独り水族館の楽しみ方

舞寺文樹

独り水族館の楽しみ方

 上の方からスルスルと黒い影が降りてきた。その黒いスルスルは水面に触れるや否や、形をもみじやヒトデのように変えた。

 「離せよ。早く離せよ」

さっきまでジタバタしながらこう叫んでいたちっちゃいヤツも、もう何も言わなくなった。黒い影はまたスルスルと上へ上へと戻っていき、またどこかえ消えた。おそらくその、上の世界というのは、我々が知ってはいけないけれど、必ずなければならならい中枢の領域で、その世界というのは、形而下に存在しているものの、我々が容易く認識できるものではないということだ。

 私たちはそのちっちゃいヤツがいる世界とも、その上の世界とも別の世界にいる。ちっちゃいヤツがいる世界を私たちは俯瞰的に観ることができるが干渉することはできない。上の世界は、私たちと同じ種が生息していて、便宜上形而下に存在しているが見ることも感じることもできない。できないというより、できないという設定になっている。


 一枚の透明な板で隔てられた、私たちの世界とちっちゃいヤツがいる世界は、近いようで遠かった。ちっちゃいヤツのところに行くためには、上の世界を経由しなければならないからだ。上の世界はグロテスクで、闇に葬られていることが沢山あると人々は口々に言う。目の前で全身をくねくねと動かしながら優雅に四方へ動き回っているそのちっちゃいヤツは、逃れものなのだろうか。こいつは中々の強運の持ち主で、その上の世界の闇から脱出することに成功した幸福者なのだろうか。

 私はその透明の板にへばりついた。そしてそのちっちゃいヤツをひたすらに目で追った。

「おいおい。さっきとは違いすぎるぞ」

ちっちゃいヤツが何か言っている。

「何が違うんだ」

「あんな狭っ苦しいバケツとは大違いだよ。ここならうーんと四肢をめいいっぱい伸ばせるじゃないか」

そのちっちゃいヤツの腕と脚をどう定義すればよいのかわたしには全くわからなかったが、確かにバケツに比べればいかんせんマシだろう。しかし、ここにはちっちゃいヤツの他にもおっきなヤツもいる。おそらくコイツはまだそれを知らないのだろう。

 ちっちゃいヤツは私の前を行ったり来たりしながらこう続けた。

「もしかしてさ、ここって太平洋ってとこ?」

「本当にそうだと思うのかい。もしそう思っているのなら君は類慣れな馬鹿だよ」 

「馬鹿とはなんだよ。やっとバケツから出られたってのにさ。それに僕は馬でも鹿でもないよ」

「太平洋なんかに比べたら君のいる世界なんて米粒みたいなもんさ」

「米粒?ごめんね、俺たちはお米は食べないんだよ。だから米粒ってのがおっきいのかちっちゃいのかわからないんだ」

「じゃあ君たちは何を食べるのさ」

「俺たちよりももっとちっちゃいヤツらだよ。もしかしたら君たちの目じゃ見えないのかもね」


 ガラスの板の前にゾロゾロと人が集まり始めた。若いカップルから家族連れ、そして老夫婦まで、老若男女それぞれだ。そのちっちゃいヤツは自分は人気者だと言ってはしゃいだ。

「おいおい、あまりそっちには行かない方がいいよ」

「何言ってんだよ。こんなにも俺の泳ぎを見たいってのがいっぱいいるのに」

しかし、その傍観者たちはそのちっちゃいヤツに興味を示している人は少なかった。というより、ほぼゼロに等しかった。

「あと5分か。トイレ行って間に合うかな」

「えートイレ?しょーがないなー。場所取っておくね」

そのちっちゃいヤツは、宙返りしたり、尻尾の方を左右に振ったりして、サービスしているつもりになっていた。

「お前、さっきから何やってるの?」

「え?何やってるのって。こーゆーのがファンサービスってやつだろ?」

「んー。でもね、みんなは君を見にきてる訳じゃないんだ」

「え、どういうこと?」

「君のファンはいないってこと。だから君のことを見にきてるって言う人は多分1人もいないんだ。あ、興味がないだけで、見にはきているのか?」

「うん?見には来てるけど興味がないってどういうことだよ、俺に興味があるから沢山の人が見に来てるんだろ?」

「まぁもう少しでわかるさ。それより君は早く狭いところに行ったほうが身のためだぞ」


 さっきまでの威勢はどこへ行ったのやら、完全にちっちゃいヤツは落ち込んでいた。たださっきと変わらないのは、常に心臓は動き、全身に血液が巡り巡っているってこと。そして決まっているのは、もうじきその全機能が停止するってこと。


