拾玖 おくりびつにいけ

 息子とその友人が帰った後、ゆたかは猫と遊んだり土産の甘藍餅を食べながら、在宅仕事を進めていた。連載中のホラー小説『九魚くなはら邪歌』の執筆だ。

 やがて夕刻になり、食事の支度に立ち上がる。


(今日はもつ鍋にしようかなあ。温まるし、さっき一人(登場人物の)はらわたブチ撒けたし)


 炊事はフルタイムパートの妻に代わり、豊の仕事だ。久しぶりに八尋やひろじょうとも食卓を囲みたかったが、何やら忙しそうだったから、またの機会を待つとしよう。


――よいなてんなたま


 すきま風かな? と豊は首をかしげながら台所へ向かった。古い家なのだから、そんなこともある。出入り口ののれんをくぐった時、玄関からチャイムが鳴った。


「はーい、はいはい」


 パタパタと出迎えに行くと、背の高い影がすりガラスの向こうに見える。


「こんばんはぁ、豊さん。丹村にむらでぇーす」

「おや乗君、一人かい? 何か忘れ物でもしたのかな」


 酒が入っているのか、声は何だかふわふわと曖昧なトーンだ。輪郭がぼやけた影が、頭を掻くのが分かった。


「はい。今ごろ思い出して~、夜分失礼します」

「あっははは! まだ七時にもなってないんだ、大丈夫だよ。さ、上がってって」

「ありがとうございます」


 八尋が不登校になって数年、あの子が立ち直れたのは彼のおかげだ。良い子だなあ、と豊はしばしほんわかと温かい気持ちになる。

 乗の影がぺこりと頭を下げるのを見ながら、豊は玄関を開けた。


「わ」短く驚きの声が出る。


 そこには誰もいない。当たり前に続く日常がぷっつり切れて、急に見知らぬ土地に迷いこんだ気分がした。寸前まで、確かに人影があったはずなのに。

 豊は怪奇現象そのものに恐怖はない。ミステリーやホラー小説を手がけるかたわら、実話怪談の収集に明け暮れている身だ。

 我が身に起きたのも初めてではないが、これは乗に何かがあったサインではないかということが不安だった。

 例えばあんないい若者が急死して、最期の挨拶に来たとしたら……。


(ええっと乗君の番号は……、と)


 温度のない汗が、冬の外気で霜つくように冷たくなる。豊は玄関を閉め、廊下を戻りながら、スマホを着物の懐から取り出そうとした。

 不意に、天井から降りてきた何かが、豊の頭を両側からつかむ。氷水に浸かっていたような、頭が痛くなるほど冷たい手。がしゃん、とスマホが廊下に落ちた。


 目の前に人の顔がある。

 唐突で、逆さまで、少し理解が遅れた。アーモンド型をした奥二重の目、スッと通った鼻筋、鼻腔びこうすら形が良い。美青年の条件を存分に満たした造作は。


「……乗君!?」


 天井からぶら下がっているのだろうか。

 だが、なぜそんなことを? そしてどうやって?

 しかし豊に考える時間は与えられない。


 ぐぢゅりと、端正な目が、鼻が、口が、万力で潰されたように歪んでいく。ひ、と声にならない声が、豊の喉をしゃっくりのように震わせた。

 裂けんばかりに大きく開けられた口、顔面をはみ出しそうに、バラバラの方角へ鋭角に伸びていく目は、生きていようがいまいが人間には不可能な表情だ。


 そして、歪曲した顔のパーツが――ドロリ、と――いっせいに溶けた。噴き出した悪臭が豊の鼻を殴りつけ、廃墟で腐乱死体を発見した嫌な記憶がよみがえる。


 眼球は黒目がすべり落ちるように消えた後、白い液体となって飛び散った。鼻は肉色の汁となって、あとにはクルミの殻を割った断面のような穴が残される。流れる血と肉の滝に運ばれていくのは、芋虫のように剥がれた上下の唇だ。


 水に浸けた湿布は粘菌の一種を思わせるぐちゃぐちゃ、ふにゃふにゃの奇怪な物体になる。乗だったものの口から、ぶつぶつと千切れながら落ちた舌はそれによく似て、しかし肉の赤色をしていた。

