第三章

 この間の昨屋さんの様子が少しばかり気になるので、遠矢さんに軍内での昨屋さんの様子を訊ねてみると「昨屋はどこでも、いつもと変わりませんよ」ということであった。

 その「いつもと変わらない」が、遠矢さんに対するときと変わらないという意なのか、それとも――と考えてみたところで、知るすべのない私に答えなど、出てくるはずがないのだ。

 とめが「あんずさんに対しているときの昨屋さんの方が特別ですよ」と言っていたのだし、きっと遠矢さんのいう「いつもの昨屋さん」は、遠矢さんに対するときの冷ややかな態度のほうを指しているのだろう、とは思う。

「あんずさん、今日は客人を連れてきました」

 それから一週間ほど経った、しんと静かで、どこからか犬の遠吠えが聴こえてくるだけの夜に、昨屋さんに連れられて入ってきたその人を私が見詰めていると、昨屋さんはにっこり笑って開口一番にそんなことを言った。

「客人」と私が口の中で呟くのを見て、その昨屋さんが連れてきたという客が豪快な声で「おう、高橋くん、こげんよか嫁さんと結婚ばしたったい」と笑った。

 つい「こげん……」と慣れない単語を口真似ると、その人は「ああ、すみませんな。藤堂とうどう与一よいちといいます、そちらさんはあんずちゃんでよかっちゃろう?」

 あんずちゃんと呼ばれて、私が目を白黒させたのと同時に「藤堂くん」と昨屋さんが眉を顰める。

「私の妻を軽々しく呼ぶな」

悋気りんきね、お前らしくもない」

 大きく胸を反らして笑う藤堂さんに、昨屋さんは渋面のまま「あんずさん、少々騒がしいですが、とても良い奴なのでね。こいつの言うことは、大体を聞き流してもらえれば助かります」

「そうたい、酒を飲みにきました! ちょいとばかし強いが、抜群に旨い酒を何本か持ってきたんやけど、あんずちゃんはいけるほう?」

 藤堂さんが足音を立てて家に上がり込む様子に困り果て、助けを求めて振り返ると、その先でとめが楽しそうにこちらへやってくるのが見えた。

「愉快なお客様ですね」と笑うとめに、藤堂さんが「はじめまして」と大きな声で挨拶をした。

「家中の使用人を集めてくれんね、高橋くん。みんなで飲んだ方が楽しいけんね」

「それは遠慮しておく。あんずさんも酒は飲まない」

「三々九度で飲んだろうもん」

 藤堂さんの言葉に、昨屋さんが「あれは酒とは言わない」と敬語をけて話しているのがなんだか新鮮で、きいていて楽しくもあるが、それにしても彼がなにを言っているのか、その方言が強くて一向に分からなかった。

 ただ私にも酒を薦めていることはわかるので、苦笑いを顔に貼り付けたまま、私は後退あとずさる。

 居間に座り込んでしまった藤堂さんが、昨屋さんと談笑しはじめて一刻が経った頃、酒がほどよく進んだのか、赤い顔をして「あんずちゃん、いくつ?」と、慣れない給仕の役をしていた私に話しかけてきた。

 藤堂さんは昨屋さんよりも酔いやすい性質たちなのか、おなじだけ飲んでいるはずの昨屋さんがいつも通りの白い顔をしている横で、藤堂さんは呂律ろれつこそ確かであっても、その声がますます大きくなっている。

「そんな使用人みたいなことせんでよかけん、こっちきて座りい」

 藤堂さんは、笑うと目の端に皺ができる、どこかなじみがあるような、気風の良い人であった。昨屋さんが線の細い青年であるのに対して、それより幾何いくばくか歳を取っているようであり、皺は目尻以外にはないものの、体格が逞しく、肌は日に焼けて、酒好きないかにもの軍人である。

