弐拾陸 七つ峰々うねうねと、もごよきのおおかみ
初めて、針が入る。
初めて、墨が入る。
食い入った針先が噴き出る血を押さえて、ようやく墨が刺される。
柊家の祭壇前、布団の上にうつ伏せて、
『
施術の前、
何より、
皮膚を弾くように針を抜く、チャッという音がして、夜志高が口を開いた。
「まずは一刺し。これは、もう後戻りのない〝決定〟です。寄生虫が宿主を食い荒らすように、刺青は刺された者を食い荒らし、呼吸し、成長し、変化する」
夜志高は次の一刺しを止めて話し続ける。
「言ってみりゃ
脅すような物言いにはウンザリだ。八尋は一刻も早く御誓文を完成させて、あの
「続けて下さい、最後まで」
彼にしてみれば、熟慮せず大きな刺青を入れてもらおうとする客に、思う所はあるのかもしれない。
「無粋でしたね……では」
再び針が下りる。尖ったものがぐっと皮膚を押し、ぶつんと穴が開く瞬間の戦慄、遅れてやって来る鋭い痛みと熱。
八尋はできるだけ全身の力を抜こうと試みた。だがそれとは裏腹に、怖くて怖くて細胞の一つ一つからビクビクしている自分がいる。
一個の体に二つの自分。そういえば乗が言っていた、「刺青は自分の体を一度取り出して、また戻すような感じだった」と。
毛穴から流れる汗が、血や墨を滲ませるのがぼんやりと分かった。
力を抜けと自分に言い聞かせるが、刺される針、抜かれる針、下りてくる針に対して、体がどうしても固まっていく。痛みよりも恐怖が問題とは思わなかった。
逃げたい。痛い。怖い。だがこれらと取っ組み合って、戦うのが刺青そのものだ。ほんの数回針を受けて、八尋は実際的な彫りというものを理解させられた。
一時間、二時間。夜志高が「今日はここまでにしますか」と言った時、八尋は休憩を挟んで続けることを主張した。それをくり返すこと三度。
最後の方で、八尋はがくりと眠りに落ちていた。心地よくて寝たわけではない。苦痛と恐怖に耐えるため、張り詰め続けた気力がとうとう限界を迎えた、一種の気絶。
初回から、六時間もの間夜志高は彫り続けた。
◆
「刺青ってのは人体にとってカサブタみたいなものです。その保護シートは半日つけておいてください、もちろん
その他、長時間湯船に浸からないこと、できるだけシャワーで入浴を済ませること。風呂から出たらよく水気をふき取って、ワセリンを塗ること。長く水に濡れたり、激しい運動で汗をかくと化膿しかねない、などなど。
夜志高から浴びせられる注意事項の数々に、八尋は首振り人形のようにうなずいた。これを怠ると、インクが落ちたり絵が欠けたりするそうだ。
ドイツでは「刺青は体機能を下げると」いう論文が発表されたが、刺青と皮膚機能の関係はまだまだ不明なことが多い。
厳密には医療行為であり、医師免許を必要とする刺青だが、医学の分野ではさほど注目されなかったため、研究が進んでいないのだ。
八尋が調べた限り、一度に広い範囲に刺青を入れると全身症状を訴えることがあるとが分かった。全身の倦怠、食欲不振、疲労、頭痛、口の渇き、激しいときは発熱、
無論、八尋に死ぬつもりはない。市販薬の副作用一覧だって長々と症状が書かれているが、その全てが起きるとは限らないものだ。
刺青した皮膚は触覚や温度感覚が鈍くなるとか、汗腺の機能が阻害されて夏は暑さに、冬は寒さに弱くなるともあったが、まったく正常という話もあり、定かではない。であれば、どう心配しても仕方がないだろう。
三時間、四時間から連続で彫って、休憩を入れ、また彫る。少ない日で六時間、多くて八、九時間もぶっ通しで彫ると、終わったら二人とも寝入ってしまう。
自然と八尋は夜志高の家に連泊することとなった。一日の三分の一を施術に費やしては、とても店を開けられる状態ではない。
ある時は噛みしめていた布団がよだれでグシャグシャになり、「喉に詰まったらどうすんですか」と夜志高に叱られた。
ペットホテルの延長手続きを済ませたり、家に自分の荷物を取りに行ったりしながら、八尋は来る日も来る日も針を受ける。
