捌 腐れ果ててしまえ

 夜志よしたかの刺青に彩られた手は、大きな体躯に反して軽やかに指を踊らせる。

 蝶がはばたくように、ピアノを弾くように、和紙を人形ひとがたに切り、すずりで墨を刷り、墨痕ぼっこん淋漓りんりと奇妙不可思議に変形した漢字を書きつけて、霊符を完成させた。

 かと思ったら、夜志高はそれをジッポライターで燃やしてしまう。


「いやいや、なにしてんの」とじょう

「薬を使うことを服薬って言うでしょう。あれは持ち歩くって意味もありますけど、霊符ってのは古代の薬だったんです。だからこうやって服用します、OK?」


 夜志高は灰皿に乗せた灰をプラスチックのコップに入れ、ミネラルウォーターを注ぐと、ストローでよくかきまぜた。くすんだ色の水ができる。


「飲んでください、丹村にむらサン。これなら剥がせないでしょ」

「うへえ」


 乗は助けを求めるように八尋やひろを見た。


符水ふすいを飲むのは伝統的な霊符れいふの使い方だよ。高野山には、弘法大師千枚通しという飲む専用の護符もある」

「あーはいはい、飲むしかねえのね」


 乗はコップをつかむと、ぐっと一気に飲み干した。直後、目を白黒させ、使い捨て手袋用のゴミ箱に猛進、中に向かって洗いざらい吐き出す。

 サイケデリックな曲調で満たされた室内に、ドブのような臭いが広がった。乗が飲んだ符水が、一瞬で泥水と化したらしい。

 夜志高はそれを見て、ハァという溜息と共に額を押さえた。


 飲んで、吐いて、また飲んで。

 霊符の灰を溶いた水は、飲んでも飲んでも一瞬で泥水になる。五度目で「もうやめましょうか」と夜志高が言った時は、乗も助かったと思った。


「だ、だいぶ、良くないんですか」


 乗の背中をさすりながら、八尋が血の気のない顔で言う。「良いわけないでしょうが」と夜志高が大げさに肩をすくめ、お手上げのポーズを取った。


「いわゆる取り憑いているって言うよりゃ、って感じですね。丹村サンの内側が、もう〝あっち側〟に突っこんでいる、そういう具合です」


 あっち側。彼岸、あの世、異界、冥界。何にせよろくな想像ができない表現だ。

 暇つぶしに聞いた怪談が乗の脳裏によみがえる。もう地獄に片足を……山の神に取られて……半年も生きられない……が既に、自分の中にいるとしたら。


「オレ、助かるのか……?」

「ぶっこわれるには早すぎますよ。なら、出来ることは残っているでしょう」


 バリバリと頭を掻きむしって、夜志高はオールバックを乱した。言葉と裏腹に、初めて目の端に、ちりちりとした焦りの色が見える。


「ただ、とやらが、どうもよく分からないんですよ。でかすぎてカチリと形が見えてこない。やけにモヤついた……イラッとしますねえ」

「だったら、棺桶を見に行く時、あんたも来てくれねえか?」


〝眠りの森〟とコンタクトを取り、問題の〝ねぶらまの棺〟を壊すなり燃やすなりすれば、この事態は収拾が付くはずだ。夜志高の助けも得られれば心強い。


「いや、おそらくこいつは――」


 サングラスの下で、夜志高は目を閉じた。

 ざかっ、とノイズが走ったように彼の存在感が消えかけ、一瞬で元に戻る。消えかけたのは存在感だけだから、あくまで気のせい、そう見えたような気がした、だが。

 イエローレンズの下で開かれた瞳は、遠い何かを見据えている。


「見たらマズいタイプですね。怪異にさわらない基本は見ざる、聞かざる、言わざるなんですよ。無策で〝眠りの森〟に会いに行ったら、おそらくそこで終わりです」


 そんな、と八尋が溜息を吐いた。それでは、〝眠りの森〟とコンタクトを取るという方針は見直しだ。


「正体を見極めた上で、全身に護り刺青を彫れば、まあ見ても耐えられるでしょう。私も調べてみますが、当座はこれでしのいでください」


 夜志高は霊符を書きつけた人形ヒトガタを多めに持たせてくれた。乗の体に彫るべき図案を決めるには、まだ情報が足りないと言う。


「オーダメイドのお札じゃなくとも、丹村サンに巣食っているはこれを嫌がった。それなら、嫌がらせなりに効果はあるでしょう」

「今はこいつで身を守りながら、情報を集めるぐらいが関の山、か……」


 守りがどれぐらい持つかも未知数だ。乗が事務所に貼ったものは、一晩で全部掻き剥がしてしまった。八尋が何か言いたそうにこちらの顔を覗きこむ。


「なあ、乗。夜志高さんなら、他にも霊能者の知り合いがいるんじゃないかな」


 はたと言われて気がついた。夜志高は拝み屋でも霊媒師でもないと言ったが、そういう人脈があったとしてもおかしくない。

 八尋の提案をそのまま伝えると、夜志高は「まー、いるにはいますけどねえ」と、煙草をふかしながらチラリと視線を向けた。その先には身を縮こまらせた八尋の姿。


 目の前に相手がいるのだから、友人を介してではなく、自分で言いに来いということなのだろう。だが、初対面の相手とはとことん話したくないのが八尋なのだ。

 これでよく本屋など経営できるものだと乗は思うのだが、徹底したマニュアルでパターン化された接客をしているため、何とかなっているらしい。


「んじゃ、連絡先を教えてください。いけそうな方に何人か連絡してみますよ。それで解決するなら万々歳。実力は保証しますから、大船に乗った気でどうぞ」


 それで初めて、乗は安堵を覚えた。連絡は後日になるという。

 一応の収穫を得たことに満足して、乗たちは『明け烏』を後にした。店の暖房で暖まった体に、初冬の木枯らしがしみるが、清々した気分だ。


「せっかくだし、今日は『行き止まりの音居酒屋』飲みに行くかぁ」

「この間行ったばかりだけどね」

「近いからちょうどいいじゃん」


 意気揚々と店へ向かった二人を出迎えたのは、「入店拒否」という予想外の対応だった。

 いわく、前回の来店時に汚損などの迷惑行為があったこと。

 いわく、そのために他のお客様や従業員が多大な迷惑を被ったこと。

 そのため売り上げにも差し支えがあり、今後一切の入店を拒否する――との旨をつきつけられた。


「ですので、本日はどうぞお帰りいただけませんか」

「はあ? どういうこったよそれは。この間飲んだ時は、飲み食いしたなりに空の皿があったくらいで、『汚損』なんてした覚えねえんだけど!?」


 つかみかかりそうになりながら、乗は店員に抗弁する。感情を押し殺した相手の姿は、石像のように有無を言わせぬたたずまいだった。


「それではなぜ、腐った食べ物や大量の虫を、当店に持ちこまれたのですか?」

「んなバカな」


 乗と八尋が信じられないでいると、店員はiPadに保存した画像を表示して見せる。

 ひどいものだった。ビールのジョッキには汚水が溜まって所々こびりつき、食べ物はカビを通り越してドロドロに溶けて崩れ果てている。


 そこにハエや虫がたかっているのを見ると、乗は目を逸らしたくなった。

 ただ、それはすべてがそうというわけではない。取り皿のうち半分はごく普通の、食事を綺麗に平らげた後の食器にすぎない。


 あの日食べた物。ホッケの炭火焼き、ポテトサラダ、豆腐サラダ、ソーセージの盛り合わせ、梅水晶に揚げ出し豆腐。ビール、フグのひれ酒、ハイボール。

 その半分ほどの皿が、廃墟からそのまま拾ってきたように、ホコリをかぶり、腐汁を染みつかせ、二度と使うことなどとうてい無理だろうと分かる。


 なぜこんなことになったのか。乗に思い当たるのはというワケの分からないものに、自分が呪われているという事実だ。

 食べた物の半分だけが腐り果てていた――つまり、自分が食事した分だけが、食べたことにならず、瞬く間に朽ちていった。それが意味する所は、つまり。


 丹村乗という人間は、あの日〝ねぶらまの棺〟に入った時に、死んでいるから、ではなかろうか。だから、口にしたものもすぐに「死んで」腐ってしまうのだ、と。

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