禍中

弐拾 あにはからんや、かはたれかな

『田助えぁといとおとうざまかふんなあちとつかまえろた』


 起床して八尋やひろがスマホを確認すると、母の甘音あまねから乱れた文面のメールが届いていた。明らかに慌てて打ったものだ。


(助けて、お父さんと、が、変な……人たちと、捕まった?)


 ざっと血の気が引くのを感じながら確認すると、送信時刻は深夜三時。「変な人たち」とはどういうことだ。何かの犯罪か、それとも別の怪異に巻きこまれたのか?

 他のメールはない。あわてて甘音に電話をかける。


『ごっめーん、八尋。おとうさんサプライズだったって』


 底抜けに明るい返事に、「は?」と呆れ声がもれた。こちらは気が気ではなかったというのに。脱力しすぎて、これみよがしに大きなため息をつく。


「だったらちゃんと『サプライズでした』ってメールしてよ、母さん……」

『楽しすぎてその後寝ちゃったから~。ね、今度は智鳥ちどりも入れて、みんなで家族旅行にいかない? たまには親子水入らずもいいでしょ、あなたこの間、おとうさんとしか顔合わせずに帰っちゃったんだから』

「……ああ、うん、考えておくね」


 の件が片づくまでは、旅行なんてとても行く気にはなれない。のんきな母の声は、まったく遠い世界の住人のようだ。

 通話を終えてから、八尋は首をかしげた。


 サプライズといえば、どんなものだったのだろう? メールの文面からすると、どうやらそれなりの人数に手を借りたようだから、相当大がかりなものだ。

 しかし、父は別にサプライズ好きな性格ではない。結婚記念日でも結婚何周年という切りのいい時でもないのに、なぜ急に? しかもあんな深夜に。


(でも、ちょっと変だなってだけじゃな……今は、乗の方をなんとかしないと)


 昨日は、父から借りた取材ノートの山をすみずみ読みこんで一日が潰れた。乗は乗で、相変わらず〝眠りの森〟の足取りをつかみかねている。

 考えこんでいる八尋の太ももを、猫のクーがてしてしとつついて朝食を催促した。黒い足の先だけ靴下のように白く、ピンクの肉球がキュートだ。

 猫の足は真っ直ぐ伸ばしていても、地に着けて曲げても、どちらも愛くるしい形なのですごい。八尋はひととおりクーの相手をして、使い捨ての手袋をつけた。


(ヘナがあると、素手で料理できなくて面倒だな)


 まず猫用おやつ兼保存食に、一本ずつ冷凍保存しているササミを解凍し、その間に猫缶と新鮮な水を出す。今日のササミは八尋のものだ。

 湯を沸かしながら身をほぐし、自家製梅じゃこと合わせたら、薬味にネギ・刻み海苔・白ごまを白飯に乗せる。最後に粉末出汁を入れた熱々のつゆを注いで完成。

 乗が食事を絶ってしばらく経つが、やはり空腹感はないらしい。『行き止まりの音』での一件以来、八尋と食卓を囲んでくれるのは愛猫クーだけだ。


 言うまでもないことだが、ご飯とは米粒の固まり、集団である。そこへ行くと茶漬けは、「軽い食事」というイメージに反して、一粒一粒を味わう料理だ。

 つゆに洗われ粘り気を失った米粒が、サラサラと喉の奥へ運ばれる流れの心地良いこと。流域のそこかしこで米の味が、ササミの味が、出汁の味がして、それを薬味が一つにまとめ上げていく。冬の朝に沁みるつゆの熱さも堪らない。


(……生きているなあ、僕)


 食事をしていると、ふと乗に申し訳なさを覚える。味も食感も分かるが、料理は急速に腐り、正常な意味での食欲もない。早く彼の呪いを解かなければ。

 今できるのは、店番をしながら集めた情報を考察することだ。



「いらっしゃいま……」


 せ、の音が八尋の喉につっかえた。開店間もなく、店の引き戸がガラガラと開けられ、珍しいなと思ったら予想外の客が来たのだ。


「どうも、白草しらくさサン。丹村にむらサンはいらっしゃいますかね?」


 鴨居に頭をこすりそうになりながら、ぬうっと柊夜志よしたかが現れる。存在感ばつぐんの大きな体とドスの利いた声に、八尋はすでに気圧されていた。その上、服。

 真っ赤な火が燃え血が流れ、恐ろしい形相の獄卒が亡者を責めさいなむ、地獄絵図柄のパーカーにモッズコートという、正気が疑わしい着こなしだった。

 こんな格好でタトゥーだらけの男が、スピリチュアル極まりない牙と勾玉つきの最多角いらたか数珠をじゃらじゃらと首にかけているのだ。普段なら絶対に関わりたくない。


「……乗、なら……まだ、上に……」


 彼がいたら夜志高の服にツッコんでいただろうか。それより、乗が言っていた「夜志高は信用するな」が八尋は気になる。


「今日、は……何の……御用……で、しょう」

「いくら連絡しても切られちまうわ着拒されちまうわで、困ってんですよ。仕方ないんで、こっちにお邪魔しました。店の住所は姉が知ってましたし」

「知ってたっていうか、カンだけどねー」


 ひょい、と夜志高の後ろから夕起子ゆきこが顔を出して手を振った。

 長い金髪、日焼けサロンに通っていそうな褐色の肌。こちらはダブルのライダース姿で、服のセンスは遺伝じゃないんだなとホッとしてしまう。


「勘……?」

「んー、多分こっち、多分あっち、って適当にワゴン走らせてたら見つかった」


 もしかして彼女は、霊感で乙夜いつやどう書店を探り当てたのだろうか。


「ウチのタトゥーやヘナもありましたからね。で、丹村サンを呼んでいただけますか? インクの用意はできましたし、いい加減図柄の相談をしませんと」

「は、はい」


 八尋はひとまず二階へ上がるべく、階段に足をかけた。背後から「あ~、猫ちゃんだ~!」と夕起子のはしゃぐ声がする。愛想の良い看板猫だ。

 二段目に足を乗せようとした瞬間、がしゃぁぁん!! と、窓ガラスが割れる音が響き渡った。頭上、今上ろうとした二階からだ。


 振り返ると、玄関の向こうに着地した乗の背が見える。

 降ってくるガラスの破片も物ともせず、駆け出――鋭い風切り音――ぱぁん! とその首に長い数珠が巻きついた。夜志高だ。

 サングラスの下で金の瞳が燃え上がり、まばゆく輝いた。手綱でも取るように力をこめ、広い背中に、コート越しにもくっきり筋肉が盛り上がる。


「おーおそろしや、おとろしや! やれおそろしやおとろしや!」


 片手で数珠を握り、空いた手で人差し指と中指を立てた剣指を結びながら、夜志高は歌うように言った。太く芯の通った声音で、朗々と。

 彼のいる場所だけ、空気が水晶のようにきん、と透き通っていくのが分かった。


「あにはからんや、たれかな! 嵐ぞりるぞ、嵐ぞ降りるぞ!」

「あぁっ、がっ」


 乗が数珠を首から離そうともがいている。かどのある数珠玉や牙、勾玉の先などが皮に突き刺さり、血が滲むほど強く締めつけられていた。

 武器になりそうなもの――工具箱は店の奥だ、間に合わない。八尋はとっさに、自作の木製スツールの足をつかんで振り上げた。


「やめなよ」


 絶妙なタイミングで伸ばされた足に八尋はつまずく。大きな音を立ててスツールが転がり、八尋は新書を積んだ平台に倒れこんだ。

 角が胸に当たってげほっと咳きこむ。上から冷たく夕起子の声がかかった。


「そのまま見ときなって。あれ、あんたが思っているやつじゃないよ」

「や、八尋ぉ!! 助け――っげぅッ!?」


 夜志高が数珠を繰り、乗の叫びを握りつぶす。八尋が立ち上がろうとすると、夕起子が両腕をねじり上げ、膝でその場に押さえつけた。


