禍落

弐拾参 片道手形は焼きつける

「おや、まだられたんですか、白草しらくさサン」


 夕起子ゆきこを病院へ運んだ夜志よしたかが帰ってきた時、時計は深夜を回ろうとしていた。柊家の居間で野帳フィールドノートを広げて、考えをまとめていた八尋やひろは、蚊のように鳴く。


「鍵が、ないもので……」

「そりゃご親切にどうも」


 夜志高もその点を完全に失念していたのか、口の端を歪めた。どかっと座卓の向かいに座り、ジッポライターで火をつける。

 彼は長々と紫煙を吐き出して、「で、本音は?」と続けた。


『夜志高さんは、一人で〝ねねさま〟に会いに行くつもりなんじゃないですか』


 スマホであらかじめ打っておいた文章を見せると、「ご明察」と笑う。擬音で言えばニヤリという笑顔だが、その下に獰猛どうもうな牙が隠れて見えた。

 夜志高は赤く火がついた煙草でこちらを指さす。


「お生憎あいにくですがね、白草サンは足手まといだ。火事の現場に、消防士でもないお人に入ってこられても困るのといっしょです」

『僕に護り刺青を入れていただけませんか。それならお邪魔にはならないかと』

「お断りします」


 予想していた返事に用意しておいた答えを見せたが、夜志高はにべもない。


「刺青ってのは背中一面だけで、ざっと五十時間はかかると思ってください。一日に彫れるのも二、三時間がせいぜい。よほど無理をして六時間か。私だけじゃなく、針の痛みに耐える白草サンの具合を勘定すれば、二、三日で済む話でもないし、私はとっとと山へ確認に行きたいんです」


 以前聞いた刺青の相場、一時間一万円なら五〇万が軽くふっ飛ぶというわけだ。だが、八尋にとってはまだ度外視できる問題だった。


「私も単身カチコんで、いっぺんに解決できるとは思いません。まずは偵察に行くだけですから、安全な所でお待ちください。いいですか?」

「嫌だ!」


 スマホではなく、自分の声ではっきりと拒絶の意志を表す。

 それからは不毛な押し問答だった。夜志高は目に見えて行く・行かせないのやりとりに苛立っていて、八尋は懸命に説得材料を探す。


 だが突破口を開いたのは、夜志高の方だ。彼は「あ」と何かに気づいたような声をこぼした。「ありましたよ、一つ。インスタントなお護りが」と。


「分かりやすいよう護り刺青と言っていましたが、柊では本来誓文せいもんと呼んでいました。で、ひい祖父じいさまの代には大忙しで、彫るのが間に合わねえからって、を作って人様の体に御誓文を入れたそうなんです」


 焼きごて、つまり焼き印ということか。

 刺青に類似した身体加工に、体を切ったり焼いたりしたあとを模様に仕立てる瘢痕はんこん文身ぶんしん(スカリフィケーション)というものがあるが、それと同じ理屈だろう。

 八尋は迷わず頼んだ。


「ではそれをお願いします」

「あんた人の話聞いてました?? 焼きごてですよ、焼きごて」


 どうやら彼は、これなら自分が諦めるだろうと思って教えてくれたらしい。痛いのが好きなわけでも平気なわけでもないが、こちらは一刻も早くじょうを救いたいのだ。

 夜志高は信じられないというように苦りきった顔をし、また深々と煙草を吸いこむ。しばらく寒々とした沈黙が続いた。


「……まあそれじゃ、説明しましょう。私と姉も子供の時分には、父を手伝って焼き印をお客サマに入れたもんですよ」


 かなり特殊なタイプの少年時代だ。拷問吏の家にでも生まれないと、中々しない経験だろう。


「そのころ私が扱ったのは五百円玉サイズがせいぜいで、デカいのになると父がやっていました。で、あちらさんの方に向かうとなると、白草サンにはかなりの大きさを焼きつけなきゃなりません。ハガキぐらいになりますが、それでもよろしいので?」

