伍 あやまっても ▞░さない
「
『どうって、アオギリ会のこと聞きにきたんですよぉ』
彼女は最後に会ったときと同じ格好をしていた。季節が移り変わった初冬に、秋物のコーディネートが薄着で不自然だ。
「……妹の
『そーなんです? しばらく旅行にいってただけなのに、心配性だなあ』
今時、旅行にスマホを置いていくだろうか? 複数の端末を使い分けるなら、浮気やら不倫やらの可能性もあるが、
ピンクの髪の骸骨が笑う、カラカラと陽気に笑う。
いったい、何がそんなに可笑しいのか。
『
「申し訳ありません、本日は臨時休業でして。大変恐縮ですが、また日を改めていただけませんか」
実際、事務所の扉には『臨時休業のお知らせ』を貼ってある。
蓮本は、ふぅん、と鼻にかかる声を出して、納得したようにうなずいた。「それじゃー、また来まーす」と言って、きびすを返す。
ビルの階段を下りていく姿が完全に消えるのを確認して、乗は深々と息を吐いた。あっさり引き下がってくれて助かった……。
拍子抜けして、自分は何をやっているのだと馬鹿らしくなってくる。
蓮本は単に、何か事情があって家族に誤解されるような旅行に出かけ、自分が依頼した仕事の成果を聞きに来ただけではないのか?
水でも飲んで落ち着こう。乗が冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターで喉を潤していると、またもインターフォンが鳴った。
モニターにはボサボサの髪と、くたびれたコートの青年が映っている。スクエアフレームの眼鏡をかけた青白く鋭利な顔は、よく見知ったものだ。
「
扉を開けようとして、乗ははっと手を止めた。なんの疑いもなく友人だと思ったが、最前の蓮本のことを考えると、それが正しい対応だろうか。
彼は本の虫で出不精なのだ、後から行くと乗が伝えた以上、わざわざ自分から訪ねてくるとは考えにくい。思わずスマホを取ったものの、乗は逡巡した。
いくらなんでも考えすぎ、過敏になりすぎではないか。実はたまたま八尋のそっくりさんが、偶然にも訪ねて来ただけかもしれない。そういうこともあるだろう。
もう一度モニターを確認する。どう観察しても親友の
向こうが人間だろうかなかろうが、自分が許可しない限り入れないはずだ。
足の歯形と、記憶にない動画。自分は非常識な状況に巻き込まれている、それを踏まえれば、用心に用心を重ねてこしたことはない。乗は親友に電話をかけた。
「おい八尋、今」
扉の向こうにいる八尋の姿をしたものは、スマホを取る仕草どころか、ぼんやりと立ったままだ。インターフォンを鳴らして五分近く経とうとしているのに、これはおかしい。やはり、あれは何か――ねぶらまの偽装ではないか。
『
よく知った親友の声が、音程もろれつも狂った奇妙な言葉を発した。右耳から左耳まで、ガツンと殴られたような衝撃が突き抜ける。
内臓をふわりと持ち上げる吐き気に、冷たい汗を肌から吐き出した。普段体温が高い乗の体は、たちまち芯から冷えていく。
それは、冬の寒さでも水浴びの寒さでもない。体から血が、力が抜けて、自分にはなすすべがないと突きつけるような悪寒だ。
『
どっちだ? 冷たい汗が背中を流れ落ちるのを感じながら、乗は考えあぐねた。
居酒屋でのまったく記憶にない動画と同じことが起きていて、自分は幻を見ているのか。それとも、本物の八尋と意思疏通できなくなっているのか。
もし、そのどちらでもなければ――扉の向こうにいるのは、何だ?
『
ばんっ!! と扉を叩く音が事務所中に響いた。
『
外にいる八尋が、べったりと体を玄関に張りつけ、手のひらで何度も叩き出す。モニター越しに、彼がろれつの回らない電話と同じことを言っているのが分かった。
叩くたびに扉が揺れる。
『
ばん! ばん! ばん!
『
ばん! ばん! ばん!
『
だん! と。
八尋なら決してしない暴力的な自己主張が、無表情のままに行われている。
「帰れ! お釈迦さまが許そうが、天地がひっくり返ろうが、てめえは入れねえ!」
肺の空気をすべて使って声を張り上げ、乗は通話を切った。
目を閉じて耳を塞ぎ、しばらくその場に立ち尽くす。自分も現実も信用できなければ、その両方をシャットアウトするしかなかった。
何一つ確かなものが、足元にない。無限の虚空に投げ出されたような心細さが、ぽっかりと大きく胸を抉った。虚ろな
その心音が、これではダメだと自らに警告を放った。
(何が真実か分からねえなら、一つでも白黒つけてやる)
目と耳を開くと、相手は扉を叩きながらドアノブをガチャガチャと回している。きちんと鍵をかけていて良かった。乗は弾かれたようにキッチンへ向かう。
目当ての物を握りしめ、玄関を開け放った。
「これでも喰らいやがれッ!」
誰もいない空間に、ばっと食塩の白い粒が舞う。代わりに、そこにあったものを見て乗は息を呑んだ。
水とも油ともつかない液体に濡れた足跡が、びっしりと大量に残されていた。通りがかったなんてものではなく、はっきりと爪先をこちらに向けて。
八尋の言葉が脳裏をよぎった。
――今後乗の所に
モニター越しに確認できたのは、蓮本と八尋の姿をした何かだけだ。見えないだけで、十数人もの何かが自分が出てくるのを待ち構えていたのだろうか。
「勘弁してくれよ……」
一刻も早く八尋の所へ行こう……乗は呼吸を整え、荷物をまとめてビルを出た。
◆
「『乗、ねぶらまたちの所に行こう、みんな待っている』――ねぶらまは複数いるのか。ねずらわす、ねぶい、歌? のあたりはよく分からないな」
でも一つ前進だね、と八尋は
事務所から
「おまえの偽物が出るなんざ、気味
「人の声や姿を借りる妖怪の例は多いよ。でも人間じゃないから、上手く真似できなくて言葉が変になりがちだ。いや、僕も実例は初めてだけど……それと、招かれないと入れないから、人間を装ってやって来る化け物もね。吸血鬼なんか典型的だろう? 招かれたがっていたってことは、乗の家は今のところ、内と外を隔てた結界として機能しているってことだ」
――最後に塩まくため、自分で扉を開けちまったけどセーフかな。
ふとよぎったそんな不安を、乗は黙っておくことにする。代わりにクーの白い腹をわしゃわしゃとなで、不安を誤魔化した。猫はいい、癒やされる。
その日から、白草家でやけに生ゴミが増えるようになった。
◆
深夜、再び蓮本
「丹村さーん、蓮本でーす。中、入っていいですかー?」
「ダメだ」
おそらくそれは、神社からもらったお札を貼って寝た夜のことなのだろう。この夢をまた見るまで、乗自身すっかり忘れていた。
真っ黒なら室内、そこだけ明るく浮かび上がる玄関の向こうから、代わる代わる様々な声がかけられる。
逆光注意不足、オランジュ、さこひら天啓、ネオンボーイ、クラウン機関。あの日アオギリ会にいっしょに参加した連中が、口々に入れろと迫ってくる。
乗としては扉を開けて「うるせえ!」と怒鳴ってやりたかったが、おそらく、それは良くない。……それにしてもこいつらは、言葉がしっかりしている。
八尋の偽物はろれつが回っていなかった。ということは、乗の夢に押しかけている連中は、すべて本人だということか。
「丹村さーん、入れてくれないなら、謝ってくださいよ」
「そうですね、誠意が感じられません。謝罪を要求します」
「ごめんなさいも言えねえの? ダッセぇ」
「行動で示していただきませんと」
「あーやーまーれ! あーやーまーれー!」
そうか、謝ればいいのか。すとんと腑に落ちる感覚がして、乗はその場に膝をついた。頭を下げ、土下座の姿勢で謝罪の言葉をしぼり出す。
「すみませんでした」
