第五章

 昨屋さんに同伴して、私は高橋と懇意にしているという将校主催の迎賓会に出ることになり、些か緊張してしまっていた。昨屋さんはそんな私を見て「随分と緊張していますね」と笑っていたが、こちらとしてみれば、一応は昨屋さんの妻であるのだから、阻喪のひとつも許されない立場なのである。

 慣れない西洋風のひらつく着物も、帰ってきてそのまま寝てしまうときにしか見たことがない昨屋さんの軍服姿も、なにもかもが肩に力を入れさせる要因にしかならないのだ。

 主催の将校邸内は洋風ようふうで洒落ており、会の場となっている大広間は格段に広く立派である。そこに沢山の将校とその妻がひしめき合って、それぞれ談笑に花を咲かせている様子であった。

 昨屋さんだけが呼ばれたわけではないのだから、遠矢さんと小雪さんも、義父母もこの場にいるのだが、四人は示し合わせたように――勿論、そんなはずがないけれども――場につくなり二組に分かれてどこかへ行ってしまったので、私といえば昨屋さん以外には、近くに顔見知りがいないというようなことになってしまっているのだった。

 いつまでも昨屋さんの軍服の裾を握る私を、昨屋さんはようやく「おや」と思ったのだろう。私の耳元に口を寄せて「あんずさん。大丈夫ですよ」と裾を握る私の手を取り「彼方あちらをご覧なさい」とひそひそ声で言う。私が言われた通りその方向を見やっても、どこもかしこも軍服を着こんだ将校だらけ、しかも煌めく灯と室内に目がくらむばかりである。

「あちらは狸ですよ、あんずさん。こちらも狸、そちらだって狸。ここは狸どもの集まりなのです」

 昨屋さんの口ぶりに、私が「たぬき?」と目を丸くしたのを見て、昨屋さんは微笑む。

「だから、緊張することなどないのです。こちらが逆に化かしてやろうとくらいに思っていなければ、狸たちに化かされてしまうだけですからね」

 どういう意味か掴みかねて目をぱちぱちとしてしまう私に、昨屋さんは視線をもとのように前方に戻してしまう。ただ昨屋さんは、取った私の手はそのままに、むしろ先程よりも強く握りしめたのだった。

 高橋少尉、高橋少尉と声を掛けてくる将校たちのなかに、見知った姿をこちらが認めたとき、向こうも等しくこちらの姿を認めたようだった。

 昨屋さんに向かって「高橋くん」と大きな声で呼ぶような男を、私はひとりしか知らない。昨屋さんはその声に、私と同じ方向を見て、男に対して笑ってみせた。

 男――藤堂さんが、その隣に幸子さんを連れ、豪快に手を振っている。

 藤堂さんが「そういや、初めて会わせるね。こっちが、俺の妻の幸子よ」と胸を反らしたので、横の幸子さんがにっこりと笑って昨屋さんに「妻の幸子です。いつも夫がお世話になってます」と言った。

 昨屋さんが「高橋昨屋と申します」と返したあと、幸子さんが私の方をちらりと見やり「今日は旦那さんも一緒なんやね」と軽快に笑ったので、昨屋さんが「うん?」と首を傾げる。私は少々気恥ずかしいながらも幸子さんに「そうよ」と笑い返したのだった。

 昨屋さんは「まあいいか」という風に首をこすったのち、藤堂さんのほうを向いて、手を差し出し「藤堂くん、この度は」

 その昨屋さんの手を握り返して、藤堂さんはからからと笑い「まあね。そんな改まって言わんでもよかよ」と頭を掻いたあと、幸子さんが昨屋さんに頭を下げ「この人のこと、よろしくお願いしますって、皆さんにも言っといてくださいね」

