拾捌 どっちを信じるんだよ?

 教授の元を辞した二人は、その足で八尋やひろの実家へ向かった。観世表かんぜおもてちょうの閑静な町並み、昔ながらの家々が建ち並ぶ一角に白草しらくさ家はある。

 八尋の父・ゆたか――筆名を白草米徳べいとく――は茶白の猫を抱え、和服姿で出迎えた。無地の着物にしま角帯かくおびを合わせ、グレンチェックの羽織をコートのように重ねている。


「いやー、急に帰って来るからびっくりするじゃないか、八尋」


 豊の目鼻立ちは息子とよく似ていたが、笑いじわが刻みこまれた人相は八尋と違い、明るく柔和な印象を与えた。還暦を過ぎているが、実年齢より若く見える。

 あれ、と豊は首をかしげて、八尋の手元を指さした。


「その手袋は?」

「ああ、古書を触っていたからそのまま。温かいし」


 本当は、夜志よしたかに施されたヘナタトゥーを隠すためだ。


「それならもっと厚手にしなよ」

「ほら、父さんのノートだって、古書だし」

「たかだか四半世紀前なのに。まあいいや」


 豊は微笑みながら息子の隣に顔を向けた。


じょう君も久しぶり」神妙な顔になって。「……お母さんのこと、大変だったね」


 火葬場での惨事は父に伝えていない。おそらく、ただの心不全だと思っているはずだ。乗は黙ってうつむいていた。


「参列できなくてごめんよ。今日は夜食べていくかい? 寿司でも取ろうか」

「いいよ、父さん」


 に祟られた乗が食事をすれば、腐り果てた汚物が後に残されることになる。父が降ろした猫に「久しぶり、はっちゃく」と挨拶し、土産の和菓子を渡した。


「おお~、すまないねえ~」


 父は好物の甘藍餅を受け取って、ぽやぽやと日だまりのように笑う。


「それより、電話で言った取材ノートだけど」

「ああ、それね。まだちょっとよく思い出せないんだが、たぶんあのへんかな」


 白草家は田の字に並ぶ四つの部屋を中心にした、昔ながらの日本家屋だ。家の南に縁側、西の部屋に仏間が配され、東には大きくひんやりとした土間がある。

 猫は茶白のはっちゃくと、三毛猫のナナミ、その二匹と乙夜いつやどう書店のクーを産んだ母猫イツカ。もう一匹いた子供は弟の智鳥ちどりが連れて行った。さらにナナミが産んだ子で合計五匹がおり、イツカ自身も先代猫の子で、白草家に猫が途切れたことはない。


「相変わらずおまえん、猫屋敷だな」

「うん、猫に囲まれるとたまらなく安らぐね」


 二人は話しながら、豊の後をついて二階へ上がった。

 書斎に入ると、どこからか引っ張り出してきた段ボール箱がいくつも口を開けている。中には野帳フィールドノートが詰まっていた。部屋は既にヒーターで暖められている。

 箱の横には「1986年」「2003年」など年代がマジックで記されていた。


「ここらへんだと思うんだよ」


 豊が指し示したのは、90年から95年と書かれた箱の山だ。


「……けっこう幅広いね」

「どんだけ昔の話だと思っているんだい。このへんは作家デビュー前からデビューしたてのころで、片っ端からノート取っていたからなあ。まあ一冊一冊見ていけば、私の記憶もハッキリするだろう。大丈夫大丈夫、父さん記憶力いいから」

「なら、一発で当ててくれると嬉しいんだけど」


 1990年の箱を開け、一番上の野帳を開き、豊はふむふむとうなずいた。「ああ」「うん」と言ってはぽいっと野帳を次々箱に戻し、別の箱に行く。


「よし、これこれ! 間違いない」


 やがて豊は1994年の箱と、1995年の箱を取り出した。


「九四年の夏……八月ごろから、郷土史の聞き取りを始めたんだよ。七守ななかみどうをモデルにホラーをやろうかと思ったんだけれど、上手くまとまらなくってね~。いや、ネタはまだ塩漬けにしてあるんだけれど。意外とゾッとする話が地元にあるもんだよ」


