除霊(はらい)の章
弐拾捌 その唸りの名は
見覚えのある病院玄関だった。自動扉ごしに照明が落とされた廊下と、茶色い革ソファの列、そして煌々と明かりが灯るナースステーション。
詰めていた看護師がこちらに気づいて、「あら、
「かあさん」
開閉をくり返すガラス戸の前から動かないでいると、「そんな所でどうしたの、こっち入って来なさいよ」と言われたので、足を踏み入れる。
「面会時間はとっくに過ぎてるわよ。誰か友達でも入院しているの?」
「ううん、かあさんにあいにきたんだ」
怪訝な表情をする彼女の前で、息子の顔が崩れ落ちた。血が、肉が、液状化してみるみる腐敗し、頭に奈落のような穴が残される。
里麻は震える腕を伸ばして、顔の無くなった我が子を指さそうとし――ガクリと、カウンターごしのまま昏睡に陥った。これが
そこでようやく、乗は気づいた。
母が最期に見たものは、ねぶらまに奪われた己の半身そのものだったのだと。
◆
「ウン」と力強いうなり声がして、熱い親指が額に押し当てられた。そのままぐいっと円を描かれると、電源スイッチが入ったように目が覚める。
見覚えのない白い天井と、こちらを覗きこんでいる、どこか見覚えのある男の顔。確か――柊
水色の患者衣を着せられ、点滴された半身を起こすと、「やっほー、起きた?」と女性の声がする。横を見れば、褐色の肌と長い金髪の女性、
彼女もピンクの患者衣を着て、点滴スタンドを引いている。
「どうも……あーっと、オレ……なんでここに?」
「フム。最後の記憶は覚えていますか?」
夜志高が質問を質問で返してきたが、乗は素直に従った。
確か……〝眠りの森〟から電話がかかってきて、八尋の所へ行こうとしたら偽物扱いされ、店の外に閉め出されて。それから。それから?
……それから。
……それから、それから、どうし
「ぁッ……ああああ!? うぅ、ううあああ、あ……ッああッ!!」
バチン! と物凄い音がして、頭蓋を衝撃が貫いた。
自分が強烈なデコピンを喰らわされたのだ、と理解が及ぶのに乗は数拍を要する。
「それ以上は思い出さない方がいいですよ。あっちの記憶を持っていると、また引きずられちまいますからね。このまま向こうのことはお忘れなさい」
「あ、ぁぁ……」
何か恐ろしいことがあった気がするが、もう他人事のように綺麗さっぱり頭の中から消えてしまった。ほんの数秒で、患者衣が汗でぐっしょり濡れている。
夕起子が感心した、という風に言った。
「すごいねー、
夜志高が露骨なまでに大きく舌打ちする。
「姉さん、あんなのにさん付けなんてやめろって」
「でも、おかげであたしも目ぇ覚ましたじゃん」
「そうだけどよ」
「おい、おいおい」
完全に置いてけぼりにされている乗は、兄妹の会話に割りこんだ。何が何だか分からないが、とてつもなく嫌な予感がする。
「八尋に……いや、八尋が……何かしたのか?」
思い出すのは『斧の話』の一件だ。
自分が入院しているのがねぶらまの仕業なら、事態を解決するために、また何らかの犯罪に手を染めた可能性がある。八尋はそういうヤツだと乗は知っていた。
「ええ、ええ、とんでもねえことしやがりましたよ」
「んー、でもどこから話したらいいかなー」
柊兄妹も説明しあぐねているらしい。夜志高は煙草を吸いたそうに口元を押さえながら、熊のようにのしのしと室内を歩き回った。
二周ほどしたところで、彼は窓辺にもたれて顔を上げる。
「あなたを襲ったねぶらまは、
「はい」
なんだか八尋とそんな話をしたような気がしないでもない。記憶がかなりふわふわしているが、そのうちシャッキリしてくるだろう。
「で……〝眠りの森〟の正体は、自ら〝ねねさま〟に仕えた
「おい!?」思わず言葉を遮る。
とんでもない単語がでてきて、乗はベッドから飛び上がりそうになった。
「焼き印って何してんだよあんた!?」
「合意ですし、麻酔していたから安心してください」舌打ちしそうな顔。
「そ、そうか。スカリフィケーションってことか? んで全身に刺青ってのは!? オレ、何年寝てた!?」
あの八尋が刺青を、それもワンポイントではなく体全体にとは想像もつかない。しかも完成には、一年や二年は平気でかかる代物だ。
「大丈夫ですよ丹村サン、まだ今年の十二月です。私と白草は、二週間の強行軍で刺青を彫り上げました。おかげで善根世を制したわけですが」
「に、二週間……二週間!? あいつ熱出して倒れたりしてねぇ?」
「いや、けっこうタフでしたよ。我慢するのは得意なんでしょうね」
そうか、と息を吐く。自分を助けるために、八尋はそこまで己を追いこんで、あんな得体の知れないものと戦ったのか。