 藤堂夫妻と話した後、ふたりと離れてしまってから、私がそっと昨屋さんに「何のお話し?」と訊ねたところ、昨屋さんによるとこういうことであった。

 曰く、藤堂さんは海軍の少尉であり、もしかすれば何度か出撃するかもしれないということであって、今回のこの迎賓会も、そもそも大戦がはじまるだろうことを見越した将校たちの激励の場であるらしい。

 私は「そうなの」と返したが、内心「それでは昨屋さんも、陸軍将兵として敵陣に赴くことになるのではないか」と心臓の痛む思いであった。しかし昨屋さんは、そういったことを今まで一度も私に話していなかったのであるし「今のところは、昨屋さんには何の話もないのだろう」「今はとにかく、この会のことを考えるべきだ」と自身の不安な思考を落ち着けることにする。

 遠矢さんが小雪さんと「昨屋」と言ってこちらに軽く手を振っているのが視界の端に見えたので、昨屋さんは珍しくも――もしかしたら、この場の上官たちより流石に実兄であったほうが、気が休まるのかも知れない――その二人に近寄り「兄さん」と呼び返し、遠矢さんに「酒が進んでいるようですね」と声を掛けた。

 遠矢さんは「そういう席だからな」と冷たく返して西洋風の盃に口をつけている。小雪さんはその傍で「あんずさん」と私を呼び「緊張は解けてきた?」と笑った。

「あんまりよ。こういう場は苦手なの」

「ふふ、私もあんまりなのよ。遠矢さんたちには男の人の世界があるのだし、私たちは向こうにでも行っていましょう、と言いたいところだけれど……」

 ちらりと遠矢さんの顔を仰ぎ「遠矢さん、如何かしら」と悪戯っぽく訊ねた小雪さんを、遠矢さんは無言で見下ろしている。そのいつもと変わらない表情を見て「ふふ、冗談よ、妻には妻の役割があるものね」と小雪さんは口元を押さえて笑う。そんな小雪さんに遠矢さんは「当たり前だ」と投げるように答え、昨屋さんのほうを見て「昨屋、お前は飲まないのか」と盃の中身を揺らした。

「酒を飲むのはわりと好きですがね。……醜態を晒すことを好んでいないので」

 昨屋さんの冷ややかな返事をきいて、遠矢さんが「お前は弱いからな」と鼻を鳴らしたので、昨屋さんがますます無表情に、ただ目だけを細めている。

 そこに場違いな、高揚している老いた声が「おやおや、兄弟お揃いか」と昨屋さんと遠矢さんを呼び止め、二人が同時にそちらを振り向く。私が遅れてそちらに視線をやったのと同時に、小雪さんが「草苅くさかり大佐、お久しぶりですわ」と頭を下げた。

 草苅大佐と呼ばれたその老年の男は、蓄えた口髭を触りつつ、その眉を上げて「相も変わらず美しいな、夫人」と小雪さんと握手を交わし、次いでこちらを見て「そちらは、昨屋君の細君さいくんか?」と私を指したので「草苅さん、妻のあんずです。あんずさん、こちらは僕の上官で……」と昨屋さんが説明するのを聴きながら、こちらも軽く挨拶をする。

「昨屋君の細君ということは、もしかして、あの?」

 草苅さんに、意味深に「あの」と言われて、私が首を傾げる横で昨屋さんが一瞬だけ、不快そうに眉を跳ねる。そんな昨屋さんの様子を気にもせず、草苅さんは言葉を続けた――「華族とはいえ没落している、四葉の令嬢だったか。よくもまあ、そんな嫁を高橋が家に入れたものだ」

 草苅さんの言葉に、固まってしまったのはこちらである。しかし昨屋さんはすぐさまに、淡々と「あんずさんは、お恥ずかしながら私が一目惚れして嫁にきていただいたのです。大佐にあれこれと言われるような云われなど、全くありませんが」

 昨屋さんの意外な言葉が、なにも言い返せずにいた私の耳に入る。その言葉の意味を考えあぐねていた私を現実に引き戻したのは、一度鼻を鳴らしてこちらを覗き込んだ草苅さんの、二の句であった。