 ゾッとする話。の正体、その由来について分かるような何かが、父が取材した野帳の中にあるのだろうか。


「乗、手分けして読んでいこう」

「おう」

「じゃあ父さん、下にいるからねー」


 書斎の床に座布団を敷き、代わる代わる覗きにくる猫たちをなでたり膝に乗られたりしながら、二人は黙々と野帳を読んだ。

 畜生ちくしょう𠏹ぼとけ、まどお筋とねぶら筋、株神かぶがみニニギさま、猿が崇める神〝ねねさま〟。


「つまり……乗が呪われたのは、〝ねねさま〟に生け贄として捧げるため、棺桶に入れられたから、というわけか」

「へぇ~、オヤジさんすげーな、ここまで調べてたのか」


 乗の反応は、我が身ながらやけにのんきなものだ。


「だいぶ情報が多い。一旦まとめよう」


 八尋は自分の野帳を開いて、箇条書きで書きつけた。

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・山の神〝ねねさま〟を崇める不思議な猿たちが七守ななかみ村にいた。


・猿たちが神への供物に人間の生け贄を要求。


・村人はこれに反発し、七つの村々から犬を集めて猿を殺す。


・この行為が〝ねねさま〟の怒りを買い、白重川しらえがわが氾濫。


ねむという少女(実在は不明)が人柱に立てられ、一旦祟りは収まる。


・その後も猿を殺した人々は、不眠または過眠の病という形で祟りを受ける。


・棔を鎮めたのが、旅の僧侶が渡した丸薬〝南無なむだま〟。


・また、祟りは「山の神に連れて行かれる」という突然死もともなった。


・それを収めたのが、どこからか流れてきた彫師〝おみつきさん〟。


・しかし現実には、祟りを受けた家々=ねぶら筋はなくなり、無人の集落となっている。祟りは本当に収まったか不明瞭。


・子守唄〝ねんねがら唄〟はこれらの歴史を歌詞にしたものと思われる。


・ねぶら筋とまどお筋はしばしば混同されている。


・村々が七守道市として合併したことで、祟りや呪いの範囲が広がった可能性あり。

※-------------------------------------------------------


 書きながら、八尋は自然と記述の内容と自分の考えを声に出していた。


「〝眠りの森〟は祟りを止めるため、棺桶に入れた人を〝ねねさま〟への供物にしているとして……猿たちが作っていた畜生𠏹はなんだろうな。関係があるようなないような……正確な時系列も不明だし……すべて正しい伝承とは限らない」


 自分が見つけてきた妖怪の寝坊主や南無魂は、の詳細が忘れられた果てに残った形のようだ。乗の母の死に様を考えると、形自体はまだ伝わっている。

 たかだか十日調べただけの八尋と、一年近く取材し続けた豊とでは、さすがに情報量が違った。この記録がなければ、自分はここまでに迫れなかっただろう。


「とりあえず、は〝ねねさま〟を拝んでいた猿じゃねえの?」


 ああでもない、こうでもないと頭を悩ませる八尋の横から、乗は簡潔に意見を出した。「だね……」と八尋はうなずき答える。


「最低でも二百年は前から存在している神さまみたいだ。ニニギさまというトーテム信仰も気になるが……そもそも〝眠りの森〟も生きた人間じゃないのかも……」

「犬は?」

「いや、乗。それには本体と安全に会う必要がある。会ってけしかけたとしても、一時的にはそれで良いかもしれないが、村はそのため大変な祟りにあった。犬は決定打じゃない。祟りを鎮めたのは〝おみつきさん〟だ」


