幕間 善根世伸について 参

もう許さない

「気持ち悪い」


 盲学校に入ってしばらく、ぼくはそんな風に噂を立てられるようになった。理由はいくつかある。


 父さんが「シンも点字を覚えないとな」と言うから、点字の読み方や打ち方は一生懸命覚えたし、そこから地図の見方や図形の描き方を教わるとは思っていなかった。

 そこまでは視覚障害者として普通だけれど、ぼくは医学的には完全に失明しているのに、あまりにも器用だから不気味に思われている。

 もちろん、父さんが傍について教えてくれているからだ。


 盲学校には全盲から弱視まで、さまざまな視覚障害生徒がいる。だから少し見える生徒や、晴眼せいがんしゃ(※視覚障害者でない人)の先生には、ぼくの不自由なさがよく分かるらしい。でも、それより面白いのは見えない生徒の方だ。

 そういう子たちほど父さんの気配に敏感で、「善根世よねせくんの近くは熱い」「すごく寒い」「変な臭いがする」と話している。

 それでも、父さんの声は誰も聞こえないみたいだけれど。


 噂が立って一年もしなかったかな。クラスメートの中で、特にぼくを怖がっていた子が仲の良い友達と「毎晩誰かが訪ねてくる」って話をしていた。

 確か佐知さちって名前の男子だ。「光照みつてるさん、光照さん、光照さん」って何かが玄関に立って、夜中に何度も自分の名前を呼ぶんだって。

 もちろん親は警察に通報したけれど、誰もいない。巡回を強化するとか言ってくれたらしいけれど、お巡りさんの目があるはずの時間帯でも、おかまいなしなんだ。


「それで、父ちゃんが玄関開けて怒鳴ったけれど、やっぱり誰もいないんだよ」


 と佐知が言った時、誰も面白半分に「ぎゃー怖いー」なんて叫びさえ上げなくて、重苦しく沈黙した。それぐらい、彼の話し方は切羽詰まった感じがあったんだ。

 本当に、何かに追い詰められているんだろうな、でも、頼りになるものなんて何一つないんだろうな。ってクラスの端っこで聞いているぼくでも、分かるほどだった。

 佐知はその日の帰りに歩道橋から転落して、両足骨折で入院してしまったよ。いつ退院したのかは忘れたけど、それっきり学校に来なくなって、引っ越してしまった。


 それが始まりだったかな。

 周りで、ぼくを悪く言ったり、嫌がらせする人の所に何か訪ねてくるようになったのは。みんなすぐ分かったよ、それを招き入れたから佐知はああなったんだ、って。


「善根世くん、もうやめて」

「許して、あれを帰らせて」

「何も悪いことなんてしてないのに!」

「佐知くんみたいになりたくない、助けて」


 色んな人が、時には先生までもが、原因はぼくにあると思って話しかけてきた。何となく父さんの仕業だろうと思ったけれど、ぼくの答えは同じ。


「さあね、知らないよ。ぼくには関係ないね」


 くふふふふ、と父さんは笑って「可哀想だねえ、すごくガッカリした顔をしているよ。絶望しました、って感じだねえ」と相手の表情を教えてくれた。

 それが本当に父さんの仕業でも何でもいい。日が進むごとに、ぼくの生活から邪魔なもの、不愉快なものが減っていって、どんどん過ごしやすくなっていったから。

 一人ずつ、順番に、それは家の中へ入って、狙った相手を壊していった。プールで溺れたり、高い所や階段から落ちて、全身打撲や骨折になったり。


 それでもまだ、父さんは手加減していたんだ。そうそう、一回「あれは父さんがやったの?」って聞いたら、くふふって笑うだけで否定しなかった。

 だから父さんがぼくのためにやった、ってことでいいんじゃないかな。


 事件が起きたのは、たまたまぼくが人気ひとけのない校舎裏へ来た時だった。何の用事だったか思い出せないけれど、散歩とかそんな所だと思う。

 危ない、と父さんの声がした瞬間、固いものがガツンとぼくの頭を打った。多分箒の柄だったんだろう。頭を押さえて膝をつくと、複数人に囲まれる気配がした。


「ほ、ホントにやるの?」

「当たり前だろ! やっちまえ!」

「コイツさえいなければ!」

「おまえのせいで!」


 五、六人はいたかな。固い竹が背中や頭に何度か当たって、それから物凄い悲鳴がした。ああ、人は体を裂かれて死んだら、こんな声を上げるんだなと思うような。

 実際にはそんなことはなかった。

 先生が駆けつけた時、ぼく以外の全員が、互いに殴り合ったり、折れた竹で刺したり、眼に指をつっこんだりして、血みどろになっていたんだってさ。


 どうしてそうなったのか?