 藤堂さんの誘いを「そうはいかないわ」と笑ってかわすと、藤堂さんはにっかり笑って「こっちでお酌してくれるほうが嬉しか」

 藤堂さんの言葉に、さすがに昨屋さんが「藤堂くん」と目を細める。

「あんずさん、お部屋に戻っていてください。こっちはきっと騒がしくなる」

「華族のおひい様なんて、よう嫁に貰ったなあ、高橋くん。日本男児としては羨ましいが、あんずちゃんは苦労しとらすやろう」

 立ち上がろうとしてそう話しかけられたので、中腰のまま私は「はあ」と心ないような返事をしてしまった。そんな私を一向に気にしていない様子で、藤堂さんが言葉を続ける。

「なあ、こんなにあんずちゃん、あんずちゃんばっかな高橋少尉を、部下が見たらなんていうやろうね」

「仕事の話はやめてくれ」

「よかろうもん! あんね、あんずちゃん。あんた料理はする方? 華族のお姫さんやけん、せんかな?」

 嫌がる昨屋さんをよそに、藤堂さんは私に問いかけた。私は渋々座りなおし「あまり」と言葉を濁す。

「高橋くんはな、部下に噂されとって。奥さんの料理にも一々文句つけとるんじゃなかねってさ」

 私が「昨屋さんが?」と驚いて訊き返すと、藤堂さんは笑い飛ばす。

「そんだけ、高橋くんは細かい男やけんね……」

 酒が回ったのとは違う様子で「藤堂」と呼び捨て、昨屋さんは頬を赤く染め「酔いすぎだぞ」

 酔いすぎと言われても、そのあと間も入れずに藤堂さんは酒をちびりちびりとやっている。

「これくらいで酔いすぎって、まだ飲んでもなかろうもん」

「飲んではいる」

「細かい、細かい」

 戯れるように藤堂さんが昨屋さんの頭を撫でつけるので、昨屋さんがついという様子で「やめてくれ」とその手を払った。

「二十一の尻の青い坊主が、こげんよかお嫁さんば貰ってなあ」

「藤堂くんはいつだった」

「俺は二十五やったよ。俺の嫁さんは華族やなかばってん、ものすごか美人たい」

 話題が藤堂さんに向かったことでか、昨屋さんはやっとほっとしたように笑う。

「それは、一度お目にかかりたいね」

「ほらほら、あんずちゃんの目の前でなんば言いよるとか! 後日招待ばしちゃるけん、楽しみにしときい」

 昨屋さんがこちらに視線をやり、顎を寝室のほうに動かしたのが目に入ったので、私はその隙に有難く居間を抜け出した。大声で笑う藤堂さんの声を背に浴びながら、私は寝室へ、そそくさと戻ることに成功し、扉を閉めて深くため息をついた。

「随分楽し気な方」

 呟き、凝り固まった肩を回す。それでも、見たことのない昨屋さんの一面を見たようで、不思議と嬉しくもあって、私はふふと小さく声を漏らして笑った。

 藤堂さんとの宴会は、どうも深夜まで続いていたらしいのだが、気が付くと昨屋さんはいつも通り――とはいえひどい酒の臭いがしているし、顔が疲れているようである――私の隣で眠っていた。とめに昨屋さんがいつ寝室に戻ってきたのかを問えば、とめは「昨屋さんは節度を守っていらっしゃいましたよ」と笑うばかりで、いつものことながらこの女中は、やはり返事がなかなかに要領を得ない。

「おう、あんずちゃん。おはよう」

 居間に藤堂さんの様子を見に行くと、意外にもさっぱりした顔で朝食をとっていた。とめの話によると「藤堂さんは昨日、昨屋さんよりも大騒ぎをしていた」ということだったのだが、藤堂さんは私の顔を見るなり「俺は二日酔いはせんのよね。どうせ高橋くんは潰れとるんやろう」と言った。

「顔に出ていたのかしら」

 私が笑うと、藤堂さんも「分かりやすいよ、あんた」と豪快に笑い飛ばす。

 台所にいたらしいとめが「あんずさん、いま朝食をご準備しますからね」と居間に顔を出し「どちらでお食べになります?」と私に訊ねたので、私は稍々迷った後、藤堂さんの顔をまじまじと見て、彼がにかっと笑ったことで「居間に持ってきてくださる?」ととめに問い返した。とめも快く頷く。

