玖 タガを外して壊れろ
「……行こう、
やがて、ぽつぽつと八尋が話し始めた。
「最近、うちで異臭がするんだ。そういう時、台所の流しを見ると腐った食べ物が捨ててある。食べかけとかじゃない、まるごと手付かずのままで」
窓の外を吹く寒風が、ぴゅうっと胸の奥に吹きこむ心地がして、乗は我知らず震えた。――八尋、おまえまでオレを責めるのか、と。
いや、これは責めているなとどいうものではなくて。
現実を突きつけられているだけだ。
「おかしいなって思ったけど、言い出せなかった。食事した後、君が食べたはずのものが、短時間で異常に腐って捨てられているんだよ。もしわざとなら、同じ物を二つ用意して、片方はどこかに隠して腐らせてから、僕の目に付く所に捨てているってことだろう? そんな嫌がらせ、なんていうか、
もちろんそんな嫌がらせ、しかも無駄に手の込んだことをする理由は乗にはない。
食べているつもりが食べていない。なのに腹が減っている感じはしない。
「やっぱ、オレってもう、死んでんじゃねーかな……」
今ここにいる自分は、体は〝ねぶらまの棺〟に入ったまま、霊魂だけが
土の中、棺桶に横たわり、腐乱していく自分の死体を乗はイメージする。させられる。頭蓋の中で弾けた想像力が、否応なしに無惨なものを思い描いていった。
横たわる自分の目も、口も、ぽっかり開いたままだらしなく下垂して、ぶんぶんと蠅が出入りする。肌はブドウのような紫からやがて黒、緑色と変わり、表面はカサカサと乾きながらたるんで、まだしっかり形を保った所とそうでない所の落差に裂けていく。肌の色よりなお酷い、濁った肉が剥き出しになると、その間から黄白色の膿や汁が垂れ、骨を外れた肉は泥のようにべちゃりと落ちた。髪はぽろぽろと抜け落ちて跡形もない。目も口も蠅が集って、蠢く黒い穴のようだ。きっとおぞましい臭いがするだろう、成人男性八〇キロ分の生ゴミだ。人は死ねば物、生命という本来備わった機能を損なわれた物体はつまりゴミでしかない。生きている間も始終己を蝕む分解作用を拒んでいた生命力、免疫力――
「ホラーなら自分が死んだ自覚がない死者は、現実に気づいたら成仏することが多い。でも、乗がそうじゃないなら、たぶん、まだ君は生きているんだよ」
八尋が慰めてくれたが、乗の耳には遠くぼんやりとした言葉にしか聞き取れなかった。なるほど、自分はまだ生きているのかもしれない。だが正常な姿ではない。
死んで焼かれて、白い骨の欠片になるならいざ知らず。自分でも気がつかない内に屍になって、誰にも見つからないままそんな姿になるのは御免だ。
どれだ?
どちらだ?
どうなっている?
棺桶に関わって以来、見るもの感じるものすべてが、乗の認識を裏切り、
ふと、高校のある時期の記憶がよみがえる。
乗の人生において、最悪の地獄だった日々。心身に汚泥をすり込まれ続けるような、吐き気がするほど泣きたいのに、表向きは笑って過ごしていたあのころ。
カサブタも消えた古傷にナイフを突きこまれ、それをつけられた時の痛みと絶望を無理やり思い出され、グチャグチャとかき乱される。目の裏には痛いほどの火花。
頭痛が、眩暈が、鈍器のように襲ってくる。
「いやだ……嫌だ」
叫び出したくなる衝動を堪えて、乗は低い声を出した。感情のままに喚きだしてしまえば、悲鳴を上げれば、一つ大事なタガが外れてしまいそうな気がした。
その時は、叫ぶのを止められる自信がない。
「……な、なあ、八尋。オレは本当に、ここにいるのか? オレの体は、きちんと生きてんのか? どうなってんだよ……クソッ……」
「まずカメラを買おうか」
八尋の口から出た言葉は、慰めでも共感でもなかった。日常生活の一場面から、そのまま持ってきたような、なんてことないような顔で提案する。
虚を突かれた乗は、そこでやっと、自分がバスの固い座席に尻を乗せていることを、その上に背骨や内臓があり、どくどくと脈打つ心臓が、火傷しそうに熱いのに寒さで震える頭が、しっかりと載っているのを思い出した。
高校の時、あの地獄から救ってくれたのは八尋だ。自分の惨めさを知られたことは辛かったが、誰よりも敏感に何が起きているか悟り、最短距離で解決させた。
自分はここにいる。親友と隣り合って、確かに座っている。
ちゃんと、現実だ。少なくとも今は。
「動画を見る限り、君の客観的な行動と言動は記録に残すことができる。専用のカメラを数台用意して二十四時間記録し続ければ、君が自分の意に添わない行動に出たことに気づいたり、事前に防げる可能性が高まる。ねぶらまが君を操ったり、直接手出ししようとした場合、これは大きなアドバンテージだ。霊的な能力がなくても、僕らは僕らにできることをやろう」
すらすらと語る八尋の横顔は、初対面の夜志高とできるだけ目を合わせないよう顔をそらし、うつむき、ボソボソしゃべっていた時とはまるで別人だ。
※
中学の時、乗は探偵小説が好きだった。
名探偵の活躍を読むことで、少しでも彼らに近付ける気がして、ホームズ、ポアロ、マープル、有名どころは一通り読み漁ったと思う。
図書室にあった文芸部の冊子に手を伸ばしたのは、自分でもきっかけを覚えていない。カウンターに置いてあるから目がついて、薄いからすぐ読めるだろうと思ったとか、まあたぶんそんな所だろう。そこに、
『姉妹探偵チカとユミエ~玲瓏の死帳~第一話』。タイトルに探偵と入っている、それだけの理由で読み始めた原稿用紙六〇枚ほどの小説は、悪くなかった。
気が強いチカと、おっとりしたユミエのコンビが、連続する猟奇殺人の中で互いに絆を深め合い、クライマックスで推理を開陳し、鮮やかに状況を解決する。
思い返せば色々と都合が良すぎたり、無理のあるトリックもあったが、中学生が書いた物としては上等な部類のはずだ。何より、当時の乗はその作品に夢中になった。
図書館に置かれていた文芸部部誌のバックナンバーにすべて目を通して、こんな作品を書ける人が同じ学校にいるのか! と興奮したものだ。
乗が探偵小説ばかり読んでいたのは、「探偵とはこうするものだ」という学びが得られるのではないか、と期待してのことだった。
その頃の自分にとっては、小説家というのは雲の上の人間で、直接話を聞く機会などありはしない。だが、賢木雨読は同じ学校にいる。
居ても堪らず、乗は文芸部の門戸を叩いた。そこで知ったのは、賢木雨読の正体は一学年上の先輩、
白草米徳の名は「
「白草先輩の『チカとユミエ』、すっげー面白かったよ」
「ど……どうも」
当時の乗は家計と自分の貯蓄を作るため、コンビニでバイトに明け暮れていた。ローカルコンビニエンスストア『サボマート』の常連客が八尋だ。
いつもボソボソと小さな声で話して、必要最低限の会話で済ませようとする。そのわりに毎日のように来るから、歳が近いこともあって根気強く話しかけたものだ。
まさか先輩とは思っていなかったが、探偵小説の書き方――もっと言えば、探偵のなり方を知りたかった乗は、しつこく八尋に話しかけた。
乗には色んな遊び仲間がいたが、八尋はいつも図書室か文芸部部室にいて、ひたすら本を読むか書くか。それでも打ち解けてくると、知識の豊富さに面白いヤツだと思った。こいつがいなくなったら、自分の世界はどれほど退屈になるだろう、と考えて恐ろしくなるほどに。
※
高校のころ、八尋は「自分には才能がない」と小説を止め、乗は「小説だけで探偵にはなれない」と見切りを付けたが、そのころには互いに仲が深まっていた。
八尋は名探偵でも小説家でもない。でも、乗に何かあったら本気で向かい合い、解決しようとしてくれる。間違いなく、惜しみない愛だった。
「八尋」
「うん」
八尋の顔は、百年も千年も過ごした刀剣のように曇りなく穏やかだった。余計なものを吹っ切った、何が起きようが関係ないというような静けさと共に。
「おまえがいてくれて、良かった」
「どういたしまして」
笑い出したのは、どちらが先だっただろうか。乗客の迷惑にならないよう、声を抑えてはいたが、乗と八尋は確かに笑い合い、しばしの安堵を覚えた。
自分は自分にできることを――乗は頭をシャキッと改める。
「八尋、カメラを買うのはまだ後にしてくれ。時々オレをスマホで映してくれりゃいい。それと、ねぶらまを調べるのは任せていいか?」
「分かった。乗は?」
「オレは〝眠りの森〟の居場所を特定する。夜志高のタトゥーにせよ霊能者を頼るにせよ、元凶を捕まえなきゃどうにもならねえからな」
人探しは探偵の得意とする所だが、ヤツに関しては手がかりが少ない。分かっているのは顔と性別とSNSアカウント、廃墟探索ブログのみ。
生年月日不明、メールアドレスは秘密、カメラ機能の位置情報もオフ。
〝眠りの森〟はWebで大多数に注目されるような「炎上」は起こしておらず、慎重な姿勢を貫いている。
(腹立つほど、いいネットリテラシーしてやがる)
商店街やマンホール、飲食店、電柱、アンテナなど地域を特定できる画像はない。洗濯物や郵便物はおろか、自宅と思われる室内の写真もなし。
彼がアップロードする画像は、廃墟の写真に限られる。数人で訪れているのなら、SNSでつながっているフォロワーの投稿を参考にできるが、訪れるのも一人だ。
とはいえ、〝眠りの森〟が訪れた廃墟そのものは簡単に特定できそうだ。
ここで活躍するのが地図アプリケーション。〝眠りの森〟が廃墟を訪れたとおぼしき時間帯のストリートビューを確認して、それらしい車両や人物を探す。
「ぜってー追い詰めてやんよ、〝眠りの森〟……!」
あの男を野放しにしておけない。胸の前で拳を握ると、そのまま胸中の決心の固さになる。人の顔を殴り抜き、頭を下げさせないではおかない拳骨だ。
自分の正気と勝機は、ヤツにこの手を届かせられるかにかかっている。
◆
それから。
母の訃報が乗に届いたのは、三日後のことだ。
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