幕間 善根世伸について 肆
さよなら、ししけばぶ(※犬死亡描写注意)
「母さん、ぼくを導いてくれるかい?」
寝室の暗闇に話しかけても、返ってくるのは寝息だけだ。よく眠っているのは、ぼくが市販のかゆみ止めを細かく砕いて、用量以上で飲ませたから。
用法外の使用だ。
一度自分で試したけれど、本当によく眠れた。だからヒロミも、首を切られたって眼を覚まさなかったんだ。目の見えないぼくには、こうでもしないと殺せないから。
包丁は二本用意して、一本はヒロミの首に突き立ったままだ。汚れた刃で母さんを刺したくないから、今は綺麗な方を持っている。
〝おみつきさん〟に刺青を彫られて、父さんがいなくなってから四年が経っていた。
その時から、ぼくは闇の中にひとりぼっちだ。ずっと近くにあった気配がなくて、声も聞こえなくて、交通事故に遭った時以来の、真の闇に体が凍えた。
「人がくるよ、右に一歩よけて」「そこは段差があるよ」
そんな父さんの助けを失って、ぼくは盲学校で、生活指導や歩行指導を受け直すはめになった。(※盲学校での生活指導は「日常生活の指導」で、衣服の着脱、歯磨き、排泄、食事、清潔などの基本的生活習慣に関する訓練)
見かねた母さんはヒロミと相談して、ぼくに盲導犬をプレゼントすることにした、らしい。そうしてラブラドール・レトリーバーの「ししけばぶ」が家族になった。
この事にはすごく感謝している。
ししけばぶは大きくて温かくて、抱きしめると少し父さんを思い出した。レンジで熱々にした雑巾みたいな臭いも、居場所が分かりやすくていい。
これが慣れるとけっこう癖になって、日によく当たると匂いが変わる。ぼくは暇さえあれば、ししけばぶの背中をなでたり、頭を抱えたりして過ごしていた。
外へ出歩くのも、自分のためというより、ししけばぶを遊ばせる目的が強かったと思う。ぼくのそんな様子に、母さんはずいぶんと安心したらしい。
父さんの亡霊ときっぱり別れて、健康に育っているってね。
でもぼくは、二人のことを許していなかった。
あんなのは、父さんをもう一度殺したようなものじゃないか。
母さんもヒロミも、父さんを裏切った報いを受けるべきだ。もちろん〝おみつきさん〟も探し出して、同じ目に遭わせてやる。今刺し殺したヒロミみたいに。
ししけばぶはチェーンにつないできた。一人で家の中を歩き回って、確実に二人を殺せるようになるまで、四年待ったんだ。
「母さん、ぼくを愛しているなら、父さんみたいに傍にいてくれるよね?」
ささやきながら首を、喉を手探りで見つけ、母さんの顔を横に寝かせる。顔に血しぶきがかからないように。そこに包丁の刃を当てて、ぼくは横にすべらせた。
血の湯気が、溶けた鉛のような金属臭が新しく顔をなでて消える。首筋に触って、ぼくは脈が消えていくのをじっと待った。
「母さん、起きてよ」
死体に向かって訊ねる。
「ねえ、そこにいるんだろう?」
返事がない。
ぼくは一晩中、母さんが現れてくれるのを待った。遺体をゆすって、話しかけて、手を握って、疲れてきたらいっしょに寝て。それでも母さんは現れてくれなかった。
ぼくが殺したからいけなかったんだろうか。怒って、空へ行ってしまったんだろうか。それなら、ぼくを呪い殺してくれれば良かったのに。
もう全部めんどうくさい。〝おみつきさん〟も、どうでもいい。
ぼくはししけばぶに朝ごはんと水をあげて、それから家を出た。
死に場所を探しに。
◆
タクシーを拾って、ぼくは七守町の
初めて行く場所だけれど、崩艮はぼくが生まれる前から廃村になっているから、死ぬにはちょうど良いと思った。通っていた学校のことも、知ったことか。
問題は、ししけばぶだ。捨てていくのは可哀想だし、かといってあずけられるような友達なんていない。保健所送りも嫌だ。
だから、ぼくと心中してもらうことにした。痛くないよう薬入りのおやつを用意したから、食べてくれることを願おう。
「本当にここでいいんですか?」と渋る運転手に帰ってもらい、ぼくは七守山に向かって歩き出した。転んで動けなくなっても困るから、杖でよくよく足元を確かめていく。完全に自暴自棄だ。捨て鉢になるというのは、妙に楽しい。
自分を価値のないガラクタとして、ゴミ箱に放りこむような高揚感。もうどうしようもないから、どうなってもいいから、なんでもしてやろうと。
最初はクスクスと、やがてハハハと声に出して笑いながら、ぼくは何時間かを歩いた。どうせあたりには人の気配も声もしない。
聞こえるのは葉ずれの音、ししけばぶのカチャカチャ爪が当たる足音と、ぼくが土を踏みしめる音ばかり。それが、どこかの地点で別の音声が混ざった。
――ねねしゃまろ
舌っ足らずな、抑揚が狂った奇妙な声。本当に何らかの言葉かどうかも怪しい。
――いてれのせたへ~
――めひになづ~
声は遠くなったり近くなったりしながら、あちこちから聞こえた。これはどうも、複数で合掌しているらしい。廃村の山で、いったい誰が?