 時計の針は残酷にも止まることはない。その瞬間を積み重ねて私たちの世界を創造している。それはもはやデジタルというよりかはアナログで、断片的でなく連続的という点では、私たちの生きるという現象に酷似している。とは言ってもそのちっちゃいヤツの生きるという現象はもうまもなく終わる。アナログでもデジタルでもない。まあ、私には知ったことではないが。でも何か心の奥底の方でモヤモヤしているのは間違いなかった。


 トイレに行くと言って席を外したカップルの彼氏の方が戻ってきた。おめかし上手の彼女が小さく手招きする。彼女は、麦わら帽子を被っている。淡い青の布と小さな向日葵の造花でこしらえた飾りがとてもよく目立つ。しかし、人が沢山いすぎるせいか、彼氏はキョロキョロとあたりを見渡し、ようやくそのBPM160のメトロノームくらい小刻みに手を振っている彼女を見つけた。彼氏も彼女も満面の笑みである。別に彼らはサイコパスなんかではない。健全な異性交際である。不純さなどどこにもなく、溢れんばかりの幸せを振り撒きながら、彼女は彼氏の腕の中に潜り込んでいった。


 あたりが暗くなり、陽気なBGMが流れる。透明の板の向こうの世界だけが大衆を飲み込むように浮かび上がった。一つの黒い影。上の世界の悪魔がそろそろと現実のこの世界に現れた。その悪魔はジャニーズみたいに、はたまた数字系アイドルみたいに、ヘッドセットをつけている。大衆の視線は一斉にその悪魔に向けられた。

「みなさん。よくお集まりいただきました。みなさんとここで、こうして出会えたのも、きっと何かのご縁なんでしょう」

悪魔は奇妙な笑みを浮かべながらこう言い放った。大衆は、事前に口裏合わせをしたように一斉に拍手をした。私の目には怪奇的に映った。


 ちっちゃいヤツはその世界の隅の方に気鬱となって存在していた。動きもなければ言葉もない。まさに物質。そこに生命が宿っているとは微塵にも感じられなかった。もうじきそれも無くなってしまうというのに、本当にそのままで良いのだろうか。悪魔の流す陽気なBGMと弾むような口調が、その気鬱なちっちゃいヤツをさらに浮き彫りにさせた。

 私はその透明な板をコツコツと軽く人差し指で叩いた。ちっちゃいヤツは一瞬びくりとし、こちらを向いたものの、また気鬱のそれとなってしまった。

「おいおい、どうしたんだよ。そんなに君が主役じゃないってのがショックなのかい?」

「当たり前だろ、俺だってこの世界に生を受けた以上目立ちたいさ。なのにさ、僕はいつもバケツの中。周りの青とか赤とかオレンジとか鮮やかな奴らは、大きな世界でみんなの注目の的さ」

「そうか……」

正直私も言葉に詰まった。私は不自由なく日々の生活を送れている。しかし、勉強もできないし、友達も少ないし、運動もイマイチ。たしかに悩みが無いことは無いが、でも何か違う。このちっちゃいヤツの悩みと私の悩みは根本的な違いがどこかにある。

「さっきは馬鹿とか言って悪かったよ。君は魚だ、馬でも鹿でもない」

だからなんだと言い返されるのは覚悟の上だった。でも、他にどんな言葉をかければこいつが気鬱の状態から脱するか、言葉の引き出しを全部だだっ広げてもなお、発見することができなかった。

「でも俺、負けず嫌いなんだ」

ちっちゃいやつはボソボソと口元を動かして、そう言った。わずかに水が揺れた。その小さな波が透明な板に到達した瞬間、無数もの水面を叩く音と共に悪魔が喋り出した。しかも僕に向けて。

「すみませーん、お兄さん!そろそろ始まるんで、観客に迷惑かからないところ移動できますかー?」

私はふと我に帰った。そのちっちゃいヤツに別れを告げようと、もう一度語りかけたが、私の言葉が通じることもなければ、私がちっちゃいヤツの言葉を聞くことももうできなくなっていた。振り向くと、兵馬俑のように人がびっしりと並び、こちらを向いている。私はその兵馬俑の間を縫って進み、透明な板の離れたところからそいつの最期を見届けることにした。

「負けず嫌い……。そうかいそうかい」

私はちっちゃいヤツの最期の言葉を復唱しながら透明な板から距離を置いた。


 私は兵馬俑の1番後ろに陣取った。踏み台があり、少し高くなっている。よくここまで配慮されているなと感心しながら、その踏み台に登った。ちっちゃいヤツがいる世界全体が見渡せる。中々の見晴らしだった。

 目を凝らすと、ちっちゃいヤツが増えていることに気づいた。さっきの水面を叩く音は、上の世界から沢山のちっちゃいヤツを送りこまれたということだ。つまり、さっきまで私と話していたちっちゃいヤツは上の世界の悪魔がテストとして送り込んだ、被験者に過ぎなかったのだ。

