最終章

 大戦がはじまり、昨屋さんも遠矢さんも家を空けることが多くなってきている。

 不安で夜も眠れないでいる私の隣で、小雪さんはとても気丈に振舞っており、義母でさえもそんな小雪さんの朗らかさにやっと心を休めている様子で、義父はといえば「遠矢も昨屋も、前線には出ていかないのだから、なにかあるようなこともないだろう」とどっしり構えており、高橋の息子たちがほとんど顔を見せなくなった一家の中心には、小雪さんと義父が据わってくれていた。

 今日もすっかり眼が冴えてしまっている私の布団と隣り合わせて、小雪さんが静かに寝息を立てている。白いうなじが暗闇に薄く映えているのは昨屋さんとは違うところで、女らしい静かさも昨屋さんが隣にいたときと違う点である。

 昨屋さんが軍服のまま寝被っていたときには、あの姿が思っていた以上に私の生活に沁み込んでいて、安心をくれていたのだということを全く知らなかったというのに、その声をきけず、また、顔が見られないということに対しても、酷く心が痛む。

 もっと早くそれを知っていたのなら、私はもっと夫に優しい妻でいれたのだろうに、などと考えながら夜を過ごしていれば、一睡もできないのは自明の理である。

 小雪さんがぼんやり目を開けて「眠れないのかしら」といったので、私は小雪さんのほうに体を向け、無言で頷いた。小雪さんはこちらに身を寄せて、私の手を握ってくれる。

 この人はまるで、私の実姉であるかのようだと、こんな夜にこそ、はたと気が付くが、しかし、こうならなければそれに気が付けなかった自分も、そういったことに気が付いてしまういまこの状況でさえも、不安の一端にしかならないのであった。

「小雪さん」と呼びかけると、眠そうな顔で小雪さんが首を傾げるような動作をしたので、私は小さな声で「遠矢さんも、昨屋さんも大丈夫かしら」と問いかけた。小雪さんはちょっと口角を上げ「大丈夫でしょう。お義父さまの言う通り、あのおふたりは前線にはきっとでないのでしょうから」

「お国の為ですもの。女は只、待つ身なのだからね……」

 小雪さんが再び寝息を立て始めたので、私はその整った寝顔を見詰める。口の中で呟いた「おくにのため」という言葉に、ぼんやりと空しい気持ちになったことは、きっと誰にも言わない方が良いのだろう、と思う。

 大日本帝国は、どうやら戦いに勝っている側であるらしい。新聞の一面をこちらから好んで読むことこそなくとも、義父が置いていった新聞の大きな文字でそんなことを薄っすらと知る。この国の景気の良さもそういった部分からきているらしいのだが、勝っているのなら尚の事、昨屋さんを連れていこうとするこんな戦争など、このまま辞めてしまえばいいのだと、憎々しくって堪らない。

 ――誇らしい、誇らしい。兵隊さんは格好いい。僕だって、大人になったらそうなりたい、と笑う少年を町角で見かけるたび、その「誇るべき兵隊さん」の妻である自分は、ひどく心寂しくなるのだから、本当にしようがない。

 きっと高橋家も四葉家も、こんなに弱い私のことを知れば、昨屋さんに相応しくない、どうしようもない嫁だと言うだろう。

 嫌な予感というものは、ずっと胸の内にあって、しかし、それがどういう風に現れるものなのかまで、やはり私は察知できずにいたのであった。

 それから数か月経った或る日の夜半に、ようやく昨屋さんが高橋に帰ってきたが、足元がふらついておぼつかない様子なので、私は玄関に入ろうとする夫の体を慌てて支えた。

 昨屋さんはこちらを見ても微笑む気力もないほど疲労困憊している様子ではあったが、身なりは出かけたときと大差ないほどに綺麗である。一体なにがあったのだろう、外国に行っていたような素振も見られないが――と私が思っていると、昨屋さんが「あんずさん」と蚊の鳴くような声で私を呼んだので、私は努めて優しく「なあに」と返事をした。その返答をきいて昨屋さんは一瞬私の顔を見たが、それから口を閉ざしたまま、いつかのように私を胸に引き寄せたので「なにか嫌なことがあったのね。可哀そうに」と私は心の底から言って夫の背中を撫ぜたのだが、そこではたと夫の手が震えていることに気が付いたのだった。

「昨屋さん? 一体どうしたの」と私が言うのに、昨屋さんが言葉を被せた――「藤堂くんが、死にました」

 へ、とも、そうなの、とも言えなかった。鈍器で後頭部を殴られたように目の前がちかちかとして、それが落ち着くまで昨屋さんが震えていることだけを一心に考えていたのだが、昨屋さんのほうも、自分が吐いた言葉の意味さえ掴めないような虚ろな目をしていたので、私は「これはどうも本当らしい」と思っているその口で「冗談……」と心にもないことを呟いた。昨屋さんはこちらを見もせず、益々、私を掻き抱く腕の力を強める。