 ぼくにはよく分からないけれど、みんな何かとても恐ろしいものを見て、それをどうにかしようとして結果的に仲間割れになったみたいだ。

 自分の腕が折れるまで人を殴り続けるなんて、正気とは思えなかったなあ。今でもよく覚えている、あれは凄かったよ。


 それが、ぼくが中学二年生の時だ。父さんは過保護だなあと思うけれど、こちらのプライベートもきちんと弁えてくれている。

 トイレは一人でできるようになったし、お風呂でも外で待っていてくれたりする。そしていつもぼくを見守っていてくれているんだ。厳しくて、優しい。


 だから、母さんとヒロミがぼくを「大事な話がある」と言ってリビングに呼び出して、話を切り出した時はひどく腹が立った。


「シンちゃん、お祓いをしましょう」

「……どうして?」

「君の周りで立て続けに人が怪我をしている。いくら何でも異常だ」


 ぼくは母さんに訊いたのに、ヒロミが勝手に答える。またイラッとしたが、さすがに目立ちすぎたという自覚は、ぼくにも父さんにもあった。


「大丈夫だよ、シン」


 父さんがテーブルの下でぼくの手を握る。


「父さん、前より強くなったんだ。神社にもお寺にもいっしょに入れるだろう? そんじょそこらの霊能者なんかには、負けないさ」


 確かに、いつかの新婚旅行の時と違って、父さんは神社の境内にもついてこれるようになった。神社の人が何かに気づいた風だったり、こっちに話しかけてこようとしたこともあったけれど、それは本当に稀なことだ。


「父さんはおまえだけじゃなく、マキコも守りたい。かといって、ヒロミさんに手を出すのはあまり良い作戦じゃない。だから、ここは言うことを聞こう」


 父さんの言葉を受けて、ぼくは「分かった」と二人に返事した。



 そして実際、お祓いはことごとく失敗に終わる。

 神社もお寺も普通、除霊なんてやっていないから、母さんとヒロミは霊能者を頼ったけれど、これがほとんど偽物なんだ。


「マキコも、そんなことにお金を使わないでほしいんだがなあ」


 と、ぼくと父さんは部屋で苦笑いした。でも、満足するまでさせてやるしかない。一回だけ、「それはうちでは手に負えません」と門前払いに会ったから、母さんはちゃんと本物も引き当てたみたいだ。


 学校で敬遠されるのは相変わらずだったけれど、そのぶんぼくへの嫌がらせはぴたりと止まった。というか、ほとんど無視されるようになった。

 だから父さんも何かする必要がなくて、静かに過ごしている内に、母さんは「お祓いが効いたのね」と満足してくれたみたいだ。


 平和になったことに満足してぼくは中学を卒業し、高校へ進学する。

 一年、二年と何事もなく過ぎると思ったある日、また母さんは「大事な話があるの」とぼくを呼び出した。進路に関することだろうか、と思ったけれど、違う。


「ねえ、シンちゃん。あなた、お父さんと話していない?」


 母さんに今までになく真剣な口調で訊かれ、ドキリとした。父さんの気配が、隣でゆらっと大きく揺れるのが分かる。相当びっくりしただろうな。

 ぼくも、何て返事したらいいのか分からなかった。


「時々、きみが部屋で誰かと話しているのが聞こえていたんだよ」


 ヒロミが言葉を続ける。びきりと、ぼくは体が内側から引きつるような気分だ。


「お風呂で、廊下で、聞かれていないと思っただろう? でも、十年近くいっしょに暮らしている家族なんだ、分かるんだよ」


 ぼくはまだヒロミを家族とは思っていなかった。同じ家に住んでいるおじさん、ぐらいの認識だ。こいつがいるから、母さんは家でゆっくりできていいや、と。


「お祓いをしたら、あなたの周りで起きている変なことも終わって、お父さんと話すこともなくなると思ってたの。でも、違うのね」


 母さんは鼻をすすり上げながら言った。


「まだシンちゃんの所にお父さんはいるんでしょ?」

「……父さんがいて、何が悪いの」


 思わず反論すると、ヒロミは「死んだ人は、ちゃんと成仏しないといけないよ」と口を挟んできた。確かに父さんも昔、「本当は空に行かなきゃいけない」と言っていたけれど。おまえは結局他人じゃないか。知ったことか。


「……まいったなあ」


 父さんが困った困ったという風につぶやく。


「ヒロミさんはそりゃあ、おれが邪魔だろうなあ」


 冷たくて熱い気配が漂って、ぼくの背筋を汗の玉が流れた。父さんが今までになく怒っているんだ。


「お祓いなんてやらないよ。前だって、たくさんインチキ霊能者にだまされたじゃないか! お金ばっかり取られて、バカみたいだよ!」

「それがね、今度は本物のあてがあるの」


 母さんがなだめるように甘い声を出す。


「市内の音切おんきりちょうの、〝おみつきさん〟って方が凄いんですって」



 ぼくが「お祓いなんて受けない、〝おみつきさん〟なんて会わない」と言い張ったにも関わらず、母さんとヒロミは何度かそこへ通って相談したらしい。

 そして、〝おみつきさん〟に会う会わないと押し問答して何ヶ月かが過ぎた。大学受験が近づくっていうのに、本当に勘弁してほしい。


 ぼくの受験よりお祓いの方が大事だなんて、母さんは少しおかしくなっているんじゃないだろうか。……それは、父さんのせい? ぼくの周りで次々とみんな怪我をして、いなくなったせい? 分からない。ぼくは何も悪いことはしていない。


「シン、一度その霊能者さんに会って、母さんを安心させてみないか」


 ある日耐えかねたように、父さんが言った。今この時も、ぼくの部屋の外で母さんは聞き耳を立てているんだろうか。


「腕は確からしいよ。父さんが本当に祓われたら、どうするの」

「大丈夫大丈夫、本物だったら前みたいに『手に負えません』って匙を投げてくれるさ。……あ、でもそれじゃあマキコが納得しないなあ。うーん」


 ふと思い付いて、ぼくは二階の自分の部屋からリビングへ降りた。


「母さん、ぼく、その〝おみつきさん〟に会うよ。その代わり、何があってももう受験が終わるまで、ぼくの邪魔をしないって約束してくれる?」


 いい加減ぼくもウンザリだ。お祓いが失敗しても、当分は受験に集中させてほしい。そう約束させると、母さんはとても嬉しそうだった。


 週末、さっそくぼくはその〝おみつきさん〟の所へ連れて行かれた。


「すごいな、だだっぴろい田んぼと畑の真ん中に、大きな日本家屋が建っている。庭には蔵もあるぞ。お金持ちって言うより、とても古い家なんだろうね」


 父さんの説明に、何となくぼくは武家屋敷を想像する。ガラガラと玄関が開く音がして、「お待ちしておりました」と少年の声がした。


「白い着物をきた、中学生ぐらいの男の子だね。……変だな、眼が金色に光っている。……いや……なんだ、これは……」


 父さんが言葉に詰まったように言い淀んだ。良くないな予感がする。母さんに手を引かれて、ぼくは奥の座敷に案内された。


「部屋の壁一面が祭壇になっている……くそ、なんて……ああ、祭壇の前に着物姿の男が座っていて、これが〝おみつきさん〟だな。手や首にたくさん刺青が入って真っ黒だ。その前に布団が敷いてある。よく分からない機械も。左手側におまえと同じぐらいの女の子が正座していて、男の子がその隣に座った。みんな金ぴかの眼だ」


 金ぴかの眼ってどういうことだろう。その子たちは〝おみつきさん〟の娘と息子ということだとして、父さんが焦っているようなのが嫌だ。

 正面に座っている〝おみつきさん〟は「ひいらぎ竹叢たかむらと申します」と自己紹介した。


「善根世伸くん、君は今とても大変なことになっている。こちらも色々と調べたけれど、君に憑いているお父さんは、本当ならとっくの昔に離れていなければならないものだ。実際、もう人の魂から外れてきている」


 ぼくは答えない。代わりに、部屋の四方八方からみしり、みしりと壁を押すような軋み音がし始める。それはすぐに、バンバンと手で叩くような音に変わった。

 ひ、と母さんがおびえたような声を出す。


「空にお静か聞きなされ!」


 女の子が一喝し、パンと柏手かしわでを打つと音がやんだ。うっ、と父さんがぼくの背後でうめく。次に男の子が唄いだし、まずいと思った。


「恐い恐いとあれこれと、重ねて申し来たること、いよよ形と現われん。大神おおがみご容赦いたさぬぞ、一切ご容赦いたさぬぞ」

「な、何が起きているんです?」


 ヒロミが訊ねると、柊竹叢は「抵抗されていますね」と短く返す。男の子は朗々と唄い続けていた。


「大神表に出たからにゃ、無理事やめて下されや、無理はきっぱり諦めて、心にふっと浮かびたあれこれも、無理なくいたして下しゃんせ、下しゃんせ」


 父さんが何も言わないからよく分からないが、誰かがぼくたちの横を通って部屋を出て行った。男の子はここで唄っているし、正面には柊竹叢の存在感ある。

 ということは、今出て行ったのは女の子の方だろう。


「大神それぞれお手引いて、おもむく方に連れゆくぞ……」

「お茶をどうぞ」


 女の子が戻ってきたと思えば、ぼくの顔に湯気があたった。盆を置いたらしき音がして、手の中に温かい湯飲みを握らされる。


「さ、ぐいと飲み干しちゃって」

「飲むな、シン!」


 父さんが必死で叫びを上げると、「さざさるなぁ!!」と柊竹叢が大声を出した。びっくりしてぼくの手や膝に茶がこぼれるのを、女の子が何も言わず拭く。

 さざさるって何だ? このお茶には何が入っているんだ? 「いりません」と返そうとすると、「そうはいきません」と女の子にこばまれた。

 しばらくぼくはジタバタしていたが、結局母さんとヒロミさんに無理やり飲まされた。ぼくはこのことを許さない。お茶には、睡眠薬が入っていたのだ。


 眼を覚ました時、ぼくは自分のベッドで寝ていて、背中が燃えるように熱かった。〝おみつきさん〟の所で魔落としの刺青をされたと知ったのは少し後で。

 

「父さん……父さん? いないの? 返事してよ、父さん!」


 いくら呼んでも返事がない、気配がない。ぼくの声は虚しく闇の向こうに消えていくばかりで。その時以来、父さんがいなくなったことにぼくは絶望した。

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