「貴女の母親も、貴女の卑しい父親に惚れて、見苦しい真似をしましたからね……」

 その言葉にぽかんと顔を上げてしまった私を、草苅さんはどう見たのだろう。厭らしく笑った男に、昨屋さんが動くよりも早く、遠矢さんのほうが「草苅殿、こちらにきませんか」と声を掛けて、自分のほうへ素早く誘導してしまった。

 昨屋さんと私の傍を、遠矢さんと草苅さんが通るとき、遠矢さんは昨屋さんを一瞥して「昨屋」と咎めるように名を呼んだ。

 昨屋さんの片手には、随分と力が入っているようで、筋張っているのがちらりとこちらの視界に入る。

 その手が「空いている」のを見て、私はやっと、昨屋さんがここまでずっと、もう片方の手で私の手を握ってくれていたことに気が付いたのであった。

 私の決断は早く、自分もそうしたいのだと言った昨屋さんの決定も、また早かった。私が「四葉家に一時的に帰りたい」と言ったとき、昨屋さんは「そうですね」と頷いて、すぐに「それでは、僕も四葉に行きましょう」と準備をしだしてしまったのだ。どうやら昨屋さんは私が「実家に戻りたい」と言った理由をきちんと理解している上で、自分からも何やら話したいことがあったらしく、四葉への帰路では「何、お義父さんやお義母さんに、僕からちゃんと話さなければならないことがあったのを失念していたのでね」と言っていた。

 昨屋さんの言う「僕から話さなければならないこと」というのがなんであるのかは分からないけれども、昨屋さんが敢えてそう言うということは、やはりなにか大切な話であるのだろう。

 四葉の屋敷に仰々しく帰ってきた私と昨屋さんを見て、母は開口一番に「あら、お帰りなさい、あんずさん。昨屋さんも連れて、一体全体どうしたのかしら」と少しばかり驚いているような様子だった。

 私は「あの、お母様」と言葉を探しながらも、つい、目を逸らしてしまったが、昨屋さんがこっそり背中を軽く押してくれたので、意を決して「訊きたいことがあるのよ」と言うことができた。

 母が「玄関じゃあなんだから、お屋敷にお上がりになられては如何いかが?」というので、私と昨屋さんは顔を見合わせて、昨屋さんが頷いたことで、私も家に入ることにした。荷物は一応ちいさくまとめて持ってきていたので、その荷物を見た母が「それじゃあ、二、三日は居るのね」と嬉しそうにしている。

「お父様は今日も仕事だと言って出て行ってしまったのよ。また経営に精を出している様子でね」

 居間で母が女中にがれた茶を口に運びながら、そう他愛のないことを話しているのを横目に、私は「お母様」と母を呼ぶ。そんな私に母が顔を上げ「お話しがあったのでしょう、あんずさん。どうされたの?」と首を傾げたのだった。

 改まって訊かれるとどうにも弱く、私は「えっと」と俯いてしまう。昨屋さんがそんな私を見て「いえ、大した話でもないのですよ。お義母さんとお義父さんのなれそめをきいてみたい、と。ですよね、あんずさん」と助け船を出してくれたのを、母は「あら、そんなお話がききたいの? 珍しいこともあるものね」と肩を揺らして笑った。

「あんずさん、そのおはなしは、ただ訊きたいだけなのかしら?」

 母はふと笑うのを止め、なにかを確認するように私にそう問いかけた。私の方は一瞬きょとんとしたあと、なんだか悪い予感がしてしまい、気が付くと「いえ、その、少しばかり気になることがあって」と口を滑らせてしまったが、母からすれば、その答えこそ正しく求めていた問答であったらしい。