――ねじゃま~ひとぞろ
「誰かいるんですか?」
――かからねづくぬ~
おーいと声を張り上げたけれど、答えの代わりにただ歌が続いた。
聞こえていないはずがないと思うのだけれど。相手が人間だとしたら不気味でしょうがないが、自殺の邪魔をされても事だ。黙っていた方が良かっただろうか。
ぼくは声が聞こえない所を探して、山道をぐるぐると歩いた。草木をかき分けて、樹木に寄りかかって、やがて木々のない開けた場所に来たみたいだ。
いつの間にか空気も変わっている。秋模様の乾いたそれとは真逆の、しんと沈んだ冷気に取り囲まれていた。洞窟か何かにでも入ってしまったんだろうか?
しゃりん、と鈴が鳴るような、金属がぶつかるような澄んだ音が遠くで響いた。
――ねん……ながら……んねがら
――ねんね…………ねんね……
――ねんねんながら、ねんねがら
さっき聞いた物とは別の、そしてはっきり言葉として受け取れる歌声だ。歌っているのは一人のようにも、複数のようにも思える。
横に手を出してしばらく探ると、固い岩肌を手袋ごしに感じた。
やっぱりここは洞窟らしい。ししけばぶに「出口はどっち?」と聞くと、悲しそうにキュウンと鳴かれる。ぼくらは道に迷った、ということか。
――おーよらせっせ……ねんねさま
――おーよ……っせ、たま……んねさま
どうせ死にに来たんだから、洞窟に入るのは構わない。しかし、誰か歌っているというなら困る。どうして今日は、こんなに怪しげな者たちとかち合うのか。
――いこだれに……ましょか
――ねな……おい……うせとった
岩肌に手をつきながら、ぼくは歩き始めた。ここで立ち尽くしていてもしょうがない。どの程度広い洞窟かは分からないが、ウロウロしていたら、歌が聞こえない所もあるだろう。もちろん、歌っている連中と出会う可能性もあるが。
どうせ
――だーれがねないこ……てった
――ねぶらま……にながさ……
――ねんねんながら、ねんねがら
声は男にも女にも、子供のようにも老人のようにも聞こえる。やっぱり複数人で歌っているのか。それも合唱ではなく、輪唱だ。
――ねんねんながら、ねんねがら
――ねんねんながら、ねんねがら
――ねんねんながら、ねんねがら
「うるさい!」
イライラして思わず怒鳴ってしまった。ぼくの声は小さくなりながら何度も反響して、どこか深淵へと吸いこまれていく。
ししけばぶが足を止めて、段差があることを教えてくれた。一歩踏み出すと、足が下がる。階段がある、ということはただの洞窟ではなく、人工的な空間らしい。
――よこさ……ろげたつぐ……に
――ねぶらまむこ……こうべ……
フロアが変われば謎の歌い手たちから逃げられるだろうか。そう思ってぼくは下を目指したが、それでも歌声は追いかけてきた。
――おーよらせっせ、たまや~ねんねさま
――おーよらせっせ、たまや~ねんねさま
いったい何なんだ。歌から遠ざかっているのか、近づいているのか、階段を下りているのか、上がっているのか、だんだんと感覚が不確かになってくる。
(さっきから、歌に出て来るねぶらまって何なんだ?)
意味の分からない単語だらけの歌詞だが、その言葉が特に気にかかった。
ハーネスを身につけて仕事モードのししけばぶは、黙々とぼくに障害物や段差を教えてくれる。でなければ、怖くてクゥンと鼻を鳴らすんじゃないだろうか。
――かけちかぁって、いぬはふる
犬を? なんだって?
――つみとが、まつぼって、しょいこもお
不意に、この歌い手たちはぼくがやったことを知っているのではないか、という妄想に襲われた。母さんとヒロミを殺したこと、これからししけばぶを殺して自分も死のうとしていること。罪を背負って生きていけと?
「うるさい! うるさいうるさいうるさい!!」
とうとうぼくは、耳をふさいでその場にうずくまった。七守には妙な宗教団体が隠れていたのか? なんでこんなことになるんだ。歌は聞こえ続ける。
――ねのくにそのくに、とことはに
――もんでこな、ねぶらま、ねぐせんど
それにしてもおかしい。
これだけ歩いても歩いても歌が聞こえているのに、歌い手には出会わない。ししけばぶは知らない人に吠えたりはしないけれど、ぶつかりそうなら教えてくれる。
でなくとも、こんな所で人に会ったら、声の一つでもかけたくならないだろうか。歌うことにそれほど集中しているのか?