しかし夜志高が、苦々しげに八尋を呼び捨てにしているのが気にかかる。一体何が起きたのだろうか。その疑問は、予想を遙かに上回る答えで解かれた。
「無事に善根世を制圧できそうでしたが、本人の心を折ってあなた方の魂を解放させるには手間がかかる。長丁場を覚悟していたら、白草がね、善根世を殺しやがったんですよ。そしてそのまま、ねぶらまを統括する立場に成り代わった」
「は?」
何を言われたか乗が理解できないでいると、夜志高は丁寧に解説する。
「白草八尋は、善根世伸の首を斧で落として、ねぶらまの
耳のすぐ内側で心臓がガンガンと鳴っていた。
みぞおちを打たれたように、声も上げられず乗は硬直する。やはり、という納得と、まさか、という否定が同時に来て、体内から左右に裂けるような気がした。
そのまま五分ほど全員が黙っていたが、夜志高が再び口火を切る。
「というわけで、これから私と姉と、丹村サンとで白草を止めに行きます」
はっと乗は顔を上げた。二週間寝たきりの体は、少なくとも三分の一ほど筋肉を失っている。骨からカルシウムが溶け出し、関節を動かすと痛みが出るだろう。
それでも、悠長にしている時間がないことは乗にも分かる。まさか、今日にも行こうと言われるとは思わなかったが。
「酷なことだとは思いますが、夜明けまでに白草を正気に戻さないと、神さまとの契約が完了しちまいますんでね。今ならまだ間に合います」
「このまま病院を抜けだそうってか?」
そういうことです、と夜志高はスツールに置いたスポーツバッグを開けた。
「何、堂々としてりゃいいんですよ。先頭を私が、後ろを姉が行きますんで、丹村サンは真ん中に入って歩いて下さい。絶対見つからず抜け出せますから」
目くらましの術か何かだろうか。夜志高は「まあとりあえず着替えましょう」とバッグから取り出した服を手渡してくる。
耳なし法一のコスプレかと思うような、般若心経柄の白いパーカーだった。
今まであえて見逃してきたが、夜志高が今着ているニットは菩薩像風の猫がエレクトリックベースを抱えている図だ。可愛いとも格好いいとも言いづらい。
「……オレ、これ着なきゃダメ?」
「気に入りませんか。じゃあこちら」
今度は地獄絵図柄だ。
「じゃあ、で出すものじゃねえだろぉ!」
「え? こういうの着てると気分アガりません?」
「アガらねえ!」
「このバカっ!」
夕起子が弟の肩をスパーンと平手打ちする。おそらく頭を叩きたかったのだろうが、背が高すぎて届かなかったようだ。
「ヨシ、あんたスタジオで着てるようなの、持ってきてないの?」
「へいへい」
黒地にトライバルパターンのタートルネックをよこされ、乗は安堵の息を吐き出した。タトゥーの腕は良いのに、なぜ服だとああなるのか。
夕起子はバッグから自分の服を取り出し、「じゃ、あたしも着替えてくるね~」と病室を出て行った。乗はテープを剥がし、点滴針を引き抜く。
「夜志高さん、オレ思い出したことがあるんだよ」
スツールに座って待つ夜志高に向かって、乗は話を切り出した。
「母が最期に見たものは、ねぶらまに奪われたオレの分身だった。あいつらに取りこまれると、自分が自分じゃなくなって、やりたくもないことをやらされる。夜明けが来て神さまとの契約が完了すれば、八尋はもう八尋じゃなくなるんだよな?」
「ええ」手短な肯定。
ふつふつと、乗の腹でたぎるものがあった。
何度も自分を騙し、翻弄してきたねぶらまは恐ろしい。何の疑いもなく信じていた記憶が偽りだったと思い知らされ、助けと思ってすがった糸は罠だった。
――こっちに来るな!! 金輪際何があろうとも、お前は決してここには入れない! 帰って、二度と近づくな!
夜闇の中、明るく光が灯った
――乗? ああ、無事で良かった。こっちに君の偽物が来ているんだ
あの時は己の存在自体が否定され、自分はもうこの世にいないのだと思った。自分が自分でなくなり、消えていくあの恐怖を、このまま親友に味わわせるものか。
病み上がりだろうがなんだろうが関係なかった。己の半身が操られるままに母を襲い、凄惨な最期を遂げさせたようなことは、二度とさせない。
恐怖は希望が残っているから生まれる。
しかし、それが残骸などではなく確かな光ならば。
心臓が狼のようにぐるると
内臓のすべてが震えて、今すぐ飛び出せと自分自身に命じている。その力は恐怖よりずっと強く、これ以上の惨劇を許すなと叫んでいた。
「だから、オレは必ずあいつを止めてやる」
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