弐拾壱 軽々(けいけい)に神を扱うなかれ
救急車を呼んだものの、
「当店は禁煙なのですが」
マニュアル通りの言葉で注意すると、
さっき口から出た鴉たちが本体だったのか、あれがねぶらまだったのか、八尋には何も分からない。ここにある
首筋に手を当てると温かく、ちゃんと脈があった。八尋が親友の顔を拭き、頭の下にクッションを敷いたりしている間、夜志高は長々と一服する。
やがて携帯灰皿に煙草を始末して、彼は店内へ戻った。
「
一瞬ぎょっとしながらも、八尋は努めて冷静に耳を傾けた。
「この体はかつて、名前と意味とを持っていました。意味ってのはお人柄や人間関係、世界の中に占めている椅子、雑にまとめりゃ魂です。それが別々に存在して、まあ幽霊の成りかけと言った具合ですね」
つまり死んではいないが生きてもいない、乗はこのまま目を覚まさないということか。いや、成りかけということは、遠からず死が待つのだろう。
「で、幽霊ってのは死んでいる途中、つまりまだ生きている魂なんですよ。生命が終わる時は成仏の時。魂だけで不安定なぶん、大抵は山で神さまに保護されてんです」
「山中他界」八尋はつい独語した。
古来日本では、集落で亡くなった者の遺体を近くの山に遺棄する習慣があった。山に葬られた故人の霊は山中を彷徨い、やがて山頂から昇天して氏神となる。
この信仰が、日本に伝来した仏教に焼き直されたのが年忌法要だ。三十三回忌の弔い上げまで、死者は個別の人格を持って山という異界に留まる。
とはいえ、山にいるのは「死霊」のはずだったが……。
「少なくともウチの宗派じゃ、そういうことで一つ。で? 私らが知らねえ間に色々あったみてえですが、詳しくお話ししていただけますかね、
他にもまだまだ聞きたいことがあったが、八尋はざっと説明を試みた。水中で口を開けば酸素が逃げる、それとよく似た苦しさを覚えながら、つっかえつっかえに。
「あー、つまり――三日前、ろれつの怪しい丹村サンが店先に現れて、なぜか玄関も開けられない。すわねぶらまの差し金かと電話をかけたら丹村サンが出たので、目の前にいる偽物はそのまま放置したら消えちまい、後から丹村サンが帰ってきた、と」
八尋の話す速度の三分の一以下で、夜志高は要約した。次から長い話をする時には、スマホか何かで筆談させてもらえないだろうか。
「面倒なんで今度からはもう、スマホで筆談でもして下さい」
我が意を得たりとばかりに八尋はうなずいた。いちいち先読みするような言動が不思議だが、夜志高が霊能者だと思うと、まあそんなものなのだろう。
そんなことより問題なのは、あの時……よりにもよって、自分が乗を見捨ててしまったことの方だ! 店先に現れた乗はひどく汗をかいて、青ざめた顔をしていた。
きっとねぶらまに追われ、八尋に助けを求めようとしたのだろう。だというのに、近づくなと怒鳴りつけて、目の前で偽物に電話をかけて。
乗の絶望は、どれほどのものだったか。
こうなったのは自分のせいだ。なぜなら、ずっと認めたくなかった。
目の前の彼が偽物なら、本物の乗がどうなっているか。それはおそらく、地獄のような場所に連れて行かれたのだろう、と。
彼の母がどんなことになったのか目にしたのにもかかわらず、大事な場面で見捨てた。どんな凄惨な責め苦を味わわされているのか、考えたくもない。
(でも僕は考えなくちゃいけなかった、疑わなきゃいけなかった)
十一年前、乗の異変に気づいた時のように。同じことができていれば、もっと早く対処できたかもしれないのに。次から次へと後悔が津波のように押し寄せる。
目の前が真っ暗になるかと思った瞬間、火花が散った。ばぢん、と額を弾く衝撃と音に、強烈なデコピンを喰らったと理解する。
「あぐっ!?」
頭の中がチカチカして、八尋はうずくまった。痛い。痛いが、不思議とスッキリしている……胸を押し潰しそうな自責の念が、雲散霧消しているのだ。
こみ上げてくるはずの感情が凪いでいる、その実感に吐き気がした。
「ま、体があるだけマシですよ」
夜志高がかける声には、特に慰めや温かみの色はない。ただ淡々と事実を述べるだけ、という他人事の感触。おそらく八尋にデコピンしたのは彼だ。
この男は人の感情にまで干渉できるのかと思うと、ゾッとした。
「丹村サンと白草サンには、正式でなくとも私のタトゥーが入っていましたからね。柊の家は受け身の型しか持っていねえんで、こっちからカチコミかけるようなことはできゃしません。代わりに、一度破られても
「最初から、タトゥーが……ない人の……場合は?」
「気絶するまで殴ります」
店内で暴力行為におよばれなくて良かった。いや、充分暴力だったが。
ともあれ、先ほど夜志高が見せた憑き物落としは便利な超常能力ではなく、一定の条件をそろえねば本領が発揮できないもののようだ、と八尋は理解した。
「あ、鴉の方はね、
そこまで話したあたりで、救急車が到着した。そういえば、店の前に散らばったガラスと障子の残骸も片付けていない。やるべきことは山ほどある。
◆
意識もなく、親族もいない乗は、一時的に八尋が身元引受人となって入院することとなった。諸手続きをこなし、必要な物をそろえて、戻ってきたのは十五時ごろだ。
「おっつかれー。窓の方、応急処置しといたよ」
クーはすっかり彼女に懐いているのか、膝上で白黒の体を丸めていた。昼食にしたのか、傍にハンバーガーショップの紙袋が置いてある。
夜志高らは一日空いているということで、父の豊から借りた取材ノートと、こちらが作ったまとめに目を通してもらえないか、と八尋から頼んでおいたのだ。
会釈で謝意を示すと、夜志高がレポートを閉じて顔を上げる。
「白草サン、ちょいとお聞きしたいことが」
うなずきながら、八尋は座布団を引っぱってきて座った。クーが夕起子から八尋の膝へ移動し、「あー、猫ちゃーん」と彼女が悔しげに声を上げる。
「丹村サンに
「え……」
乗から「黒見という男は知らないと夜志高に言われた」と聞かされていたが、もしかして地下鉄の怪奇現象については、説明していなかったのだろうか?