足りない!! と扉の向こうが合唱した。自尊心がぎゅっと鳴りを潜め、ひっそりと胸の奥で麻痺していくのを感じながら、乗は無抵抗だった。
「なんでそんなに不真面目なんですか」
「私たちもずっと謝っていたんですよ?」
「今まで何してたんだよ、一人だけのうのうとよお」
「え、まさか自分がやったこと、分かってない?」
「早くあやまれよ。橋を渡って、ごくを上げて、あやまれ」
「はい、ほんとうに、ごめんなさい、はんせいしてます、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、すいません、すいません、もうしわけありません、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
何に対して自分は謝っているのだろう。それ自体が罰のように、身に覚えもなく、くり返しくり返し詫びの言葉をしぼり出している。
こんなに謝っているなら、もう許してくれてもいいのではないか。
「ごめんなさい、ごめんなさい、にどとしません、すみませんでした」
「不徳の致す所っていうじゃん?」
「あやまります、あやまります、このいのちをかけてつぐないます」
「あなたには徳がない。善がない。美点がなにもない」
「どうかゆるしてください、ごめんなさい、ごめんなさい」
「まだだよ。もっと謝って。何に対してか分かってる?」
「ねぶらまさま、ごめんなさい、ごめんなさい」
「もしかとして神さまとか仏さまを信じる?」
「いいえ、オレがしんじるのはねぶらまさまだけです」
ひょっとすると自分は、こんなに謝っても謝っても許されないようなことを、本当に仕出かしたのかもしれない。例えばそれは、どんなことだろうか……。
(もう、殺されても文句が言えないようなこと、とかか?)
そして命乞いもむなしく殺され、
――――地獄に堕ちるのだ。
「乗、乗! しっかりするんだ!」
パッと部屋がまばゆい光に照らされ、乗は顔を上げた。
眼鏡を外して鋭い目つきをさらした八尋が、自分の肩をつかんで引っ張り起こしている。乗は布団の上で、土下座の姿勢を取っている自分に気がついた。
「オレ、ずっと一人で謝り続けてたのか……」
乙夜堂書店の二階、乗は居間を借りて寝ていたのだ。八尋はえんえんと続く謝罪の声を聞いて、隣の和室から来たらしい。
自分で貼ったお札を自分で剥がしたように、己が既に何かに蝕まれているなら、家の中が結界として機能していても意味がない。
心配する八尋の声が、自らのことのように苦しそうに訊いた。
「乗、何を謝っていたか分かるか?」
そんなことは自分が知りたい。例えば鬱病でも患っているならば、夜中にこんな奇行に及ぶこともあるだろう。しかし、乗にはそうした覚えはない。
一番のストレス源は、このところ毎日のように続く怪奇現象だ。
「分からねえ、何も分からねえ……オレは、どうなっちまうんだ」
自分が信じられない、正気だと思えない。内側から得体の知れないものに食い尽くされて、蝉の抜け殻のように丹村乗の皮だけ残して狂い死ぬのか。
クーだけは、我が物顔で腹をさらして寝転がっている。
翌日、乗は七守道学院大学病院で脳の検査を受けた。「よく知っているはずの場所から出られなくなった」という怪奇現象が、実は脳の方向感覚が壊れたためだった、なんて落ちもある。脳梗塞の兆候を疑ったのだが、結果は〝心身共に健康〟。
(妙なことばっか続いてんのに、健康もへったくれもねえんだよ!)
酒やドラッグでコントロールを手放したわけでもないのに、己が勝手な行動を取る。それを止める手がかりは、今やYOSHITKAのタトゥーだけだ。
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