拾伍 死ぬには早すぎて、殺すには遅すぎる

 じょうが敬語になったのは一瞬で、彼はフランクに感想を述べた。


「チカとユミエが、アキトとリンヤのどっちが犯人かでケンカしちまうだろ? もー、そこで『続く』なんて鬼かと思ったね! 二人が仲直りして、マジ、オレ泣きそうだった~。あ、それから祖父じいさんがチカを励ますシーンが……」


 からかわれているのでは、という疑念が八尋やひろによぎる。

 でも、もし万が一、本音なら嬉しい。


……嬉しい?

 違う、これはそんな言葉ではない。そんな形ではない。


 もっと痛くて忌まわしい物。不登校になって以来、逃げ続けて来た他人の温度が、熱が、痛みとなって突き刺さる。八尋は部室の窓から飛び出したくなった。

 文芸部員の、ここが良かった、あそこが良かったという評は、あくまで公平な目線での批評だ。乗の面白い! は、純粋に作品を夢中で読んだ者の声で。


白草しらくさ先輩! チカとユミエ新シリーズまだ?」


 彼に続きを催促されると、八尋は胃の腑が重くなってたまらなかった。次は前より面白く書けるだろうか、期待外れと言われないだろうか。

 飽きれられて、忘れられてしまわないだろうか。


「白草先輩! 新作のトリック、オレ当てたぜ! あっ、でもそれより、チカとユミエに新しくできた友達のウララ良いよな~。また出番ある?」


 彼といると不安で頭がクラクラする。殴られたり罵られたりしているわけでもないのに、顔を見ると体の中心がぎゅっと縮み上がる。耳に嘲笑がこだまする。


「白草先輩って、どうやって小説書いてんの?」

「ええっと……本を、たくさん読んで……思いついたことは、メモする……」


 何度も似たような会話を交わす内に、彼の興味は八尋の小説より、「どうしたら自分も書けるか」――というより、「どうしたら自分も探偵になれるか」という方向にあると分かった。ああ、こいつ、バカなんだなとその時改めて軽蔑を覚えたものだ。


(推理小説を読めば探偵になれるなら、誰だって名探偵じゃないか)


 小説と現実は違う。中学生の身でアルバイトをしているということは、乗にも色々事情があるのだろうが、八尋から見て彼は恵まれた人間だった。


 文芸部員から伝え聞くに、乗はかなり目立つ生徒らしい。容姿端麗、スポーツ万能、学業もまあまあの位置をキープと来ては、放っておかれるはずがなく。

 実際、何人かと交際したこともあったようだが、詳細は知らない。知りたくもない。遊び仲間も多くて、いつも数人の取り巻きがいる、と。


 その乗が、空手部やアルバイトの忙しい合間を縫って、八尋に会いに来ようとする。八尋も、彼が来やすいよう昼休みに部室に行くことが増えた。


(僕は……彼をバカだと思っているのに)


 そのくせ来訪を心待ちにする自分も、バカなのだろう。

 小説を読んで探偵を夢見るような間抜けに、的外れな賞賛をされて喜ぶ、それほどに他者の承認を乞う己が惨めで仕方がない。だがやめられない。


(いっそ、僕の知らない所であいつが死んでくれたら)


 結局、自分は浅ましいのだ。とろりと粘性の甘さが喉を降りて、腹に広がり、脳が陶酔感でふわっと浮き上がったまま中々降りてこない。

 それが体を蝕む猛毒だと知っていても。


……そういえば、有毒の生き物ほど派手な姿をしているものだ。

 浦辺うらべ乗は毒蛇で、自分はそれに引っかかった獲物。時おり正気に戻って激しい自己嫌悪に陥っても、彼に会えば自ら毒されることを望んでしまう。


(それとも、僕の方が先に死んでしまえばいいのかな)


 八尋が不良生徒にカツアゲされそうになった時、「こいつ、オレのダチだから。手ぇ出さないでもらえます?」と彼に助けられた時は、ひどく情けなかった。

 乗は空手の技で、楽々と上級生を叩きのめしたのだ。浦辺乗は、白草しらくさ八尋が持っていないものを何でも持っている。

 誰を相手にしても物怖じせず、輝かんばかりに陽気で、はつらつとして、陰気なオタク野郎をダチだなんて無神経に言い切ってしまう。


(……でなければ、ああ)


