第四章

 昨屋さんが珍しく「買い物にでも行きましょうか」というので、私は「今日はお休みなのかしら」と怖々訊ねてしまった。昨屋さんが「そうですよ」と頷き「支度をしてきます」と洗面に向かった後姿を見ながら、私の足取りがいつものそれより軽快になってしまったのは、致し方ないのだと思う。

 新緑が眩しく照らされている町並みは、毎度のことであるためにいつもならちゃんと見ることさえもしないのに、昨屋さんと見るのは一つ一つが大層に美しい気がする。それを伝えるのは恥ずかしくて流石にできないとはいえ、私の上機嫌を感じ取っているらしい昨屋さんが「今日は随分とご機嫌らしい」と笑ったので、私は「いつも通りよ」と返しておいた。声が弾んでいるのは仕方がない。

 昨屋さんが買い物をすることはほとんどない。あっても軍帽だとか軍靴だとか、仕事に使うようなものを軍の支給で買うばかりであるので、今日は私が率先して昨屋さんに私用の着物を見繕ってやったせいか、こちらが何も言っていないというのに、私が見ていた反物を「あんずさんが見ていたから」という理由で昨屋さんが「お礼ですよ」と言ってあっさりと買ってしまった。

 買ってもらったのだから「有難う」と言えば良いものを、私といえば「こんなに高価なものを」と困惑するばかりで、しかし昨屋さんのほうは気にもしない様子で「良いのです。それくらい」なんて言っている。

 薄々勘付いてはいたのだが、昨屋さんはどうも、私と感覚が違うらしい。

 私だっていくら没落しているとはいえ、華族であるのに、私の金銭の遣い方よりも昨屋さんのそれのほうが、なんだか豪快とでもいうのか、麻痺しているようにさえ思えるのだが、こちらが貧乏をしていた手前、大ぴらには「昨屋さん、それは少し考えなしよ」とは言えずにいるのである。

 これが普通なのだろうかとも思うが、しかしやはりというか、いま思えば最初から、昨屋さんは金を使うことに対して、あまりにも無頓着であった。

 私は「ああだから、あのときも」と初めて会った時のことを思い出し、困ったものだと苦笑いが出たが、それを昨屋さんは不思議そうに見るばかりで、こちらがなにを考えているかなど、全く持って察知できていない様子だった。

 それもなんだか本当に「困った人ね」と言えるのだから、どうやら私の方も、昨屋さんに対していささか寛大になっているようである。

 昨屋さんが「やはり仕事道具も買っておこう」というので、いつも行っているのだという専門のところへいこうと二人並んで町中を歩いていると、以前どこかで見た後姿を見つけて、私は「小雪さん」とその背に声をかけた。しかしその女の背はすこし遠くに在ったからか、こちらの声に気が付きもせずに通り過ぎていく。昨屋さんが「どうしたのです」と訊ねるので、私がそちらを指して「小雪さんではないかしら?」と言ったところ、昨屋さんは「どれ」とすいすい人並みを縫って彼女にあっさり近寄っていったのだった。

 昨屋さんが女の背をぽんと叩いて「小雪さん」と言っているらしいのが、遠目に見える。女はこちらを振り向き、なにか笑っているような仕草を見せてから、昨屋さんがこちらを指さしたのを目で追って、女も私にやっと視線を向けた。それはやはり小雪さんで、しかもこちらの見間違いなどではなく、派手な着物に身を包んでいる。

 小雪さんの方からこちらに近寄ってきて「あんずさん。昨屋さんとお出かけ?」と小首を傾げた。私は「そうよ。ところで小雪さん、その着物は……」とつい、その着物について訊ねてしまったが、小雪さんは「ああ、これ」と着物の袖を反対側の手で摘まんで見せて、さらりと笑った。

「とっても素敵でしょう。私ね、こういう着物が好きなのよ」

 そういって、嬉しそうにくるりと一回転して見せる兄嫁に、私は「遠矢さんはご存知なのかしら」と思ってしまったのだが、それを言葉に出したのは私ではなく昨屋さんであった。

