拾陸 後の祭りに、先などない
平穏な日々が過ぎ、夏休みに入ると、
学校の行事と家族旅行以外で、こんなイベント事に参加するのは初めてだ。青空の下、両親は喜んで送り出してくれた。
かねてより読書の他に日曜大工を趣味としていた八尋は、斧による薪割りという意外な特技を見せ、周囲を驚かせた。
事件が起こったのは三日目の川遊びだ。何メートルもある高い崖から、川へ向かって飛びこむ一種の度胸試し。先陣を切ったのはもちろん乗だった。
碧く透き通った水面へ、しぶきが鮮やかに光って虹を描く。川底は碧が深くて、沈んでしまうとその姿はおぼろな影になった。
波が収まった後も、乗は中々顔を出さない。八尋の胸に、ざわっと言い知れない物が湧き上がる。熱くて冷たい、今まで感じたことのない真っ赤なアラートの温度。
「……長くねえか?」
「乗――! ふざけてねえで出て来いよ!」
「頭でも打ったんじゃね?」
仲間が口々に心配する横を突っ切って、八尋は川へと飛びこむ。乗が
全身を白い水泡が包み、鼻に喉に水が入ってヅンと痛んだ。大気中から水中への気圧差で意識が明滅する。その上渓流は予想より深く、流れが速い。
結局の所、八尋の方が溺れかけて、乗に救助された。
「おまえバカか!? マジ死ぬじゃねーか!」
開口一番怒鳴られて、思わず「君が死にそうになるからだろ!」と怒鳴り返す。乗は崖上の仲間に「大丈夫だ」と手を振ってから、八尋を岸辺に引っ張り上げた。
「なんで、すぐ上がってこなかったんだ、君」
「いや……、ちょっと頭ぶつけて、くらっとしてさぁ」
「やっぱり危なかったんじゃないか!」
八尋の方が助けられたのだから、飛びこむ必要はなかったのだろうが。崖上へ二人で歩き出しながら、乗がくつくつと笑い出す。
「しっかし驚いたなあ、おまえが真っ先に助けに来るなんて」
「……体が、勝手に動いたから」
八尋は他に答えようがない。すると、乗はぴたりと足を止めて真剣な顔になった。こちらの目を真っ直ぐ見つめ、心の奥底まで見透かそうとするように。
「八尋。今のでおまえ、死にかけたんだからな。もう二度とするなよ」
「うん」
短い返答だけでは、乗は満足しなかった。
「おまえがいなくなった世界ってさ、きっと恐ろしくつまんねえんだよな。そりゃもう、死んだ方がマシってぐらい。だから、おまえが死にたくなったらいっしょに死んでやる。でも、自分から死にに行くことだけはすんなよ」
乗の一言一言が、八尋にはあまりに意外で、あっけに取られてしまう。
ありがとうと言うべきなのだろうか。とんでもなく高価で立派なプレゼントを突然つきつけられたような戸惑いに、八尋は言葉をしぼり出すのに苦労した。
「僕に、そんな価値、ない」
「おまえがどう思ってんのか関係ねえよ! オレだって今さっき気づいたんだって。あ、こいつ死ぬなって思った瞬間、どんだけゾッとしたか」
「は」
は、は、は、と笑いがこぼれる。乗は八尋の様子に目を丸くしていたが、そのうちつられて笑い出した。二人、大声で馬鹿笑いをしながら、上とへ戻っていく。
一度は乗を殺したいと夢想さえした。だが八尋がそんなことをするまでもなく、いっしょに死んでも構わないと、そこまで言うのだ、このバカは。
その年の夏は、人生で一番楽しかったと思う。
◆
「
夏休み明け、始業式後のホームルームで担任が告げた時、クラスが少しざわついた。相手は写真屋を営んでいるらしい。
八尋の脳裏によぎったのは、祝福ではなく目いっぱいの不安だ。
乗の母親は、子供に暴力を振るうような男と何人も再婚した。なぜ今になってと考えるなら、それは祖父母の死が関係しているのだろう。
最初は祖母が、次に祖父が後を追うように亡くなったのは、乗が中学三年生の時だ。それで母親を止められる者がいなくなった。
「……乗、大丈夫か?」
昼休み。校舎裏で二人きりになると、八尋は思いきって訊ねた。
「んー? ヘーキヘーキ、今に始まったことじゃねーし。第一、オレが強いの知ってんだろ? 見ろよこの筋肉」
乗が作った力こぶは確かに身がつまって、強そうに見える。それに、制服の上からでも分かる厚い胸。
「暴力振るう親ってさ、息子が中学生や高校生ぐらいなると自分も歳取ってくるし、けっこう反撃されちまうもんなんだよ。負ける自信はねえな!」