 甘い毒に酔っ払ったまま、夢見るように過ごせれば良かった。下らないプライドをすべて手放して、臆面おくめんもなく心を明け渡してしまえれば。

 確かなのは、いつか自分はその毒に殺されるだろう、ということで。


(この手で、殺してやりたい)


 文芸部の部室で、図書室で、はては帰り道から、コンビニ以外でも乗はしばしば八尋を訪ねてきた。それをハッキリと拒絶できたことは一度もない。

 中学最後の春休み。とうとう乗は家の中にまで入りこんで、まったく見事な人たらしだ。彼は昔ながらの日本家屋といった白草家に目を丸くした。


「白草先輩の家、図書館よりすげー! もしかして本でできてんじゃねーの?」

「まあ、うちは本があるのが当たり前、って感じだったから」

「なんか猫もたくさんいるし。十匹ぐらい?」

「ひ、ひいおじいさんの代から、ずっと飼っているんだ」


 家に自ら他人を招き入れたのは何年振りだろう。自宅という安心感から、八尋はいつもより口が軽くなっていた。だから、思い切って訊いてみる。


「君はさ、なんで探偵になりたいの?」

「……いなくなったオヤジを探すため、かな」


 何もかもが輝いて見えた彼には、複雑な家庭事情があると知ったのはその時だ。詳しいことは、数日かけて教えてもらった。


 乗は母子家庭で、幼稚園から小学校まで、母はひんぱんに再婚と離婚をくり返したらしい。そしてどういうわけか、いつもろくでもない男を選んでしまう。

 乗が空手を始めたのは、自分や母親を殴る義父たちと戦うためだった。生活が落ち着いたのは中学入学前、離婚した母が七守ななかみどうの祖父母宅に帰ってきてからだ。

 家計のため、そして家を出て自立するため、乗はアルバイトを始めた。


「オレと血のつながったオヤジはどんな人だったか、母さん教えてくれねえんだよな。まあ今までのことから考えたら、ロクデナシなんだろうけどさ。高校になったら、探偵事務所でバイトできねえかなって考えてんだ」


「一度始めたことだから、とことんまで追ってみたくてさ」と笑う顔に、八尋は初めて影を見た。苦しみに心の平衡が乱された時、人は何とかバランスを取ろうとする。

 悲しみや怒りを安寧と差し引きゼロにする、その努力を隠そうとする笑いだ。


 彼からそんな風に弱みをさらけ出されて、八尋はどう反応したらいいか分からない。同情? 慰め? 励まし? どれも薄っぺらな物にしかなりそうもない。

 なぜなら乗に比べれば、八尋が育った白草家は恵まれたものだ。父はそれなりの仕事と収入を得て、母や弟とも円満に過ごしている。

 そんな自分が彼に何を言えるというのだ。

 上辺だけ取りつくろった言葉をかけるぐらいなら、舌を噛み切った方がマシではないか。空虚な言葉しか口にできないなら、お前など死んでしまえ!