「やります」

「少しは迷いなさいよあんた」


 なんでこんなに呆れた顔をされなければならないのか、八尋は不思議だった。

 絶望の淵に立たされた親友を、そうとは知らず見捨てたことがこんなことであがなえるなら、願ったり叶ったりではないか。

「どうしようもねえなこいつ」と言うようなため息を吐いて、夜志高は煙草を灰皿でもみ消した。八尋が勝手に、悪意を感じているだけかもしれないが……。


「では白草サン、今日の所はうちに泊まって、明日は自宅の方へお送りします。そこで荷造りしてきなさい。お猫さんもちゃんとした所にあずけて……」


 そこまで言って、夜志高は何かに気づいたように眼を見開いた。天井を見上げていた視線をこちらに向け、真っ直ぐ眼を見て言う。


「白草サン、ご実家には近寄らないでください。おそらく、もうやられています」


 今度は八尋が眼を丸くする番だった。


「スマホをお借りした時に、〝あっち〟の臭いがしたんですよ。いつ言うか迷っていましたが、お伝えしておかないとあんたも巻きこまれる」

「そ、んな……」


 八尋は母との通話履歴を確認したが、特におかしな点は見当たらない。

 メールを確かめてみると、一拍遅れて違和感があった。何が変わったのだろう、と何度も視線を往復するうちに、送信時刻がおかしいことに気づく。

 前は深夜の三時だったが、今は午前十一時半だ。一旦メールを閉じて開き直すと、今度は十六時ごろの送信に変わっている。

 夜志高にスマホを渡して、八尋は説明を求めた。


「どうやら、時間の流れが違う所から送られてきたようですねえ」

「異界、と……いうことですか」

「宇宙の彼方やブラックホールあたりなら知りませんが、現世に時間が狂った場所なんてありませんからね。そうなるでしょうよ」


 言って夜志高はスマホを返す。


「そうか……僕は『あの』乗を実家に連れて行った。だから父さんはに入りこまれて、それから母さんが連れて行かれたんだ!」


 独り言だと言葉もすべらかに出るし、声も大きくなる八尋だ。知らなかったとはいえ、自分がまた、とんでもないことをしてしまったと気づいて吐き気がこみあげた。


「そうやってネズミ算式に増えていきやがるってワケですね。あー、めんどくさい」


 口調は軽いが、姉をやられた夜志高も気が気ではないだろう。


『夜志高さんは、大本の〝ねねさま〟が月読つくよみのみことだと思いますか?』


 スマホで打って訊ねると、夜志高は「いいえ」と答えた。


「ツクヨミってのは月を読むで暦の神さま、農業の神さまでしょう。それは〝人間のための神〟です。しかしあれは、人の領域の外から来ている。山が異界であるように、夜の闇も異界なんです。夜闇と眠りと死、人の入りこめない世界、獣たちのための神。それがまあ月の神だとして、おそらくツクヨミそのものとは別件です」

「なる……ほど」


 彼の帰りを待つ間、八尋は父の取材ノートの内容を脳から掘り起こし、月読尊について考えていた。かの神は神話に記されたエピソードも少なく、食物の神を殺したことで五穀ごこく(米・麦・あわ・豆・きびまたはひえなどの主要な穀物)を世に広めたという話が素戔嗚すさのおのみことと被ることから、素戔嗚と同一の神ではないか、という説すらある。

 本来は日の神天照あまてらす大神おおかみと月の神とで一対だった所に、三つにしてバランスを取るために後付けされたのが素戔嗚である、とも。


「このあたりにツクヨミが勧請かんじょうされたとか、祀る社があるなんて話も聞いたことありゃしませんし……ああ、ウチは教団やっていた名残りで、市内の神社や祭神さいじんについちゃ、一通り親父殿に叩きこまれているんですよ」


 夜志高は座布団から立ち上がりながら、「まあ日本神話のさん貴子きしと同じぐらい、敵が巨大なのは変わりませんがね」と言って台所に向かった。


「残り物のおでんでよけりゃ、夕飯にしましょうや」


 そういえば、昼過ぎのハンバーガー以来、何も食べていない。途端に八尋の腹がきゅうと鳴った。



 夕食の後、八尋は夜志高に頼みこんで自宅まで送ってもらった。

 なにしろ可愛い飼い猫のクーが、腹を空かせて待っているのだ。夜志高も「あの白黒のためでしたら」とやる気になったので、姉と同じく猫が好きなのかもしれない。

 翌朝は店に臨時休業の張り紙をし、山歩きに必要な服装と道具を用意して、ペットホテルを手配した。クーには申し訳ないが、何かあって自分が戻ってこれなくなったなら、大変なことになる。