 昨屋さんは「冗談だったら、どんなに」と口の中でいってから、やっとこちらの目を見る。その目にたまった涙に「ああ、このひとも泣くのだ」などと、場違いのことを考えてしまう。

「あんずさん」

「なあに」

 昨屋さんは微笑む。しかし目は依然として笑みなど浮かべてはおらず、どちらかというと涙が溢れてきそうなほど悲しく見える――「抱かせては呉れないか」

 私は稍々間を置いてから「いいわよ」ではなく「お部屋に入りましょう、昨屋さん。まずお湯に浸かって頂戴」と昨屋さんの胸から離れ、そして上がりかまちから動こうとしない彼を振り向いた。

「私は貴方の、妻なのよ」

 そう言って、鼻から息を吐き、後ろを向いた私の背中を、昨屋さんはどう見ていたのだろう。

 私の手を取って「震えている」という昨屋さんの声が、熱を持っている。

 心の音が耳元で響き、首筋も背中も熱くて仕方がない。昨屋さんと夫婦になって、こんな夜を迎えるのは初めてのことであり、それも昨屋さんから言わせれば「すぐにでもこうしたかった」ということで「まさかこんな風に……」と呟いた彼の言葉に心の内でこっそり頷いたのであった。

 藤堂与一さんは、海軍として出兵したその先で、潜水艦により艦を爆破され、亡骸は海の藻屑、藤堂さんの部下たちもろともだったこともあり、それに加えて当人同士が無類の親友であったことを踏まえ、奥方に訃報を伝える任は、無情にも高橋昨屋にまわってきたらしかった。

 昨屋さんは私の首筋に顔を埋めながら、そういった己の事情を語り「涙が出る自分が愚かしくて仕様がない。こんなに悔しいことはない」と呟き呟き泣いていて、その涙の冷たさが私の背筋を小さく震わせるのだった。昨屋さんのいう「悔しい」はきっと、様々な意味を含んでいるだろうことはわかっていても、それになんと返せば正であるのかがわからず、私はただ彼に体を貸しているような具合であった。

「痛いわ」と声を潜めて彼の背中を抱く。ついと爪を立ててしまうと、彼の背がびりりと動いたので、痛かったのだと思い「昨屋さん」と名を呼んだのだが、昨屋さんは動きを止め、私の髪を撫でて「大丈夫ですよ」と小さく囁いただけである。

 行為が終わって昨屋さんが漸く隣で寝息を立て始めた頃に、私はその裸の背中を抱きしめて「可哀そうな人」と呟き、全く眠気のこないまま目を瞑っているだけの状態で「……お国の為だもの」と言った。おくにのためだもの、しかたがないのよね。と口に出して、その言葉になぜか虚しさを覚えたのだった。

 お国の為、仕方がない。そう言って藤堂さんも死んだのだろうか。国の為とはなんだったのだろう。昨屋さんが親友を亡くすだけの理由が、この帝国にはちゃんと在るとでも言うのだろうか……。

 朝、鳥のさえずりで目を覚ます。昨屋さんは私より早くに目が覚めていたらしく、その姿を探せば着替えと洗面を済ませて、久方ぶりの高橋家で朝食を採っていた。いつも食べないのにと違和感を口に出せば「こんなときこそ、ですよ」と笑いもせずに実父の取ってきたらしい新聞を開いている。

「つまらない。とめさん、これは捨ててください」

 昨屋さんはおもむろにそういって、とめに新聞紙を手渡した。とめは、その昨屋さんの言葉には頷き「窓ふきにでも使います」と笑っていたが、昨屋さんが席を立つと、その背を心配そうに眺めていた。

「ご機嫌がいたく斜め」

 庭を探索している昨屋さんの背に近づき声をかければ、昨屋さんは「まあね」と言う。その手を取ればいつもの通りに温かくて、しかし握り返してくれないことをひどく寂しく感じてしまったが、しかし、夫はその手を振り払うこともしないでいる。

 昨屋さんが顔もむけずに「あんずさん」と呼ぶので、私も目ではなくその耳を見たまま「なあに」と答えた。昨屋さんが続けて「申し訳ないことをしました」と言うので、呆れ果ててしまう。

「昨屋さんが、ここにいてくれているもの」

 私が「だから許すけれど、今回だけよ」と頬を膨らませたのを、昨屋さんがちらりと見る。それから顔を反らして、昨屋さんは青い空を見ている。撫でつけている夫の黒髪を、風が遊んでいる――「ここには、いない」

「親友にならなければよかったのだろうか、と思うのです。最悪の印象から始まった友人だったのだから、そのまま、いけ好かないままでいれば、こんな気分を味わうこともなかっただろうと思うと、あいつと友になったことすら私の間違いだったのだろうかと思う。……すべて夢であればと思っていたのに、朝が来てしまった」