 そして〝おみつきさん〟は夜志よしたかの曾祖父に違いない。


「と、なれば……夜志高さんの家に、その時の下絵が残っているかもしれない。それを彫れば、君の呪いもこれで断ち切れる! 解決の糸口が見えたぞ!」


 これまで乗に何が起きているのか、とは何なのかに頭を悩ませ、八尋は深い霧の中にいる心地だった。そこに初めて風穴が開き、光と風が吹きこむ。

 だが。


「夜志高は信用するな」


 乗の言葉と表情は、八尋の晴れやかな気持ちに冷や水を浴びせた。

 一見笑っているが、その薄皮一枚下に、拒否を許さない威圧感が滲んでいる。目鼻立ちが整っているからか、脅しつけるような面持ちに凄絶な恐ろしさがあった。

 こんな笑い方をする乗を、八尋は知らない。


「あいつらは無能だ、役立たずだ」


 ぐ、と距離を詰め、乗はどこかいやらしい手つきで肩に腕を回してくる。


「おまえもそう思うよなぁ? 葬式の時だってそうだ、何も分からねえ分からねえって言って、オフクロが生き返っちまっても、なぁーんにも気づかなかっただろぉ?」


 ぐっと抱き寄せられ、八尋はバランスを取る間もなく、乗の胸板に頬を寄せさせられた。温かい、生きている、そして奥行きと張りのある体。だが変だ。


「じょ、乗……大丈夫か?」

「んー? なにがぁ?」


 乗の薄笑いは、八尋がよく知るカラリと溌剌はつらつな笑みとは違う。どこか粘着質な、こちらを押さえつけてくるプレッシャーが、ひどく重い。

 言葉を鼓膜に絡みつけるように、ねっとりと耳にささやきかけられる。


「下絵のことだって、本当は最初から知っていたくせに、黙ってたんじゃねえか? 冗談のふりして言ったけど、あいつらはの手先だ」


 今の体勢では、八尋から乗の顔は見えない。しかし彼の薄い薄い笑みの下から、いったい何が見えるかと思うと、頭を上げる気にはなれなかった。


「オレとあいつら、どっちを信じるんだよ? 八尋ぉ」


 代わりに乗が体を離し、八尋の顎をくいと持ち上げる。乗の目に一瞬、かちりと無機質に冷たい光が光った。やはり彼は笑っていない。

 愛想笑いの出来そこないでも、嘲笑でも、冷笑でもなく、従順な「はい」意外を許さぬ恫喝どうかつの表情。こんな暴力的な態度、普段の彼ならありえなかった。


 間違いなく乗はおかしい。

 だが、彼はこれまでに散々な目に遭わされ、ついには母親まで惨憺さんたんたる手で奪われた。乗でなくとも、正常な判断力を保つのは難しいだろう。


「オレたち親友だろ?」

「うん……」


 彼がどうなろうと、自分はずっと親友のつもりだ。それに、夜志高に相談して事が本当に好転しているかというと、八尋もやや疑わしく思っている。

 柊夜志高については、もう少し考えた方が良いのかもしれない。


「君、明日はちょっと休まないか。疲れ、溜まってるだろ」


 今の八尋には、そう忠告するのだが精いっぱいだ。


(……乗、相当まいっているな、これは)


 八尋が知る親友は、明朗快活、陽気で世話好きな気の良い男だった。その彼が明らかに悪意を持って他人をけなしたり、しかも自分に同調を強いるなんて。

 そんな姿は見たくなかった。だが、連日の疲労と精神的ショックが重なっていることを承知しながら、彼を止めなかった自分にも責任がある。


「んー、そうだな。たまには休むか……」


 腕を組み、考える素振りをした後、乗はまた有無を言わさぬ笑顔を向けてきた。


「な、八尋。おまえは、オレを裏切らないよなぁ?」


 もしそんなことがあれば、八尋は彼に殺されても構わない。


「裏切らないよ。あの時からずっと、一蓮托生じゃないか」


 十一年前から、そう決まっていた。

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