弐拾壱 軽々(けいけい)に神を扱うなかれ

 救急車を呼んだものの、八尋やひろはまだ混乱していた。説明を求めるように柊姉弟を交互に見やると、夜志よしたかが断りもなく煙草に火をつける。


「当店は禁煙なのですが」


 マニュアル通りの言葉で注意すると、夕起子ゆきこが「ごめんねー」と手を振って、弟の背中をぐいぐいと外に押しやった。彼女は彼女で、八尋が鈍器にしようとした木製スツールを起こし、悠々と腰かける。マイペースな姉弟だ。


 さっき口から出た鴉たちが本体だったのか、あれがだったのか、八尋には何も分からない。ここにあるじょうの体さえ、本人のものかも怪しい。

 首筋に手を当てると温かく、ちゃんと脈があった。八尋が親友の顔を拭き、頭の下にクッションを敷いたりしている間、夜志高は長々と一服する。

 やがて携帯灰皿に煙草を始末して、彼は店内へ戻った。


丹村にむらサンですが、確かにご本人ですよ。ま、このままじゃ意味がありませんが」


 一瞬ぎょっとしながらも、八尋は努めて冷静に耳を傾けた。


「この体はかつて、名前と意味とを持っていました。意味ってのはお人柄や人間関係、世界の中に占めている椅子、雑にまとめりゃ魂です。それが別々に存在して、まあ幽霊の成りかけと言った具合ですね」


 つまり死んではいないが生きてもいない、乗はこのまま目を覚まさないということか。いや、成りかけということは、遠からず死が待つのだろう。


「で、幽霊ってのは死んでいる途中、つまりまだ生きている魂なんですよ。生命が終わる時は成仏の時。魂だけで不安定なぶん、大抵は山で神さまに保護されてんです」

「山中他界」八尋はつい独語した。


 古来日本では、集落で亡くなった者の遺体を近くの山に遺棄する習慣があった。山に葬られた故人の霊は山中を彷徨い、やがて山頂から昇天して氏神となる。

 この信仰が、日本に伝来した仏教に焼き直されたのが年忌法要だ。三十三回忌の弔い上げまで、死者は個別の人格を持って山という異界に留まる。

 とはいえ、山にいるのは「死霊」のはずだったが……。


「少なくともウチの宗派じゃ、そういうことで一つ。で? 私らが知らねえ間に色々あったみてえですが、詳しくお話ししていただけますかね、白草しらくさサン」


 他にもまだまだ聞きたいことがあったが、八尋はざっと説明を試みた。水中で口を開けば酸素が逃げる、それとよく似た苦しさを覚えながら、つっかえつっかえに。


「あー、つまり――三日前、ろれつの怪しい丹村サンが店先に現れて、なぜか玄関も開けられない。すわの差し金かと電話をかけたら丹村サンが出たので、目の前にいる偽物はそのまま放置したら消えちまい、後から丹村サンが帰ってきた、と」


 八尋の話す速度の三分の一以下で、夜志高は要約した。次から長い話をする時には、スマホか何かで筆談させてもらえないだろうか。


「面倒なんで今度からはもう、スマホで筆談でもして下さい」


 我が意を得たりとばかりに八尋はうなずいた。いちいち先読みするような言動が不思議だが、夜志高が霊能者だと思うと、まあそんなものなのだろう。


 そんなことより問題なのは、あの時……よりにもよって、自分が乗を見捨ててしまったことの方だ! 店先に現れた乗はひどく汗をかいて、青ざめた顔をしていた。

 きっとに追われ、八尋に助けを求めようとしたのだろう。だというのに、近づくなと怒鳴りつけて、目の前で偽物に電話をかけて。


 乗の絶望は、どれほどのものだったか。


 こうなったのは自分のせいだ。なぜなら、ずっと認めたくなかった。

 目の前の彼が偽物なら、本物の乗がどうなっているか。それはおそらく、地獄のような場所に連れて行かれたのだろう、と。

 彼の母がどんなことになったのか目にしたのにもかかわらず、大事な場面で見捨てた。どんな凄惨な責め苦を味わわされているのか、考えたくもない。


(でも僕は考えなくちゃいけなかった、疑わなきゃいけなかった)


 十一年前、乗の異変に気づいた時のように。同じことができていれば、もっと早く対処できたかもしれないのに。次から次へと後悔が津波のように押し寄せる。

 目の前が真っ暗になるかと思った瞬間、火花が散った。ばぢん、と額を弾く衝撃と音に、強烈なデコピンを喰らったと理解する。


「あぐっ!?」


 頭の中がチカチカして、八尋はうずくまった。痛い。痛いが、不思議とスッキリしている……胸を押し潰しそうな自責の念が、雲散霧消しているのだ。

 こみ上げてくるはずの感情が凪いでいる、その実感に吐き気がした。


「ま、体があるだけマシですよ」


 夜志高がかける声には、特に慰めや温かみの色はない。ただ淡々と事実を述べるだけ、という他人事の感触。おそらく八尋にデコピンしたのは彼だ。

 この男は人の感情にまで干渉できるのかと思うと、ゾッとした。


「丹村サンと白草サンには、正式でなくとも私のタトゥーが入っていましたからね。柊の家は受け身の型しか持っていねえんで、こっちからカチコミかけるようなことはできゃしません。代わりに、一度破られてもふみが残っている限り再利用ができます」

「最初から、タトゥーが……ない人の……場合は?」

「気絶するまで殴ります」


 店内で暴力行為におよばれなくて良かった。いや、充分暴力だったが。

 ともあれ、先ほど夜志高が見せた憑き物落としは便利な超常能力ではなく、一定の条件をそろえねば本領が発揮できないもののようだ、と八尋は理解した。


「あ、鴉の方はね、雑鬼ざこってのもあるけど、丹村さんとの縁つながりで消したって感じね」夕起子が付け加える。


 そこまで話したあたりで、救急車が到着した。そういえば、店の前に散らばったガラスと障子の残骸も片付けていない。やるべきことは山ほどある。



 意識もなく、親族もいない乗は、一時的に八尋が身元引受人となって入院することとなった。諸手続きをこなし、必要な物をそろえて、戻ってきたのは十五時ごろだ。


「おっつかれー。窓の方、応急処置しといたよ」


 乙夜いつやどう書店二階の居間、夕起子がまず手を振って出迎えた。確かに、破られた窓ガラスの上に、段ボールが養生テープで貼りつけられている。

 クーはすっかり彼女に懐いているのか、膝上で白黒の体を丸めていた。昼食にしたのか、傍にハンバーガーショップの紙袋が置いてある。


 夜志高らは一日空いているということで、父の豊から借りた取材ノートと、こちらが作ったまとめに目を通してもらえないか、と八尋から頼んでおいたのだ。

 会釈で謝意を示すと、夜志高がレポートを閉じて顔を上げる。


「白草サン、ちょいとお聞きしたいことが」


 うなずきながら、八尋は座布団を引っぱってきて座った。クーが夕起子から八尋の膝へ移動し、「あー、猫ちゃーん」と彼女が悔しげに声を上げる。


「丹村サンに龍椿りょうちん明神の黒見くろみという男について訊かれたんですが、あの時何がありました? こちらが紹介した里見さとみサンに連絡したら、丹村サンは結局そちらとやり取りしてらっしゃらないようでしたしね。あれが悪手だったんじゃないかと」

「え……」


 乗から「黒見という男は知らないと夜志高に言われた」と聞かされていたが、もしかして地下鉄の怪奇現象については、説明していなかったのだろうか?

