迷霊(まよい)の章
禍縁
拾肆 殺すには早すぎて、死ぬには遅すぎる
死んでしまいたいという気持ちがやわらいで、このまま消えるかと思った矢先、
彼との出会いは、日暮れのコンビニが最初だ。その頃の乗は
不登校になった経緯は小学校まで
読書感想文のコンクールで内閣総理大臣賞を取って、教壇に立たされ担任教師に褒められたのだ。「みんな八尋くんみたいに、もっと本を読みましょう」と。
生活のほとんどを読書と執筆に費やす作家の父と、書棚といわず床といわず本に埋め尽くされ、猫に囲まれた家で、八尋は呼吸と同じように読書することを覚えた。
魚にとっての水中のように、ホッキョクグマにとっての北極のように、読書の時間は八尋が楽に息をするために必須の時間だ。
それを横合いから「本を読むことは偉くて賢いことです」と分かったような口をきかれるのは、何とも腹が立った。だがそれだけなら、まだ良い。八尋はただ人から隠れるように読書を続けるだけだ。
不意に注目を浴びた八尋を襲ったのは、初めは他愛もないからかいだった。
「やっぱショーセツカの子はかしこいんやなあ」
「やひろくんをみならいましょー」
「すごいすごーい」
かけられる言葉に賞賛の気配はない。調子に乗るなという攻撃的な口ぶりから、お前はそのぐらいしか取り柄がないんだろうという軽蔑、嘲笑。
八尋は何も言い返さず黙っていた。知らない相手と話すのは疲れる、知っている相手でも疲れる、ましてや自分を快く思わない連中などとは。
むろん、それは「からかい」をエスカレートさせてしまう。
丸めた紙や消しゴムをぶつけられた。外履きや体操着、色んな持ち物がなくなり、見つけた時にはゴミ箱やトイレにつっこまれていた。机の引き出しにゴミを入れられた。すれ違う時に肩や腹を叩かれた。トイレに閉じこめられた。
特に堪えたのは、八尋の一挙手一投足を、常に誰かがクスクスと笑うことだ。必ず離れた所から、しかしこちらに聞こえるように低く押し殺した声。
うっかり服を前後逆に着てしまったような、ズボンがずり落ちてパンツが見えてしまっている時のような、「お前だけが恥ずかしい間違いに気づいてないんだぞ」。それが何かは教えてやらないけれど――そう匂わせる笑いにひどく動揺した。
何かやってしまったのか確かめようと思ってトイレに入った途端、上から水をかけられたこともある。やがて、彼らは何もなくても笑っているのだと理解しても、それで八尋の心が安らぐことはなかった。水が腐るように、胸の内がゆっくりと濁る。
二学期を必死に耐え、冬休みに入った時は心底嬉しかったものだ。
勝ったとすら思った。自分は家族に心配をかけないぐらいには強いのだ、と。だが三学期に入ると、いじめはエスカレートするばかりだったのだから、愚かしい。
八尋には「ショーセツカの子」の他に、新しく「天才」のあだ名がついた。
「学校やーめーろ、学校やーめーろ、学校やーめーろ!」
「天才くんは、一人でお勉強できますーう」
「大学までトビキュウできるんだろ?」
「学校やめろ、学校やめろ、ゼイキンのむだ!」
休み時間になると、男子たちが八尋に向かって
図書室へ逃げようにも、周りをしっかり囲まれて抜け出せない。無視して本を読もうとすると、それをネタにまた色々と言われる。ただただ我慢した。
元々静かな場所が好きだったが、大きな声を聞くと反射的に身がすくむようになったのも、このころだ。トイレの水が流れる音さえ、一時期は怖かった。
言葉の内容に関わらず、鼓膜が刺され、脳が震え、体がビクッとする。そんな反応自体が八尋を疲弊させた。驚かされるのは、脅されるのは、辛い。
ある日、八尋は自宅で耳栓を発見して歓喜した。父が執筆に集中するために使ったのか知らないが、それは明らかに大人用で、小学生の八尋には大きすぎる。
それでも構わず詰めて、休み時間をそれで乗り切ろうとした。
実際、楽になったとは思う。見つかったら盗まれるのは分かりきっていたから、授業が終わった瞬間、いかに素早く耳栓を入れるかに八尋は腐心した。
サイズの合わないそれを耳の穴が痛くなっても使い続ける内に、新たに彼を悩ませたのは耳鳴りだ。何もなくても、常にざわざわと背景音のようなものが聞こえる。
ざわめきは時々細く、鋭く
糸が切れる時は何の前兆もない。
ある朝、八尋はベッドの上から起き上がれない自分を発見した。そのまま学校を休み、二日経ち、三日経ち、八尋は夕食の席で唐突に泣き叫んだ。
それですべてが発覚し、両親は教師と話し合ったが、結果は八尋の不登校「許可」と、「八ひろくんへ はやく学校にきてね」という心ない寄せ書きだけだ。
家の中では何の不安もなかった。本はいくらでもあるし、猫たちは可愛いし、父は何でも知っていて、面白い話もたくさんしてくれる。
