怪崩
拾 連れて行って餌にする
母の住むアパートで遺品の整頓をしていた時、冷蔵庫を開けたらタラコとこんにゃくの煮物が置いてあった。息子の
「
「いいよ」
どうせ捨ててしまうなら、腐らせてしまっても同じだ。口に入れると懐かしさが広がって、母が死んだという実感が、ずしりと乗の
甘い出汁が染みたタラコとつきこんにゃくは、噛めば噛むほど味が出て、魚卵のプチプチした食感が楽しい。薬味のネギがぴりりと全体を引き締めて、
「ごちそうさまでした」
その言葉で無理やり自分の気持ちを切り替える。
諸々の手続きがいやに呆気なく思えたのは、上の空でやっていたからかどうか、乗には分からない。確かなのは、人類は何千何万年も死に続けていて、また一人増えるぐらい大した変事ではないのだ、ということか。
死はありふれている。まさに自分も、その渦中にいるのだ。
母は職場のナースステーションで、宿直中に倒れている所を発見された。同僚は誰も、最期の瞬間を目撃しなかったようだ。
どういうわけだか、彼女はカウンターにもたれ、玄関を指さしたまま事切れていたと言う。まるで、「何か」が来たことを伝えるように。
『
式場の外では粉雪が舞っていた。
「丹村さん、このたびはご愁傷さまです」
「ありがとうございます」
儀礼的なやり取りは、素人芝居をさせられているようで居たたまれない。乗を早くに産んだ母はまだ五〇手前、健康そのものだったというのに。
「乗、オマエだいぶ気落ちしてんなあ」
「オフクロさん心不全だって? 気の毒だけどさあ、らしくねえよ」
弔問客には乗の友人たちも駆けつけている。皆髪を染めたり、ピアスをしたり、タトゥーを入れたり、厳つい連中だ。
それが喪服をしっかり着こんでいるのだから、中々近寄りがたい光景だろう。そんな中にあって、八尋は白手袋で自分のヘナタトゥーを隠していた。
乗は「最近色々あって」と、友人たちに自分の状況を誤魔化す。
一方で親族からの参列は、ない。父親はどこにいるのか音信不通だし、子供のころ乗の面倒を見てくれた祖父母も、学生時代に他界していた。
「
そういう宗派で、生ける屍と化しているかもしれない己が、母の葬儀を行う。
いったいこれは何の冗談だろう。いや、悪夢と言った方が適切だ。脈絡がない、筋が通らない、理屈が通用しない、しかも目が覚める保証などない。
自分が食品サンプルのようなよく似た偽物になって、動くたびパキパキと音がするのではないかと乗は思う。音を立てて軋むのが心か、体かは分からないけれど。
念仏が終わり、焼香の段になった時、乗は柊
「
「どうも、丹村サン。このたびはご愁傷様です」
さすがにタトゥースタジオにいる時と違い、きっちり喪服姿でネクタイを締めている。変わらないのは、イエローレンズのサングラスだけだ。
「……恐縮です。わざわざ来てもらって、その……」
「こっちはうちの姉」
「ユキでーす。夕日が起きるで
夜志高に指さされて、見覚えのある金髪の女性が手を振って自己紹介した。姉弟でカフェバーとタトゥースタジオを、それぞれ経営しているというわけか。
しかし乗が聞きたいのは、もっと別のことだ。
「丹村サン、〝イエス〟と〝ノー〟どちらがお聞きしたいですか?」
夜志高はこちらの質問を待たずに言った。乗の意図を、母の死がねぶらまによるものかどうか、その疑問を察している。
「……気休めならやめてくれ。アレのせいだってんなら、オレは知りたい」
「なら、イエスです」
予想していたが、できれば違っていて欲しかった答えだ。
それが思いのほか鋭く、冷たく乗の胸を穿つ。ねぶらまの仕業なら、母の死は、乗が棺桶に関わったためということになるのだから。
「いいの? そんな何でもかんでも怪しーいモンと結びつけちゃって」
夕起子が、夜志高の頬を指でつつきながら口を挟んだ。
「あんまり迷信思考になると、霊感商法のエジキよー」
「拝み屋の血筋はお互いサマだろ。教えてくれって言ったのは丹村サンだし」
「怪異とか呪いとかは人を殺さない、ってあんた言ったよな? じゃあ、これは何なんだ。オレの血縁をたどって、養分にしなくてもいいから、殺したのか?」
「そんな物のついでみたいな理由で、こんなやり方はしませんよ」
夜志高は言葉を探すようにうつむく。唇に手を当てて、煙草が欲しそうな様子だが、会場はどこも禁煙だ。ややあって、彼は顔を上げた。
「強いて言えば、『釣り餌』です」
「……なんだって?」
どくっと背中を叩かれたように、心臓が強く脈を打つ。母は今、炉の中で荼毘にふされている。つい数日前までは生きて、電話で話したばかりなのに。
たった一人の肉親なのに。
それが、乗を釣る餌にするために殺された、とこの男は言うのか。
「ねぶらまは丹村サンを連れて行きたがっている。でも、私が渡した
そう説明する夜志高の顔は、仮面のように表情がない。つるりと硬質で、叩くと軽い音がしそうなほど作り物じみた面持ちに、乗は苛立ちを覚えた。
「じゃあ、まだこれから人が死ぬのか?」
訊きながらさっと辺りを見回す。母の同僚たちと、自分の友人たち。顔も知らない父親は、どこか遠くの町でねぶらまに殺されているのかもしれない。
ちりっと肺の底で火花が散って痛むような、爆発の出口を今か今かとうかがう焦燥に、喉の渇きを覚える。そんな気持ちを知ってか知らずか、夜志高は涼しい顔だ。
「相手の正体が分かりませんので、どれだけ血を求めるかまでは何とも」
「んないい加減な!」
声が大きくなって、乗は我に返った。母の葬儀という場で、怪異だの呪いだのという話をしていることを周りに聞かれたくはない。外の喫煙所で話すべきだったか。
「まあまあ丹村サン、霊能者紹介したでしょ。ほらあの、
言われて思い出し、乗はスマホを確認した。
母の訃報が届く前日、確かに夜志高から「この人はどうか」とメールが送られてきていた。葬儀屋との打ち合わせや通夜に忙しく、連絡を送ったのは昨夜だ。
「……まだ返事はないっすね」
「まあ丹村サンも今お忙しいでしょうし、体を壊さないように注意してくださいよ。ああいうものは、不健康にこそつけ込んできますんで」
「いや、そのことなんだけどよ」
乗はかいつまんで、自身の異常を話した。食べたはずのものが、手つかずのまま急速に腐敗すること。そのことで居酒屋から出禁にされたこと。
自分はすでに、生きる屍ではないかということを。
「それはそれは……」夜志高の涼しい顔がゆらぐ。「そこまでマズいとは思いませんでした。こりゃ……あぁ、私でお役に立てるかどうか」
歯切れ悪く言いながら、彼は「ま、やれるだけのことはやってみますがね」と続けた。目を伏せ、大理石の床に視線を注ぐ横顔には、先ほどまでの澄ました様子はない。その言葉が、夜志高なりの誠意なのだろう。
「せめてこう、ものの正体がハッキリしてりゃねー。執念深くて凶悪、くらいしか」
弟の言葉を受けて夕起子がぼやく。人差し指を自分の額にあて、「ここにだって何の気配もないし。対処のしようがないって……」と小声で言った。
「うちの姉、私より視る力が強いんですよ」
なのに彼女にも「分からない」とはどういうことだ。夜志高の補足に、乗はほとほと頭が痛くなった。自分はじわじわと生殺しのまま、次は誰がやられるのか。
四人の間に沈黙が降りた。
夜志高が魔除けの刺青を彫るにも、ねぶらまがどういう物なのか情報を集める必要がある。他の霊能者が助けてくれるとして、本当に太刀打ちできるのか。
身近な人間の死が、乗に魂が浮遊したような不安を抱えさせる。
「乗、その、ねぶらまの正体だけど、少し分かったことがあるんだ」
それまで黙っていた八尋が、意を決したように口を開いた。
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