 先ほど許可をもらったのをいいことに、八尋はスマホのメモ帳に起こったことを書き起こした。横から夕起子が「あ、お昼まだ? 食べる?」と紙袋をよこす。

 ぺこりと頭を下げ、打ち終えたスマホと引き換えにするように受け取った。チーズバーガーとフライドポテト、コーラが入っている。


 財布を取り出して代金を渡そうとすると、夕起子が「いいよ、こんぐらい」と断られてしまった。面倒見のいい気質なのだろうか。

 冷めたバーガー、湿気しけたポテト、ぬるくなったコーラだが、もらった以上文句はない。八尋がポテトをつまみ始めてしばらく、夜志高はメモを読み終えた。


「典型的な『吉備津きびつの釜』ですねえ」

「だよねー」


『吉備津の釜』とは江戸時代の怪奇小説集『雨月物語』の一編で、裏切られた妻が浮気者の夫を祟り殺す話である。妻の霊から逃れるため、夫は祈祷師の力を借りて四十二日間家にこもり、やがて最後の夜を迎えるが、妻は狡猾こうかつであった。

 騙されて安全を確信した夫は、外へ出て殺される、という結末である。


「そのおめでとうございます、ってのは、これで結界が破れたから迎えに行ける、という意味だったんでしょうねえ」

「そ、んな」


 どうやら本当に、乗はその一件について夜志高に相談していなかったらしい。柊姉弟は、それぞれ沈痛に目を閉じた。


「丹村さん、あんなことの直後だから……相当疲れてたんだろうね」

「何か起こるには早すぎると思ったんですが、引きこんじまったなら仕方ありませんや。話した時にこっちも気づければ良かったんですがね、面目ないことで」

「乗、は、助かり、ますか」


 薄いコーラで喉を潤し、八尋は口を動かす。


「魂は、山に……いる、んですよね?」

「おそらくは。概念的神隠しと言えばいいんですかね」


 神隠し。「かやせかやせかやせ」と名前を呼びながら、楽器を叩いて探せば良いのだろうか、という考えが八尋の脳裏によぎる。伝統的な取り返しの儀だ。


「おっと、神隠しは語弊がありました。白草サンが集めた資料を見るに、丹村サンは神への供物として捧げられてしまった。供犠の契約を切らなけりゃどうにもなりませんが、それには神さまと交渉しなけりゃなりません」


 夜志高が言う山の神とは、猿が崇める〝ねねさま〟ということになるのだろう。それは果たして、人間が交渉可能なものなのか八尋には疑問だった。


「ま、それについてはあたしが一度おうかがいを立てるとして」夕起子が自分の顔を指さした。「〝ねねさま〟がいわゆる山の神さまかは怪しいよね。柳田やなぎだ先生は、山の神は里に下りては田の神になり、稲刈りが終われば山に戻る存在っつってたでしょ。でも〝ねねさま〟はそういう感じじゃないじゃん。むしろ異界を支配する山の悪魔、そうねえ、天狗ってのがまだ近いんじゃない? 仏教関係ない方ね」


 柳田先生とは、著名な民俗学者・柳田國男くにお氏のことだろう。確かに、〝ねねさま〟が猿や獣に崇められる神なら、人の農作に手を貸す道理はない。

 しかし。


『天狗にせよ神にせよ、悪神は常に追放されるものです、そして祟りが消えれば善神としてまつられる。あら御魂みたまからにぎ御魂みたまへ、御霊ごりょうから和霊わりょうへ。〝ねねさま〟をそのように祓うことは出来ないでしょうか?』


 八尋がスマホに書いて見せると、夜志高は「はっ」と鼻で笑った。


「白草サン、あなたね。神さまナメんじゃねえですよ。言ってみれば軍隊で相手する怪獣に、人間がタイマン挑むようなもんでしょうが」

「そうそう、仮に追放するにしても、何百人って規模の盛大な祭りが必要になるねー。そんな人手集めるツテなんてないよ? あと、お堂なり神社なり建立する費用とか、管理とかもあるし。白草さんが超お金持ちならワンチャンあるかもだけど」

『無理ですすみませんでした』


 柊姉弟に左右からツッコまれ、八尋はがくりとうなだれながらスマホを打つ。自分の軽率さに嫌気が差した。膝でゴロゴロ鳴いているクーだけが癒やしだ。


「というわけで、向こうのご意向をうかがうべく、ウチの姉に巫女をやってもらおうってことです。白草サン、今から〝ひい来帰らぎ〟の家に来れますか?」

「い、きます」


 そういうことになった。

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