拾捌 どっちを信じるんだよ?
教授の元を辞した二人は、その足で
八尋の父・
「いやー、急に帰って来るからびっくりするじゃないか、八尋」
豊の目鼻立ちは息子とよく似ていたが、笑いじわが刻みこまれた人相は八尋と違い、明るく柔和な印象を与えた。還暦を過ぎているが、実年齢より若く見える。
あれ、と豊は首をかしげて、八尋の手元を指さした。
「その手袋は?」
「ああ、古書を触っていたからそのまま。温かいし」
本当は、
「それならもっと厚手にしなよ」
「ほら、父さんのノートだって、古書だし」
「たかだか四半世紀前なのに。まあいいや」
豊は微笑みながら息子の隣に顔を向けた。
「
火葬場での惨事は父に伝えていない。おそらく、ただの心不全だと思っているはずだ。乗は黙ってうつむいていた。
「参列できなくてごめんよ。今日は夜食べていくかい? 寿司でも取ろうか」
「いいよ、父さん」
ねぶらまに祟られた乗が食事をすれば、腐り果てた汚物が後に残されることになる。父が降ろした猫に「久しぶり、はっちゃく」と挨拶し、土産の和菓子を渡した。
「おお~、すまないねえ~」
父は好物の甘藍餅を受け取って、ぽやぽやと日だまりのように笑う。
「それより、電話で言った取材ノートだけど」
「ああ、それね。まだちょっとよく思い出せないんだが、たぶんあのへんかな」
白草家は田の字に並ぶ四つの部屋を中心にした、昔ながらの日本家屋だ。家の南に縁側、西の部屋に仏間が配され、東には大きくひんやりとした土間がある。
猫は茶白のはっちゃくと、三毛猫のナナミ、その二匹と
「相変わらずおまえん
「うん、猫に囲まれるとたまらなく安らぐね」
二人は話しながら、豊の後をついて二階へ上がった。
書斎に入ると、どこからか引っ張り出してきた段ボール箱がいくつも口を開けている。中には
箱の横には「1986年」「2003年」など年代がマジックで記されていた。
「ここらへんだと思うんだよ」
豊が指し示したのは、90年から95年と書かれた箱の山だ。
「……けっこう幅広いね」
「どんだけ昔の話だと思っているんだい。このへんは作家デビュー前からデビューしたてのころで、片っ端からノート取っていたからなあ。まあ一冊一冊見ていけば、私の記憶もハッキリするだろう。大丈夫大丈夫、父さん記憶力いいから」
「なら、一発で当ててくれると嬉しいんだけど」
1990年の箱を開け、一番上の野帳を開き、豊はふむふむとうなずいた。「ああ」「うん」と言ってはぽいっと野帳を次々箱に戻し、別の箱に行く。
「よし、これこれ! 間違いない」
やがて豊は1994年の箱と、1995年の箱を取り出した。
「九四年の夏……八月ごろから、郷土史の聞き取りを始めたんだよ。
ゾッとする話。ねぶらまの正体、その由来について分かるような何かが、父が取材した野帳の中にあるのだろうか。
「乗、手分けして読んでいこう」
「おう」
「じゃあ父さん、下にいるからねー」
書斎の床に座布団を敷き、代わる代わる覗きにくる猫たちをなでたり膝に乗られたりしながら、二人は黙々と野帳を読んだ。
「つまり……乗が呪われたのは、〝ねねさま〟に生け贄として捧げるため、棺桶に入れられたから、というわけか」
「へぇ~、オヤジさんすげーな、ここまで調べてたのか」
乗の反応は、我が身ながらやけにのんきなものだ。
「だいぶ情報が多い。一旦まとめよう」
八尋は自分の野帳を開いて、箇条書きで書きつけた。
※-------------------------------------------------------
・山の神〝ねねさま〟を崇める不思議な猿たちが
・猿たちが神への供物に人間の生け贄を要求。
・村人はこれに反発し、七つの村々から犬を集めて猿を殺す。
・この行為が〝ねねさま〟の怒りを買い、
・
・その後も猿を殺した人々は、不眠または過眠の病という形で祟りを受ける。
・棔を鎮めたのが、旅の僧侶が渡した丸薬〝
・また、祟りは「山の神に連れて行かれる」という突然死もともなった。
・それを収めたのが、どこからか流れてきた彫師〝おみつきさん〟。
・しかし現実には、祟りを受けた家々=ねぶら筋はなくなり、無人の集落となっている。祟りは本当に収まったか不明瞭。
・子守唄〝ねんねがら唄〟はこれらの歴史を歌詞にしたものと思われる。
・ねぶら筋とまどお筋はしばしば混同されている。
・村々が七守道市として合併したことで、祟りや呪いの範囲が広がった可能性あり。
※-------------------------------------------------------
書きながら、八尋は自然と記述の内容と自分の考えを声に出していた。