「実家のたちは大丈夫なのかな……」


 あの家には今、に取り込まれた父と母がいるのだ。

 猫たちも引きずりこまれてしまうのか、それとも放置されてしまうのか。何とか確認しに行かなければなるまい。八尋の悩みの種は尽きなかった。


「焼き印ですが、今日は風呂場でやります。椅子を置いて手足を縛りつけますが、構いませんね?」

「はい」


 迎えに来た夜志高のワゴンに揺られ、車中で説明を受ける。車窓から見える街並みは、薄く雪が積もった灰色だった。


「蔵から見つけた焼き印ですが、大きさとしては太ももか二の腕で足りそうですね。どこにやります? 腹はオススメしませんが、後は背中とか」

「……二の腕で」


 もしも焼き印で足りなければ、背中に護り刺青を彫ってもらおう。そういう魂胆で八尋は答えた。


真皮しんぴまで焼かないと痕が残らないんで、焼き印は十秒ぐらい押しつけます。で、残るのは一生物の白くてテカテカした痕。治るまではかゆみも激しいですよ」

「……分かっています」


 焼き印の痛みがどれだけかは想像もつかないが、十秒を必死で耐えよう。

 痕が残ることなど大した問題じゃない、このまま乗や両親を取り戻せないことに比べれば、まったく。そう腹をくくり、柊家に到着した八尋は拍子抜けした。


「少々古いですが、ないよりゃマシでしょう。塗って使う麻酔です」


 そう言って夜志高がよこしたのは、ピルケースのような物だ。父の元で焼きごてをしていた時や、タトゥースタジオの客などに使っていたらしい。


「そ、そんなの……あるんだ……」

「怖じ気づいて、諦めてくれねえかと思ったんですがねえ」夜志高は舌打ちする。


 確かに、いくら合意の上とはいえ人に焼きごてを押しつけるのは完全に傷害罪だ。八尋が訴えたら確実に夜志高は逮捕される。進んでやりたいワケがない。


「僕を、置いて……、いけば、よか、た……のでは」

「神さまに嫌われないコツはね、〝約束は必ず守る〟ことなんですよ」


 そういうものか。はっきり約束を交わしたとも言えないような気がするが、何だかんだ律儀なのだろう。八尋は初めて会った時より、ずいぶんとこの男が好ましく思えてきた自分に気づいた。


 脱衣所にはロープや救急箱が置かれ、「自分はこれから取り返しのつかないほど、深い傷を負うのだ」と改めて思い知らされる。

 浴槽の前には一脚の椅子と火鉢がすえられて、鉄の棒が炭火で温められていた。やはり菓子作りで使うような電熱式ではなく、昔ながらの焼きごてというわけだ。

 風呂には水がいっぱいに張られており、大量の氷が浮かんでいた。


 何から何まであまり気持ちの良い光景ではなかったが、八尋に引き返す気は毛頭ない。麻酔もあるのだから、注射を受けるようなものだと己に言い聞かせた。

 上着を脱いで二の腕を出し、夜志高がそこに麻酔薬を塗りたくる。ひやりとした感触に一瞬ビクッと震えるが、それもすぐ慣れた。


「本当にやってよろしいんですね?」

「はい」


 薬が効いてきた三十分後、八尋は浴室内の椅子に座る。両足を脚に、両手をひじ掛けに、左半身の肩を背もたれにロープでしっかり固定され、完全に動けなくなった。


「しかし思った以上に細い腕ですねえ。もうちょっと肉つけた方がいいですよ」

「……焼き印には、スペース……足りませんか?」

「まあギリギリは」


 夜志高はついに火鉢から焼きごてを取り出す。赤熱して輝く印字部分は、透かし彫りのように美しくも恐ろしかった。灰と炭の匂いが漂い、肌に熱を感じる。

 肘かけを強く握って、八尋は焼き印を捺されるのを待ち構えた。


「よろしいか」

「はい」


 最終確認の直後、ジュッとタンパク質が燃える音と匂いが立ち上る。自分の皮膚が焼けていくのだ、信じられない。麻酔のおかげで、激痛はなかった。

 ただ熱く、骨に染み入るようなうずきが不気味に存在する。一瞬でも気を逸らせてしまえば、それはたちまち地獄の責め苦となって襲いかかるに違いない。


 長い長い十秒だった。あまり感覚のない二の腕から焼きごてが離れ、キンキンに冷えた氷水を浴びせられる。恐怖のあまり、八尋は肩で息をしていた。

 苦痛なく終われたとはいえ、自分の体がもう二度と以前の姿には戻らないのだと、大きなダメージを得たのだというハッキリした実感がある。

 痛みを感じない刃物で腹を刺されたら、こんな感じかもしれない。


「綺麗に印がついたみたいですよ。よくがんばりましたね、白草サン」

「……お手間を、かけ……ます」


 焼き印について、八尋に後悔はない。自分の肉体が破壊されるという恐怖こそあったが、ともあれ生きている。怪異への対抗手段を手に入れている。

 一刻も早く、〝ねねさま〟が眠る場所へ行きたかった。

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