怪違
肆 お前の結界が邪魔だ
八尋はいつも以上に青い顔で訊いた。
「どうしたんだ、それ……」
「空っぽの棺桶に足つっこんだら、やられたんだよ。だから、オレはそれ以上深入りしなかった。……そのハズだったんだ」
握った自分の靴下を、店の床に叩きつける。
「他の連中みたいに、横になって蓋を閉められたりしなかった! それなのに、どういうことだよ!? 何なんだ、ねぶらまって!」
「ねぶるの未然形をねぶらとして、接尾語にま?
靴下を拾いながら、八尋は首を傾げた。白黒ハチワレ猫のクーが、興味深げにチョイチョイと前足を伸ばしてくる。残念ながらおまえのオモチャではない。
「また肝試しでもしたのか? 乗」
差し出された靴下を受け取りながら、かすかに呆れを含んだ八尋の声に、乗は少し冷静さを取り戻す。状況を整理した方が良さそうだ。
乗は八尋に向かって、
「よし、今までのことから、分かる点をまとめていこう」
ことの経緯を話し終えると、八尋はぴんと人差し指を立てた。
「前提として、世に怪奇現象と言われるものの多くは低周波、電磁波、共振現象、脳の異常、その他何らかの科学的な説明がつけられる。君の話を聞く限り、環境的な異常とは考えにくいから、まずは病院で検査した方が良いだろう」
つまり、今のところ乗自身の脳に問題がある可能性が高い、と八尋は判断したわけだ。確かに動画だけを観れば、脳か心の病を疑われても仕方がない。
いかに親友の八尋からとはいえ、「頭がおかしいのでは」と疑われるのはチクリと胸が痛む。だが、むしろそうだったらいいのに、という焦りの方が強い。
「んじゃ、足の歯形は?」
「君が誰かに噛まれてそれを忘れた、という可能性は否定できないけれど……仮に、そうでない場合を検討しよう。つまり怪奇現象だ」
「おぅ」
言葉にされると引くものを覚える。
しかしながら、空っぽの棺桶に入れた足を見えない誰かに噛まれたなど、そう言わざるを得ないだろう、と乗はしぶしぶ認めた。
「一つ、この異変はアオギリ会の棺桶、およびねぶらまというものが発端になっている。以後、棺桶を〝ねぶらまの棺〟と呼ぼう。二つ、動画データという根拠がある以上、〝ねぶらまの棺〟に関わった者は認識を狂わされる。三つ、上記を踏まえると
指の数を増やしながら、八尋はいつも持ち歩いている
「同じことはオレも考えた。もしかすると、棺桶に入ったヤツが助かるには、他人を棺桶に入れなきゃいけないのかもな」
「チェーンメールと同じだね。しかしそうすると、管理人だけ人に棺桶を勧め続けるのは不可解じゃないか? 彼はあれを広めるため、サーバーを立てたんだろう」
「……エサとか、生け贄、とか?」
あるいは繁殖の本能は、得体の知れない怪異でも同じなのだろうか。悪い予想はひとまず置くとして、乗には気がかりがあった。
「なあ八尋、オレだけ歯形がついたのは何だと思うよ?」
「それは乗が既に、結界の身体を持っていたからだと思う」
「結界って」
そんな物を持った覚えは欠片もない。乗は思わずオウム返しになる。
「タトゥー入れているだろ、君。結界と言うと怪しいけど、大げさに考えなくていいよ。家の内と外、あっちとこっち、自分と他人、境目を作って二つに分ければ、それは呪術であり結界なんだ。そして生き物は生まれながらにして、皮膚によって世界を分かち、自己という形を保っている。それを破って侵入してくるものには免疫が反撃する」八尋は空中に指で字を描いた。「
「おまえ、オレがタトゥー入れたのそういう風に思ってたの?」
八尋は「違う」と首を振った。
「今の状況から分かることをつなげて解釈しただけだよ」
「おまえが一度掘り出すと、何が出て来るか分かんねえな……まあいいや」
およそ現実で聞くとは思えない単語だらけの説明だが、脳の異常とどちらがマシか。これが他人事なら乗も面白がっている所だが、今は自分が当事者だ。
血がすーっと下り、心臓も内臓も地面に沈みこんで、後にはがらんどうの己が立つ。生きたまま死体になっていくような最悪の気分を、乗は努めて振り払った。
「しっかしこの程度、か……じゃあ他の連中は、棺桶の中で何かに食われて、別の存在に成り代わっちまったのかね」