「〝眠りの森〟は祟りを止めるため、棺桶に入れた人を〝ねねさま〟への供物にしているとして……猿たちが作っていた畜生𠏹はなんだろうな。関係があるようなないような……正確な時系列も不明だし……すべて正しい伝承とは限らない」
自分が見つけてきた妖怪の寝坊主や南無魂は、ねぶらまの詳細が忘れられた果てに残った形のようだ。乗の母の死に様を考えると、形自体はまだ伝わっている。
たかだか十日調べただけの八尋と、一年近く取材し続けた豊とでは、さすがに情報量が違った。この記録がなければ、自分はここまでねぶらまに迫れなかっただろう。
「とりあえず、ねぶらまは〝ねねさま〟を拝んでいた猿じゃねえの?」
ああでもない、こうでもないと頭を悩ませる八尋の横から、乗は簡潔に意見を出した。「だね……」と八尋はうなずき答える。
「最低でも二百年は前から存在している神さまみたいだ。ニニギさまというトーテム信仰も気になるが……そもそも〝眠りの森〟も生きた人間じゃないのかも……」
「犬は?」
「いや、乗。それにはねぶらま本体と安全に会う必要がある。会ってけしかけたとしても、一時的にはそれで良いかもしれないが、村はそのため大変な祟りにあった。犬は決定打じゃない。祟りを鎮めたのは〝おみつきさん〟だ」
そして〝おみつきさん〟は
「と、なれば……夜志高さんの家に、その時の下絵が残っているかもしれない。それを彫れば、君の呪いもこれで断ち切れる! 解決の糸口が見えたぞ!」
これまで乗に何が起きているのか、ねぶらまとは何なのかに頭を悩ませ、八尋は深い霧の中にいる心地だった。そこに初めて風穴が開き、光と風が吹きこむ。
だが。
「夜志高は信用するな」
乗の言葉と表情は、八尋の晴れやかな気持ちに冷や水を浴びせた。
一見笑っているが、その薄皮一枚下に、拒否を許さない威圧感が滲んでいる。目鼻立ちが整っているからか、脅しつけるような面持ちに凄絶な恐ろしさがあった。
こんな笑い方をする乗を、八尋は知らない。
「あいつらは無能だ、役立たずだ」
ぐ、と距離を詰め、乗はどこかいやらしい手つきで肩に腕を回してくる。
「おまえもそう思うよなぁ? 葬式の時だってそうだ、何も分からねえ分からねえって言って、オフクロが生き返っちまっても、なぁーんにも気づかなかっただろぉ?」
ぐっと抱き寄せられ、八尋はバランスを取る間もなく、乗の胸板に頬を寄せさせられた。温かい、生きている、そして奥行きと張りのある体。だが変だ。
「じょ、乗……大丈夫か?」
「んー? なにがぁ?」
乗の薄笑いは、八尋がよく知るカラリと
言葉を鼓膜に絡みつけるように、ねっとりと耳に
「下絵のことだって、本当は最初から知っていたくせに、黙ってたんじゃねえか? 冗談のふりして言ったけど、あいつらはねぶらまの手先だ」
今の体勢では、八尋から乗の顔は見えない。しかし彼の薄い薄い笑みの下から、いったい何が見えるかと思うと、頭を上げる気にはなれなかった。
「オレとあいつら、どっちを信じるんだよ? 八尋ぉ」
代わりに乗が体を離し、八尋の顎をくいと持ち上げる。乗の目に一瞬、かちりと無機質に冷たい光が光った。やはり彼は笑っていない。
愛想笑いの出来そこないでも、嘲笑でも、冷笑でもなく、従順な「はい」意外を許さぬ
間違いなく乗はおかしい。
だが、彼はこれまでねぶらまに散々な目に遭わされ、ついには母親まで
「オレたち親友だろ?」
「うん……」
彼がどうなろうと、自分はずっと親友のつもりだ。それに、夜志高に相談して事が本当に好転しているかというと、八尋もやや疑わしく思っている。
柊夜志高については、もう少し考えた方が良いのかもしれない。
「君、明日はちょっと休まないか。疲れ、溜まってるだろ」
今の八尋には、そう忠告するのだが精いっぱいだ。
(……乗、相当まいっているな、これは)
八尋が知る親友は、明朗快活、陽気で世話好きな気の良い男だった。その彼が明らかに悪意を持って他人をけなしたり、しかも自分に同調を強いるなんて。
そんな姿は見たくなかった。だが、連日の疲労と精神的ショックが重なっていることを承知しながら、彼を止めなかった自分にも責任がある。
「んー、そうだな。たまには休むか……」
腕を組み、考える素振りをした後、乗はまた有無を言わさぬ笑顔を向けてきた。
「な、八尋。おまえは、オレを裏切らないよなぁ?」
もしそんなことがあれば、八尋は彼に殺されても構わない。
「裏切らないよ。あの時からずっと、一蓮托生じゃないか」
十一年前から、そう決まっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます