禍狂

弐拾伍 後悔は深淵に沈めて

「うっ!? ぐ、あ゙あ、っい……痛……ぁっ……っがああぁぁっ!!」


 灼熱の痛みと猛烈なかゆみに、八尋やひろはもんどり打って倒れる。手斧が洞窟の地面を跳ねて、暗闇の方へ転がっていってしまった。


 右頬、左腕、背中、腰、右脇腹、いくつもの箇所に激痛が走る。切られるのとも刺されるのとも違う、BB弾のようなものが肉を穿ち、そのまま傷口を食い荒らそうとしているような。生理的嫌悪感に皮膚があわ立ち、八尋は痛む所をこすった。

 ぬるりとした感触がして、鉄錆の臭いがする液体がつく。闇に眼が慣れたのか、液体の中に米粒のようなものが動いているのが分かった。


 蛆虫うじむしだ。


「あ、あ、あああああッ!! いぎゃああああっッ!!」


 地を転げ回って八尋は体中を掻きむしった。自分がどんなひどい姿になっているかと思うとゾッとする。吐いたらまた、さっきのように百足が出て来るのではないか。

 冷たい手はなおも体を触る、髪を引っぱる。

 かはぁぁ……と、顔に生臭い息が吹きかけられ、その箇所も内側からぶちぶちと何十という虫に食い破られる感触がした。悲鳴はもはやかすれ声になる。


(落ち着け、僕には焼き印もある、さっきの百足だって幻覚だった。これもそうだ、騙されるな、痛いのも気持ち悪いのも全部幻だ、幻なんだ!)


 だが五感すべてが、これは現実だと八尋に迫った。

 幻だと言い聞かせながら転げ回るのも矛盾しているが、頭と体を両方動かし続けていないと、どうにかなりそうだ。今すぐ意識を失ってこの苦しみから逃れたい。

 ふっと体が浮かび上がる。体からボロボロと砂粒のようなものがこぼれ落ちて、痛みが急速に消えていった。夜志よしたかが八尋を抱え上げ、肩に担いだのだ。


「逃げますよ、白草しらくさサン! ったく手間のかかる!」

「すぁ、う、あぅ」


 すみません、という言葉すら出せない。ウォウン! と犬の吠え声がし、夜志高が舌打ちしながら地を蹴った。闇の中、猟犬の姿は見えない。

 八尋は夜志高の背にもたれる形で担がれている。彼がお札とおぼしき紙切れを背後に撒き、キャイン! と犬が鳴くのが分かった。


(お札で足止めできるなら、普通の犬じゃないのか)


 善根世よねせという男が人のなら、今追ってきているのは犬のになるのか。体から蛆が消えて、八尋はだいぶ冷静さを取り戻していた。


「よ、夜志高さ、自分で、あるっ」

「舌噛みますよ! 黙って担がれててください!」


 言われた端から本当に噛んだ。言外に足が遅いと言われてしまったなと思いながら、口の中に血の味が――泥の味が広がる。

 吐きそうになって口を開けたタイミングで、和紙が口に突っこまれた。夜志高のお札だ。泥の味が消え、吐き気が止まる。


 夜志高は八尋を担いだまま洞窟を走り抜け、階段を上がる。目の前に、縄で吊された生首と髑髏がぶら下がった。人、犬、猿、猫、さまざまな種類がある。


「無理苦理通してやり通し、うっとうしきは悪の気ぞ!」


 八尋が悲鳴を上げて手で払っていると、夜志高が一喝して首を吹き飛ばした。片手で大の男を抱えたまま、腕に巻いていた数珠を再び握る。


「おーおそろしや、おとろしや! やれおそろしやおとろしや! 上下二段と申すぞよ! 三段二道は道反ちがえしの大神おおかみが慈悲、塞坐黄泉戸よみどにふさがります大神おおかみが慈悲と申すぞよ!」