「探偵のなり方調べるのに、探偵小説読むなんて笑えるだろ? でも、おかげで白草先輩に出会えたからオッケーだな!」


 放課後の図書室、乗が笑いかけてくれたことがずっと忘れられない。

 学業も部活動も手を抜かず、将来を見据えてアルバイトに勤しみ、八尋のような者にまで無邪気に好意を向ける。ああ、彼は、強い人なのだ。


 そんなことは最初から分かっていた。


 分かっていたから大嫌いだった。


 強くて美しい人を前にすると、己のみすぼらしさが、浅ましさがただただ浮き彫りになっていく。それが分かっていて、八尋はその浅ましさを正そうともせずにいた。

 乗のまぶしさは、何もない所からぽんと生まれてきたものではない。たゆまず前を向いて、戦って、己を磨き続けていた。その事実に愕然とする。


 夕日を浴びて快活に笑う乗は綺麗だ。そのまばゆさに気圧されて、過去の己を振り返って、八尋は次の問いを発するまで少なからぬ勇気を要した。


「……どう、して、なんだ?」


 バクバクと心臓が脈打って、悲観的な予想ばかりが頭を埋め尽くす。いつものように黙りこんで、何もなかったことにしたい。それでも、八尋は口を開けた。


「僕に会えて、何が、そんなに良かったの?」


 乗は、ピンポン球でも飲んだみたいにぽかんとしていた。

 そんなことを訊かれるとは思ってもみなかったのか、ぱちぱちと大きな目を瞬かせて、しばらく問いを咀嚼そしゃくする。うーんと首を捻って、彼はニカッと笑って見せた。


「だって先輩、面白おもしれーじゃん。こう見えてオレは顔広いけどさ、あんたみたいなタイプってあんまいないんだよ。知り合いの中でダントツに頭良いんじゃねえかな。先輩の話聞くの、好きなんだよ」

「そ」息が詰まって、声がなかなか出なかった。「そう、かな」


 こんな自分の話を好きだと言う――その言葉にきっと嘘はない。彼がそんな嘘をつくはずなどないと、これまでの付き合いで理解していた。

 毒なんて、最初からどこにもなかったんじゃないか。ただただ臆病さと卑屈さで、自家中毒を起こしていただけだ、と八尋は初めて思えた。


「つーか先輩、自己評価低すぎね? オレの宿題とか試験勉強手伝ってくれるし、教え方分かりやすいし。今さら水くせえな~。あーあ、泣いちゃおっかなー、オレ」

「ご、ごめん」

「ばか、冗談だよ」


 乗はぷっと吹き出した。

 一呼吸と言うにも短い小さな笑いが、胸の奥底にふっと響いて、長い長い余韻を響かせる。残響は八尋の中で、千々に乱れた声になった。

 それはこう言っている、この人の横に立ちたい、それに相応しい人間になりたい。彼が「こいつすげえんだぜ!」と言った時、胸を張れるような。



 高校――七守道学院大学付属高に進学しても、八尋の不登校は克服し切れず、出席日数不足で留年した。それが変わったのは、乗と同じクラスになってからだ。


同学年タメだから、これからは先輩じゃなくていいよな」彼は全身で大歓迎を示して、勢いよく肩に腕を回してきた。「八尋、よろしくな!」

「う、うん。……よろしく」


 ボソボソと答えたのは、いつものことだ。

 乗は入学式の翌日には髪を金色に染め、ピアスをつけてくるまで数日もかからなかった。しかし男女ともに人気があり、彼の周りには人の輪が絶えない。

 なし崩しに、八尋は「浦辺乗グループ」と認定された。


 乗はしばしば、八尋の凄さを仲間たちに説明したものだ。乞われて乗以外にも勉強を教える内に、周囲も一目置いてくれるようになった。

 彼が八尋の小説を薦めようとした時は、全力で止めるハメになったが……。

 誰かに嫌がらせを受けることもない、何もしていないのに無条件で否定され、嘲られ、侮られる日々からすると、夢のようだ。


 小学校の三年生から実に七年、八尋はついに、朝にはきちんと登校するという学校生活を取り戻した。思えば長い道のりだったものだが、そのことに後悔はない。

 不登校でいる間、何度も自分を責め、嘆き、死んだ方がいいのではないかと考えた。だがその苦しみも、乗や文芸部の仲間と出会ったことも、すべて必要な物だ。


 生きるということは息をするということで、八尋は読書することでしかこの世界での呼吸の仕方を知らなかった。乗が新しい息の仕方を教えてくれた。

 自分は死なずに生きている。立って、歩いて、座って、心臓を動かして、食べて、眠って、たくさんおしゃべりをする。当たり前のことが、ただただ嬉しい。


 弟の智鳥ちどりに「兄ちゃん、雰囲気変わったね」と言われて、八尋は初めて自然な笑みを作れている自分に気がつく。

 それはコンビニで会った時に乗が見せた、まばゆい笑顔そのものだった。

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