂った話もしない。

 オレが会いたかったのはおまえじゃない!


「しっかりしろよ、八尋!!」


 先ほどまでは触れるのもためらわれた黒い塊の、肩とおぼしき部分を乗はつかんだ。ぐいぐいと揺さぶり、自分の方へ無理やり引き寄せる。

 その瞬間、蜘蛛の下半身がどうなっているのか気づいた。自然界に存在する節足動物とはまるで違う、人体のパーツを寄せ集めてそれらしく模した別のもの。


 脚は節くれ立った指や腕を継ぎ合わせたデコボコで、胴体は固く組み合わされた手だ。地面をきちきちと叩いていたのは、人の顔ほどもある巨大な爪。

 ある所にはばくりと大きな目が開き、またある所には石のように頑丈そうな黒い歯が並ぶ。醜悪で悪趣味で、だが、だからこそ、八尋が懸命に己をこの姿に作り変えた意図が伝わってきた。この地下を自分の巣にし、を封じるために!


「おまえは人間だろうが! こんな本の一冊もねぇ場所でバケモンになって、ずっと一人でいる気か? とっとと面白くもねえ穴蔵なんか出て、帰ろうぜ!」

「乗」


 白目も黒目もない十六個の赤が焦点を合わせる。声はおぼつかなく、夢かうつつか、ヒトかヒトでないものか、紙一重でその間を彷徨うようだった。


「それなら、君も、こっちに来たらいいんだ」


 めりっと音を立てて八尋が大口を開ける。比喩でなく顔の半分まで広がった口腔こうこうには、合わせ鏡のような入れ子の口と牙が無限に連なっていた。

 人だったころの面影は、もう塵一つも残っていない。

 恐ろしさよりも悲しみの方が乗の胸をく。この洞窟の外にはもう元の世界などなくて、すべてが滅んでしまったような錯覚。

 かつての日常など、決して戻ってこないのだと。


むこうて、こうべたれ。なくこ、やまこに、こうべたれ。かんにんかんにん、かんにんなあ」


 八尋の背後から、尾のように白銀の滝があふれ出した。抵抗する間もなく乗はそれに絡め取られ、ぎちりと身動きが取れなくなる。


「こうべをたれろ」


 地獄の底から響くような、こちらを押し潰さんばかりに重い声音だった。


「〝ねねさま〟にゆるしをこえ。あやまれ。あやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれあやまれ」


 首を、腕を、背中を、足を、縛りつける糸が肉に食いこむ。

 ただでさえ固まっていた関節が悲鳴を上げ、あちこちで服や肌が剃刀かみそりを押しつけたように切り裂かれた。糸があかを知り、乗の血潮をすする。


「ねんねんながら、ねんねがら♪ ねんねんながら、ねんねがら♪ ねんねんながら、ねんねがら♪ うちまき、ごくあげ、ねむきうえ、ねんねんながら」


 ねんねがらぁぁ――と歌が長く引き伸ばされ、八尋の延々と連なる口々の奥から、無数の指が伸びてきた。それは群生するキノコのように顔面を埋め尽くし、指の中からぼこりと、何本もの黒い手が出て乗の首を捕まえた。


――おぉよらせっせえぇたぁまやぁぁあああ、ねぇーんねさぁーまあああああああ


 その状態でも口がきけるのに驚きながら、乗は窒息の苦しみに耐える。息を吸うことも吐くこともできず、脳が頭の中で、風船のようにパンパンにふくらんだ。

 八尋の脚が糸の上から、こちらの体に狙いを定めるのが分かる。あの爪で串刺しにでもする気だろうか。それがおまえの本当の望みなのか?

 ここへ入った時、八尋は自分には決して攻撃を向けてこなかった。だが、もうその気も失せたのか。


(別にいいや。おまえに救われた命なんだからな)


 まぶたで異形の八尋を抱擁ほうようするように、乗は眼を閉じた。


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 パンッと二つの乾いた音が響く。


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 一つは乗の腕をかいくぐった夕起子が八尋の胸を。

 もう一つは後ろから近づいて背中に手を当てた夜志高の。

 病院を抜け出した時のように、姉弟はこの時のため隠形おんぎょうの術で機をうかがっていた。すべては乗が八尋の注意を引きつけ、二人の〝疼来帰〟が近づくためだ。


 神との契約が完了していた善根世と違い、八尋の誓文せいもんはまだ上書きされきっていない。だが大きく異形化が進んでいたのは予想外だったので、正直、賭けだ。


「あにはからんや、たれかな!」

「あにはからんや、彼は誰かな!」


 弟と姉、二人の声が稲光のように閃いた。

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