「兄さんは知っているのですかね」

 昨屋さんの言葉は、先述したように私も思ったことではあったが、随分とはっきりした物言いだ、とはらはらしている私を置いて、小雪さんは気にもしていない様子でけらけら笑い「知っているわよ、なんていったって、私がこの恰好をしているときに、遠矢さんが初めて声を掛けてきたのですもの」

 小雪さんの話に昨屋さんは一瞬鼻で笑ったが、それをさっと隠し「そうですか」とにっこりと笑った。

 昨屋さんがなにを思ったのかはこちらにも察しがつくし、それは小雪さんにとってもそうだったのだろう。小雪さんが「そう、彼って、そういうの、似合わないのよ。私は遠矢さんのそこが可愛らしくて好きなのだけれど」と上機嫌に返したので「この兄嫁はやはり大物なのでは」と私はこっそり思ってしまう。

「でも、高橋のおうちでこんな恰好をしていたら、お義父さまとお義母さまがせってしまうでしょう。だから少しばかり我慢しているの。ねえ、お二方には黙っておいてくださいな」

 そう唇の前に指を一本立てた小雪さんはいつもよりもさらに美しく見えて、陰気な女だと思っていたのに、実はこういう一面があったのだと私は目を白黒としてしまう。昨屋さんは「わかりました」と頷いていたけれど、そんな昨屋さんも度肝を抜かれるようなことを、小雪さんは次いで言い出した――「本当は、この髪も流行りに切ってしまいたいのよ」と、己の耳隠しに結った髪に触れて、言いのけたのである。

 その場の誰とも違う声が「髪を切る?」と小雪さんの言葉を反芻する。私と昨屋さんは驚いてそちらを見、反対に小雪さんは落ち着き払って「遠矢さん。遅かったわね」と笑った。どうやら遠矢さんと小雪さんも、二人きりで待ち合わせかなにかをしていて、遠矢さんがいまようやく辿り着いたところであったらしく「何を言う。早番とはいえ、その中でも一等に早く切り抜けてはきたんだぞ」と眉根を寄せていた。

 遠矢さんが「ところで、髪を切るとは、一体何の話だ」と小雪さんに足音荒く寄っていくので、私が無意識に小雪さんを庇おうとするよりも早く、昨屋さんがさりげなく小雪さんの前に出た。

「兄さん、込み入った話をするのなら、どこかの茶屋にでも入られたら如何どうです」

 昨屋さんに「込み入った話などない」と鼻を鳴らし、遠矢さんは昨屋さんを間に挟んだまま小雪さんに「その髪を切ると言っているのか? 断髪だんぱつを、小雪が?」と詰め寄ったので、私はいよいよこれはまずいことになったぞと、昨屋さんの腕を軽く引いて「とりあえず、あそこの店に入りましょう」とてきとうな団子屋に三人を連れ込んだのであった。

 近場に在った団子屋に四人で座り込み、沈痛な面持ちでいる私と遠矢さんが珍しく横に並んで、小雪さんと昨屋さんが隣り合わせるという不思議な状況に、ますます緊張でこちらの腹が痛む。

 昨屋さんは無表情でいるし、遠矢さんは怒り心頭といった表情でいるのに、小雪さんだけが場違いに微笑んでいるのも私の胃痛に繋がるのだから如何いかんとも仕様がない。

「遠矢さん、私、髪を切りたいの。いまの流行りって断髪でしょう、とても素敵だと思うのよ」

 小雪さんがそういうと、遠矢さんは小雪さんをちらりと見る。それから不機嫌に目を逸らした遠矢さんを如何どう判断して、そう結論づいたのか想像もつかないが、小雪さんが本当に嬉しそうに「認めてくださるのね? 有難う」と笑ったので、こちらの度肝を抜かれてしまった。

 無言、無表情でいた昨屋さんまでもが、目を丸くして小雪さんと遠矢さんを交互に見た始末である。閉口している私たちを置いて、遠矢さんは「反対はしない」と低い声で言い、小雪さんはそれに「絶対に肯首うなずいてくださるだろうと思っていたのよ」と両手を胸の前で合わせて笑っている。

 団子屋の娘をちらりと見て、遠矢さんが「今の女はハイカラだからな」と言ったので、これは益々に驚きだと私と昨屋さんは目を合わせた。

 それからの兄夫婦の会話によると、遠矢さんは意外にも懐古的な女よりも、今時の洒落た女のほうが良いらしく、まさしく今時のモダンガールであった小雪さんを、遠矢さんのほうが惚れこんで高橋に嫁として迎え入れたらしい。

 それは小雪さんが先刻にしていた話でなんとなく察してはいたものの、まさかこの堅物そうな遠矢さんが、女の断髪まで賛成するほどに好きものであるとは思わなかった。それは昨屋さんもそうであったらしく、実兄の口ぶりに頭を抱えている様子である。

 小雪さんが「お義父さまとお義母さまを、どう説得しようかしら」といよいよ込み入った話をしだしたので、兄夫婦を二人きりにしておいて、私と昨屋さんはそっと店を出た。

 昨屋さんは「団子の勘定は兄さんに任せましょう」と疲れ切った顔で呟いた後「兄さんがあんな趣味とは思わなかった」と愚痴っている。

 私がその隣に並んで、そうっと「昨屋さん、私も髪を切った方が良いかしら」と訊ねてみたところ、昨屋さんは「あんずさんは髪を結っていてよろしい」という風にぴしゃりとはねのけてから「僕は、あんずさんにはそのままでいてほしいのでね」と言い直したのだが、その言い方があまりにも――小雪さんを、というよりは――自分の兄を揶揄していて、この一件は昨屋さんにとってどうやら神経を逆撫でするようなものだったらしいと、こちらもやっと察したのだった。

 しかし、はてそれでは「義父母も昨屋さん寄りの旧式なのではないか」と、頭に血が昇っているらしい昨屋さんや、意外にも落ち着いている遠矢さんよりも、関係ない義妹であるはずのこちらのほうが、小雪さんの顛末を案じてしまった。

 小雪さんと遠矢さんは、折を見て高橋の父母に話をつけることにしたらしい。その当日に、私は居間から締め出され、昨屋さんも私と同じくの状況ではあったが、改まった様子の長男を警戒した実父によって仕事を休めと言われたらしく「本当は父の言い分を押してでも、仕事に行こうと思ったのですが」と苦笑していた。

 私がそんな昨屋さんを「小雪さんの一大事だもの」と詰っても、昨屋さんは「ううん」と唸って喉元を触るばかりで「大事おおごとだというのも時代錯誤な気がしてしまって。しかし確かに大事ではありますね」とどっちつかずのことを言っているのだから、この人のこういうところは本当に、仕様がないなと思ってしまう。

 高橋の父母の怒声が聴こえることもなければ、戸惑っているような様子もなく、静かに時間が進んでいく。寝室でいやに落ち着いている昨屋さんの隣にいても、心がどうにも落ち着かずそわそわとしていた私を、とめが呼びにやってきた時には昼時であった。午前から始まった話し合いだったので、一刻は優に過ぎていることになる。

 とめに促されて寝室を出た私と昨屋さんを待っていたのは、小雪さんと遠矢さんという、今回の騒動の張本人たちで、その兄夫婦はこちらに幸せそうに笑ってみせる。それはつまり、と私はほっと胸を撫でおろしたのだが「それでは小雪さん、髪を切ってしまうの?」と訊ねるのはやはり勇気がいるものであった。

 小雪さんが「そうよ。二日後には髪結を呼んで頂くつもり」と嬉しそうに指を口元に添えて笑うので、私と昨屋さんは顔を見合わせ、その隣で仏頂面をしている遠矢さんに、珍しくも昨屋さんが「父さんは納得を?」と訊ねた。

 それに遠矢さんが頷いて「戸惑ってはいたが、すこし話せばわかってくれた」と言ったが、昨屋さんは「少しね……」と目を細め、真昼になって日差しが強まった窓の外に一瞬視線をやったのだった。