 昨屋さんの言葉に耳を傾けながら、私は、その後ろで風に騒ぐ、庭の青を見ている。

「墓でよくやったなと声をかけることができるのかどうかが、いまだに僕には分からない。よくやったというのは、一体何なのだろうかとすら思う。陸軍は結局出兵もせず、外から見ているだけだった。僕にはそれも情けないように感じられるのです」

「情けなくなんてないわ」と私は言う。昨屋さんはこちらを見た。真摯なであった――「情けなくなんて、ない」

「昨屋さん、今日はのんびりして頂戴。久方ぶりの休みなのだから」

 私がそう笑ってみせると、昨屋さんはしばらくこちらを見詰めていたが、やがて観念したように頷いて、私の手を握り返したのだった。

 幸子さんがきたのは、それから一週間ほど後の、小雨が降りしきる日のことであった。

「もっとはやく来ようと思っとったんですけど」と昨屋さんに頭を下げる幸子さんに、昨屋さんは「いえ。良いのです」と首を振ってから「この度は……」と挨拶をしている。

 幸子さんは昨屋さんに深々と頭を下げた格好で「主人がお世話になりました」と言って「主人の訃報、お手紙を頂いたときに、もしかしてとは思ったんです。いや、それよりもずっと前から、いつかこうなるんやろうなと思ってました。……こんな風にはなってしまったけど、主人はいつも高橋さんのことを楽しそうに話しとったんです。主人の墓を作れるかはわからんけど、できたらたまに、うちに遊びに来てください」

 幸子さんは、下げていた頭を上げて「奥さんも一緒にね」とこちらを向き、そこで初めて笑ったけれど、いままで見ていた目を細める笑い方というより、溢れるなにかを抑え込んでいるような、無理やりのような笑顔であったので、私の方も涙ぐんでしまいそうになる。

 しかしここで涙を見せるのは、私のするべきことではないのだ。私は幸子さんのその細い手を取って「機会があれば、ぜひ」と笑って返事をする。幸子さんは私のその返した言葉にほっとしたように肩の力を抜いて、再び昨屋さんを振り返り「では、失礼します」と、深くこうべを下げて、高橋家を出て行った。

 始終、ぽつりぽつりと雨の降る日だったので、雨傘を指している幸子さんの左肩が少しばかり濡れており、いつもだったらその肩を抱く大きな手があったことを思い出しそうになって、ぐっとその姿をまばたきで消した。

 藤堂与一、享年三十二。戦死であった。

 どんなにつらくても、どんなに幸福でも、時は等しく経つもので、私は二人目の子どもを抱きながら、猫に戯れて怪訝そうにされている一人目の子を、縁側から眺めている。昨屋さんは、軍服ではなく普段の着物姿で、片手を懐に入れたまま、猫と遊ぶ子の隣に座って、空いた片手でその猫の背中を指で撫でてやっている様子であった。

「高橋家も随分と賑やかになったものね」と義母がやってきて笑うので、私もふふと笑った。庭の桜が柔らかな春の日差しをたっぷり浴びているので「随分と気持ちがよさそうだわ」と、ついと呟いてしまっても、義母が「本当ね」と優しい声音で返してくれる。猫がついににゃあと癇癪を起して逃げ出したので「ああ」と残念そうに子が声を漏らし、その横で昨屋さんが笑っていた。

「あんずさん、体を冷やす」

 立ち上がり、からころと下駄を鳴らしてこちらに寄りながら、昨屋さんがそう私の腕から坊を取り上げて笑う。私は「そうね」と頷いてから、再び昨屋さんに呼ばれるまで、立派な高橋家の桜の樹を仰いでいたのだった。

 昨屋さんが、揺り椅子に座る私の隣に立って坊をあやしている。その足元で娘が「わたしも、わたしも抱かせて」と精一杯に昨屋さん向かって腕を伸ばしていて、それを眺めている義母の後ろから、小雪さんが顔を出すのだ。

 坊を抱かせてと声を張り上げる娘を、遠矢さんが「どれ、伯父さんが抱いて進ぜよう」とひょいと抱き上げてしまったので、それきり坊のことなど忘れてしまった娘がきゃあきゃあと甲高い声を上げて手を叩いている。


 どんなにつらくても、どんなに幸福でも、時とは等しく流れるもので、私と昨屋さんの周りに流れる時間も、どんなときだって等しく朝が来て、昼になり、夜が侵食するのである。

 私はそれでも良いと口ずさめるほど君子には成れず、また、それではつらいばかりだとうそぶくこともできずにいる。

 それでも私の隣には、いつでも昨屋さんが笑っていて、そのまわりを見渡せば、私の家族がいるのであった。

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ガールミーツダージリン なづ @aohi31

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