先ほど許可をもらったのをいいことに、八尋はスマホのメモ帳に起こったことを書き起こした。横から夕起子が「あ、お昼まだ? 食べる?」と紙袋をよこす。
ぺこりと頭を下げ、打ち終えたスマホと引き換えにするように受け取った。チーズバーガーとフライドポテト、コーラが入っている。
財布を取り出して代金を渡そうとすると、夕起子が「いいよ、こんぐらい」と断られてしまった。面倒見のいい気質なのだろうか。
冷めたバーガー、
「典型的な『
「だよねー」
『吉備津の釜』とは江戸時代の怪奇小説集『雨月物語』の一編で、裏切られた妻が浮気者の夫を祟り殺す話である。妻の霊から逃れるため、夫は祈祷師の力を借りて四十二日間家にこもり、やがて最後の夜を迎えるが、妻は
騙されて安全を確信した夫は、外へ出て殺される、という結末である。
「そのおめでとうございます、ってのは、これで結界が破れたから迎えに行ける、という意味だったんでしょうねえ」
「そ、んな」
どうやら本当に、乗はその一件について夜志高に相談していなかったらしい。柊姉弟は、それぞれ沈痛に目を閉じた。
「丹村さん、あんなことの直後だから……相当疲れてたんだろうね」
「何か起こるには早すぎると思ったんですが、引きこんじまったなら仕方ありませんや。話した時にこっちも気づければ良かったんですがね、面目ないことで」
「乗、は、助かり、ますか」
薄いコーラで喉を潤し、八尋は口を動かす。
「魂は、山に……いる、んですよね?」
「おそらくは。概念的神隠しと言えばいいんですかね」
神隠し。「かやせかやせかやせ」と名前を呼びながら、楽器を叩いて探せば良いのだろうか、という考えが八尋の脳裏によぎる。伝統的な取り返しの儀だ。
「おっと、神隠しは語弊がありました。白草サンが集めた資料を見るに、丹村サンは神への供物として捧げられてしまった。供犠の契約を切らなけりゃどうにもなりませんが、それには神さまと交渉しなけりゃなりません」
夜志高が言う山の神とは、猿が崇める〝ねねさま〟ということになるのだろう。それは果たして、人間が交渉可能なものなのか八尋には疑問だった。
「ま、それについてはあたしが一度おうかがいを立てるとして」夕起子が自分の顔を指さした。「〝ねねさま〟がいわゆる山の神さまかは怪しいよね。
柳田先生とは、著名な民俗学者・柳田
しかし。
『天狗にせよ神にせよ、悪神は常に追放されるものです、そして祟りが消えれば善神として
八尋がスマホに書いて見せると、夜志高は「はっ」と鼻で笑った。
「白草サン、あなたね。神さまナメんじゃねえですよ。言ってみれば軍隊で相手する怪獣に、人間がタイマン挑むようなもんでしょうが」
「そうそう、仮に追放するにしても、何百人って規模の盛大な祭りが必要になるねー。そんな人手集めるツテなんてないよ? あと、お堂なり神社なり建立する費用とか、管理とかもあるし。白草さんが超お金持ちならワンチャンあるかもだけど」
『無理ですすみませんでした』
柊姉弟に左右からツッコまれ、八尋はがくりとうなだれながらスマホを打つ。自分の軽率さに嫌気が差した。膝でゴロゴロ鳴いているクーだけが癒やしだ。
「というわけで、向こうのご意向をうかがうべく、ウチの姉に巫女をやってもらおうってことです。白草サン、今から〝
「い、きます」
そういうことになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます