弐 逆精進(さかしょうじん)

「えっ、なにこれ」

「どうなってるの??」


 参加者の男女がどよめき、また息を呑む。


「……どういうこった」


 ありえない傷に、じょうも我知らず言葉をもらした。誰かが足の甲に噛みついて歯形を残すなら、あらかじめ棺桶の中で横たわっていなければならない。

 だがいくら蝋燭だけの薄暗がりでも、そんな隙はなかった。

 これまで棺桶に入った五人には何も起こらなかったのだ。やったのが人間にせよ、超常的な何かにせよ、こうなる訳も意味も分からない。


「痛みますか、〝牡丹煙草〟さま」


 紙に印字された文字のように、〝眠りの森〟が乱れのない声で訊いた。どこまでも他人事という無機質な態度は、周囲の動揺とは無縁の世界に生きている。

 白く平坦な顔が、にこっと笑顔を作った。

 なぜだかその表情が、蓮本はすもとの骸骨じみた笑みに重なる。


「今日はもう、棺桶に入るのはやめましょう」

「ちょいと待った! オレは」


 この棺桶に入るためにやってきたのだ。乗の反駁はんばくに、〝眠りの森〟は首を振った。


「噛まれたということが答えです。大変恐縮ですが、〝牡丹煙草〟さまはこれ以上、アオギリ会棺桶オフ会に触れないでいただけませんか」


 一方的に申しつけて、〝眠りの森〟は撤収を宣言する。


(オレは遮られてなけりゃ、本当に〝棺桶に入らせてくれ〟って言ったのか?)


 反射的に異議を唱えようとしたのは、あくまで振り、格好つけだ。プライドを一枚ひっぺがし、胸の奥に訊いてみるといい――ホッとしている。

 あの得体の知れない棺桶に入らなくて、心底良かった、助かったと思っている。足に残った歯形がアザに色を変えていく中、乗は忸怩じくじたる思いで立ち尽くした。



 秋という季節が過ぎ去っても、琥珀色の冷たく泡立ったやつは美味うまい。一日働いた命の洗濯に相応しい一杯だ。

 同じ目的で店に詰めかけた人々が、障子の向こうでガヤガヤと騒いでいるのも心地よい――働いたぞ! という快哉代わりの飲みなのだ。


「くう~ッ生きてる~!」


 アオギリ会から地元七守道ななかみどう市に帰った乗は、居酒屋『行き止まりの音』の座敷席に陣取っていた。葛石かつらいしちょうの区役所通りを、駅方面へ進んだ所にある店だ。


 七守道市の歴史は、京都府神曽かみそ高原にできた七守村に始まる。起伏が緩やかな高原はよく耕された田畑と家屋敷が等間隔に並び、早くから自給自足が完結していた。

 それは自然も村落も人の手で代々整えられた箱庭のような世界で、古くから続く信仰や祭祀が今も生きる世界である。


 昭和二十九年、旧七守村七守ななかみちょう、葛石町、奥柱おくばしらちょう此渡これわたりちょう音切おんきりちょう観世表かんぜおもてちょう掃姫ははきひめちょうの七つが合併したのが、七守道市だ。

 人口三十五万人、地名の由来は七つの神が守る、あるいは七つのご神木を守るとも言われ、そこに道を通して(=合併)七守道とされた。


「あんまり飲み過ぎるなよ、君」


 乗の対面で、フグのひれ酒をちびちびやっている青年が、眼鏡を曇らせながらやんわりと言う。乗の十数年来の親友、一つ年上の白草しらくさ八尋やひろだ。中学では先輩後輩の関係だったが、高校の時に諸事情あって留年し、同学年となっている。

 筋肉質な乗とは真逆の長身痩躯に、青白いが線の鋭利な顔。陽の光に知らぬ顔を決めこんで、日がな一日、本の山に囲まれているのがぴったりな文学青年である。


「固いこと言うなよ、おまえと飲むのもどんだけぶりって感じだし」


 蓮本はすもとの依頼が不首尾に終わったことを思うと、美味い酒になるとは言い難い。それでも、気心の知れた友となら慰めになるだろう。


「そうかな。そうかも。前にやったのはオンライン飲み会か」

「家飲みも悪くねえけどな。そろそろ、店でなきゃ食えない、手のこんだごちそうが恋しいって気分。あ、オレにも梅水晶ちょーだい」

「はいはい」


 すでにテーブルには、注文した料理が並んでいた。

 今が旬の知床しれとこ産ホッケは炭火でふっくらと仕上げられ、たまらない香りを漂わせている。大根おろしとカイワレが、白と青の彩りを添えるのも嬉しい。

 ポテトサラダは挽き立ての黒コショウと刻みネギがかかっている。ニンジン、きゅうり、タマネギ、コーン、ゆで卵と具だくさん。

 その他、豆腐サラダにソーセージの盛り合わせ、サメ軟骨の千切りに梅肉を和えた梅水晶、揚げ出し豆腐……。料理をつついていると、八尋が遠慮がちに口を開いた。


「乗、最近、どうだ?」

「どうってぇ? まあオレは、ボチボチかね」


 今日の仕事を引きずっていることを、八尋もそこはかとなく察したのかもしれない。アザになって残る足の歯形が、ずくりと痛んだ。


「仕事の話ならさ、おまえはどーなんよ」


 八尋は教員免許や司書資格を取得したくせに、「本がたくさん読めるから」という理由で古書店を営んでいる趣味人だ。書物のためなら、平気で衣食住を切り詰める。

 店の品揃えはこだわりにこだわり抜いており、秘密結社の規則集、東南アジアの呪術手引き書、偽予言者の本、中世の錬金術古書、異様に巨大な本もあれば豆本どころではない極小の本などなど、奇書、珍書、稀覯書きこうしょととにかくマニアック。