たまに編集者などがやってくることもあったが、そんな時は自分の部屋にこもればいいだけの話だった。たまたま顔を合わせても、みんな礼儀正しい大人の人だ。
二つ下の弟である
※
八尋の小学校生活は、家から一歩も出ず、卒業式すら欠席して終わる。そのまま中学も登校せず済ませるつもりでいたが、母は必死で息子を説得した。
しぶしぶ入学式に出た、それが運命の分かれ道だったのだろう。中学校には小学校と違って部活動があり、その中の文芸部に心惹かれた。
昼間登校した時は保健室へ行き、放課後には部室に顔を出す。
部員たちは物静かで、本が好きで、好きな物を語る時はおしゃべりで、八尋でも馴染みやすい連中だった。父の話に触れられるのだけは、どうしても苦手だったが。
「これも部活動だから」と小説を書くことになり、初めて筆を執る八尋に先輩たちは親切に書き方を指南してくれた。ペンネームは好きな四字熟語「晴耕雨読」から。
「
昼間は登校しないくせに、校舎には完全下校のギリギリまで居残った。母は八尋が少しでも社会性を取り戻せるように、毎日近所にあるコンビニ『サボマート』での買い物を頼む。そのルーティンをくり返して、二年生になった時のことだ。
「いーらっしゃいませー!」
どう見ても自分と同じぐらいの少年が、レジに立っていた。女の子のように綺麗な顔立ちをしているが、ギリギリで男子だと分かる。
サボテングリーンの制服についた名札は『
様々な疑問が湧いたが、八尋の方から話しかけようとは思わなかった。だというのに、向こうは毎回しゃべるしゃべる。
「お客さん中学生だよね?
「……はい」
「マジで!? オレもそこなんだよ、会ったことあんじゃねーかな」
「ううん……」
「今日も来てくれるねえ。毎度ありがとうございます!」
「……はい」
「名前聞いてもいいっすか?」
「……う、ううん」
「あ、慣れ慣れしいか! ごめんごめん」
「いらっしゃいませこんばんは! もしかしてオレに会いに来てくれてる?」
「……ううん」
「たはー、そこはウソでもはいって言ってよ!」
「はい」「ううん」「ああ」と生返事ばかりの八尋に、まったくのお構いなしだ。
彼のまばゆい笑顔にイラつきを覚える。
人を遠ざけ、人生経験の少ない八尋にも分かった。彼の笑顔はただの営業スマイルではなく、その人間性に根ざした光そのものなのだ、と。
生きていればそれだけで幸せ、いいや、ただ毎日を過ごすだけで何でもできるし、面白いことがたくさんある、と疑っていない者の顔つきだ。
(僕は、毎日死にたい気分でいるのに)
文芸部の存在で、ギリギリ中学に通えていることに、八尋だって引け目がないわけではない。「普通」の、大多数の人間が当たり前にやっていることができない。
祖父母も両親も弟も、そんなごく潰しをいつまで容赦してくれるだろう。五年後、十年後、あの居心地の良い家、自分の部屋にいつまで引きこもっていられるか。
(コンビニ変えようかな……)
しかし、近所の『サボマート』以外となるとけっこうな遠回りになる。家でも部室でもない外に長く居たくない。
乗は悪い奴ではないが、相手をするのはやはり疲れる。コンビニで少し会うだけだから、と割り切って、結局そこに通い続けた。
「いらっしゃいませー! 匿名希望のお客さま!」
「……八尋」
「へ?」
「名前……昨日……訊かれた、から」
「おっ、八尋っていうのか。嬉しいねえ、よろしくな!」
名前を答えてしまった理由を、八尋は今でもよく分かっていない。
たぶん気紛れだったのだろう。その時はたぶん、彼と親しくなりたいなんて期待していなかったから。それに自己紹介をされて、こちらが答えないのも失礼だ。
彼との付き合いは、コンビニで会う時だけだと思った。
ところが二学期の前半、浦辺乗は扉をバーンと音高く開けて、文芸部の部室に現れたのだ。見慣れたコンビニの制服ではなく、白いシャツと黒い学生ズボン姿。
「賢木雨読先生はいますか!? 『チカとユミエ』、メチャメチャ面白かったんだけど!」と星のように目をキラキラさせながら。あまりに突然で、あっけに取られて、他の部員が「賢木雨読ならそこだよ」と指さすまで、八尋は動けなかった。
「うおっ、マジ!? いつもバイト先に来てくれる八尋じゃん。ってか先輩!? うーわ、ナマ言ってすみませんでした! 一年の浦辺乗です!」
深々と体を折るお辞儀は、コンビニでも見たことがない。
八尋はでくの坊のような返事しかできなかったのを、今もありありと思い出せる。運命という言葉を持ち出すのは、ロマンチックすぎて恥ずかしい。
だが、彼が自分の小説を読んで、しかもファン第一号を名乗るなんて、奇跡のようなものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます