除霊(はらい)の章

弐拾捌 その唸りの名は

 見覚えのある病院玄関だった。自動扉ごしに照明が落とされた廊下と、茶色い革ソファの列、そして煌々と明かりが灯るナースステーション。

 詰めていた看護師がこちらに気づいて、「あら、じょう?」と声をかけた。


「かあさん」


 開閉をくり返すガラス戸の前から動かないでいると、「そんな所でどうしたの、こっち入って来なさいよ」と言われたので、足を踏み入れる。


「面会時間はとっくに過ぎてるわよ。誰か友達でも入院しているの?」

「ううん、かあさんにあいにきたんだ」


 怪訝な表情をする彼女の前で、息子の顔が崩れ落ちた。血が、肉が、液状化してみるみる腐敗し、頭に奈落のような穴が残される。

 丹村にむら里麻りまが口をきける胆力があれば、「あなたは誰?」と問うたはずだ。実際、白く握りしめられた手から、一本だけ人さし指が伸びている。


 里麻は震える腕を伸ばして、顔の無くなった我が子を指さそうとし――ガクリと、カウンターごしのまま昏睡に陥った。これが睡魔ねぶらまのなせるわざだ。

 そこでようやく、乗は気づいた。


 母が最期に見たものは、に奪われた己の半身そのものだったのだと。



「ウン」と力強いうなり声がして、熱い親指が額に押し当てられた。そのままぐいっと円を描かれると、電源スイッチが入ったように目が覚める。

 見覚えのない白い天井と、こちらを覗きこんでいる、どこか見覚えのある男の顔。確か――柊夜志よしたかだ。目を巡らせて、乗は病院のベッドに寝ていると気づいた。

 水色の患者衣を着せられ、点滴された半身を起こすと、「やっほー、起きた?」と女性の声がする。横を見れば、褐色の肌と長い金髪の女性、夕起子ゆきこがいた。

 彼女もピンクの患者衣を着て、点滴スタンドを引いている。


「どうも……あーっと、オレ……なんでここに?」

「フム。最後の記憶は覚えていますか?」


 夜志高が質問を質問で返してきたが、乗は素直に従った。

 確か……〝眠りの森〟から電話がかかってきて、八尋の所へ行こうとしたら偽物扱いされ、店の外に閉め出されて。それから。それから?

……それから。

……それから、それから、どうし


「ぁッ……ああああ!? うぅ、ううあああ、あ……ッああッ!!」


 バチン! と物凄い音がして、頭蓋を衝撃が貫いた。

 自分が強烈なデコピンを喰らわされたのだ、と理解が及ぶのに乗は数拍を要する。


「それ以上は思い出さない方がいいですよ。あっちの記憶を持っていると、また引きずられちまいますからね。このまま向こうのことはお忘れなさい」

「あ、ぁぁ……」


 何か恐ろしいことがあった気がするが、もう他人事のように綺麗さっぱり頭の中から消えてしまった。ほんの数秒で、患者衣が汗でぐっしょり濡れている。

 夕起子が感心した、という風に言った。


「すごいねー、白草しらくささん。ちゃんと丹村さんの魂返したんだ」


 夜志高が露骨なまでに大きく舌打ちする。


「姉さん、あんなのにさん付けなんてやめろって」

「でも、おかげであたしも目ぇ覚ましたじゃん」

「そうだけどよ」

「おい、おいおい」


 完全に置いてけぼりにされている乗は、兄妹の会話に割りこんだ。何が何だか分からないが、とてつもなく嫌な予感がする。


「八尋に……いや、八尋……何かしたのか?」


 思い出すのは『斧の話』の一件だ。

 自分が入院しているのがの仕業なら、事態を解決するために、また何らかの犯罪に手を染めた可能性がある。八尋はそういうヤツだと乗は知っていた。


「ええ、ええ、とんでもねえことしやがりましたよ」

「んー、でもどこから話したらいいかなー」


 柊兄妹も説明しあぐねているらしい。夜志高は煙草を吸いたそうに口元を押さえながら、熊のようにのしのしと室内を歩き回った。

 二周ほどしたところで、彼は窓辺にもたれて顔を上げる。


「あなたを襲ったは、七守ななかみやまの下に眠るねねという神さまに仕える、死霊のたぐいです。〝ねねさま〟には、長櫃ながびつ寝棺ねかんに生け贄を入れて捧げる儀式がありました。生け贄の成れの果てがです。ここまではいいですか?」

「はい」


 なんだか八尋とそんな話をしたような気がしないでもない。記憶がかなりふわふわしているが、そのうちシャッキリしてくるだろう。


「で……〝眠りの森〟の正体は、自ら〝ねねさま〟に仕えた善根世よねせしんという男でした。こいつがあの世が見える棺桶と称して、人を生け贄に捧げ、次から次へとを増やしていたんです。私は白草に、焼き印を一つと、全身の護り刺青とを入れて挑んだんですが」

「おい!?」思わず言葉を遮る。


 とんでもない単語がでてきて、乗はベッドから飛び上がりそうになった。


「焼き印って何してんだよあんた!?」

「合意ですし、麻酔していたから安心してください」舌打ちしそうな顔。

「そ、そうか。スカリフィケーションってことか? んで全身に刺青ってのは!? オレ、何年寝てた!?」


 あの八尋が刺青を、それもワンポイントではなく体全体にとは想像もつかない。しかも完成には、一年や二年は平気でかかる代物だ。


「大丈夫ですよ丹村サン、まだ今年の十二月です。私と白草は、二週間の強行軍で刺青を彫り上げました。おかげで善根世を制したわけですが」

「に、二週間……二週間!? あいつ熱出して倒れたりしてねぇ?」

「いや、けっこうタフでしたよ。我慢するのは得意なんでしょうね」


 そうか、と息を吐く。自分を助けるために、八尋はそこまで己を追いこんで、あんな得体の知れないものと戦ったのか。

 しかし夜志高が、苦々しげに八尋を呼び捨てにしているのが気にかかる。一体何が起きたのだろうか。その疑問は、予想を遙かに上回る答えで解かれた。


「無事に善根世を制圧できそうでしたが、本人の心を折ってあなた方の魂を解放させるには手間がかかる。長丁場を覚悟していたら、白草がね、善根世を殺しやがったんですよ。そしてそのまま、を統括する立場に成り代わった」

「は?」


 何を言われたか乗が理解できないでいると、夜志高は丁寧に解説する。


「白草八尋は、善根世伸の首を斧で落として、おさという座を奪い取ったんです。あなたや私の姉がこうして目を覚ませたのは、やっこさんの仕業なんですよ」


 耳のすぐ内側で心臓がガンガンと鳴っていた。

 みぞおちを打たれたように、声も上げられず乗は硬直する。やはり、という納得と、まさか、という否定が同時に来て、体内から左右に裂けるような気がした。

 そのまま五分ほど全員が黙っていたが、夜志高が再び口火を切る。


「というわけで、これから私と姉と、丹村サンとで白草を止めに行きます」


 はっと乗は顔を上げた。二週間寝たきりの体は、少なくとも三分の一ほど筋肉を失っている。骨からカルシウムが溶け出し、関節を動かすと痛みが出るだろう。

 それでも、悠長にしている時間がないことは乗にも分かる。まさか、今日にも行こうと言われるとは思わなかったが。


「酷なことだとは思いますが、夜明けまでに白草を正気に戻さないと、神さまとの契約が完了しちまいますんでね。今ならまだ間に合います」

「このまま病院を抜けだそうってか?」


 そういうことです、と夜志高はスツールに置いたスポーツバッグを開けた。


「何、堂々としてりゃいいんですよ。先頭を私が、後ろを姉が行きますんで、丹村サンは真ん中に入って歩いて下さい。絶対見つからず抜け出せますから」


 目くらましの術か何かだろうか。夜志高は「まあとりあえず着替えましょう」とバッグから取り出した服を手渡してくる。

 耳なし法一のコスプレかと思うような、般若心経柄の白いパーカーだった。

 今まであえて見逃してきたが、夜志高が今着ているニットは菩薩像風の猫がエレクトリックベースを抱えている図だ。可愛いとも格好いいとも言いづらい。


「……オレ、これ着なきゃダメ?」

「気に入りませんか。じゃあこちら」


 今度は地獄絵図柄だ。


「じゃあ、で出すものじゃねえだろぉ!」

「え? こういうの着てると気分アガりません?」

「アガらねえ!」

「このバカっ!」


 夕起子が弟の肩をスパーンと平手打ちする。おそらく頭を叩きたかったのだろうが、背が高すぎて届かなかったようだ。


「ヨシ、あんたスタジオで着てるようなの、持ってきてないの?」

「へいへい」


 黒地にトライバルパターンのタートルネックをよこされ、乗は安堵の息を吐き出した。タトゥーの腕は良いのに、なぜ服だとああなるのか。

 夕起子はバッグから自分の服を取り出し、「じゃ、あたしも着替えてくるね~」と病室を出て行った。乗はテープを剥がし、点滴針を引き抜く。


「夜志高さん、オレ思い出したことがあるんだよ」


 スツールに座って待つ夜志高に向かって、乗は話を切り出した。


「母が最期に見たものは、に奪われたオレの分身だった。あいつらに取りこまれると、自分が自分じゃなくなって、やりたくもないことをやらされる。夜明けが来て神さまとの契約が完了すれば、八尋はもう八尋じゃなくなるんだよな?」

「ええ」手短な肯定。


 ふつふつと、乗の腹でたぎるものがあった。

 何度も自分を騙し、翻弄してきたねぶらまは恐ろしい。何の疑いもなく信じていた記憶が偽りだったと思い知らされ、助けと思ってすがった糸は罠だった。


――こっちに来るな!! 金輪際何があろうとも、お前は決してここには入れない! 帰って、二度と近づくな!


 夜闇の中、明るく光が灯った乙夜いつやどう書店から向けられた視線が、自分を切り裂いた感覚。まだ、血が流れるように生々しく覚えている。


――乗? ああ、無事で良かった。こっちに君の偽物が来ているんだ


 あの時は己の存在自体が否定され、自分はもうこの世にいないのだと思った。自分が自分でなくなり、消えていくあの恐怖を、このまま親友に味わわせるものか。

 病み上がりだろうがなんだろうが関係なかった。己の半身が操られるままに母を襲い、凄惨な最期を遂げさせたようなことは、二度とさせない。


 恐怖は希望が残っているから生まれる。

 しかし、それが残骸などではなく確かな光ならば。


 心臓が狼のようにぐるるとうなり、胸を掻きむしりたい衝動が突き上げていた。

 内臓のすべてが震えて、今すぐ飛び出せと自分自身に命じている。その力は恐怖よりずっと強く、これ以上の惨劇を許すなと叫んでいた。


「だから、オレは必ずあいつを止めてやる」

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