弐拾肆 神は殺せず、人は殺すべからず
時刻は朝十時。平坦な雪景色が広がる
苔むした岩はかなり摩耗しているが、仏か何かの姿が彫られているようだった。
夜志高は石碑を支える台に手をかける。足の上に落としたら、骨折どころかぺちゃんこに押し潰されそうな石版を、彼は「ずあっ!」と叫びながら横へ動かした。
筋力に感心しながら、八尋はぽっかり開いた穴を凝視する。
「本当に、地下への入り口がある……」
冬の乾いた空気よりなお冷たい、濡れた石と土の気配が中から立ち上った。この先にあの得体の知れないねぶらまと、その大本となる〝ねねさま〟がいるのか。
山の神がおわす所といえば、山の頂上、
「姉が感応した中身は、私にもある程度伝わってきているんです。〝ねねさま〟が
根の国、底の国、夜の
ただ、位置が分かっていることと、そこまでの経路が分かるかということは、また話が別らしい。霊能力というのも、万能ではないというわけか。
小一時間半ほど歩き回って見つけたのが、この石碑と地下道だった。
(ここにきっと
八尋は腰に下げた鉈を確認した。山歩きを想定して草木を切り払うのはもちろん、武器にするつもりで用意した物だ。本命は、バックパックに入れた手斧だが。
「ああ、
言われて夜志高に鉈を渡す。彼は昨日の地獄絵図パーカーと違い、アースカラーの登山ルックだ。正直こちらの方が、見ていて安心する。
「
彼は朗々と唱えた最後にフッと息を吹きかけて、八尋に鉈を返した。受け取ってみると重さは変わっていないのに、手応えが軽く、扱いやすくなった気がする。
「……こっちの……斧も、お願い、できますか……」
「またそんな重武装で」
嫌そうにしながら、夜志高はもう一回やってくれた。走り出したい気持ちを抑えながら、八尋は彼の後をついて石階段を降りた。
サングラスを外した夜志高の顔から、金色の瞳が輝いて見える。
階下にはぽっかり開けた空間があった。暗くてよく分からないが、蹴った小石が反響する音から、なかなかの広さだ。だが、しんと沈んだ空気のため、開放感はない。
八尋がマグライトで、夜志高が大きなランタンで照らすと、黄色っぽい白色の座禅像があちらこちらにあった。色と質感から、小さな骨を組み合わせた物のようだ。
(これ、父さんが聞いた〝
夜志高が像を一体一体照らしながら、「ははあ」と得心する。
「姉が言っていた通り、猿どもは〝ねねさま〟をよっぽど
言われてみれば、像は左右ひと組になっているようだった。頭部は猿の頭蓋骨で間違いない。先へと進むと、下へ続く階段の上に、古びた注連縄が張られていた。
(人も獣も、〝ねねさま〟を恐れ祀っていたのか……)
それからは、行けども行けども同じ光景を目にした。階段、畜生𠏹、時に地蔵、注連縄、階段、畜生𠏹、注連縄、階段、畜生𠏹、注連縄。
明かりの輪から少しでも外れた所は真っ暗闇で、黒い壁がすぐそこに迫っているような錯覚を起こさせる。立ったまま歩ける高さがあるのが救いだ。
(こんな所に、みんな捕まっているのか?)
辺りは夜志高と自分の息遣いや足音以外、水滴の音一つしない。
決して居心地の好い場所ではないが、八尋はこの場への恐怖より、一刻も早く助けたいという思いで胸がいっぱいになった。
夜志高が「おや」と足を止め、背中にぶつかりかける。
「誰かいますねえ」
語尾に戦意をにじませて、夜志高は一歩前に出た。八尋も腰の鉈に手をかける。こんな場所にいる人間など、ろくな相手とは思えなかった。
「こんにちは」
二人の明かりに浮かび上がったのは、手足の長い黒い服の男だ。明かりも持たず、防寒具も着ず、カフェの一角でくつろぐように岩に腰かけている。
歳は夜志高より少し上、三十代だろうか。
前分けにした髪形に、つり目とつり眉。輪郭は面長だが、顎は食が細そうに尖っている。パーツだけなら八尋と似ていなくもない。男は片目を細めた。
「こちらの
「そんなチャチな手品でいきがるおつもりで?」
隠形といえば、自分の姿を隠して見えなくする呪術のたぐい、だというのが八尋の知識だ。しかし、二人が言っているのはやや意味が異なるような気がする。
「このお人はね、他人に対して自分の印象を操れるんですよ。大抵は、誰が見ても〝特徴がなくて覚えられない顔〟になる。ですが私は当然として、柊の焼き印が入った白草サンにも、いまや無意味なんです」
特徴のない男。夜志高の説明で八尋が思い出したのは一人だ。
「〝眠りの森〟か!」
乗が棺に入り、ねぶらまに呪われることになった発端。元凶とも言うべき存在の名が八尋の口をついた。あまりに大きく叫んだから喉が痛い。
「……ぁ、……がっ!?」
洞窟内を反響する自分の声を聞きながら、八尋は
「げほっ! げっ! ごを゙……っ!!」
口の中がゴソゴソ、ガサガサする。八尋は胸を掻きむしって、その場に嘔吐した。喉の奥にまだ複雑に絡み合った糸のような、どこか固いものがある。
その理由は、吐いた物を見れば知れた。
洗面器いっぱいはありそうな
では、今喉の奥でゴソゴソしているものは。
「……ぃっ、ぎ、ひ……! いぎぅっ!」
八尋はマグライトを取り落として、口の中に手をつっこんだ。
手に無数の足が、百足の体が触れ、巻きつく。咳きこみながら引きずりだすと、枯れ草や枯れ葉といっしょに数匹の百足が出て来た。だがまだ体内にいる。
半狂乱になる八尋を押さえつけ、夜志高が二の腕――焼き印のある所に音高く手のひらを当てた。そして一喝。
「
がはっと吐くと、今度は胃液しか出て来なかった。ついさっき八尋が嘔吐した百足も、跡形もなく消えている。幻術だったのだろうか。
「あ、ありがとう……ござい、ます」
「やっぱり焼き印があって助かりましたよ。趣味の悪いことで」
夜志高は数珠を握って〝眠りの森〟をにらみつけた。男は何食わぬ風で、愛想良いとさえ言える顔でニコニコしている。
「ただの挨拶代わりですよ」
〝眠りの森〟が微笑むと同時に、周囲に大勢の人の気配が現れた。暗くて見えないが、これはおそらく地下鉄で自分と乗を囲んだ顔のない人々だ、と八尋は確信する。
「何の目的でこんなことをされているんで?