 そんな昨屋さんの心中を、遠矢さんが「まさか高橋からね、とでも思っているんだろう、昨屋。頭が固すぎるのはお前の欠点だ」と揶揄からかったので、図星だったのだろう昨屋さんが、嫌そうな顔を隠しもせず、もの言いたげに遠矢さんを見た。

 その実弟の不機嫌に対して笑っている遠矢さんに「もしかしていつもこんな風に昨屋さんを刺激しているのだろうか」とこちらが吃驚びっくりしてしまう。

 しかし昨屋さんも、相手はやはり実兄である。にこりといつかのように冷笑して「やはり、兄さんと話すのは性に合いませんね」と遠矢さんにきこえる声量でわざとらしくひとち「あんずさん、行きましょう」と私の背を押して、さっさと遠矢さんから背を向けた。

 小雪さんがそんな二人の兄弟喧嘩にくすくす笑っているのがあまりに朗らかで、その声をきいていた私の方が改めて「こういう形の家族も、って良いのだ」ということに、はたと気が付いたのだった。

 小雪さんの騒動が落ち着いた頃に、昨屋さんが今度は部下だと言う男を連れて帰ってきた。佐熊さくま慎之しんのすけと名乗った彼は、剃髪ていはつで色白の青年で、昨屋さんと同じかそれより少し若いくらいに見受けられる。

 藤堂さんと違って訛りのない喋りであり、これも藤堂さんと違う点で、この青年はあまり笑わないどころか、どこか昨屋さんに対して恐縮しているようであった。

 上司の妻である私にも遠慮がちに「つまらないものですが」といって故郷のものだという饅頭を突き出してきたので、私は笑ってそれを受け取った。物怖じしない男らしさがあるとは口が裂けても言えそうにないが、それでもどこか初心うぶである佐熊さんを可愛らしく思えたのだ。

 そんな佐熊さんへの人物評がこちらの顔に出ていたのかもしれない。昨屋さんは私の顔を一瞥すると「あんずさん、佐熊には酒をがなくていいですからね」と不機嫌そうに告げて「こちらだ」と佐熊さんを厳しい口調で居間に案内している。

 佐熊さんは真面目な声で「はい!」と大きく返事をし、私に頭を下げながら、肩を強張らせた調子で、昨屋さんと共にそそくさと居間に行ってしまった。

 いくら、酒を注がなくて良いと言われても、夫の客の手前で妻が全く顔を出さないわけにはいかない。一応だと思って一度だけ酌をして、そのあと台所から様子をうかがっていたところ、昨屋さんと佐熊さんの会話はこんな風であった――「佐熊、遠慮はするな。好きなだけ飲め」「はあ、高橋少尉もぜひ。あの、自分はあまり飲まない性質たちなので」「嘘を言うな。酔って歌っていたときいているぞ」――そこで佐熊さんが委縮した声音こわねで「そんな話を、一体誰が」というので、昨屋さんがちらりとも笑わずに誰それであると言っている。

 佐熊さんが台所に突っ立っているこちらに気が付き「奥方も、ぜひ」とこちらに声を掛けたのを昨屋さんが「あんずさんも来ますか」とやっと柔らかく笑う。その昨屋さんの様子になぜか佐熊さんが目を丸くしているのが不思議ではあったが、私は昨屋さんが来ても良いと言ったことを理由にして宴会に混ざることにしたのだった。

 酒は一滴も飲まないままでも、佐熊さんは私に酒を薦めることは一切なく、昨屋さんに緊張したまま、ちびりちびりと一人でやっている。

 昨屋さんはやはり「自分は上官である」といった風に話していて、そんな昨屋さんを見ているのが楽しいゆえに私は上機嫌であったが、上官だからこそなのか、昨屋さんは一等にこの場で落ち着いている様子であった。

 佐熊さんが、何度、上司に酌をしようとしても、その上司が酒をまったく飲まないでいるので、佐熊さんはいよいよ昨屋さんに酒を注ぐのを辞めて、自分だけで少量ずつ口にしており、時間の経過とともに徐々に酔いで顔が赤くなっていっている。