「または操られているのか。『仲間を増やす』という行動を取るなら、今後乗の所にHさんや、アオギリ会の参加者がやって来る可能性が高い。それと肝心なのが、動画の乗は何を根拠にYOSHITAKAのタトゥー、と指定したかだね。心当たりは?」
そもそも撮影時の記憶はすっぽり抜けているので、乗は「いんや」と答えるしかない。そういえば下半身には他の彫師による小さなタトゥーを入れているが、自分はそちらに言及しなかった。
「強いて言やぁ、オレの体に一番でっかく入ってんのが、YOSHITAKAのタトゥーってぐらいだな。ほら、龍と牡丹の。あと、今どき珍しい手彫り派だった」
「うん……」
八尋はうつむくと顎に手をあてて、つらつらと語り出す。
「タトゥーは……古今東西、様々な意味合いを持ってきた。例えば和彫りのモチーフにもなっている生首は、〝身代わり〟の意味を込めて武将が陣羽織などにあしらったそうだ。タイの寺院で僧侶が入れてくれるサック・ヤン、またはサクヤンは実に呪術的で、日本語では護符刺青とか法力刺青なんて言われている。アイヌやボルネオ・ダヤク族などの間では、タトゥーは死後魂が迷わず彼岸へ導かれるために欠かせない通行証だった。縄文人の
Web検索もなしに、自分の頭一つからよくそれだけ引き出せるものだ。乗はヒュウと口笛で敬意を表し、「一度、YOSHITAKAに会ってみるか」とまとめた。
「刺青の呪術について、この地方で興味深い資料が僕のコレクションにあったはずだ。それがYOSHITAKAのタトゥーと関係あるのかもしれない。探しておくよ」
「ああ、頼む。ただの彫師が心霊案件持ちこまれても困っちまうだろうけど、可能性その三が当たって、元からその筋の人間なら願ったりかなったりだ」
乗はYOSHITAKAのスタジオに連絡し、「タトゥーについて相談したいことがある」と二日後に予約を入れた。八尋が「僕も行くよ」と申し出る。
「そりゃ心強いが、いいのかよ?」
「ちょうど、うちは定休日だよ。それに動画のことを考えれば、君は一人だと、また記憶や認識がおかしくなるかもしれない」
「ハッキリ言ってくれるねぇ」ついつい苦笑いになる。
しかし、それは現在進行形で大問題だった。
乗がアオギリ会で何かに足を噛まれた時、周りの連中も反応していた。自分が棺桶に入ったタイミングは、いったいいつなのか?
八尋のもとへ来る前、録音アプリを使っていたことを思い出してデータを確認したが、すべてノイズになっていて意味のあることは何も拾えなかった。
「……八尋、この上急で
「ああ、いいよ。構わない」
何のためらいもない快諾に、しみじみ友人のありがたさを覚える。
「夕飯、とりあえず常夜鍋でいいかな。豚肉とほうれん草あるから」
「んじゃあお言葉に甘えて」自炊派の八尋は手料理が上手い。
家の中で妙な物音や声がするだとか、人影を見たとかなら、乗はここまで怯えたりはしなかった。信じていたものがひっくり返り、自分自身すら疑わしいという状況が、一番
「オレがおかしいと思ったら、いつでも録画してくれ」
夜まで仕事するため、乗は一旦事務所に戻った。自営業はやれる時にやっておかないと、商売が回らなくなってくるのだ。
「八尋の所に行く前に、お祓い受けてくっかな……」
病院に予約も入れなくてはならない。検査の結果、脳の異常か病気が見つかったなら、YOSHITAKAへの相談は取り消した方が良いだろう。
どちらの場合でも、自分がワケの分からないものを片付けて、以前の生活を取り戻すにはしばらくかかりそうだ。乗はほとほとウンザリした。
黙々と仕事していると、インターフォンが鳴る。乗の生活スペースは事務所と隣接する形になっており、出入り口は事務所側に一つしかない。
モニターで確認すると、ガリガリに痩せた女の体に、ピンクの髪が乗っていた。
(蓮本
さんざん連絡のつかなかった彼女が、なぜ今、このタイミングでやって来るのだろう。乗はすぐ扉を開けず、インターフォン越しに対応した。
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