 出版不況は言うに及ばず、全国規模のレンタルビデオ・書籍ショップチェーンなどの競合他社の存在で、楽ではないだろうに。よくやるものだ。


「やっぱさぁ、オレといっしょに探偵やろうぜ?」


 それは事務所開業以前から、彼にかけていた誘いだった。乗にとって、八尋は知恵袋、生き字引といった存在で、冴えない見た目で侮られがちだが頼りになる。

 何より、八尋はやる時は「やる」男だ。

 学生時代にはよく勉強を教えてもらっていた。彼をパートナーと想定した事業計画書を作って、本人に提出したくらいである。


「いや、僕は一国一城の主なんだ。これでも遠方から来る常連客だっているんだよ? どうしても探偵に誘いたいなら、高校の時みたいに、また小説書いてくれよ」

「あー、それね……特にネタとかねえからなあ」

「君は生きているだけで文学やっている人種だよ。文章技術だってある。今でもいいのが書けると思うのに、もったいない」


 このやり取りも毎度のことだ。八尋は、乗が一度だけ書いた中編小説を気に入ってくれている。しかし、あれは書いてみたくなったから書いただけで、今さらやろうというのは正直乗は面倒臭かった。何というか、複雑な気持ちになるのだ。

 互いの店舗自体は近くにあるが、それぞれにはそれぞれの人生がある。


 ふと、乗の脳裏にネット心中がよぎった。

 八尋は書物に耽溺する一方で、インターネットにも入り浸っている。もしかしたら、『眠りの森』のようなコミュニティに身を置いているのかもしれない。


「……なあ、八尋。もしおまえが死にたくなったらさぁ」

「え?」


 八尋は梅水晶をつまむ箸を止めた。手にした物の使い方が分からなくなって、ボンドで塗り固められたような、強い困惑だ。


「そん時ゃ、オレもおまえといっしょに死ぬから、生きてる内はがんばってくれよ」


 ネットで他人を心中相手に求めるぐらいなら、自分を道連れにしてくれればいい。いや、その前に自殺を思い止まらせるのが筋というものだが。


「またその話かい? 君、酔うのが早すぎるんじゃないか」


 見えないボンドの固着力を破って、八尋は口を開く。ただ、彼の口から「自殺なんて考えていない」というはっきりした言質は取れなかった。

 その一点が置き場のない不安になって、乗の脳裏に引っかかる。


 いくつかモヤつくことはあったが、飲み会はおおむね楽しく過ごせた。料理も酒も美味いし、あれこれと世間話をして楽しんだ。

 おあいその直前、今度は八尋が妙なことを言い出す。


「乗、お祓いとか、そういうのした方がいいんじゃないか」

「なんだよ、急に」

「だって、君」


 眼鏡の奥から、切れ長の目が心配そうに自分を見つめているのが分かった。心底、真っ直ぐにこちらを気にかけている、何でも見通しそうな眼差し。

 八尋はとてつもなく人付き合いが苦手だ。乗がいつも一人でいる彼にあれこれと話しかけて、打ち解けるまでずいぶんかかった。


 仮にも客商売を始めてからずいぶんと改善されたが、ほとんど人の目は見ない、声は小さくボソボソとして抑揚がない。とても会社勤めなどできそうにもなかった。

 その八尋が、こちらの身を案じるとき真正面から目を見る。子供のころに拾ったガラス玉のような、二人の間だけで価値を持つ宝物だ。


「……とにかくさ、お祓いが面倒なら、お札とかお守りだけでももらった方がいい」

「分かった。おまえがそう言うなら、明日にも神社に行ってくるよぉ」


 それでこの日はお開きになった。



『行き止まりの音』の店先には、大きさが子供の背丈ほどある狸の焼き物が置かれている。いわゆる信楽焼きの「酒買い小僧」ではなく、錫杖を持ち、赤いよだれ掛けをつけた「タヌキ地蔵」は、七守道市の名産・神曽焼きとして有名だ。

 神曽焼きは他にカラス天狗、カエル神、稲荷キツネ、猫王明神などで親しまれ、当地の動物神信仰をよく表している。


「ありがとうございましたー!」


 退店する乗と八尋を45度のお辞儀で見送り、割烹着かっぽうぎ姿の店員は掃除のため座敷の障子を開けた。波のように押し寄せる腐臭に、「うわっ!?」と声を上げる。


「何をしたら、になるんだ……?」


 場の惨状に、彼はただそうもらすしかない。障子一枚で防がれていたのが信じられないほど、そこには濃厚な悪臭がわだかまっていた。

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