「確かに」
乗がさらに正拳突きやら回し蹴りやらを披露するので、八尋は納得するしかない。一通り演舞が終わった後、乗は「そうだ!」と声を上げた。
「い、いきなり大声はよしてくれ。苦手なんだ」
「あ、
だいぶ和らいだとはいえ、八尋の神経過敏は今もある。「それで?」と続きを促すと、乗は誇らしげに「見せたいモンがあんだよ」と胸を張った。
教室に移動し、乗が鞄から出したのは、大学ノート三冊に手書きされた小説だ。
「八尋の読んでいたら、オレもやってみたくなってさ。ところで処女作ってエロいよな。処女が……作る……」
「童貞作だと格好つかないからじゃないかな。読んだら、明日には感想言うよ」
「おう! 楽しみにしてるぜ」
小説は、父親に性的虐待を受ける少女が、親友といっしょに父親を殺し、その死体と殺人を隠蔽するというサスペンスだった。二人は警察に捕まることもなく、最後まで逃げ切るかと思いきや、共に心中して物語を閉じる。
少女たちは罪を犯したが、虐待描写が迫真で同情せずにはいられない。殺人を成し遂げた後も、罪の意識に苦しむ様は痛々しく、八尋は自然と涙をこぼしていた。
……たまに、いるのだ。初めてと言いながら、文章のセンスも物語も抜群の作品を書き上げてくるやつが。浦辺、改め丹村乗もそういう人間だった。
八尋に付き合って読書をしていたからか、天性の才能か――才能。その言葉を、苦々しく噛み締めながら、八尋は率直な賞賛を述べた。
感想を聞いた彼の笑顔は心底嬉しそうで。……けれどよくよく見れば、苦しげな微笑がひそんでいたのではないか、と後で思った。
その時に気づけていれば、と八尋はこのことをずっと悔やんでいる。もっと上手く、すべてを片付ける道があったはずなのに。何もかも早すぎて、遅すぎて。
人間は後手に回る生き物だ。だから嘘をつき、ごまかし、手遅れになったものを別の何かでカバーしていくしかない。
あの時自分が選んだやり方は、きっと正しくないのだろう。
それでも、あれが最善だといくらでも偽ってやる。同じことがあれば、再びその行為をくり返すことに八尋は
◆
――良かった、血が布団からこぼれなくて。
それが、初めて人を殺した時の感想だった。
裸の乗は布団の上で半身を起こし、自分に覆い被さる男の死体と、レインコートを着て手斧を持った八尋を交互に見つめている。
「や、ひろ」
今まで聞いたことのない、震えた声。
見たことがない青ざめた顔に、涙のように血がついている。
「ちゃんと死んでいると思うよ」
「そうじゃねえ。そうじゃねえだろ」
乗はどう説明したものか困ったように、頭を抱えた。ずいぶん、長いこと。八尋は死体の始末に考えを巡らせていたが、とりあえず彼を安心させるため斧を置いた。
眼鏡に点々と血がついているのに気づき、どうせ処分するならと布団でぬぐう。
「……なんで、おまえがそんな物持って、タイミング良くうちに来るんだよ」
「だって、君、最近様子がおかしかっただろ。学校でも、繁華街の方で見たって噂が立っていたし。大人の男と二人だけだったって」
「ああ……」
自分でも驚くほど、八尋は淡々と説明できた。たかがこんな男一人殺したぐらいで、心をすり減らすのが馬鹿らしかったからだ。
「で、君は男とラブホテルに入って、しばらくしたら出て来た。そしたらその相手は、おばさんの再婚相手じゃないか。だったら、まあ、最悪な推論ができるよね」
推論の梯子を下りて、上って、また下りて。
情報を集め、検討し、八尋は一つの答えを得た。
乗の母は美人だが、彼本人も綺麗な顔立ちをしている。それが少年の瑞々しい若さと合わさって、欲に負けたけだものがいたということだ。
ピッキングも練習してみれば意外といけた。そして手に馴染んだ斧。
「悪いけれど、夜中にこっそり君の家に行った。おばさんが夜勤の日に、何かあるんじゃないかと思って。その時に助けられたら良かったけれど、準備がなくて」
「……それ、いつの話だ」
「一昨日。遅くなって、本当にごめん」
乗は顔を覆って深々とうつむく。服を着たら、と勧めたが、彼は喉から声を振り絞って叫んだ。悲痛さで何かが裂けてしまいそうなそれが、部屋中に響く。
「……おまえにだけは、こんなこと、知られたくなかった!」
おまえにだけ?