「いやはや、さすが、高橋くんちの飯は朝から豪華やね。こんなに食ったら太りそうなもんやのに、なんであんなに華奢なんやろうか」

「昨屋さんが朝を食べているところ、見たことがないわ」

 藤堂さんに答えた私の言葉が意外だったらしく、藤堂さんは首を傾げ「うん? どういうことよ」

「軍人さんは忙しいのでしょう。昨屋さんは夜中に帰ってきたと思えば、早朝に風呂に入って、そのまま出ていくわ」

 その言葉に、藤堂さんは目をまたたく。彫が深い顔立ちのせいか睫毛が随分と長いように思うが、藤堂さんはどこか野暮ったいというのか、美形だとか美丈夫だとかの言葉は合いそうにないな、とつい観察してしまう。

 そんな私を露知らず、藤堂さんは朝であるせいで伸びっぱなしの無精ひげを摩りながら「ううん……?」と唸っている。私は「藤堂さんは違うのかしら」と何の気もなしに訊ねた。

「違うってことはないけどね、なんちゅうか、そうやね。高橋くんは上官やし、たしかに忙しかろうね。俺だってそんな暇にはしとらんし……まあ、そこまで忙しくもしとらんけど……ああ、そうか」

 藤堂さんはひとりで頷いて「高橋くん、有給取ってしばらく居らんかったもんね。そりゃ仕事も溜まろう」

「たしかにここ最近ばたばたしとるなあとは思っとったんよ。あの通りやけん、そりゃあもう、可愛がられとるしさ」

 藤堂さんの言葉に「あの通り」と私は繰り返す。藤堂さんは白い歯を見せた。

「高橋くんは冷静やろう。何が起きても高橋くんなら安心と思っとんしゃあような奴が多くてさ。冷たすぎるっていう奴もおるっちゃおるし、それもそうやなあとも思うけどさ」

「昨屋さんが冷たい?」

 私が目を丸くしたことに、藤堂さんのほうも目をぱちくりとする。とめが朝食を持ってきて、私の目の前に置き、しずしずと出ていくのを目で追いながら「冷たかろうもん。高橋くんごと氷みたいな男、俺は見たことなか」と藤堂さんが私の問いかけに答えた。

 言葉の意味がわからないでいる私の様子を訝しげに見やる藤堂さんに、寝室から起きてきたばかりらしい昨屋さんが「……随分と元気に見える」と声をかけた。藤堂さんは声のした方向、居間の扉のほうを見て「おう、おはよう」と昨屋さんを手招きする。

 昨屋さんが頭を抱えながら「声が響く」と嫌そうに言うと、藤堂さんはますます大きな声で笑った。

「高橋くん、やっぱり酒に弱かごたあ」

「顔に出ないだけで、もともと強くないのでね……声を落としてれないか」

 藤堂さんは、弱り切った昨屋さんの背中を強く一度叩き「情けなかねえ」

 私が慌てて立ち上がり「藤堂さん、そんな風にしたら、昨屋さんが吐いてしまうわ」と昨屋さんに駆け寄ると「おう、こりゃすまん」と藤堂さんは素直に手を引っ込めた。

「……ちょっと失礼」

 私がそう止めるが早いか、昨屋さんは制止するように手のひらをこちらに向け、もう片方の手を口に当てて、青い顔で居間を出ていった。

 藤堂さんが「ああ」と言って「奥さん、ついていってやらんでよかとね」とまた無精ひげを触っている。

 藤堂さんの言葉に甘えて、昨屋さんを追いかけていくと、彼はかわやから出たばかりだったらしくうんざりした顔で壁に凭れ掛かり、座り込んでいた。私は慌てて「昨屋さん」と声を掛ける。

「あんずさん、すみません。水を下さい」

「そんなに飲んだの」

「酒には弱いんです。特に藤堂君と、となると。あいつが相当に飲むから」

 私は水を持ってくるようとめに言付けて、自分は昨屋さんの介抱をする。誰かの世話などしたことがないせいで、とめがいてくれないと、私一人ではなにもできないのが悔しくあったが、そんなことを気にしていられるほどの余裕が、こちらになかったことが幸いであった。

