弐拾弐 覗くべからず、夜の食国(おすくに)

 夜志よしたかの運転するワゴンに揺られ、八尋やひろが案内された柊家は田園風景に囲まれた日本家屋だった。年季の入り方や特徴から、昭和初期の建築と思われる。

 所は七守ななかみちょうに隣接する音切おんきり町。庭には白い漆喰しっくいの蔵や、コンクリート製の井戸があり、玄関には餅つきのうすが無造作に置かれていた。低い天井には黒々としたはり縦横じゅうおうに張り巡らされ、大柄な夜志高は我が家ながら窮屈そうだ。


 夕起子ゆきこは「シャワー浴びて着替えてくんねー」と言って去り、八尋は一階和室に通された。座卓を挟んで夜志高と向き合うと、息が詰まるような重圧を覚える。

 筆談でもいいから何か話題を振ろうと、八尋はスマホに『大きな家ですね』と打ちこんだ。夜志高は画面を見もせず、「そういう雑談はいいですよ」と制す。

 彼はジッポライターで煙草に火をつけながら、「それより、私に聞きたいことが他にあるんじゃないですか」と続けた。


『さっき僕にデコピンしましたけれど、あれただのデコピンじゃないですよね?』

「まあ気付けのようなモン……と言ってもご納得いただけないでしょうね。人様の精神を安定させるのに重宝しているんですが、自由に頭の中を操れるワケじゃないんで、ご安心を。白草しらくさサンだって、落ちこんでいる場合じゃないでしょう?」


 人の感情は、外部からの影響でねじ曲がることも多々あるものだ。しかしそれを意識的に行われたと知ると、どうにも良い気分とは言い難かった。

 しかし、夜志高が言うことももっともではある。八尋は腹を立てるよりも、「便利だな」と捉えることにした。


『助かります。それにしても、夜志高さんはすごい力をお持ちですね。本業はあくまで彫師とのことですが、その気になればもっと色んなことができるのでは?』

「すごい力?」


 夜志高は紫煙を吐いてせせら笑う。軽蔑とも自嘲とも言うほど強くはないが、銀紙を噛むようなシニカルさが走って見えた。


「私がやってんのは、手品以下のごっこ遊びですよ」

「……あれが、手品……?」


 夜志高らが近づいただけで、――おそらくは――に憑かれた乗は窓から逃走をはかり、数珠に捕まえられて憑き物を落とされた。本物の霊能者ではないか。


「私らの力はね、世界や神さまにお付き合い頂いているお遊びなんです。優しい大人は、警察官になりきった子供に『ばーん!』ってピストル撃たれりゃ、撃たれたふりして付き合ってあげるでしょう? それと同じですよ」

