弐 逆精進(さかしょうじん)
「えっ、なにこれ」
「どうなってるの??」
参加者の男女がどよめき、また息を呑む。
「……どういうこった」
ありえない傷に、
だがいくら蝋燭だけの薄暗がりでも、そんな隙はなかった。
これまで棺桶に入った五人には何も起こらなかったのだ。やったのが人間にせよ、超常的な何かにせよ、こうなる訳も意味も分からない。
「痛みますか、〝
紙に印字された文字のように、〝眠りの森〟が乱れのない声で訊いた。どこまでも他人事という無機質な態度は、周囲の動揺とは無縁の世界に生きている。
白く平坦な顔が、にこっと笑顔を作った。
なぜだかその表情が、
「今日はもう、棺桶に入るのはやめましょう」
「ちょいと待った! オレは」
この棺桶に入るためにやってきたのだ。乗の
「噛まれたということが答えです。大変恐縮ですが、〝牡丹煙草〟さまはこれ以上、
一方的に申しつけて、〝眠りの森〟は撤収を宣言する。
(オレは遮られてなけりゃ、本当に〝棺桶に入らせてくれ〟って言ったのか?)
反射的に異議を唱えようとしたのは、あくまで振り、格好つけだ。プライドを一枚ひっぺがし、胸の奥に訊いてみるといい――ホッとしている。
あの得体の知れない棺桶に入らなくて、心底良かった、助かったと思っている。足に残った歯形がアザに色を変えていく中、乗は
◆
秋という季節が過ぎ去っても、琥珀色の冷たく泡立ったやつは
同じ目的で店に詰めかけた人々が、障子の向こうでガヤガヤと騒いでいるのも心地よい――働いたぞ! という快哉代わりの飲みなのだ。
「くう~ッ生きてる~!」
アオギリ会から地元
七守道市の歴史は、京都府
それは自然も村落も人の手で代々整えられた箱庭のような世界で、古くから続く信仰や祭祀が今も生きる世界である。
昭和二十九年、旧七守村
人口三十五万人、地名の由来は七つの神が守る、あるいは七つのご神木を守るとも言われ、そこに道を通して(=合併)七守道とされた。
「あんまり飲み過ぎるなよ、君」
乗の対面で、フグのひれ酒をちびちびやっている青年が、眼鏡を曇らせながらやんわりと言う。乗の十数年来の親友、一つ年上の
筋肉質な乗とは真逆の長身痩躯に、青白いが線の鋭利な顔。陽の光に知らぬ顔を決めこんで、日がな一日、本の山に囲まれているのがぴったりな文学青年である。
「固いこと言うなよ、おまえと飲むのもどんだけぶりって感じだし」
「そうかな。そうかも。前にやったのはオンライン飲み会か」
「家飲みも悪くねえけどな。そろそろ、店でなきゃ食えない、手のこんだごちそうが恋しいって気分。あ、オレにも梅水晶ちょーだい」
「はいはい」
すでにテーブルには、注文した料理が並んでいた。
今が旬の
ポテトサラダは挽き立ての黒コショウと刻みネギがかかっている。ニンジン、きゅうり、タマネギ、コーン、ゆで卵と具だくさん。
その他、豆腐サラダにソーセージの盛り合わせ、サメ軟骨の千切りに梅肉を和えた梅水晶、揚げ出し豆腐……。料理をつついていると、八尋が遠慮がちに口を開いた。
「乗、最近、どうだ?」
「どうってぇ? まあオレは、ボチボチかね」
今日の仕事を引きずっていることを、八尋もそこはかとなく察したのかもしれない。アザになって残る足の歯形が、ずくりと痛んだ。
「仕事の話ならさ、おまえはどーなんよ」
八尋は教員免許や司書資格を取得したくせに、「本がたくさん読めるから」という理由で古書店を営んでいる趣味人だ。書物のためなら、平気で衣食住を切り詰める。
店の品揃えはこだわりにこだわり抜いており、秘密結社の規則集、東南アジアの呪術手引き書、偽予言者の本、中世の錬金術古書、異様に巨大な本もあれば豆本どころではない極小の本などなど、奇書、珍書、
出版不況は言うに及ばず、全国規模のレンタルビデオ・書籍ショップチェーンなどの競合他社の存在で、楽ではないだろうに。よくやるものだ。
「やっぱさぁ、オレといっしょに探偵やろうぜ?」
