拾弐 おめでとうございます

――怪異とか呪いってのは、人を殺さないんですよ。


 なるほど、確かには母を殺さなかった。

 だが、もっと惨たらしい運命に追いやったのだ。


――強いて言えば、『釣り餌』です。


 夜志よしたかの言葉には、親しい者の死で心を弱らせる、という意味合いも含まれている。もちろん効果は覿面てきめんだ。

 苦しんで死ぬためだけに、生き返らされた母。もし彼女が黒焦げの姿で、自分の所にやって来たらと思うとじょうは震えが止まらない。

 事務所のインターフォンを蓮本はすもと小静こしずが、八尋やひろの偽物が鳴らした時、乗は扉を開けなかった。だが、母の里麻りまならどうだ?


 夜志高に刺青を手直しされ、人形ヒトガタをもらって以来、蓮本たちが訪ねてくる夢は見ない。だが、そこに母が現れたなら、偽物だろうが焼死体だろうが、自分はきっと扉を開けてしまうだろう。それは禁忌だ。破れば必ず、恐ろしいことになる。


「……ありがとな、八尋」


 一晩中、自分とともに母の亡骸に寄り添ってくれた親友に、乗は礼を述べた。昨夜泣き崩れてから、初めてまともに発した言葉だ。

 八尋の返事は「ん」と短いものだった。二人病院を出て、駅を目指す。ここから乙夜いつやどう書店までは地下鉄だ。そろそろ始発の時刻だった。

 別れて暮らしていた母がにやられた以上、今さら離れても八尋に累が及ぶことは避けられない。一刻も早く呪いを断ち切らなくてはならない、だが。


(なんか、すっげー……疲れた、な)


 一夜明けて多少は落ち着きを取り戻したが、乗の心は大きく削られたままだ。母の異常な死に方はもちろん、夜志高や火葬場のスタッフに八つ当たりをしてしまった。

 あげく、親友の顔にまでアザをつけて。


「乗、僕のことは気にしなくていいよ。転んで机の角にぶつけただけだから……」

「それ、オレを止めようしたからじゃねえの」


 夜のように暗い冬空の下、八尋は頭を振った。


「だとしても、君は悪くない。あんなことが起きたら、誰だって冷静じゃいられないよ。一番傷ついているのは君なんだ、自分を責めたら、奴らの思うつぼじゃないか」

「……そう、かもな」


 ため息をつきながら、とん、とん、とん、と地下鉄へ続く段を降りていく。蛍光灯が切れかけているのか、照明がチラついた。


「なあ、八尋。おまえだけは、無事でいてくれよ」

「もちろん僕はそのつもりさ。君、今日ぐらいは休みを取った方がいいよ」


 ふ、と乗は口元がほころぶのを感じた。彼がいてくれるだけで、どれだけ心強く、力が満ちることだろう。あんなことがあった後でも、こうして笑えるなんて。

 怒りも痛みも振り切れて、どこか虚ろだった胸に淡く温かいものが広がる。自分の心臓が鼓動し、乗はようやく己が戻ってきた気がした。


 式場では錯乱したが、八尋が傍にいてくれる限り、自分はまだまだ大丈夫だ。乗は少し軽くなった足取りで、階段を下っていく。

 チカ、チカ、チカ、と照明はやはり不安定だ。

 最後の一段を降りた瞬間、辺りが真っ暗闇に包まれた。ぎょっとして一秒、二秒、すぐ復旧するかと思いきや、中々灯りがつかない。


「八尋、いるか?」


 手を伸ばすと、すぐそれらしき細い腕をつかんだ。「うわっ」という声も本人のもの。それを引き寄せて、乗は自分の懐を探る。


「ったく、なんなんだよ……」


 スマホのブルーライトがさぁっと暗闇を照らすと、二人を隙間なく囲む人々が見えた。ほとんど密着されているのに、息づかいも体温も伝わってこない。

 それに、どこか違和感がある。すぐそこにいるのに、はっきり姿が見えないような、何かが間違っているような。まじまじと顔を見て、乗はしくじったと思った。


 その顔には目も鼻も口もなく、ただぽっかり開いた黒い穴があるだけなのだ。


 乗と八尋は瞬きも呼吸も忘れて、ぴたりと硬直した。このまま石になったように息を殺していれば、目の前の現実から逃れられるのではないかと願うように。

 髪の毛ひとすじでも動いてしまえば、顔のない人々が反応する。リアクションを起こす。声を上げるのか、手を伸ばすのか、いずれかは分からないが、この世の物とは思えない何かが眼前に存在し、何かしようとしていることが確定するのだ。

