拾参 恐怖は悪しき希望の残りかす
自分は布団の上で、土下座の格好になっている。ため息を吐くとほのかに白く曇り、舌打ちしながら起き上がった。暖気もすっかり消えた冬の夜だ。
隣の
自分が確かめたかったのは、彼がそこにいるかどうか、だったかもしれないが。
(……こいつには、世話になりっぱなしだな)
この家は店主である八尋によって、どこもかしこも本が積まれている。
古民家特有の狭くて急な階段にさえ置いてあるのだから、まったく歩きづらい。それでも乗は、この家が気に入っていた。
ねぶらまの件が片づいたら、八尋にはたっぷりと礼をしなければ。
◆
『
翌朝、
通話を切ってメールの履歴を確認すると、何も残っていない。宮司の黒見は、存在しない人物――あるいは、かつて存在していたかもしれない人物なのだ。
黒見が言った「おめでとうございます」が何を意味するのか夜志高に訊きたい気がしたが、やめた。どうせ凶報しか返って来ないのは目に見えている。
アオギリ会に出てから、十日が経とうとしていた。
乗の『
ねぶらまについて情報を集めるのは八尋に任せて、乗は〝眠りの森〟の居所を探っていた。廃墟に来たが雨に降られた、という投稿を見つけたのは
母の凄惨な死を経験したものの、乗は休むことなく調査を続けている。何時間か格闘して、ついにストリートビューから〝眠りの森〟の姿と車を確認した。
「この人が、〝眠りの森〟?」
まさかパソコンから姿を見せただけで呪われないだろう、と乗は自分の調査結果を八尋に共有した。客があまり来ないのを良いことに、乙夜堂書店の店舗スペースでノートパソコンを広げさせてもらっている。
「アオギリ会に来た時の
「君、確か調査を始めて一週間そこらだろ?」お母さんの葬儀もあったのに、と少し言葉を濁して。「ほんの数日でここまで分かるものなのか。探偵って凄いな」
「オレも自分を褒めてやりてえよ」
我が身の安全がかかっているからというのもあるが、〝眠りの森〟も〝ねぶらまの棺〟も、母の仇だ。この上、親友の八尋が巻き添えになるかもしれない。
となれば、事態は一分一秒を争う。乗はノートパソコンを閉じて立ち上がった。
「過去のストリートビューに、ヤツが市内のコンビニに立ち寄った所が写っていた。ちょっとそっちに聞きこみに行ってくらぁ」
「分かった、気をつけて……本当に」
いかに八尋といえ、二十四時間、乗につきっきりとはいかない。彼は彼で、店の仕事と〝ねぶらま〟の文献調査があるのだ。
◆
しかしてコンビニでの聞きこみは、完全なる空振りに終わった。
ストリートビューのタイムスタンプは一年ほど前だ、応対した店員が誰かも分からないし、この程度は予想の範囲内だが……理性と裏腹に、苛立ちが胸を焦がした。
母はアオギリ会とも、『眠りの森』とも何の関係もなかった。ただ乗が棺桶に触れて呪われたために、あんな――だから一時たりとも休むわけにはいかない。
「ぜってー、居所をつかんでやる……」
徒労感と
母からの電話だ。
そういえば解約手続きをしていなかった――現実的な思考と同時に、今朝の悪夢がよみがえる。『釣り餌』。夜志高が言ったように、ねぶらまに連れて行かれたなら、この着信は彼女からのものに違いない。平時ならバカバカしいと言うほかない考えが、確信となって胸をつく。いまや、母以外の誰がこの番号を使うというのか。
通話ボタンを押す。
『お久しぶりです〝牡丹煙草〟さま。丹村乗さん、とお呼びした方が良いですか?』
紙に印字されたテキストのように、不自然なほど乱れのないそれは、〝眠りの森〟の声に間違いなかった。喉が跳ね、自分でも思っていないほどの怒声が出る。
「てっめえ!?」
人目をはばかって乗は口を押さえた。声量を下げ、息を整えて言葉を続ける。
「なんでこの番号からかけてきやがった……!」
『どこから、より、何を話しに来たかお聞きになりませんか? 用件を率直に申せば、おめでとうございます』
「なんだと……」
祝いの言葉を聞かされるのは、黒見で二回目だ。
『あなたは大変往生際が悪くていらっしゃる。追い詰められる姿は愉しませ頂きましたが、それも終わりにしようと思いまして。直接お迎えに上がらせていただきます』
怒りが先行して熱くなっていた乗の頭が、不意に冷たさでゾッとする。もうすぐ迎えに来る、と夢の中の母も言っていたではないか。
地下鉄が甲高く長い軋みとともに、駅へとすべり込む。
『あなた、黒見さんに連れ出してよろしいですか、と言われて、分かったとお返事したではないですか』
――あたしがそこからお連れしますので
――よろしいですか?
やられた。
『あなたの結界は、もう破れているんです』
電車の扉が開き、乗は通話を切って走り出した。地下鉄にはいたくない、また黒見が言った狭間のような場所に引きずりこまれてたまるか。
だが拍子抜けするほどあっけなく、乗は地上へ出られた。
外はもう日暮れだ。雪を蹴立て、木枯らしに顔を切られ、水中のように白い呼気を吐きながら、走って、走って、八尋の元へ。
(待てよ、このまま真っ直ぐ帰っていいのか?)
八尋の元に、余計なものを連れて来てしまったら危険ではないか。追いかけられているかどうかも定かではないが、
逃げこむならもっと確実に安全な場所……だが夜志高の所へは遠い。またバスや駅を利用しているヒマはないのだ。だが他にどこへ行くべきか。
神社や寺に逃げこんでどうにかなるなら、最初からこんなことにはなっていない。ではここまで立ち止まるのか? 待ち構えて、妖怪だか霊だか分からない何かに、拳一つで立ち向かうのか? 馬鹿馬鹿しい! まるで考えがまとまらない。
「ああっ、クソッ! 無理だろこんなん!」
迷っている内に
胸の中が深海に落ちこみ、黒く見通せない冷水に心臓が浸る。体の内側から凍てつく恐怖は、乗に二つの選択を迫った。
このまま一人でねぶらまに連れて行かれるか。
巻きこむ可能性を承知で、親友の傍に行くか。
(いやだ)
八尋を巻きこみたくない。
一人で連れて行かれたくない。
どうせ助からないのなら、せめて……。
(もしかしたら……あいつはまだ、大丈夫、かも)
すがりつきたい気持ちが、都合の良い思考をでっち上げる。
(そうだ、夜志高は縁をたどって害をこうむるって言っていた)
やめろと叫ぶ理性の欠片を噛み潰し、おあつらえ向きの情報を引きずり出して。
(母さんはオレとの血縁をたどられたんだ。八尋とはもちろんそんな繋がりはないし、もし順番があるなら、まだ先なんじゃねえか。オレに何かあっても、夜志高ならきっと……そうだ、あの人に電話すりゃいいんじゃねえか)
思考が甘い安寧へと傾いていくのを止められない。スマホを取り出して電話をかけようとしたが、夜志高には中々つながらなかった。
イライラしながら渡笛坂を下りる内に、ふらふらとした足取りは徐々に速度を上げ、乗は乙夜堂書店へ駆けこむ。駆けこもうとした。
「乗? どうしたんだ、そんなに慌てて」
店番をしていた八尋がカウンターを立ち、木戸ごしに
「や、やひろ……」
静かで落ち着いた、心地よい声。不思議そうな表情を
乗は強張っていた筋肉から、急激に力が抜けていくのを感じた。ああ、ここへ戻ってこられて良かった……早く中に入ろう、と大きく息を吐く。
だが。
だがなぜか、乗は店の引き戸を開けることができない。まるで空間に固定されているかのように。慌てているから、何か引っかけたのだろうか。
猫のクーが、激しくこちらを威嚇して二階に逃げていく。
「
明らかに人の言葉ではないものが自分の口から出た。偽物の八尋と同じだ。
「
声が、言葉が、音程が、ねじれて崩れて、不恰好に発声される。まるで乗の声を取り出して、悪意のあるサンプリングをしたようだった。
ひた、と背中に冷たい何かが触れたが、乗は振り向くことができない。ただ手に力をこめ、書店の扉をこじ開けようとするが、ビクともしなかった。
(なんでだよ、チクショウッ!)
思考が疑問に跳ね、もんどり打って転倒する。思考の足並みがそろわない。脳内でひっくり返ったままどうする、どうする、とジタバタするばかり。
そういえば八尋の偽物に会った時に思った、自分の方がおかしくなって、本物と意思の疎通ができなくなっているのでは、と。その想像が今、親友の身に起きている。
「そうか、乗が見た僕の偽物は、お前か」
ぎらりと、八尋の瞳が敵を見るものに変わった。容赦なく突き放し、近寄るならただでは済まさないと切り裂く鋭利。
いつも横からしか見ることがなかったそれが、真正面から自分に向けられるなんて初めてだ。八尋とケンカをした時だって、乗はこんな風に睨まれたことはない。
「こっちに来るな!! 金輪際何があろうとも、お前は決してここには入れない! 帰って、二度と近づくな!」
滅多に声を荒げることのない八尋が怒鳴る。大声を上げ慣れない男と思えないほど、一語一語が稲光のようにくっきりと響いて、乗の背筋を萎縮させた。
「
手と首を振り、身振りで示しても、敵意の視線は変わらない。おそらく鍵などかかっていないだろう扉を開けられない以上、偽物だと思われるのも道理だろう。
ひたひたと、体に触れる冷たいものは増えていった。
「
木とガラスの引き戸に、乗は取りすがって手のひらで叩く。こちらを無視して、八尋はどこかへ電話をかけた。
「乗? ああ、無事で良かった。こっちに君の偽物が来ているんだ」
どういうことだ。
八尋は何と話している。
丹村乗は自分だ。
おまえの目の前にいるオレだ!
「とりあえず、うちに入れないみたいだ。大丈夫、今は戸を閉めているよ」
そいつが偽物だ! このままねぶらまが自分を連れて行くとしたら、次のターゲットは八尋で間違いない。早く電話を切らせなくては……!
乗は自分でもわけの分からない叫びを上げて、引き戸を殴った。力を込めて蹴っても、まるで巌のようにみじんも揺らがない。
冬の陽は落ちて、あたりは暗く夜に沈んだ。灯りがついた乙夜堂書店は、冷え冷えとした闇に浮かぶ孤島のようだ。店から閉め出された乗は、その場に崩れ落ちた。
思えば棺に入って以来、食べた物が腐り果てていくのだ。自分はとっくに死んで、この世にいないのだとしたら……今ここにこうしている己も、本当に丹村乗であるという保証はないのではないか。嫌だ。自分が自分でなくなって消えるなんて嫌だ。
「迎えるに来ると言ったでしょう?」
男とも女とも、子供とも老人とも大人ともつかない声がした。その時初めて、体に触れるひんやりとしたものが、氷のように冷たい手だと気づく。
「あ――、ぁ」
恐怖とは、希望が残っているから生まれるものだ。いっそ絶望してしまえば、諦めに身を任せれば楽なのにと思いながら、乗は光の中にいる八尋を最後まで見ていた。
無数に群がる白い手が、悲鳴ごと乗を闇の中へと引きずりこんだ。
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