「……神さまのお告げですか。ずいぶんと油断ならないお人だ」
ぴくりと〝眠りの森〟――善根世の顔がひきつった。
「そっ、それもお姉さんの神がかりから?」
夜志高は黙ってうなずき返し、善根世に向かって話し続ける。
「ここに来てハッキリ分かりましたよ。〝ねねさま〟は最初から何も祟っちゃいない、ただ夜の食国で、自分に仕えるねぶらまと共に眠りに就いているだけだ」
彼が善根世を見る視線は、刺し貫き、串刺しにするように鋭い。
「彼らの役目は
では白重川の氾濫は、〝ねねさま〟に仕えるねぶらまを殺したためその怒りを買ったということか。それ自体は祟りだろうが、今現在の事態はまた別だろう。
神の祟りは、やはり呪詛や怪異とは違うのだ。
「そうか、ねぶらまは〝ねぶらの魔〟ではなく、ねぶらの
はたと、ここに至って八尋は思い至った。これまで何度も読み返した資料が、
「仏教用語では人を住んでいる場所を人間と言うから、人も鳥も獣も魚もすべて人間になる。〝ねぶら間〟はねねが権威を振るう、で――ねね
「それが分かったから何だと?」
善根世は不愉快そうに眼を尖らせて二人をにらんだ。だが八尋も夜志高も、その程度では小揺るぎもしない。
「私らに神さまはどうこうできゃしません。しかし全ての元凶が人間なら、あんたを締めれば片がつくってことですよ」
八尋は夜志高に鉈を渡し、自分はバックパックの手斧を握った。
殺してでもこいつを止める、乗を、家族を奪い返す。相手が人間だとは今の今まで思わなかったが、だからといって八尋の決意は変わらなかった。
闇がざわつき、殺気を放っているのが分かる。もはや一触即発だ。
「ひどいな。〝ねねさま〟がお目覚めになれば、この世は夢の
「綺麗事を」
八尋は斧を握る手に力をこめた。
こいつの頭をかち割ってやる、眼を抉ってやる、はらわたを引きずり出してやる。自分のやったことを思い知らせ、心の底から謝罪させてから命を絶ってやる。
「騙し討ちで人様に供犠の契約を結ばせるのは、ただの呪詛なんですよ」
夜志高も片手に鉈を、片手に数珠を握りながら臨戦態勢だった。ただ、なぜか肘で八尋の脇腹を突いてくる。何か注意を促されるようなことがあっただろうか?
さっきは幻覚とはいえ、百足を吐かされるという最悪な思いをした。相手が人間だろうが、神の威を借りてどんな手を使ってくるか分からない。
「ところで……柊夜志高さん、何か気づきませんか?」
善根世はうんざりとした風にため息をついた。
「あ?」巻き舌気味に答える。
「十四年前、あなたのお家で一服盛られ、寝ている間に刺青を彫られた哀れな少年ですよ。歳を取ったとはいえまだ思い出せないなんて、あなたの家は合意もなく未成年に刺青を彫るような真似を、そんなに
ギクリと夜志高の体が固まった。背筋が硬直し、急に関節が不自由な人形にでもなったように、彼の手足がその意思を裏切るのが分かる。
「貴方がたのせいで、ぼくは生きる気力を失ったんですよ? ぼくをこんな風にしたそもそもの原因である貴方が、何の権利があって止めようと?」
夜志高はギリッと唇を噛み締め、しぼり出すように訊ねた。
「……ととさまと、かかさまを連れて行ったのも、おまえか」
「さあ? 知りませんね」
ひらひらと両手を振る善根世に、八尋はもう我慢ならない。咆哮しながら手斧で襲いかかると、その体にひた、ひた、ひたと、いくつも冷たい手が触れる。
次の瞬間、皮膚の下で無数の虫が
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