 殴り合いで勝てる人数ではない。強引にかき分けて進んでも、明らかに人でない以上どうなることか。の手先に一矢報いるチャンスだが、とてもそんな気にはなれない。危険すぎる。今下手を打てば、我が身のみならず八尋まで危ない。

 眼球も口の中もカラカラに乾いて痛んだ。喪服の下で冷たい汗がにじみ出し、つうっと背中を落ちる感触に、体がびくりと跳ねるのではないかと危惧する。


 ぶうん、と乗のスマホが音を立てた。ねじ込むような痛みが心臓に鈍く走り、声を上げそうになるのを堪える。マナーモードのバイブレーション。


(こいつら、動かない、な……)


 異常な状況でも時間が経つと慣れるものだ。何分経過したかは判然としないが、乗は顔のない人々が、ただこちらを見ているだけらしい、と判断する余裕が出てきた。

 震える手で通話ボタンを押し、さらにスピーカーフォンにする。耳に当てるため腕を動かすのは、恐ろしくてできなかった。


「……はい。丹村にむらです」

『どうも初めまして、龍椿りょうちん明神の黒見くろみと申します。早速お困りのご様子で』


 えびす顔を想像させる、朗らかな中年男性の声だ。それは夜志高から紹介された霊能者であり、乗がの件について助けを求めた相手だった。

 どういう理屈か霊感か知らないが、こちらの窮状を知っているらしい。


「な、何とかしてくれるのか!?」

『丹村さんとご友人は、この世でもあの世でもない狭間、という場所におります。あたしがそこからお連れしますので、このまま話しながら歩いてください。大丈夫、連中は何もできません。見た目はまあ、けったいですが。反応しなければいいんですよ――よろしいですか?』

「分かった、早く出してくれ」


 階段を上るかどうか迷ったが、乗は前へ足を踏み出す。どうせ帰りは地下鉄を使わねばならないし、一歩一歩気をつければ、まさかホームから転落はしないだろう。

 八尋の腕を引きながら歩くと、顔のない人々は本当に無反応だった。こちらが押すと抵抗なく体をずらし、道を開けてくれる。


『そうそう、その調子、その調子。ああ、顔の穴は見つめないでください』

「言われなくっても、見たかないですよ……」


 乗は人々の首から下に視線を固定した。男も女も老いも若きもいる。職業柄、他人の顔や服装を記憶している乗は、何人かに見覚えがあった。

 蓮本はすもと小静こしず、そして自分といっしょにアオギリ会に参加した連中。着物姿の逆光注意不足、黒尽くめのオランジュ、背広姿のさこひら天啓、ストリート系のネオンボーイ、よれよれのチェックシャツのクラウン機関、本名も住所も知らない奴らが、あの日と同じ着の身着のままで、顔を失くして虚ろに立ち尽くしているのだ。

 幸い、その中に母らしき者はいなかった。


『たかまらのはらにかむづまりますすめらがむつかむろぎかむろみのみこと……』


 通話からは祝詞のようなものが流れてくる。

 やがて闇の向こうに、光が見えてきた。黒見にそれを告げると、光へ向かうように指示される。乗ははやる気持ちを抑えて足を動かすと、不意に闇が途切れた。


「――出られた!」


 辺りは地下鉄の構内、それも二人が階段を降りてすぐの場所だ。顔のない人々はおらず、時間相応にまばらな人影があった。


「た、助かった……」


 隣では、八尋が壁にずるずると背をこすりつけるようにしてへたり込む。乗も同じく座りこみたい気分だったが、酔っ払いか何かと勘違いされそうで恥ずかしい。


「立てよ、八尋。あっ、黒見さん、ありがとうございます!」

『いえいえ、このぐらいお安い御用で』

「その、メールしたの件も相談に乗っていただけるんですか?」

『ええ、もちろん。そのことはもう大丈夫ですよ、丹村さん。このたびは、たいへん、おめでとうございます』

「はい?」


 脈絡のない祝いの言葉に乗は面食らった。


『丹村乗さん、おめでとうございます』

「あの、何の話ですか?」

『おめで……くっふふ……とうございま……ふっはは……』


 笑いを堪えきれない様子で、黒見は途切れ途切れに言葉を続けた。


『おめでとうございます……ふふっ、ははははっ……おめでとうございます! おめでとうございます! おめでとうございます! あはっははははは! はあはははは! ねねさま! おめでとうございます! いたらぬさとは! おめでとうございます! ひはははははは! なけれども! おめでとうございます!』


 どうやって息継ぎしているのかと心配になるほどの大笑いに、乗は理解が追いつかない。おめでとうございます?

 心当たりもないのにそんなことを言われるのは、かえって気味が悪い。それに、黒見の笑い声には、何か悪意のようなものが滲んでいた。


「何、笑ってんだよ、あんた」

『ははははははははははははは! ながむるひとの! ははははっこころにぞすむ! ははははは! おめでとう! おめでとうおめでとう!』

「なあ、話す気ねえなら、もう切るぞ!?」


 再三言っても、黒見の狂ったような笑いと、時おり挟まれるやワケの分からない言葉は途切れない。乗は舌打ちして通話を切った。



――これは夢だ。


 事務所のインターフォンが鳴った。「はい」と乗がモニターを確認すると、母の里麻がスクラブ姿で立っている。ナースステーションで倒れた時の格好なのだろう。

 息子と同じ一本線がスッと通った鼻筋も、ぱっちりと印象的な瞳も、変わらず華やかだ。髪は綺麗に切りそろえたショートボブ。どこにも焼けたあとはない。


「母さん」


 室内は真っ暗なのに、玄関の扉だけが明るく浮かび上がっていた。


『謝ってよ、乗』モニターごしに、母が視線を合わせてくる。


 恨めしいとか、悲しいとか、そんな感情をうかがわせない虚ろな表情が、見目良い顔を二束三文の価値もない、素焼きの皿のように見せていた。

 そんな風に思ったことを自覚して、乗は慄然りつぜんとする。母が死んでいるという事実よりも、これは母だったものなのだという確信に、体温というものが抜け落ちた。


『謝ってよ、乗』母がくり返す。『あなたがノロノロしているから、わたし、こんなんなっちゃったじゃない。謝って。に早く謝って。謝りなさい』

「母さん、ごめん」


 違う、と言うように母が頭を振った。


に謝るの』

『謝って』蓮本小静が言う。

『謝ってください』逆光注意不足が言う。

『早く謝罪してください』さこひら天啓が言う。

『ごめんなさいしろよ』ネオンボーイが言う。

『謝れ! 謝れ! 謝れ!』オランジュが言う。

『詫び入れろよ』クラウン機関が言う。

『全部、あなたのせい』蓮本子安こやすが言う。

「ごめんなさい」


 勝手に乗の口が動いた。すとん、と膝が落ちて、後ろから押されるように床の上へ這いつくばる。土下座の格好だ。


『謝って、乗、謝って、もっと謝って』母の声がする。


 ぎぃん、と額を締めつけられるような頭痛と耳鳴りが乗を襲った。インターフォンのスピーカーがハウリングを起こし、知らない大勢の声がわっと飛び出す。

 謝れ、謝れと。何度も見た悪夢と同じ。

 声はところどころ濁って、割れて、やがて形を無くす。かと思えば言葉をなして、くり返しその意味する所を突きつけた。もはや乗は言われるまま、謝るしかない。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

『でも、大丈夫』


 割れてもかすれてもいない、母の澄んだ声がした。


『もうすぐ、迎えに来るからね。きっとゆるしてもらえるから』

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