 びちゃびちゃと板張りの床を叩くさまざまな体液が、血液が、スリッパを汚していくのが豊にも分かる。そしてポロポロと降り注いでは跳ねる白い歯。


 なんだこれは。何を見せられている。


 夢だと思いたい。しかし乗の顔が歪曲し融解していく様が、コマ送りのようにゆっくりと豊の脳と目に焼きつけられていった。

 足元を濡らす体液はまだ温かく、暖房のない廊下に白い湯気を漂わせて、剥き出しの顔や手に湿度をまとわりつかせる。これは現実なのだ、と捕らえるように。


 空になった口と眼窩は異様に暗く、豊は目を閉じることも、逸らすこともできなかった。いつの間にか、天井が夜の海のように真っ暗になっている。


「れ、れいは、みつ……あるじは、た……れと、」


 聞きかじった悪霊退散の呪文を必死で唱えたが、歯の根が合わず、舌がもつれてうまく発音できない。二十年以上の作家人生で、こんな派手な怪異は初めてだ。

 空気が海底のように重い。息が詰まる。瘴気とも言うべき危険な毒気を呼吸している感覚。それでも豊はせめてもの抵抗に、呪文を続けようと試みた。


「も、しらね……ども、む、すすびとめ……」


 ブチュブチュと乗の顔に新しい穴が開いては血が噴き出す。同時に、大きく開いた四つのうろはぐぐっと広がって一つになり、やがて顔全体に奈落を作り出した。

 脳も舌も骨もない、ただただ底知れない闇だ。

 あるべき物があるべき場所にないというちぐはぐさが、根源的な嫌悪感をもよおさせる。立ち上がった鳥肌がそのままボロボロと玉となってこぼれ落ちるまで全身を掻きむしりたい。これに接しているという自分の体そのものから逃げ出したいのに、黒洞洞こくとうとうとした深淵に、豊は一言も発せられなくなった。


 見ているだけで、出口のない洞窟に閉じこめられるような閉塞感へいそくかん。自分がどこに立っているのか見失う心細さは絶望的な孤独感へ加速し、全身が逃げろと警告している。できるものならやっている! こんな物を見せないでくれ、離してくれ!

 それとも、この上まだもっと恐ろしいことが待っているというのか?


ねねしゃまろねねさまの~」


 茫漠ぼうばくと開いた穴のどこからか、それは歌声を発した。


いてれのせたへいたれのせとは~、めひになづなひにめづ~、ねじゃまひとぞろねがまやひとぞ~、かからねづくぬかからにぞくぬ~」


 和歌のリズムだ。前に一度聞いて、書き留めた。

 昼間、八尋らのために昔の取材ノートを見返したから、同じ歌を鮮明に思い出せる。直接耳にしてみると、豊はおぼろげに歌詞を聴き取れた。


(ねねさまの、いたらぬさとは、なけれども、ながむるひとの、こころにぞすむ?)


 出だしが違うが、これは浄土宗の宗歌だ。鎌倉時代のしょく千載せんざい和歌わかしゅうにも採用された『月かげ』という和歌で、「阿弥陀仏の救い」を月光に喩え、「それは誰にでも向けられているが、信じる人だけがその慈悲に預かることができる」ことを意味する。


(〝ねねさま〟を讃える歌、ということは……これは、!?)