刺青と睡眠の合間に、八尋は柊家の家事に手をつけた。掃除や洗濯、食事を夜志高と交代交代でやっていく。
参ったのは、家主がやたらと八尋に量を食べさせようとすることだ。食べても食べても、わんこそばのように勝手におかわりをよそってくる。
「……僕を肥えさせて、刺青が歪んだら……どうするん……ですか」
「その時はその時で手直しすりゃいいんですよ。あんたもうちっと、
「えぇ……」
コロッケそばのコロッケ、ピーマンの肉詰め、具入り合わせ調味料のかに玉、鶏肉のマヨネーズとポン酢炒め、白米、とにかく何でも腹九分目半は食べさせられた。
廊下にはミカンが箱で置かれており、好きに食べていいと言われたが、食事の度にこれではとても手を出せない。確実に自分は太るだろう。
元から小食の八尋は、出された食事を残すこともできず、必死に口へと詰めこんでいたが、ある日ふと気がついた。
(箸の使い方が綺麗だなあ)
茶碗の持ち方、箸の持ち方運び方、それらの所作が夜志高はやたらと美しいのだ。そういえば初めてお札をしたためていた時も、見事な立ち居ふるまいだった。
姉のことを「あねさま」と呼んでいたし、霊能者として敬虔な姿勢も含めて、古い伝統を守っている家なのだな、ということを改めて感じさせられる。
「あまり人の食べている所を、ジロジロ見るもんじゃないですよ」
食事中に会話しないというルールがあるため、食後に夜志高からたしなめられてしまった。昼食を終え、一休みしたらまた施術開始だ。
「……そういえば、
嫌でも慣れてくるもので、八尋は針を受けながら会話する余裕が出来てきた。
「それを利用して、彼を……封じこめる、ことは、できない……でしょうか?」
「無理ですね」
チャッチャッチャッと針を抜き差ししながら、夜志高は面白くなさそうに答える。
「あの御仁は、あっちの神さまに上書きされちまっているんです。ああなったら、私らでも再利用はできません。ので、
さすがに神が相手では分が悪いわけか。
そんな話をしている間にも、施術は続く。
(よく考えたら、何だろうなこの状況)
八尋はこんなにも長期間、一人の相手に肌をさらし続けたことはない。
しかも夜志高の手は針で、あるいは使い捨て手袋ごしに、すみずみまで体の上を何度も何度も往復する。それはもちろん墨を刺し、針が立つよう肌を張るためだ。
最初の内は、恐怖と苦痛で気にならなかった。痛みは慣れたと言えば慣れたが、まったく平気になったわけではない。快楽でもない。
ただ、越えるべきハードルとしての痛み。乗り越えれば、この苦しみが価値あるものに変わる。それは肌の上にはっきりと現れるのだ。
尻を彫られる時は、場所が場所だけにかなり緊張した。
それから足、横たわって側面、また逆側面、そして仰向け。仮に顔に刺青されるとしたら、自分はその針の恐ろしさに耐えられるだろうか、と八尋は想像してみる。
正面から見た施術中の夜志高は、無心に頂上を目指す登山家のように、己と戦う者特有の澄み切った表情をしていた。真剣なと言うより、悟りの境地の面持ちだ。
下絵を転写しながら、彼は慎重に八尋に合わせて手を加えていった。
人体は複雑なもので、へそは必ず中心にあるとは限らないし、乳首だって左右の位置がそろっているとは限らない。それを繊細に探りながら、ここと決めて刺していく夜志高の様子は、テーラーメイドの服をあつらえているかのようだ。
室内の温かさのように、屋外の寒さのように、痛みは常に空気のように八尋にまとわりついた。針を刺される瞬間の痛み、施術が終わった後の痛み、うずき。
苦痛に反応して、わっと飛び出そうとする獣のような、原始的な部分が自分の中にあるのを感じる。無意識に滂沱と涙を流す日もあれば、ほとんど気絶している日もあった。これに比べれば――麻酔もあったとはいえ――十秒で終わった焼き印はなんと楽だったことか。八尋が音を上げれば、夜志高は施術をやめるだろう。
それだけは避けたかった。
◆
「今日は休みにしましょう。いい加減、お互い疲れを取らないと差し障ります」