『つまり、神さまからの授かり物、という理解でいいですか』

「話が早いですね」


 夜志高はニヤリと笑った。まさに言いたいことを当てられた、というように。


「実際、付き合ってくださるお方がいなけりゃ、どうにもなりません。もしいつも上手くいくし、悪事にも利用できるなんて輩は、悪いものに目えつけられてんですよ」

「なる、ほど……」


 曾祖父が教団をやっていた影響なのか、彼はかなり敬虔な人物らしい。


「曾爺さまの下絵はたぶん蔵ですね。ま、それは明日に回して今日のところは敵情視察、託宣です。そろそろ姉がお清めも終わるんで、手伝って下さい」


 夜志高は立ち上がって、奥の襖を開けた。明かりがつけられ、中の様子が分かると八尋はぎょっとしてしまう。

 本来の間取りなら仏間にあたるのだろうか、壁一面に祭壇のようなものがあった。

 金糸に彩られた御簾が詳細を隠し、いくつもの木像があることしか分からない。その前に台が設けられ、餅や酒らしきものが供えられていた。


「これを二人で壁にかけていきます」


 夜志高は畳まれた白い布を指さす。はいと言う代わりに首を振り、八尋は布の端をつまみあげた。祭壇と出入口以外の二方を、二人で協力して張っていく。

 八尋が三つの座布団を並べていると、夜志高は竹箒たけぼうきを持ってきた。玄関の掃除にでも使えそうな長さだが、よく見ると柄に笛のような穴が空いている。


「おっ待ったせー」


 夜志高が和紙を切って紙垂しでを作り、箒に巻いていると夕起子が戻ってきた。

 髪を高く結い上げてまとめ、白装束を纏っている。上着は巫女が着る千早を思わせるが、下にはいている袴も白く、足先も足袋に包まれていた。

 褐色の肌がより際立って、着物が淡く光を放っているように見える。


「準備できた?」

「いつでも。あ、白草サンは黙って座っているだけでいいです。いっしょに歌ったり祈ったり柏手かしわで打ったりとかはやらないで下さい」

「はい」


 八尋が指定された座布団に腰を下ろすと、夜志高と夕起子は祭壇の前で互いに向き合って座った。どちらもピンと背筋の通った見事な正座だ。


「オ――ォ――、ラ――、ロ――、オ――、ル――ロ――、ア――ァ――ア――」


 夜志高は黒い刺青をまとう手を打ち合わせ、拍子を取りながら厳かに声を上げた。


「ロ――、ラ、ア――、ア――――、オ――、ロ――、ラ――、ハ」


 そういえば、雅楽の始まりではこのように声を出すのではなかったか。

 店での憑き物落とし同様、太く芯の通った声は、きちんと声楽を学んだであろう技量を感じさせる。ここが、儀式を行うに相応しい場へ変化するのを八尋は感じた。


「オ――、ォ――、ロ――、ラ――、ル――、イ――タ――、ア――、ロ――、ラ、ア――、ア――――」


 声がやむ。

 夕起子は親指と中指で輪を作り、それを結び合わせるように両手を組んだ。一方夜志高は、手のひらの中で指を組み合わせ、中指だけ突き出す印を結ぶ。


「とうとりゃせんぞよ、とうりゃんせ、大神おおがみさまの細道を、お好きな方へとうりゃんせ。行きはよいよいとうりゃんせ、お好きな方へとうりゃんせ」


 姉弟は声を合わせて歌い出した。


「クルリ、廻りて帰り道、返り道ぞと申したら、今が小雪ぞと申したら、これより先の御用なき、者は大神通さぬと。上と下に真っ二つ。帰りは恐いと申すぞよ」


 少し歌詞が違うが、なぜ『通りゃんせ』なのだろうと八尋が思っている内に歌は終わる。夕起子は印を組んだまま眼を閉じ、夜志高は用意した箒を手に取った。

 なんとそれは竹笛になっているらしく、思いのほか高く澄んだ音色が流れる。古来より、日本では箒が神聖な道具とされているが、奇妙な光景だ。

 演奏が続くと、夕起子はゆらゆらと体を揺らす。器から水がこぼれるように、「ああ、くらい」と彼女は言葉をもらした。


「ここはいりぐち、でぐち、かえりみち、よるのおすくに」


 寝言のようにあやふやな声は、それでも歌うように韻を踏んだ。


(……〝夜の食国おすくに〟だって?)


 それは『古事記』において、月読つくよみのみことが支配するよう命じられた地だ。


――辞書を引けば、「のの」とは「日・・神・仏など、尊ぶべきものを指していう幼児語」


 父の記述を八尋はまざまざと思い出す。まさか、〝ねねさま〟とは月読尊なのか。


「夜の食国とは誠なりや」


 夜志高が演奏をやめて問う。


「ねのくに、そのくに、とことはに。よるのおすくに、ねむらさる」


 答えて一拍、夕起子は「あァぁあ」とうめいて身をよじった。


「ここは……死の世界夜の世界ねねのみことが眠っているだからあたしたちには気配がつかめなかったんだみんなおそれてる七守ななかみどうの獣も鳥も魚も虫もよるのおすくにからあらわれないよう供物を捧げて祈っているみんなそう月の神さま――」


 ボタボタとよだれをこぼすような、とめどない言葉の洪水がふつりと途切れる。夕起子は天井を仰ぎ見て、ガクガクと首を揺らした。血走った目をカッと開く。

 ばつんと音がして、夕起子の金髪がほどけた。


「――あねさま!?」


 夜志高が竹笛箒を振りかぶった瞬間、彼のポケットでスマホが鳴る。勝手にスピーカーフォンが入り、そこから夕起子の声がした。


『ヨシ、早く逃げな! 白草さんを連れて急いで!』


 座布団から立ち上がろうとした八尋は、その電話で中腰のまま固まる。これは彼女からの警告か、それとも乗の時のように、偽物が惑わせようとしているのか。


『そいつはもう、あたしじゃない! 逃げないとみんな殺さ――』

「人の姉貴に手ェ出してんじゃあねえぞド腐れがァ!!」


 夜志高は夕起子の頭に箒を叩きつけた。剣道の面打ちのようにスパンと小気味よい音がし、けいれんしながら彼女は仰向けに倒れる。

 その体が見えない何かに引きずられ、部屋の外へと連れて行こうとした。白い着物が畳の上をこすり、頭が敷居に当たって揺れる。


 その肩や腕にぶつりと並んだ穴が空いて、着物を赤く染めた。見えない獣が彼女に噛みついているかのようだ。服の内側から爪で引っかくような音がする。

 夜志高は姉の腕に数珠を絡ませ、綱引きの状態になった。


「白草サン、箒を! どこでもいいから姉をぶっ叩いて下さい!」


 その言葉で八尋は弾かれるように動いた。

 箒はゴミを掃き出すゆえ、払う=祓う力があると言う。どの程度の強さにすればいいか迷いながら、五、六カ所の噛み傷を中心に叩いた。


「もっと強く!」


 夜志高に怒鳴られ、ひぇい、と変な返事をしてしまう。一方彼は剣指を組んで、必死に呪文のようなものを唱え始めた。


「この期におよび申しても、此方こなたは悔いもあらんから、此方の岸とはさようなら! 一心不乱に嘘吐く舌は腐りくると知れ、目の玉腐りくると知れ!」


 夕起子の体から、ぶすぶすと白煙が立ち上る。今朝と同じだ。彼女の体にも、柊家の護り刺青が入っているのだろう。煙を払うように八尋は箒を振るった。

 傷口から流れる血が、箒によって舞い上がる。


「あまつさえ手足腐りくると知れ、腹も腐りてると知れ! 汗出し泣き見て苦しみもがき道求め、神はいずこと渡り来て、ようやく知りうる神の守護!」

「ゔゔゔゔゔ」


 がりがりと、夕起子の指が苦しげに畳を掻きむしった。夜志高は数珠を繰り、ぐいと姉を部屋の中に引き入れ、腕の中へと抱きこむ。


「神一理いちりの別れ道、彼岸に上る舟となる!」


 その背を手のひらで力いっぱい打った。


「お覚悟いたして下されよ、かつ!」


 ぱぁん、と乾いた音が響くとともに、夕起子の体からぐったりと力が抜ける。もう難は去ったのだろうかと、八尋は箒を持ったまま辺りを見回した。


「あねさま……」


 これまでの強く太い声からは想像もできなかった、泣き出しそうな声で夜志高は夕起子を抱きしめる。乗の憑き物を落とし、その体から出て来た鴉をあっさり払ったこの姉弟でさえ、の――〝ねねさま〟の前に倒れるのだろうか。

 八尋は、気がつくと震えが止まらなくなっていた。

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