 佐熊さんが「高橋少尉の御自宅に呼んで頂けるなんて、まさかというかなんというか」と、とめの出した酒のさかなを摘まんでいるのに、昨屋さんが「君とは話をしてみたかったからな」と冷ややかな返事をしたので、佐熊さんが「話ですか、少尉が、自分に?」と可哀想なほどに体を竦めた。

 昨屋さんは「この間、面白いひとり言を言っていたのでね」と一滴も酒を飲まないまま、佐熊さんと同じだが別皿に盛った肴を食べている。

「面白い独り言とは、一体」

 佐熊さんの問いに「書生とかなんとか呟いていただろう」と短く返してから、昨屋さんがこちらをちらりと見る。私は首を傾げたが、その昨屋さんの視線はほんの一瞬であったので、それにはなにも訊ねずに置いて、二人の話に耳を傾けたままでいることにした。

「書生? ああ、もしかして……その節は、本当に申し訳なく……」

 書生という独り言に覚えがあったらしい佐熊さんがなぜか頭を下げ、昨屋さんが片手をひらりとして「良い」とそれを止める。

 昨屋さんが肴を摘まんでいた箸を口から離して「もしや、君はあんずさんを見たことがあるのではないか」と言い、突然名前を出されたこちらがつい「私?」と驚いてしまった。昨屋さんが視線をすいと佐熊さんの方へ移して「俺は、目玉焼きはよく焼いてあるのが好きだ。焼き魚も、少し焦げ目があると一層良い」と暗号のようなことを言うと、佐熊さんは途端に顔を真っ青にして「そ、その節は」といよいよ平伏してしまったので、それを傍で見ていた私が益々きょとんとしてしまう。

 私が「何のお話し?」と訊ねると、昨屋さんは「これは堪らない」とでもいう風に腹を抱えたので、佐熊さんが床に擦りつけていた頭を上げて「少尉」と泣きごとのように昨屋さんを咎めた。どうも、この二人にはなにかあったらしいと勘付いたわたしのほうから「なにかまずいことがあったのかしら」と言えば、昨屋さんがようやく口を開いたのだった――「いえ、こいつは軍部の廊下で僕の話をしていたのです。あんずさんの手料理に文句をつけて嫌がられているのではないかと大笑いしていてね。あまりにも可笑しかったものだから、ついこちらも揶揄ってしまったまでですよ」

「目玉焼きの卵が固い、と焼き魚を焼きすぎている、だったかな」

「少尉、勘弁してください。あれは仲間内の悪ふざけで」

 昨屋さんの追従に、佐熊さんが涙目になっているのを、心底笑っている様子で「金太郎飴ならいつも変りようがないのだから、そればかりあんずさんに出されているのではとも言っていたな」と昨屋さんが言葉を続ける。

「金太郎飴? 昨屋さんが、私にそればかり出されていると?」

 繰り返して、そのあまりの面白さに、こちらもやっと状況を解してふふと笑い声を漏らしてしまったのを、慌てて口を押えて耐えたのだが、そんな私に「あんずさん、こういうことは笑ってやった方が良いのですよ」と昨屋さんがやっと手酌で酒を口にしだした様子を見せたので、佐熊さんのほうもようやくと言った風に少しばかり肩の力を抜いた。

 頭を掻きながら「本当にすみません」と謝る佐熊さんの表情が僅かに緩んだことに、初めて昨屋さんが機嫌よく目を細めている。

「ところで、佐熊。俺が書生と呼ばれていたところを、お前、見たのだろう」

 昨屋さんが唐突にいうと、佐熊さんは「はい?」と背筋を伸ばし「ああ、そうですね……」と佐熊さんも私のほうに一度視線をやり「やはり、少尉の奥さんだったのですね」と目元を緩めた。私はまたもや小首を傾げており「今度は何のお話し?」と再び訊ねる。