それは事務所開業以前から、彼にかけていた誘いだった。乗にとって、八尋は知恵袋、生き字引といった存在で、冴えない見た目で侮られがちだが頼りになる。
何より、八尋はやる時は「やる」男だ。
学生時代にはよく勉強を教えてもらっていた。彼をパートナーと想定した事業計画書を作って、本人に提出したくらいである。
「いや、僕は一国一城の主なんだ。これでも遠方から来る常連客だっているんだよ? どうしても探偵に誘いたいなら、高校の時みたいに、また小説書いてくれよ」
「あー、それね……特にネタとかねえからなあ」
「君は生きているだけで文学やっている人種だよ。文章技術だってある。今でもいいのが書けると思うのに、もったいない」
このやり取りも毎度のことだ。八尋は、乗が一度だけ書いた中編小説を気に入ってくれている。しかし、あれは書いてみたくなったから書いただけで、今さらやろうというのは正直乗は面倒臭かった。何というか、複雑な気持ちになるのだ。
互いの店舗自体は近くにあるが、それぞれにはそれぞれの人生がある。
ふと、乗の脳裏にネット心中がよぎった。
八尋は書物に耽溺する一方で、インターネットにも入り浸っている。もしかしたら、『眠りの森』のようなコミュニティに身を置いているのかもしれない。
「……なあ、八尋。もしおまえが死にたくなったらさぁ」
「え?」
八尋は梅水晶をつまむ箸を止めた。手にした物の使い方が分からなくなって、ボンドで塗り固められたような、強い困惑だ。
「そん時ゃ、オレもおまえといっしょに死ぬから、生きてる内はがんばってくれよ」
ネットで他人を心中相手に求めるぐらいなら、自分を道連れにしてくれればいい。いや、その前に自殺を思い止まらせるのが筋というものだが。
「またその話かい? 君、酔うのが早すぎるんじゃないか」
見えないボンドの固着力を破って、八尋は口を開く。ただ、彼の口から「自殺なんて考えていない」というはっきりした言質は取れなかった。
その一点が置き場のない不安になって、乗の脳裏に引っかかる。
いくつかモヤつくことはあったが、飲み会はおおむね楽しく過ごせた。料理も酒も美味いし、あれこれと世間話をして楽しんだ。
おあいその直前、今度は八尋が妙なことを言い出す。
「乗、お祓いとか、そういうのした方がいいんじゃないか」
「なんだよ、急に」
「だって、君」
眼鏡の奥から、切れ長の目が心配そうに自分を見つめているのが分かった。心底、真っ直ぐにこちらを気にかけている、何でも見通しそうな眼差し。
八尋はとてつもなく人付き合いが苦手だ。乗がいつも一人でいる彼にあれこれと話しかけて、打ち解けるまでずいぶんかかった。
仮にも客商売を始めてからずいぶんと改善されたが、ほとんど人の目は見ない、声は小さくボソボソとして抑揚がない。とても会社勤めなどできそうにもなかった。
その八尋が、こちらの身を案じるとき真正面から目を見る。子供のころに拾ったガラス玉のような、二人の間だけで価値を持つ宝物だ。
「……とにかくさ、お祓いが面倒なら、お札とかお守りだけでももらった方がいい」
「分かった。おまえがそう言うなら、明日にも神社に行ってくるよぉ」
それでこの日はお開きになった。
◆
『行き止まりの音』の店先には、大きさが子供の背丈ほどある狸の焼き物が置かれている。いわゆる信楽焼きの「酒買い小僧」ではなく、錫杖を持ち、赤いよだれ掛けをつけた「タヌキ地蔵」は、七守道市の名産・神曽焼きとして有名だ。
神曽焼きは他にカラス天狗、カエル神、稲荷キツネ、猫王明神などで親しまれ、当地の動物神信仰をよく表している。
「ありがとうございましたー!」
退店する乗と八尋を45度のお辞儀で見送り、
「何をしたら、こんな風になるんだ……?」
場の惨状に、彼はただそうもらすしかない。障子一枚で防がれていたのが信じられないほど、そこには濃厚な悪臭がわだかまっていた。
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