 取材ノートの内容を、豊はすべて思い出しているわけではない。

 ただ、自分が得体の知れない化け物によって、どこかに連れて行かれ――ことによると、死ぬかもしれない、と確信する。


「か、……か、家ぞくには、てを、出っさ……う、で、れ」


 もはや自分は助からない。喉に詰まりそうな舌を無理やり動かして、最後の哀願をする。話が通じる相手とは思えないが、人外に〝宣言〟はしておくべきだ。


「妻と……むす子と……猫ぁ。ちぃ」


 家族には手を出さないでくれ、妻と、息子と、猫たちには。簡単な構文のはずだが、まったく原形を留めていない、これはただの唸りだ。

 それを聞いたのか聞いていないのか、目の前の奈落からは判断できない。

 豊の顔に、腐臭まみれの風が吹きつけられる。洞穴から吹いてくるように強く、冷ややかだ。その中から、また新たな言葉が響いてくる……。


 しかし人の声とは思えない。荒ぶる空気の流れや、木々の葉ずれが、たまたま意味を持って聞こえたような。人語の形をしながら、まったく中身の違う音声。

 幻聴ではないかと思いながら、豊はそれを聞き取った。


「おまえは、〝おくりびつ〟に、いけ」


 そして天地がひっくり返った。



 白草甘音あまねが仕事を終えて帰宅すると、いつもなら嬉しそうに出迎える夫の姿がない。台所に入ると、案の定テーブルに書き置きが残されている。

『夕食はレンジの中にあります。ちょっと取材で遅くなるから先に食べていてね。八尋と乗君が来て、お土産にくれた甘藍餅も冷蔵庫にあるよ。豊より』と。


「ホント、いくつになっても元気ねえ」


 ねおねおと群がる猫たちを代わる代わるなでながら、レンジを開けると、一人用土鍋と切ったニラのタッパーが入っていた。手早く着替えて、食事の支度をする。


「八尋も、おとうさんにだけ会うなんてズルいな~」


 正確には、自分だけ乗に会えなかったのが残念だ。

 息子の親友はおちんちんにリボンつけていそうな可愛い顔なのに、体はがっしりとたくましいというギャップがたまらない。まさに目の保養。


「そいいえば、乗くんのお母さん亡くなったって言うし、大丈夫かしら……」


 ガスコンロに鍋を置いて蓋を取ると、スタミナ感のあるホルモンと醤油の香りがただよい、ぐうとお腹が鳴った。ニラを入れて煮ればちょうど良い。

 夫はどこまで取材に行ったのだろう。今日中に帰ってくるなら市内か、京都か。前科があるから、大阪や名古屋まで行っていてもおかしくはない。


 明日は二人で京都へ遊びに行く予定がある。

 あんまり疲れを溜めないうちに帰ってきてほしいものだ。甘音はコタツに入って、「いただきまーす」ともつ鍋に手を合わせた。



――「甘音さん、この後ちょっと寄りたい所あるんだけれど、いいかな?」


 京都で美術館やレストランを回った後、帰ろうという段で豊が急に言い出した時、変だなとは思ったのだ。「会ってほしい人がいる」と。

 仕事関係の方なのだろうかといぶかしみながら同意したが、おそらく、夫は断っても強引に連れて行ったのだろう。「今」の彼は中身がまったくの別人だのだから。


 駅を下りたところで、黒いロイヤルクラウンが迎えに来ていた。手足が長く、顔の造作は薄い、なんだか印象に残りづらい男性。歳は息子より少し上だろうか。


善根世よねせと申します。旦那さんとは怪談会で先日知り合ったばかりですが、どうぞよろしくお願いします」

「彼、すごく面白いんだよ」


 甘音は「あら、怪談仲間なのですね」と暗に詳しいことを促そうとしたが、二人とも曖昧に笑うだけで、流されてしまった。

 それでもこの時は、(おとうさんったら、何企んでるのかしら?)と気楽に考えていたものだ。驚いたのは、夫婦で後部座席に乗りこもうとした時だった。


「……なんで棺桶が乗ってるの?」

「ああ、これ霊柩車なんだよ。棺の中身は空だから安心して」

「なあに、これからホラーイベント?」


 豊は唇に指をあてて「それはお楽しみ」と微笑んで見せる。

……いつ自分は逃げれば良かったのか、甘音には分からない。

 長年連れ添った夫を疑うには、あまりに事は早かった。車で移動中、豊はいつもと変わらずおしゃべりして、善根世も控えめに相槌を打ち、不審な点はない。


 おかしいと思ったのは、山深くに車が入り、その先に十数人ほどの人々が待ち構えていた時だ。地面に防水シートを敷き、棺桶を降ろして、蓋を開ける。


「さあ甘音、これに入ろう。〝おくりびつ〟だよ」


 豊はいつも通り、ぽやぽやと日だまりのように笑っていた。

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