弐拾漆 鬼さんこちら、手の哭(な)る方へ
暦は十一月から十二月に変わっていた。冷えこみはますます厳しく、
誰の手によるものか、石碑の下はまた塞がれていた。例によって
「ああ、気にしなくていいですよ、
「えっ」
「たぶん
夜志高が早く行けと背中を押すので、八尋はマグライトをつけて階段を下りた。
なるほど、前回は照明が届かない範囲は完全な闇だったのに、今はうっすらと岩肌や地面の様子、そして
だが、それだけではない。
ある所には骨だけになった川魚が宙を泳ぎ、ある所では喪服着物の女たちが縄につながれて列をなし、ある所では注連縄を巻かれた岩や黒いゴミ袋が転がる。
(こんな物の中を歩いていたのか……)
腹が冷たさできゅうっと縮まるのを感じながら、八尋は前へ進んだ。今度は新しく買った手斧に、夜志高から加護を授けてもらっている。
あの男の手で取りこまれ、ねぶらまとなった人々の成れの果ては、無抵抗にかき分けられた。善根世に命じられない限りは手を出してこないらしい。
「さて、最初のお参りスポットですね」
フロアを一つ下りると、以前は気がつかなかった平石の台があった。
八尋はリュックサックからナイロンに袋に包んだ豚の頭を取り出す。夜志高が精肉店で仕入れてきたものだ。これだけで十キロ近くもあり、相当重い。
〝ねねさま〟は人や獣の首を欲しがる。自分たちは神を冒涜しに来たのではないと、改めて礼儀を尽くすべく供え物を用意した。
石台の中央に生首を置き、清酒、生米、塩などを盃に入れて供える。
「ねねさまの、いたらぬさとは、なけれども。ながむる人の、心にぞすむ」
「ねねさまの、いたらぬさとは、なけれども。ながむる人の、心にぞすむ」
二人で
闇が見通せるようになった洞窟内は、まさしく魔界だった。
ペンキで塗ったような平たい眼がいくつも岩肌に開き、ぎょろぎょろと
ぬるりと、あちこちにある岩の割れ目から、人の身長より長い手が伸びて自分たちを指さす。首から鴉の群れを生やした男とすれ違う。手足や首の縮尺がおかしい人間がうろうろしている。白い砂利があると思えば、それは全て人と獣の歯だった。
夜志高さん、と八尋はたまらず声をかける。
「なんですか」
「前来た時も、あなたはこんな中を平気で進んでいたんですか?」
「まー、ここまで賑やかなのは珍しいですが、慣れていますからねえ」
そういうものか。しかし思い返せば、八尋自身も怪異のいる日常に馴染んできてしまった。夜志高にとってこれがほぼ日常なら、適応せざるを得ないのだろう。
ふわぁ、と八尋は気の抜けたあくびをした。
こんな所で我ながらのんきなものだ、と呆れてしまう。腹にはまだあくびの素が溜まっていて、温かい湯に浸かるようなふわふわした心地だ。
「白草サン!」
ばしんと背中を叩かれると、頭の中のもやが晴れた。
「敵サンがいよいよ仕掛けてきましたよ。気をしっかり持って下さい」
「は、はい……!」
棺に入っていない者への干渉、文字通り
背筋が冷えると同時に、乗の苦しみを思うと胸が苦しい。八尋はリュックサックからエナジードリンクを取り出し、一気にあおった。
普段こんなものは口にしないのだが、今日は特別だ。朝もすでに一本飲んできた。
先へ進めば進むほど、眠気は鈍痛となって頭に重たくのしかかる。八尋のみならず夜志高も辛いらしく、首を振り、額を叩き、目をこすっていた。
脳が
顔の筋肉がゆるんで、八尋のまぶたが落ちかかった。
(……ダメ、だ……意識が、……もうろうと、し、て……)
沸き立つ血の熱が脳を覚醒させ、全身の輪郭をハッキリさせる。存在があやふやだった地面に、きちんと自分が足をつけて立っていることを思い出した。
流れこんでくる熱は背中から――夜志高の手のひらだ。
「今のはちっと、危なかったですね」
どうやら、八尋に彫った御誓文を再び活性化してくれたらしい。夜志高もさきほどより、しっかりした様子だ。言いかけた礼を、犬の吠え声が遮る。
おぉぉん! という鳴き声は複数の群れであることを悟らせた。
以前と違い、八尋は闇の中を走るラブラドール・レトリーバーと、それに付き従うさまざまな犬の姿が見える。柴犬、ドーベルマン、チワワ、スピッツ等など。
「うわぁ――ッ!」
八尋は手斧を振り回した。刃に当たった犬のねぶらまたちが、風船が割れるようにぱちんと雲散霧消する。断末魔さえなく、幻のようだ。
ばら撒かれたお札が、一つ一つ意志を持ったように犬たちの頭部に貼りつき、くしゃっと姿をかき消す。前回の敗走で、夜志高はこんな風に追っ手を倒したのか。
斧と札をかいくぐった一匹が八尋の腕に噛みついたが、がちん、と金属を噛んだような音がして歯が立たない。御誓文が鎧のように体を守っている。
多少の怪我を覚悟していた八尋は、勢いを得て冷静に犬たちの急所を狙っていった。鴉や猫、猿や狐や狸や
格闘していたのは十分ほどだっただろうか。虫の群れを夜志高が数珠でなぎ払い、ようやく辺りが静かになった。二人背中合わせで様子をうかがう。
「さて、兵隊も尽きたんじゃないですかね、善根世サン」
夜志高の挑発に、闇からにじみ出るように男が姿を現した。以前と同じように秋物の黒い服で、吐く息が白く曇ることもない。
岩石の上に腰かけて、片膝に顎を乗せながら、善根世
「さて、困りましたねえ」
困っていなさそうな声音だが、余裕ぶっているだけのようにも見える。ぐう、っとまた頭が重くなったが、八尋は腹から気合いを入れて耐えた。
「これもダメか」
善根世は舌を打つ代わりに指をはじく。もはやこの程度の
「観念しなさいな、善根世サン」
「しなければどうだと?」
岩石から下りて、善根世は両手を広げながらこちらに近づく。
「ぼくを殺しますか? でも、柊さんには無理でしょう。そんなタブーを犯せば、あなたは神罰で死ぬ。ぼくはまだ一応人間ですからね、これでも」
どうやら夜志高に入っている御誓文は、八尋よりさらに強く、厳しい物らしい。
「言っておきますが、ぼくは〝ねねさま〟の物なので、契約を反故にすることはできませんよ? 自分から解くことはもちろん、仕えることもやめられません」
「ま、そのへんの相談は上へ出てからにしましょうや」
にじり寄る夜志高を押しのけて、八尋は前へ出る。
「僕の家族と、友人を返してくれ」
「無理です」
「……できないはずがないだろう!」
八尋の手が震え、斧の柄といっしょに握りこんでいたマグライトが落ちた。
固い地面の上を跳ね、ちょうど夜志高の方へと転がっていく。彼は数珠を一旦下ろして、「何やってんですか」と背を向けた。その、瞬間。
(今だ)
八尋の斧が善根世のこめかみを叩き切った。
卵が割れるように顔が歪み、砕けた骨が刃とこすれて軋む感触がする。
黄身のように中身がトロリとこぼれ落ち、抜いた斧に血と髪の毛が、ぞろりとすがりついた。どう見ても致命傷だ。
マグライトを拾った夜志高が、あっと声を上げるのが分かった。
――こうべをよこしてくだしゃんせ
何かが八尋にささやきかける。
(これだ、これを待っていたんだ!)
夜志高は勘が鋭い。むしろ霊能力でこちらの心を読んでいるだろうと、八尋はもはや疑いもなく信じている。だから、この計画はずっと心の奥底に秘めていた。
言わば自己暗示だ。
マグライトを彼の方へ落とす、それをトリガーに全てを思い出し、行動に移すよう、己に言い聞かせ続けた。そして柊夜志高と善根世伸を出し抜いた!
――おんたまよこしてくだしゃんせ
言われるまま、八尋は善根世の首を斬り落とす。
――なむ、おんたま。なむあみだ、あたま
血に濡れた眼球が、信じられないというようにこちらを見上げている。
「白草ァ!? てめぇ!!」
夜志高の怒号はもはや耳に入らない。
既に周りには洞窟の暗がりとは違う、質量を持った闇が立ちこめて、彼が近づくのを阻んでいた。そして自分は、向こうに拒まれていないらしい。
〝ねねさま〟は順番にねぶらまを食べる。
そこに順序があるというなら、善根世をこの手で殺せば――契約は反故にできなくとも、その立場に自分が「成り代わる」こともできるのではないか?
そうでなくとも、夜志高も言っていたではないか。神はどうにもできないが、実際に害を及ぼしている人間の方をどうにかすればいい、と。
だから善根世を殺し、自分がその立場を引き継ぐ。
「ねんねんながら、ねんねがら♪」
八尋は斧を放り捨てて、真新しい生首を頭上に掲げた。体に何か黒いものが侵入し、御誓文が新しい力で染め上げられるのを感じる。
「白草ァーッ!! よせ! そっから先は地獄だぞ!」
夜志高に止められる前に、すべてを成し遂げるのだ。
「ねねさま! ねねさま!」
八尋は髪を振り乱し、口角泡を飛ばしながら叫んだ。
「これより白草八尋が、善根世伸に代わってねぶらまとなり、
喉も裂けよと声を振り絞り、力の限り肺の中身を嘔吐する。八尋の声は洞窟内に反響して、くり返し駆け回った。そこに獣や鳥の声が混ざってくる。
――ふ、ふ。
善根世の首から、笑うような音と血の滴が落ちた。
舌を伸ばして、頬を濡らすそれを舐め取る。これでいいのだ、自分がねぶらまを統括する立場に就けば、乗も、家族も、解放できる。
自身を呑みこむ闇と浮遊感を、八尋は心地よく受け容れた。
◆
落ちていく。
◆
落ちていく。
◆
落ちていく。
◆
宇宙のような暗黒の中、星のようにぽつりと白木の棺が浮かんでいた。蓋を開けると、真っ白な百合や菊に包まれた
「やっと見つけたよ、乗」
それがすべてだった。
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