そうじゃないだろう、きっと君は誰にも知られたくなかったはず――とは、黙っておいた。長い間、乗は八尋が想像もしなかった激しさで慟哭した。
それが収まってきた処で訊ねる。
「君は、どうしてあの小説を書いたの?」
乗が母の再婚相手に受けた性的虐待は、おそらく夏休みの内、少なくともキャンプの後から始まっていたのだ。嫌なことがあっても、それを小説にすると楽になる、と彼に言ったのは八尋自身だった。だからこそ、気づくのが遅れたのが口惜しい。
夜中に乗の家を訪れ、寝室の様子をうかがった時、ごく自然に殺意が生まれた。
「……君、もし僕に何かあったら、いっしょに死んでいいって言っただろ。僕だって同じだよ。命の重さって、そういうことじゃないかな」
人を殺す、存在を消すということは、その相手が
立つのも、
座るのも、
歩くのも、
飲むのも、
笑うのも、
眠るのも、
喜ぶのも、
悲しむのも、
食べるのも、
息をするのも、
すべて許さない、存在まるごと否定するということだ。人は人を殺してはいけない、法律だから、割れた卵は元に戻せないから、地獄に堕ちるから。
だが奈落の底で、
「乗、とりあえずシャワーを浴びて、服を着なよ。それからこの死体、始末しよう」
「始末、って」
「調べたんだ。持ち運びやすいようバラバラにして、内臓は細かく潰して猫砂と混ぜる。そうしたら臭いが消せるからね。埋める場所も決めてある」
用意がいいなと呆れながら、乗は服を着る。母親が夜勤から帰って来るまでに、解体作業を済ませねばならない。
「ちなみに、コレに弱みとか握られている? スマホとか、君の写真なんかがあったら念入りに壊しておこう」
「ああ。なんか……おまえって、とんでもないやつだったんだな」
男は体格が良いが、乗と本気で殴り合って勝てるかどうかは五分五分、といったところか。だが八尋は、あえてその経緯を訊く気はない。
「崖から飛びこんだ時と同じだよ。同じ。体も頭も、勝手に動いた」
「……そっか。そうだな、おまえはそういうやつだ」
二人で死体を埋める間、乗はぽつりぽつりと事の経緯を話してくれた。
母が夜勤の日には、義父は必ず手料理を振る舞い、乗と食卓を囲んだ。優しい人だ、母のこともこれで安心だと思った、が。
料理には義父の精液と睡眠薬が入っていた。
乗が薬で眠っている間、好き勝手に体を
(死んだ相手って、なんでもう殺せないんだろう)
不可能と理解していても、八尋はそう思わずにはいられない。
反撃されたら負けることを見越し、一発で仕留めたが、本当はジワジワなぶり殺しにしてやりたかった。泣き叫び、命乞いしながら乗に謝らせたかったが、仕方ない。
こうして丹村某という写真屋は行方不明になった。
◆
「オレが探偵開業する時は、八尋もいっしょにやってくれよ。鬼に金棒ってね」
「いや、僕は大学を出たら本屋をやるんだ。叔父さんが古民家を持て余していて、そこをもらって改造しようかなって。君には悪いけど」
「ちぇ。小説、もう書かねえの?」
本屋をやるのは八尋の夢だった。いつか小説で乗を負かしてやろうと思ったけれど、どうしても彼の作品を越えることができない。
あれは彼の悲痛な叫びから生まれたものだからなのか、乗自身の才能なのか、どうしても知りたかったが、彼は執筆にすっかり関心を失ってしまった。
あの助けを叫ぶ作品が最初で最後の執筆なんて、悲しすぎる。
「うん、僕はいいんだ、小説は」
君が書かないなら、もう、自分も書かなくていい。
乗は中小の探偵業者から独立したころ、髪を黒に戻した。理由を聞けば、「タトゥーと合わないから」。上半身に大きく彫られた抜き彫りの龍と牡丹は、見事な肌絵であると共に、乗がまた一つ遠くに行ってしまったような気がした。
それでも彼は彼だ。
乗を一人では死なせない。彼が死ぬ時があれば、八尋はどんな手段を使ってでもそれを阻止するだろう。
だから、横合いから出て来た〝ねぶらまの棺〟などに、彼を奪わせない。
(あいつの命は、僕のものだ)
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