「……もういい」
歌から逃れられないなら、いつどこで実行しても同じだろう。外に出られるかどうかも怪しい状態なんだ。ぼくはししけばぶのハーネスを外した。
嬉しそうに一声を鳴いてすり寄ってくる愛犬に、薬入りのおやつを出す。ぼくの手から、何の疑いもなくししけばぶはそれを食べた。
この目が見えていたら、どんなに可愛い顔をしていたか分かっただろう。でも見えないから、ぼくはししけばぶと会えた。
「さよなら、ししけばぶ」
寝入ったのを確認して喉を切り裂く。熱いくらいの血潮がびちゃびちゃと手にかかり、ぼくは初めて泣いた。母さんを殺した時だって、涙なんて出なかったのに。
包丁を放そうとしたぼくの手を、何かが上から押さえつけた。
――こうべをよこしてくだしゃんせ
――おんたまよこしてくだしゃんせ
――なむ、おんたま。なむあみだ、あたま
(御頭、南無玉、犬の首、牛の首、猫の首、兎の首……)
耳元でささやかれ、言葉といっしょに知識がぼくの頭に流しこまれる。ここでは獣を殺して、その首を捧げよと。ことに犬は良いものだと。人の首でも構わぬと。
嫌も否もなく、ぼくの手は自然に力をこめて、ししけばぶの首を切り、頭をひん曲げて、ねじって、胴体から取り外した。とんでもない重労働だ。
どうしてぼくは、こんなことをしているんだろう。
ししけばぶを殺してしまったのが悲しくて、悲しくて。今も涙が止まらないのに、ぼくの手の中にはいつも抱いていた大きな頭がある。
母さんを殺した罰なのだろうか? ししけばぶを道連れにせず、ちゃんとどこか別の場所で生きていけるようにすべきだった罪だろうか?
涙が流れるごとに、ぼくの視界は晴れていった。見えるものは相変わらず暗闇だけれど、明かりのない世界で、それでもおぼろげに周囲の様子が分かる。
正確に言えば、見える、という状態を理解するまで、ぼくは長い間ほうけていた。だって十五年もの間、失明していたんだから。
夢の中でさえ、何かを「見る」ということは少ない。見えたような気もしたけれど大抵は忘れてしまって、印象に残るのは音や触感ぐらいだ。
そこは広々とした洞窟で、目の前には深い亀裂が広がっていた。落ちたらきっと悲鳴も聞こえないだろう、下から吹いてくる冷たい風で否応なくそう思う。
ぼくは手元の首を見た。愛嬌のある顔の、薄茶色い毛の犬。ああ、ししけばぶは、こんな顔をしていたんだ。なんて可愛いんだろう。
ぼくはししけばぶの首を見つめていたのに、勝手に周りの様子が分かった。
岩肌の際にびっしりと、黄みがかかった白い像が並んでいる。頭は小さな
そして台のように平たい石がいくつか並べられ、その上に色んな獣の頭蓋骨が並んでいた。中には人間らしいものもある。誰がこんなことをしたのか。
そして周囲には猿が、蛇が、百足が、鴉が、猫が、狸が、狐が、群れをなしていた。ぼくが今見ている視界は、彼らのものだ。
ぼくはししけばぶを〝ねねさま〟に捧げたから、ご加護を授かった。
(ねねさまってなんだ?)
分からないけれど分かる。根の国、底の国、とこしえに。夜の
「ししけばぶ?」
ウォン! と元気の良い返事がして、ぼくの左半身に大きな体がこすりつけられた。その匂いも、温かさも、肉と骨の感触も、間違いなくぼくの愛犬だ。
首は相変わらず手の中にあった。ぼくはそれを石台の一つにそっと置く。
「母さん」
少し時間をおいてから、シンちゃん、と懐かしい声がした。
――シンちゃん、母さんの首も、〝ねねさま〟に捧げて?
「うん、分かった、分かっているよ。ぜんぶ分かった」
もうぼくは何も失うことがない。父さんは、昔のことだから少し難しいかもしれないけれど。大丈夫、〝ねねさま〟におすがりすれば、いくらでも叶う。
ぼくは家族が欲しいんだ。
ぼくも、みんなも、ねぶらまになれば、〝ねねさま〟の元でずっといっしょだ。ずっとずっとずっといっしょだ。永遠の死を生きるんだから!
「おーよらせっせ、たまや~とーこーしょ♪
おーよらせっせ、たまや~とーこーしょ♪
うちまき、ごくあげ、ねむきうえ♪
ねんねんながら、ねんねがら♪
ねんねんながら、ねんねがら♪
ねんねんながら、ねんねがら……♪」
ぼくは、今知ったばかりのねんねがら唄を、高らかに歌い上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます