伍 あやまっても ▞░さない

蓮本はすもとさん、本日はどうされましたか?」

『どうって、アオギリ会のこと聞きにきたんですよぉ』


 彼女は最後に会ったときと同じ格好をしていた。季節が移り変わった初冬に、秋物のコーディネートが薄着で不自然だ。


「……妹の子安こやすさんが、一週間ほど前から連絡がつかない、ご自宅にもいらっしゃらないと心配されていましたが」

『そーなんです? しばらく旅行にいってただけなのに、心配性だなあ』


 今時、旅行にスマホを置いていくだろうか? 複数の端末を使い分けるなら、浮気やら不倫やらの可能性もあるが、じょうは警戒を解けなかった。

 ピンクの髪の骸骨が笑う、カラカラと陽気に笑う。

 いったい、何がそんなに可笑しいのか。


丹村にむらさん、立ち話もなんですし、中でお話ししましょうよ』

「申し訳ありません、本日は臨時休業でして。大変恐縮ですが、また日を改めていただけませんか」


 実際、事務所の扉には『臨時休業のお知らせ』を貼ってある。

 蓮本は、ふぅん、と鼻にかかる声を出して、納得したようにうなずいた。「それじゃー、また来まーす」と言って、きびすを返す。


 ビルの階段を下りていく姿が完全に消えるのを確認して、乗は深々と息を吐いた。あっさり引き下がってくれて助かった……。

 拍子抜けして、自分は何をやっているのだと馬鹿らしくなってくる。

 蓮本は単に、何か事情があって家族に誤解されるような旅行に出かけ、自分が依頼した仕事の成果を聞きに来ただけではないのか?


 水でも飲んで落ち着こう。乗が冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターで喉を潤していると、またもインターフォンが鳴った。

 モニターにはボサボサの髪と、くたびれたコートの青年が映っている。スクエアフレームの眼鏡をかけた青白く鋭利な顔は、よく見知ったものだ。


八尋やひろ? なんで――」


 扉を開けようとして、乗ははっと手を止めた。なんの疑いもなく友人だと思ったが、最前の蓮本のことを考えると、それが正しい対応だろうか。

 彼は本の虫で出不精なのだ、後から行くと乗が伝えた以上、わざわざ自分から訪ねてくるとは考えにくい。思わずスマホを取ったものの、乗は逡巡した。


 いくらなんでも考えすぎ、過敏になりすぎではないか。実はたまたま八尋のそっくりさんが、偶然にも訪ねて来ただけかもしれない。そういうこともあるだろう。

 もう一度モニターを確認する。どう観察しても親友の白草しらくさ八尋にしか見えない。内と外、あっちとこっち、結界、友が語った言葉を頭の中で反芻はんすうする。


 向こうが人間だろうかなかろうが、自分が許可しない限り入れないはずだ。

 足の歯形と、記憶にない動画。自分は非常識な状況に巻き込まれている、それを踏まえれば、用心に用心を重ねてこしたことはない。乗は親友に電話をかけた。


「おい八尋、今」


 扉の向こうにいる八尋の姿をしたものは、スマホを取る仕草どころか、ぼんやりと立ったままだ。インターフォンを鳴らして五分近く経とうとしているのに、これはおかしい。やはり、あれは何か――の偽装ではないか。


▚▒▒▒れれれよ▝▙▞▚ぎょーお▝▚▒▒


 よく知った親友の声が、音程もろれつも狂った奇妙な言葉を発した。右耳から左耳まで、ガツンと殴られたような衝撃が突き抜ける。

 内臓をふわりと持ち上げる吐き気に、冷たい汗を肌から吐き出した。普段体温が高い乗の体は、たちまち芯から冷えていく。


 それは、冬の寒さでも水浴びの寒さでもない。体から血が、力が抜けて、自分にはなすすべがないと突きつけるような悪寒だ。

 眩暈めまいがしそうな無力感。それでも調子外れの〝何か〟の声は、辛うじて「入れてくれよ乗」と言っているのが分かる。なれ親しんだ声が歪むのは苦痛だ。


なーか▖▜▟に入ね▛▚▛てっしいぃな▒░▖▒▖▒


 どっちだ? 冷たい汗が背中を流れ落ちるのを感じながら、乗は考えあぐねた。

 居酒屋でのまったく記憶にない動画と同じことが起きていて、自分は幻を見ているのか。それとも、本物の八尋と意思疏通できなくなっているのか。

 もし、そのどちらでもなければ――扉の向こうにいるのは、何だ?


じょお▚▞▙▛▒▚░ねぶらまたひのとほひ▖▙▚▘░▒おう▖▙・びぃん▙░▖░▒░なっへじじじぢ▚▚▚▝じょお▚▞▙░░▜░ぢょーおじょお▚▞▙ぎょお░▜▘▝▗▚むらじょお▞▙▒▚ぶらたはが▘▒▘やーべいる▗▝▖░▚


 ばんっ!! と扉を叩く音が事務所中に響いた。


じょお▚▞▙ぢょお░░░ねぶらま▛▒▚░▝▝あはまろろ▘▒▟▞▘░▒░▒ねずらわすねむらわす▖▖░▜▞ねぶい▝▗▘▛▚░…………ねねさま▙▚░▒▙▜▙ろぉいてれ▖░░░▙▒▒のせたへめひにな▟▘▒▝▗▖ねじゃっひと▗▜▒▙░▜▟▚░▙▟▖ぞっぞっぞっ


 外にいる八尋が、べったりと体を玄関に張りつけ、手のひらで何度も叩き出す。モニター越しに、彼がろれつの回らない電話と同じことを言っているのが分かった。

 叩くたびに扉が揺れる。


かぁっら▗▙▒▒▚▞ねぇづづぬ~▗▒▒▒▝▜░▒…………だは▛░ら入っれー▝▞▝░▟


 ばん! ばん! ばん!


入ねれ░▞▒░░▙▒れれ


 ばん! ばん! ばん!


入れ▛▘▝▟へぇにぇーれー▗░▝▛▚


 だん! と。

 八尋なら決してしない暴力的な自己主張が、無表情のままに行われている。


「帰れ! お釈迦さまが許そうが、天地がひっくり返ろうが、てめえは入れねえ!」


 肺の空気をすべて使って声を張り上げ、乗は通話を切った。

 目を閉じて耳を塞ぎ、しばらくその場に立ち尽くす。自分も現実も信用できなければ、その両方をシャットアウトするしかなかった。


 何一つ確かなものが、足元にない。無限の虚空に投げ出されたような心細さが、ぽっかりと大きく胸を抉った。虚ろな胸郭きょうかくで心臓が痛いほど拍動する。


 その心音が、これではダメだと自らに警告を放った。


(何が真実か分からねえなら、一つでも白黒つけてやる)


 目と耳を開くと、相手は扉を叩きながらドアノブをガチャガチャと回している。きちんと鍵をかけていて良かった。乗は弾かれたようにキッチンへ向かう。

 目当ての物を握りしめ、玄関を開け放った。


「これでも喰らいやがれッ!」


 誰もいない空間に、ばっと食塩の白い粒が舞う。代わりに、そこにあったものを見て乗は息を呑んだ。

 水とも油ともつかない液体に濡れた足跡が、びっしりと大量に残されていた。通りがかったなんてものではなく、はっきりと爪先をこちらに向けて。

 八尋の言葉が脳裏をよぎった。


――今後乗の所にHさん蓮本や、アオギリ会の参加者がやって来る可能性が高い。


 モニター越しに確認できたのは、蓮本と八尋の姿をした何かだけだ。見えないだけで、十数人もの何かが自分が出てくるのを待ち構えていたのだろうか。


「勘弁してくれよ……」


 一刻も早く八尋の所へ行こう……乗は呼吸を整え、荷物をまとめてビルを出た。



「『乗、たちの所に行こう、みんな待っている』――は複数いるのか。ねずらわす、ねぶい、歌? のあたりはよく分からないな」


 でも一つ前進だね、と八尋は野帳フィールドノートに書きこんだ。

 事務所から乙夜堂いつやどう書店に戻ってきた直後。確認してみると、互いのスマホにあの不可解な通話記録も着信記録も残っていない。


「おまえの偽物が出るなんざ、気味わりぃ」

「人の声や姿を借りる妖怪の例は多いよ。でも人間じゃないから、上手く真似できなくて言葉が変になりがちだ。いや、僕も実例は初めてだけど……それと、招かれないと入れないから、人間を装ってやって来る化け物もね。吸血鬼なんか典型的だろう? 招かれたがっていたってことは、乗の家は今のところ、内と外を隔てた結界として機能しているってことだ」


――最後に塩まくため、自分で扉を開けちまったけどセーフかな。


 ふとよぎったそんな不安を、乗は黙っておくことにする。代わりにクーの白い腹をわしゃわしゃとなで、不安を誤魔化した。猫はいい、癒やされる。


 その日から、白草家でやけに生ゴミが増えるようになった。



 深夜、再び蓮本小静こしずの訪問を受けて、乗は夢を見ているんだなと納得する。察した一番の理由は、既視感。現実の体験ではなく、前にもこの夢を見た、と。


「丹村さーん、蓮本でーす。中、入っていいですかー?」

「ダメだ」


 おそらくそれは、神社からもらったお札を貼って寝た夜のことなのだろう。この夢をまた見るまで、乗自身すっかり忘れていた。


 真っ黒なら室内、そこだけ明るく浮かび上がる玄関の向こうから、代わる代わる様々な声がかけられる。

 逆光注意不足、オランジュ、さこひら天啓、ネオンボーイ、クラウン機関。あの日アオギリ会にいっしょに参加した連中が、口々に入れろと迫ってくる。


 乗としては扉を開けて「うるせえ!」と怒鳴ってやりたかったが、おそらく、それは良くない。……それにしてもこいつらは、言葉がしっかりしている。

 八尋の偽物はろれつが回っていなかった。ということは、乗の夢に押しかけている連中は、すべて本人だということか。


「丹村さーん、入れてくれないなら、謝ってくださいよ」

「そうですね、誠意が感じられません。謝罪を要求します」

「ごめんなさいも言えねえの? ダッセぇ」

「行動で示していただきませんと」

「あーやーまーれ! あーやーまーれー!」


 そうか、謝ればいいのか。すとんと腑に落ちる感覚がして、乗はその場に膝をついた。頭を下げ、土下座の姿勢で謝罪の言葉をしぼり出す。


「すみませんでした」


 足りない!! と扉の向こうが合唱した。自尊心がぎゅっと鳴りを潜め、ひっそりと胸の奥で麻痺していくのを感じながら、乗は無抵抗だった。


「なんでそんなに不真面目なんですか」

「私たちもずっと謝っていたんですよ?」

「今まで何してたんだよ、一人だけのうのうとよお」

「え、まさか自分がやったこと、分かってない?」

「早くあやまれよ。橋を渡って、ごくを上げて、あやまれ」

「はい、ほんとうに、ごめんなさい、はんせいしてます、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、すいません、すいません、もうしわけありません、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 何に対して自分は謝っているのだろう。それ自体が罰のように、身に覚えもなく、くり返しくり返し詫びの言葉をしぼり出している。

 こんなに謝っているなら、もう許してくれてもいいのではないか。


「ごめんなさい、ごめんなさい、にどとしません、すみませんでした」

「不徳の致す所っていうじゃん?」

「あやまります、あやまります、このいのちをかけてつぐないます」

「あなたには徳がない。善がない。美点がなにもない」

「どうかゆるしてください、ごめんなさい、ごめんなさい」

「まだだよ。もっと謝って。何に対してか分かってる?」

さま、ごめんなさい、ごめんなさい」

「もしかとして神さまとか仏さまを信じる?」

「いいえ、オレがしんじるのはさまだけです」


 ひょっとすると自分は、こんなに謝っても謝っても許されないようなことを、本当に仕出かしたのかもしれない。例えばそれは、どんなことだろうか……。


(もう、殺されても文句が言えないようなこと、とかか?)


 そして命乞いもむなしく殺され、

――――地獄に堕ちるのだ。


「乗、乗! しっかりするんだ!」


 パッと部屋がまばゆい光に照らされ、乗は顔を上げた。

 眼鏡を外して鋭い目つきをさらした八尋が、自分の肩をつかんで引っ張り起こしている。乗は布団の上で、土下座の姿勢を取っている自分に気がついた。


「オレ、ずっと一人で謝り続けてたのか……」


 乙夜堂書店の二階、乗は居間を借りて寝ていたのだ。八尋はえんえんと続く謝罪の声を聞いて、隣の和室から来たらしい。

 自分で貼ったお札を自分で剥がしたように、己が既に何かに蝕まれているなら、家の中が結界として機能していても意味がない。

 心配する八尋の声が、自らのことのように苦しそうに訊いた。


「乗、何を謝っていたか分かるか?」


 そんなことは自分が知りたい。例えば鬱病でも患っているならば、夜中にこんな奇行に及ぶこともあるだろう。しかし、乗にはそうした覚えはない。

 一番のストレス源は、このところ毎日のように続く怪奇現象だ。


「分からねえ、何も分からねえ……オレは、どうなっちまうんだ」


 自分が信じられない、正気だと思えない。内側から得体の知れないものに食い尽くされて、蝉の抜け殻のように丹村乗の皮だけ残して狂い死ぬのか。

 クーだけは、我が物顔で腹をさらして寝転がっている。


 翌日、乗は七守道学院大学病院で脳の検査を受けた。「よく知っているはずの場所から出られなくなった」という怪奇現象が、実は脳の方向感覚が壊れたためだった、なんて落ちもある。脳梗塞の兆候を疑ったのだが、結果は〝心身共に健康〟。


(妙なことばっか続いてんのに、健康もへったくれもねえんだよ!)


 酒やドラッグでコントロールを手放したわけでもないのに、己が勝手な行動を取る。それを止める手がかりは、今やYOSHITKAのタトゥーだけだ。

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