 じょうの憑き物落としをした時の呪文だ。ばちばちと、傘にあたったひょうが弾けるような音がひっきりなしに響く。何らかの攻撃に夜志高が霊力で対抗しているのか。


さえ双神そうしんみまかりて、奈落の口き牙剥くと知れ。出てこぬように祈るぞよ、出てこぬように祈るぞよ! 神が人さま祈るぞよ! 面白や、やれ面白や、面白や。魔の根絶し面白や! ご容赦一切いたさぬぞ、魔は一切灰となり、影さえ落とせん日といたす! これにて一切お出直し、やめるわけにはいかんぞよ!」


 鴉の羽ばたきと啼き声、獣の吠える声、虫の羽音。ダカダカダカと階段を駆け上り、八尋は激しい揺れで酔いそうだった。もう半分えずいている。


「魔の眷族わかりたか、聞こえぬこととは言わせぬぞ!」


 闇が晴れた。

 きんと乾いた冬の冷気が心地よい。夜志高は石碑の下を塞ぐこともせず、そのまま山を駆け下りた。ワゴン車の後部座席を開け、手荒く八尋を放りこむ。

 彼はお札の束を投げ渡して運転席に乗りこんだ。


「橋を渡る時、そいつを後ろにばら撒いてください!」


 急発進され、八尋は返事する間もなく座席から転げ落ちる。かなり乱暴に扱われたが、助けられた感謝と相殺され怒る気にも喜ぶ気にもなれなかった。

 散らばったお札を拾い集めて、八尋は窓を開ける。歌のような、吠え声のような、きんきんと甲高い声が車内に入りこんできた。


 夜志高は運転しながらずっと呪文を唱えている。雨が降っていないのに、ばちばちと何か小さな群れが車体を叩いていた。

 橋に差しかかり、八尋は言われた通りお札をばら撒く。紙吹雪は空中でクシャッと潰れ、散り散りにちぎれて消えていった。それを最後に、不愉快な声も音も消える。


「……やっと振り切りましたね」


 橋を渡ると夜志高は呪文を終え、八尋は息を吐こうとして、口いっぱいにお札が詰めこまれたままなのを思い出した。ビニール袋によれて濡れた残骸を片付ける。

 百足や蛆がまだどこかにいるのではないかと、改めて自分の体をまさぐった。もちろん何もなかったが、あのおぞましい感触は、何度思い出しても身震いしてしまう。


 蛆というものは健康な肉は食べない。

 つまりあの幻覚に囚われた自分は、生きながら腐敗していたというわけだ。今さらながら、自分が食べた物が腐っていくことに戦慄していた乗の気持ちがよく分かる。

 気持ちを静めている内に柊家に到着し、二人は無言のまま居間で一休みした。


「善根世でしたか、あの御仁。どうやら長らく冥府魔道に踏みこんで、堕ちる所まで堕ちたのがあの姿みたいですね」


 急須から熱い緑茶を湯呑みにそそぎ、八尋に勧めながら夜志高は説明する。実際に善根世伸と相対して「見えた」ことを。

 小学校時代の交通事故、失明、それをかたわらで見守る父親の霊。夜志高の父・竹叢たかむらが刺青を入れて除霊したこと、その結果、善根世が母親と継父を殺害し、あの地下で偶然にも愛犬を贄に捧げ、ねねの手先になったこと。


「偶然にしちゃ、できすぎています。魔に呼ばれてしまったんでしょうね」


 そう言って夜志高は話を締めくくった。疲れもあるのだろうが、不味そうに煙草を吸う様といい、何とも不機嫌な顔だ。


「……あの、考えたん、ですが……」


 緑茶をすすって、八尋は提案をスマホに打ちこむ。


『僕に誓文せいもんを彫っていただけませんか。刺青は結界の体だ、古墳の副葬品にも、刺青された土偶が発見されている。刺青を彫った身体で囲えば、そこが結界になるはずです。僕みたいな素人でも、あなたが彫ってくれれば戦力になれるはずだ』

「戦力ねえ」


 夜志高は煙草を吸って考えこんだ。「まあ確かに、いないよりはマシですけど」と紫煙を吐き出す。


「実際、私もあれを一人で相手するのは面倒だ。ほぼ全身に彫るとして……まあ、ざっと七十から百五十時間。あいにく私の技もタダじゃないんでね、その分の料金はいただきますよ。まずは前払いで一万円、あります?」


 八尋は即座に支払った。


「よろしい。御誓文は専用のインクと合わせて少し割り増しになるんですが、丹村にむらサン用に仕入れた在庫もあるし、姉も助けたいので、通常料金にしておきます」

『そのインクって何が普通のと違うんですか?』

「ベースは手製のタトゥーインクですが、そこに獣の胆汁やら植物油やら薬草やらを混ぜた品ですね。レシピは企業秘密ですが」


 そういうよく分からないものを体に入れるのか。やや不安になる八尋の気持ちを知ってか知らずか、夜志高は詳しい説明をした。


「まずは下絵の作成からなので、施術には少しかかります。それと、御誓文には中心になる〝心臓〟があって、そこを完成させて最後に気を入れるまでは、普通の刺青と変わりゃしません。あと、図案に応じたタブーを背負うことになります」

「……タブー?」

「今の段階ですと……蛇を殺すべからず、鏡を夜に覗くべからず、覗いた場合は鏡に向かって塩を撒くべし、が確実ですね。実際はもう少し増えるでしょう」


 そのぐらいなら守れそうだ。タブーを破った場合は御誓文の効力が無くなるとのことなので、この事件を片付けるまではよくよく肝に銘じておこう。


「一応、見本をお見せしましょうか」


 夜志高はやおら立ち上がり、服を脱ぎ始めた。元より体格の良い男だが、裸になるとさらに元の印象より筋骨隆々の肉体が現れる。

 筋肉量で言えばじょうより多いだろうが、本質はそこではない。

 骨組みから広々とした体を作られているのはもちろん、骨格そのものが太く、しなやかだ。まるで弾力と粘りを持った鋼鉄のようだった。


 その上にはちきれんばかりの筋肉と、艶やかになめした革のような皮膚が張っている。八尋は自分がこの男と同じ性別なのが信じられないほどだった。

 その夜志高はといえば、いちいち脱いだ服を畳むあたりが几帳面だ。彼がズボンを下ろし、下着一枚になると、陰影豊かな体一面に広がるがあらわになった。


(……光の国から来た巨人みたいだ)


 それが八尋の第一印象だ。

 赤としろと青の聖画像イコン。縄文土器に通じるザラザラした縄目模様が、蛇の鱗のようでもある。そんなシンメトリーの柄が、黒一色で人体に載っていた。


 しかしテレビで見る巨人より、かなり細かい柄が入っている。模様は手の甲にまで続いて、あのレースの手袋をつけたような彩りを完成させていた。

 今まで自分は端の方しか見ていなかったが、これが柊夜志高という人間の本当の姿なのだ。ヘナタトゥーを入れた時の、肌に刻まれた模様のフェロモンを思い出す。

 それは善根世と戦うため、親友や家族を救うためという大義名分以外にも、純粋に「この刺青を入れたい」というときめきを、八尋にもたらした。



 数日後、夜志高は下絵を完成させた。


「どうですか、白草サン。気に入りましたか?」


 ええ、と答える代わりに八尋はうなずく。夜志高のスタジオではなく、柊家の居間だ。御誓文はこの家の祭壇前で施術する決まりだとのことだった。

 夜志高はこちらを観察するような、水鏡のように凪いだ表情をしていた。


「それで? 本当にいいんですか、全身にこんなものを入れて。一生消えませんし、消したくなっても施術の倍カネがかかる。後悔しませんか?」


 刺青は小さな物であっても、長い時間をかけて客は悩む。入れるか、入れないか。一生その絵を背負って生きていくか。針の痛みに最後まで耐えられるか。

 ほんの数日で、八尋は入れることを決めてしまった。だが、その選択に迷いはない。刺青よりもっと重いこと、人を殺したことさえ、後悔はないのだから。

 だからこの決意は、はっきりと口に出して告げねばならない。


「後悔しません。この御誓文を、僕に彫って下さい」

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