 母は再び目を優しく細め「私とお父様のお話を、あんずさんに訊かせる日が来るなんてね」

 昨屋さんが私の隣で背筋を伸ばしたので、私の方も無意識のうちに足を正してしまっていた。母の話しによる、父母の馴れ初めというのは、まさしく巷で流行っている物語のようであった――華族の一人娘であった母が、とある店で父の席の隣に座ったのが出会いで、そこから意気投合し、いつの間にかふたりは将来を誓い合う仲となっていた、しかし母の家の者はどこのやからかもよくよくわからない父を認めたいとは思えず、調べさせたところ、父には異国の血が混じっていることが分かったのだという。

「お父様にどこの血が入っていようと、私はなにも関係ないと言ったのよ。けれど、華族に混血を入れるなんて罰当たりも良いところ、陛下に恥ずかしいとは思わないのかと、お爺様はその一点張りでね。埒が明かなかったから、私はお父様と駆け落ちをしたの」

 しかし、異国人の血が混じる男と逃げ出した娘を、厳粛な一族が許すはずがなく、母は気が付いたときにはすでに華族の家から勘当されていて、父のわずかな貯金と母が持っていた金だけを持ち、やっとのことで家を買って、四葉という父の苗字を名乗っていたらしい。

 その話を訊き終わって、私は「それは、つまり……四葉は華族の家柄ではないということかしら」と母に問う。母は「厳密にいえばそうかもしれないけれど、あんずさんには華族の血が流れているのだから、全く無関係というわけでもないのよ」

「没落したと言われるけれど、没落というより家徳を外されたと言った方が正しいのでしょうね。あんずさんだけでも贅沢をさせてあげたくて、少しばかり無理をしたら、気が付いたときには手元に一銭も残っていなかったわ」

 そう言う母は、なぜか楽しい思い出話をするかのように優しく笑んでおり、私はその母の様子が納得できずにいた。

 すでに華族から外されていた四葉に、とどめを刺したのは幼少期の私なのだ。その私に怒るならまだしも、なぜか母はこんなときでさえ楽しそうに昔話をしている。

「お母様、やっぱり私のせいで、四葉はいままで貧しかったのね……?」

 私が頭を下げたのを、昨屋さんがその隣から見下ろしているのが、視線でわかる。昨屋さんはこの話が始まってから一度も口を開いてはおらず、しかしとても真剣に耳を傾けているようであった。

 昨屋さんにこの話をしたことは、きっとないだろう、と思う。それでも私の頭の中には、ずっと――幼少期に私が贅沢をしたせいで四葉が、ということが――こびりついていて、幾度も後悔の念に苛まれていたのだ。

 母は、少しの間を置いてから「顔を御上げなさい、あんずさん」と少々強く私に命じた。私が恐る恐るおもてを上げると、母は昨屋さんのほうへ目線を移し、にっこりと笑った。

「昨屋さん、この子を娶ってくださったこと、心より感謝しておりますわ。異国の血が混じった娘など、欲しくないと思うのが常でしょうに。昨屋さんはそれもきちんと知っているうえでお嫁に貰ってくださったのだと、夫から聞き及んでおります」

 その話にぽかんとしている私を置いて、母は言葉を続ける。

「あんずは、この通り、真面目で気の良い娘です。髪の色や目の色は帝国の人間の者ではないけれど、それをこころよく家にいれてくださった高橋家の皆さまには、頭が上がりませんわ。――末永く、あんずをよろしくお願い致します」

 背筋をぴんと正してそう朗々と告げた母は、いままで見たことがないほどに品格があるように見えた。その様子を見て、もしかしたら、貧しい暮らしに囲まれていただけで、母は元からそういった人だったのではないかということに、やっと私も気が付いたのだった。

 昨屋さんはそんな母に、薄く微笑んで「僕は、あんずさんのその容姿にまず惚れたのです。お恥ずかしながら、あんずさんを父とお義父さんに紹介されたとき、そのしゃしんを一目見て、ああこの女性が自分の妻になるのだと、勝手に心に決めてしまいましてね」