という夜志高の宣言で、一方的に休日ができた。彫り始めて一週間、背中側がだいたい形になったころだ。外の雪もずいぶん積もってきた。
「夜志高さん……何してるんですか?」
普段、米は炊飯器で炊いている柊家だが、土間には昔ながらのかまどがある。夜志高はマスクと手袋、帽子に防水エプロンの完全防備で、木を燃やし始めた。
「こいつの灰で墨を作るんですよ。白草サン、マスクつけないままこっちに入らないで下さいね。滅菌ブレンダーを使いますが、雑菌入ったら困るので」
「はい」
灰と焼酎があればタトゥーインクができるそうだが、アルコールが皮膚に入っていたのかと思うとゾッとする。まあ御誓文にはもっとよく分からない、秘密のレシピで調合したものが使われているのだが。
雪かきでもしようと思ったが、連日の施術でダメージを負っているためか、八尋はすぐにへばって布団に横たわった。もはや縦になるのも面倒くさい。
その日の昼は他人丼(豚玉丼)だっただろうか。互いにどてらを羽織って、コタツに足を突っこみながら昼食を取ろうとしていた時だ。
玄関の方から、朗らかな女性の声がした。
「たーだいまー。ヨシー、開けてー」
彼女は意識を失ったまま病院で寝ていて、退院するという話は聞いていない。夜志高は呪文を唱えるわけでも数珠を握るわけでもなく、黙々と
八尋もそれに習う。ふわふわ、とろとろの卵が出汁の効いた薄切り玉ねぎと豚バラ肉と合わさり、白米がいくらでも進む、優しい味わいだった。
「ヨーシー? お姉ちゃんだよー。帰ってきたのにー」
夜志高はテレビのリモコンを押した。この家では食事中に観ないというルールになっているが、あえてそれを破っている。
チャンネルはお昼の情報番組だった。芸能人とレポーターが町の美味しい店を紹介している。ちらっと流れた砂肝の唐揚げが美味しそうだった。
『ねえ、入れてよ』
テレビに映る若手女優の口から、夕起子の声が出る。
『あたしの家なのに、何で入れてくれないの? ねえ、どうして? ヨシ、高校に上がる前、ととさまとかかさまがいなくなって、あんたを立派に育て上げたのはあたしでしょ? ひどいよね。謝ってよ。謝れよ。あやまれあやまれあやまれあやまれ』
番組自体は正常に進行していた。お笑い芸人がにぎやかしをし、お店とメニューを紹介、実食で食レポをする。その間中女優はこちら側を凝視し、夕起子の声でしゃべり続けていた。他の出演者はその様子に気づいてもいないようだ。
夜志高はテレビを消し、「何も言うな」と目で八尋を制した。
丼はこの短い時間で少し冷めた気がする。そのせいか、少し味けがない。美味しいには違いないのだが、舌の上に乗る米と具は急に油が固まった感じがした。
食べ終わるころには、来訪者の気配は去り、その日から八尋の父が、母が、弟が、乗が、代わる代わる訪ねてくるようになった。だが、それだけだ。
「所詮、送りびつに入っていない者には手出しできないんでしょう」
従って、棺に入りながら完全に取りこまれなかった乗は、かなりイレギュラーの状態だったらしい。彼らの戦略は一人送りびつに入れて、そこから親類縁者陥れていくというものだから、正体が分かっていれば焦ることはなかった。
そして御誓文が完成する日が来た。
「白草サンの背中に入っているのは、
「もごよき……?」
「
なるほど、オオナムチは蛇体もしくは龍体を有する龍蛇神とする説もある。龍や蛇などのうねりながら行くさまを、「もごよか」と言う所から来ているのだろう。
夜志高らがこれまで唱えてきた呪文には「大神」という単語が登場したが、逶迤大神のことだったというわけか、と納得した。
上半身だけ脱いだ八尋の背中に、夜志高は素手で触れる。
「嵐ぞ
手のひらは動いていないのに、背中をドンッと叩かれたような衝撃が貫き、カッと体が熱くなった。全身の血管に稲妻がほとばしった気分だ。
言われなくとも、これが〝完成〟だと分かる。
彫り始めてから、二週間が経っていた。
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