 よく目を凝らして、さっきのちっちゃいヤツ第一号を探した。明らかにアイツだと確証できる泳ぎだ。一匹だけ、四方八方にぐんぐんと泳ぎ回る。周りのちっちゃいヤツらはキョトンとして、ただ呆然としていた。

「負けてないよお前はでも、そのちっちゃいヤツの中ではね」


 もし私がサバンナに生身で放り込まれて、ライオンと対峙したらどうだろうか。もちろん拳銃なんて持っていない。その先の人生のビジョンは恐らくこの二択だろう。私は直ちに、ライオンの体の一部になる。もしくは、時を経てフンコロガシに転がされるかだ。私より柔道が強い健二くん。もし私が彼に喧嘩を挑んだらどうだろう。たちまちぼくの顔は、書き損じた原稿用紙のようにクシャクシャになるだろう。しかし、彼がライオンと対峙してもその結果は私と同様だ。今は同種間の優劣なんか関係ない。ちっちゃいヤツらも今、私と健二くんと同様な状況。つまり、ちっちゃいヤツ第一号は井の中の蛙ということだ。

 

 白いおっきいヤツがノコノコと4本の足で歩いてきた。陸の縁まで来てスッと巨体が上に伸びた。二本の足で地面に凛と立ち、こちらに視線を向ける。ファンサービスかたまたまかは知らないが、大衆たちは大盛り上がりで、どんちゃん騒ぎだ。

「みなさーんご注目ください!あの子がこの水族館で一番人気!ホッキョクグマのユキちゃんでーす!」

悪魔は声色を少し変えて、陸の縁に立つおっきいヤツの紹介をした。

 ユキちゃんは全く表情を変えない。もしこいつが人ならデクノボーとあだ名をつけられるだろう。ユキちゃんはいつのまにか私たちへの視線を下の方へずらしていた。ゆっくりと前足を着き、水中に無数と存在しているちっちゃいヤツを目で追い始めた。ユキちゃんの目はだんだんと血の気を帯びてきて、身をかなり陸から乗り出している。さっきこの世界に入ってきたときの感じとは何かが違う。歯茎を剥き出しにし、白く鋭い犬歯を剥き出しにしている。全然デクノボーなんかではなかった。

 

 前足に力を込めてユキちゃんは跳んだ。大きな体がふわりと宙に舞い、そして水の中へと飛び込んだ。私たちにはお尻を向けて泳いでいる。

「きゃー。かわいすぎるー!見て見て!あのお尻!」

さっきのカップルの彼女は大はしゃぎ。両手両足をジタバタさせてかなり興奮しているようだ。

 ユキちゃんは水中にも関わらず目はパチりと空いている。ただただ一点を見つめてそこに向かって泳いでいく。そして大きく口を開けた。


 来る、来る、来る。なんだかおっきなヤツが俺に向かって泳いでくる。速い、速すぎる。逃げるか、いや、もう遅いか。

 ちっちゃいヤツ第一号は、見事にターゲットになっていた。あまりにも動きが忙しないので、ユキちゃんの目に留まってしまったのだろう。ターゲットとされてからは刹那の命だ。全身に巡る血流、年中無休の拍動。それから呼吸までもが一瞬にして停止した。体が半分になって、目が開いたままのちっちゃいヤツ第一号の上半分が底へと沈んでいく。まるでブルーインパルスやレッド・アローズのように鮮やかな赤を描きながら沈んでいく。負けず嫌いのアイツでもホッキョクグマ相手にはただの餌。それを催しものとして開催する奴らはまるで悪魔。それを興味とか好奇心とか言って見に来る私たちも、中々に恐ろしい。

 ちっちゃいヤツ第一号は私たちの娯楽のために、ホッキョクグマに食いちぎりられた。普通なら太平洋の大海原を大きな大きな群れを成して、仲間たちと一緒に生活するはずだったのに、こんなところで生を受けて、生まれた時から餌になる運命のアイツは本当に不幸ものだ。猩々緋に包まれたアイツはやがて悪魔が回収していった。他のちっちゃいヤツらも一匹残らずユキちゃんの胃の中だ。


 校外学習という名の地獄の1日は、意外にも早く終わった。友達がいない私にとって校外学習というのはなかなかの苦行である。

 しかし、あのちっちゃいヤツのことや、それを催しものとする職員を悪魔だとかなんだとか言って、色々と考え事をしているうちにあっという間に時間は過ぎていった。一人でバスに向かって歩く。ちっちゃいヤツが水槽に放り込まれた瞬間、一匹寂しそうに四方に泳いでいる瞬間、ユキちゃんに食いちぎられる瞬間、鮮やかな赤いのを描きながら沈んでいく瞬間、ちっちゃいヤツとの思い出を振り返りながから、つま先の少し前を見つめて無言で歩いた。人って怖い。これを「ショー」と名を打って、客を招くのだから。


 でも、イワシの蒲焼きって美味しいんだよな……。

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