 私は昨屋さんの言葉にも驚いてしまい、無意識に「昨屋さん」と名を呼んでいた。昨屋さんはそんな私を振り返り、その手で私の手をそっと握りしめる。

「異国の血も、華族から追い出されたことも、こういってはなんですが、僕にはどうだって良いのです。ここにあんずさんがいることが何よりなのでね」

 昨屋さんはそう言葉を続け、さらに頭を下げて「だから、礼を言いたくて、僕まであんずさんについて四葉に帰ってきてしまった次第なのです。あんずさんを産んでくれて、ここまで育ててくださったこと、本当に感謝しています」

 そういって、頭を深々と下げた昨屋さんに、母は「あらあら……」と嬉しそうに笑っている。私はそんな昨屋さんを見ながら、なぜだか今にも涙が溢れてきそうになっていた。私のような愚女ぐじょを、誰一人責めないどころか――産んでくれて、育ててくれて有難うと……。

 居間を出るとき「あんずさん」と母が私をこっそり呼び止め、数歩前を行く昨屋さんが足を止めたとき、私も母を振り返った。母は小さく「あんずさん、貴女のせいではないの。貴女に贅沢をさせたのは、私とお父様がそうさせたいと思ったからこそなのよ。貴女に非はひとつとしてないわ。それに、どの道、金は尽きるものなのだから」と耳打ちする。

 その母の言葉に対して、うまい返答ができず、私はただ母の顔を見て、小さく頷くだけに留めるしかなかった。

 やはり、四葉は私の生家である。綺麗で立派な高橋より、四葉家の自室で寝る夜のほうが心地よく眠気を誘ってくれるのだ。いままで我が家で過ごした夜と違うのは、隣に夫――昨屋さんがいるということであり、当の昨屋さんはそっと私の手を握ったまま、静かに目を瞑っている。

 横を向いて昨屋さんの寝顔を眺めていると、昨屋さんは私とは真逆で、いつものようにすぐには寝付けなかったようであった。ぱちりと目を開き「なんですか?」とこちらを見て笑ったので、私は眠い目を擦りながら「なんでもないわ。眠れないの?」と昨屋さんに問う。

「眠れないというのか、まあ、些か緊張はしていますね」

「屋根が落ちてきたりはしないから、安心して寝て頂戴」

 私が冗談で返した言葉が、昨屋さんには少しばかり驚きであったらしい。昨屋さんは「……屋根が?」と繰り返し、稍々間を置いてからやっと「それは大変だ」と笑い返してくれる。

 昨屋さんが笑んだことに、私はなんとなしに気をよくして「高橋の邸宅に比べると、すごくおんぼろだもの」と、いつも思ってはいたけれど、出来るだけ言わないようにしていたことを言ってしまう。それからあっと唇を軽く押さえたが、まあ言ってしまったものは仕方がないなと微笑んで誤魔化してみる。

 昨屋さんは目を丸くはしていたが「とても居心地が良い家ですよ」と呟き、天井を向いて目を閉じた。それからもぞりと体ごと向こうを向いてしまう。いつかのように昨屋さんが自分の腕を枕に敷いていたので、また腕枕でもうてみようかと思ったが、今日は止めておくことにして、こちらもまぶたを下ろしたのだった。

 久方ぶりに実家の四葉で迎えた朝、馴染みの女中ではなく新しい若い女に起こされて目が覚める。居間にいた母に、馴染みだったあの嫌な女ではないその娘子のことを訊こうと「新しい女中を雇ったのね」と言えば、母が「そうそう。高橋さんのおかげで」と何の気なしに答えたので「それは結構なこと」と私はつんと答えてしまった。そんな私と母の様子に、私の部屋から起きてきたばかりの昨屋さんがちょっと笑っている。