「少尉があまりにも町角で大笑いをされていたので、自分はその、連れ合いが少尉を見ないようにしてしまったのですが」

 佐熊さんの言葉に昨屋さんが、本当に不思議そうに「別に見ても構わないが」というと、佐熊さんにしては、それはまさに失言であったらしく「すみません」と頭を下げ、目だけを昨屋さんの方へ上げて「少尉、その、奥さんに書生と間違われていましたよね。立ち聞きするつもりはなかったのですが」

 佐熊さんの問いかけで、私は何の話かやっと合点して「ああ」と呟いたのだが、そんな私にも、佐熊さんの質問にも答えずに「その話、他の誰にした?」と昨屋さんが唇を尖らせて盃を傾けたので、佐熊さんが冷や汗をかきながら「いえ、誰にも話してはいません」と再び低頭ていとうする。

「俺は、お前たちにあんずさんとのことをあれこれ言われたくないのでね」

 昨屋さんが冷ややかにそう佐熊さんに告げたのを、一体どういう意味なのか掴めず目を丸くした私と共に、佐熊さんもきょとんとしている。それから一時別の話をして、夜が暮れた頃に佐熊さんは高橋の邸宅を出て行ったのだが、去り際に私のところへ寄ってきて「とても大事にされているんですね」と笑って頭を下げていったのだった。

 佐熊さんが去っていったあとの昨屋さんがどこか不機嫌な様子であったので「あんなに楽しそうにしていたのに」と私が呟くと「楽しくはありましたね」と昨屋さんが跳ね返してしまう。

 いよいよつまらなさそうに懐手している昨屋さんを、私が「なにを拗ねているの?」と覗き込むと、昨屋さんはこちらをじとりと見ながら唇を尖らせ「佐熊を気に入りましたか」と低い声で言った。

 私が「初心だとは思ったわ」と返すと「初心ね」と繰り返して昨屋さんが目を逸らすので、逸らしたほうへと敢えて私も顔を向けてやる。

 ふと何で昨屋さんがへそを曲げたのかに気が付き「妬いているの?」と私はにんまり笑った。

 そんな私に昨屋さんは一瞬無言になったあと、ぐいとこちらの腕を引いて胸の中に閉じ込めてしまってから、深い息を吐き「それはそうでしょう。存外に意地が悪い」とこれまた珍しく私をなじったのだった。

 昨屋さんが「つまらない夜だ」と呟いたので、私は抱きしめられながら「私はとても楽しかったわ」と微笑んでみせる。昨屋さんは私の顔を見たが、その顔が心底から拗ねていたので、いよいよこちらも大笑いしてしまった。

「可愛いところがあるのね」

 寝る支度を整えた頃に、私が寝室でそういうと、昨屋さんは思い切り眉根を寄せた。

 その顔が可愛らしくて堪らず、布団に入ってきてもなお、こちらに背を向けた昨屋さんのその広い背中を抱きしめる。昨屋さんは身じろぎしたが、なにも言わずに胸に回ってきた私の手に自分の手を重ねただけである。

 昨屋さんが「佐熊はもう、我が家に呼びませんよ」と言ってから「佐熊の言っていた連れ合いというのは、あいつの妻のことです」とさらに言葉を続けたので、私が「帰りしな、佐熊さん、私に何と言ったと思う?」と嫉妬する夫に訊ねてみると、昨屋さんは案の定「知りませんね」と不機嫌そうにこちらを振り向いた。

「私が昨屋さんに、とても大事にされていると言ったのよ」

 私の答えに、昨屋さんは一瞬黙り込んだ後「当たり前のことだ」と片腕を自分の頭の下に引いて「それを、帰りしなにあいつが敢えて言ったのですか」とこちらに問い返してきたので、私は昨屋さんが自分の頭に引いた腕を軽く引っ張って「私にして頂戴」と言ったのだった。

 面食らった昨屋さんに対して「今日は珍しく百面相」と笑っている私の頭の下に、渋々と昨屋さんは腕を枕に引いてくれたものの「腕がしびれてしまう」とまだ文句を言うので「たまにはいいじゃない」とわざとつんと返して、私は目を瞑ったのだった。

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