「惑わされんな! 論より証拠ってね。大丈夫、ウチの弟は優しいからさ」


 そんなことを言われたって、と思いながら、八尋も乗に対する不審がふくらんでいた。夜志高がの手先だとしても、彼が一人で逃げようとするはずがない。

 同じ状況なら八尋は乗を連れて逃げる、最低限声の一つもかける。それは確実に逆もしかりだ。先日から様子がおかしいのも、引っかかっていた点だった。


 濁った苦鳴を上げて、乗は店内カウンター前のスペースへ引っ張りこまれる。誰も触っていないのに、ピシャリと木戸が閉まり、中で起きていることを隠した。

 夜志高は乗の胸を踏んで動きを奪う。

 これは暴行ではない、憑きもの落としだ。そう自分に言い聞かせながら、八尋はズキリと胸が痛む。こんなこと、早く終わってくれと祈るしかない。


「上下二段と申すぞよ! 三段二道は道反ちがえしの大神おおかみが慈悲、塞坐黄泉戸よみどにふさがります大神おおかみが慈悲と申すぞよ! さえ双神そうしんみまかりて、奈落の口き牙剥くと知れ。出てこぬように祈るぞよ、出てこぬように祈るぞよ! 神が人さま祈るぞよ!」


 びりびりと腹の底まで響く大音声。やがて足の下でもがく乗の体から、ぶすぶすと煙が立ち上ぼり、辺りに焦げ臭さではなく花と水の香りが立ちこめる。


(これ、牡丹と……まさか、龍がいる水辺の匂いなのか?)


 だが八尋に戸惑う暇は与えられなかった。白い手袋の下、じゅうっと手全体が燃え上がるのを感じ、そこからも煙が上がってきた。


「ぐううっ……!?」

「やっぱアンタも引きずられてたんだね。弟が〝念〟入りに描いた甲斐があるわ」


 子供のころ、蚊取り線香の火をうっかり足に当てた時を思い出す。チクリと刺されるような感じだったが、あの時と違って、焼けつく痛みが長く大きく、苦しい。

 おそらくこの苦痛を、乗は全身で感じているのだ。


「どちらを鬼が選ぶやら、さらって逃げて愛でるやら。神を知るやら知らぬやら! あちぞと言わばあちに行き、こちぞと言わばこちに来る、逆さとなりしご無理なし」


 怒号のような祈祷の下、乗のもがき方がおかしくなっていった。

 ガクガクと手足をけいれんさせ、陸揚げされた魚のように跳ねるのを無理やり踏みつけ押さえられている。八尋の手も焼け続ける一方で、もうやめてくれと叫びたい。


せいだくにぞ移すらば、いかにて釣り合いとることぞ! 問答無用と申すぞよ、言い訳無用と申すぞよ! けしき移しね左様さようことなら、さようなら」


 夜志高は足を持ち上げ、「はざ左々ささ佐楽さざさるな!」とトドメのように踏んだ。


「けくうっ!?」


 店全体が震動する中、乗が悲鳴を上げて白目を剥く。

 鳥がくように甲高い、異様な断末魔だった。だらりと、米のとぎ汁のようなよだれが垂れる口から、もぞりと黒いものが動く。

 赤子のような鳴き声がした。


「ねねさま」

「ねねさま」

「ねねさま」


 手品師が鳩を口から出すのを見たことがあるが、明らかに喉にも口内にも収まらなそうな鴉が三羽、五羽、十羽と飛び立つ。夕起子は八尋を解放した。


「あら情けなや情けなや、神は心底情けなや!」


 彼女の打ち鳴らす合掌が、頭のてっぺんから雷のように入りこんだ。八尋以上にそれが響いたのか、鴉たちが宙に浮かんだまま固まる。


「足踏み鬼道きどうお知らさぬ、鳴き砂、ざなき、空にお静か聞きなされ!」


 夕起子が二度、三度と手を打ち鳴らすごとに、鴉は黒い塵となって四散した。灰が散るような名残りも、地面にたどり着く前に燃え尽きたように消える。

 八尋はその時、彼女にもまた同心円状に渦巻く黄金色の瞳があることに気づいた。やはりこれは、眼球タトゥーではなく血筋ではなかろうか?

 動かなくなった乗の首から数珠を外し、夜志高はのんびりと言った。


「さあて、救急車を呼びましょうか」

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