 昨屋さんが「お義母さん、洗面所をお借りします」と顔を洗いに行ってしまったので、洗面は後ほどにしようと決めて、私が女中のことをあれこれと母に訊ねてみたところ、あの女中はまつという名で、母の言も正しく「高橋からの斡旋でここに来た」――つまり「高橋のおかげで」というのは本当のことであった――らしい。

 それをきいて第一に私の口をついででたのは「高橋からの?」という言葉で「昨屋さんともお知り合いなのかしら」と訊ねてみれば、母によると昨屋さんや遠矢さんの知り合いというよりは、高橋家に居る――とはいうけれど、部屋に籠って勉学に打ち込んでいるばかりであるらしく、碌に出てきもしない――書生の姉であるらしい。

 私が「そういえば、昨屋さんも、高橋に書生が居るとは言っていたわね」とそれをようやく思いだすと、母が頷いて「松さんの弟は随分励んでいらっしゃるのでしょう。高橋家の書生ともなれば、肩書きの重さも一級品でしょうからね。なんでも帝國大学に入ろうとしているんだとか」

「帝國大学」

 つい、と妙な顔をして繰り返してしまった私に「昨屋さんも遠矢さんもそうですからね」と母が口角を上げ、私は「それはまた大層なこと……」とまたひとつ、知らなかった昨屋さんたちのことを知って、頭がくらくらするような気がしたのだった。

 高橋家に帰宅したとき、まず、第一に義母が私たちを迎え「おかえりなさい」と笑いかけてくれたので、私は「この家もまた、私の家であるのだ」と改めて気づかされる思いであった。奥から出てきた義父もまた「お帰り」と苦虫を噛み潰したような顔で、昨屋さんに「なにも阻喪はしていないだろうな」と言い放ったので、それには昨屋さんも、もはや心得顔で「するはずがありませんな」と懐手している。

 そんな親子の様子を見ながらすすとこちらに寄ってきた義母が、私に「あんずさん、あれでもお義父さんはあなたたちを心配して、胃を痛めていたのですよ」と耳打ちしたのを隣できいてしまったらしい昨屋さんが「もう少し顔に出せば良いものを」とつまらなそうに呟いたので、私のほうもこれには堪らず苦笑してしまう。

 小雪さんと遠矢さんにも挨拶をしようとふたりの寝室に向かおうとすれば、それには流石に、昨屋さんが渋面をして「僕は後で挨拶しておきます」と逃げてしまったので、この人はもしや逃げ癖があるのでは、ということに気が付いたこちらが呆れてため息をついた。

 しかし、兄夫婦の寝室には小雪さんしかおらず、それも兄嫁によれば「遠矢さんは仕事に行ったわ」ということであるらしい。

「今日は遅くなるから、と言っていたけれど……あのあとに、遠矢さんが草苅さんを酔い潰していたから、草苅さんのことはどうかそれで、許して差し上げてね。あの方、ちょっと言葉がきついだけで、悪いお人ではないのよ」

 小雪さんが困ったように口元に手を当ててそう囁いた内容に、私は「酔い潰した?」と驚いてしまったのだった。

 どうも、あの迎賓会の後日――というか、十中八九、私が昨屋さんを連れて里帰りしていた昨日のことだろう――に草苅さんを高橋家に招いて、義父と遠矢さんが組み、草苅さんを酒で打ち負かしたのだそうで、それもすべて義父の案、遠矢さんがそれを「面白そうだ」とわらった上での出来事であったらしい。

 小雪さんが「四葉さんのこと、遠矢さんも昨屋さんも、お義父様だって、最初から判っていたのよ。それを横からとやかく言えば、あのお二人も、それはお怒りになりもするわ」と笑う声をきいていると、私もなんだか安心してしまい、ふと「この家に帰ってきてよかった」と思ったが、すぐに「いや、この家にきてよかった、であるのだろうな」と思い直して、しかしそれをうまく伝えることができずに、ただ「ありがとう、小雪さん」と泣き笑いのような笑顔を見せるのが精いっぱいであったのだった。

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