 寝室まで昨屋さんを連れて行って寝かせるとき「折角の休みなのに、申し訳ない」と昨屋さんが呟いたのが、微かにきこえた。

 葬式のような顔で寝室から出てきた私に、藤堂さんが昨屋さんの様子を訊ねてから、からからと笑う。

「そげん心配しなさんな、あんずちゃん。ただの二日酔いやろう」

 藤堂さんに「でも、苦しそうだわ」と答えたとき、声が震えてしまった。そんな私の顔を、藤堂さんが覗き込む。

 頬を掻きながら「こげん心配されとるのを見てしまうとなあ」とぼやいた藤堂さんの顔を見上げる。藤堂さんは大きな口で笑い「大丈夫、大丈夫って」と私の肩を軽く叩いた。

 昼頃になって、やっと昨屋さんが「落ち着いた」といって部屋から出てきたころ、藤堂さんは風呂を借りた後であり、小ざっぱりした様子で「おはよう」と昼に相応しくない挨拶を言い、昨屋さんを苦笑させていた。

「おはよう、藤堂くん。今朝は失礼した」

「なんも。俺やなくてあんずちゃんに謝っといて欲しいくらいよ」

 昨屋さんはよく見ると薄っすらと無精ひげが生えており、私が「昨屋さん、おひげを剃らないと」とつい言葉に出してしまうと、昨屋さんは「ああ、これは失礼」と自分の顎を摩った。

「お加減は大丈夫なのかしら」

 洗面をしている昨屋さんの背に近寄って、私はそう声を掛ける。昨屋さんは顔を上げ、手拭で顔を拭きながら「おかげさまで。あんずさんにはご迷惑をおかけしました」と目を細めた。

 高橋家の裏手、井戸のほうは、背後をぐるりと木が覆っている。女中がばたばたと行き来する場所でもあって、とめではないほかの若い女中も、昨屋さんのほうを物珍しく見ている様子であった。きっと、いつもは朝が早い彼がこんな時間に顔を洗っていることなど、今までにもあまりなかったのだろう。

 その証拠に、裏口に出てきた小雪さんが「あらあら、珍しいこと」と、この女らしく、鈴を転がしたような声で笑いながら、洗濯物を干している。

 手拭をたたんで井戸にかけながら「小雪さん、その着物は?」と昨屋さんが、小雪さんが干している途中の着物を指して訊ねたので、私も洗濯物をよくよく注視すると、それは鮮やかな、今時風に仕立てたもので、モダンだとかなんだとか言われているような着物である。

 私が「あら、本当。随分素敵」というと、小雪さんは気をよくしたようで「私のご友人のものよ。とってもいいでしょう」とくすくす笑っている。

 そのとき、玄関のほうから藤堂さんの「高橋くん! お世話になりました!」という大きな声が聴こえてきた。私と昨屋さんが顔を見合わせるのを見ていた小雪さんが「お見送りにいかれなくてよろしいのかしら」と私たちに声を掛ける。

 玄関にでてきた私と昨屋さんを見て、私たちが出てくるのを待っていたらしい藤堂さんが「またくる。今度は甘いもんでも手土産にしようかね」と昨屋さんに手を差し出した。

 昨屋さんが「見送りはここで済ませても?」と握手をしながら訊ねる。藤堂さんは「よかよ、そんなこと気にするな」と目尻の皺を寄せてその手を荒く振った。

「あんずちゃん、またくるけん。よろしく」

「ええ。またいらしてください」

 そう言って微笑んだ私の言葉は本音そのままであり、そんな私の隣で昨屋さんは、至極満足そうにしていたのだった。

 また別の日、散歩をするといって高橋家を出、私は町中を歩いていた。昨屋さんは野暮用だと言って仕事に行ったので、私はまた一人きりだったが、もはやこちらも、それがいつも通りだと割り切っていたので、ゆっくり買い物を楽しんでいる。

 とはいえ、嫁入りをしたからと言って、勿論高橋家の金を湯水のように使っているわけではない。月に一度これだけ使っていいという風に昨屋さんと取り決めて、そのなかでやりくりをしているのだ。

 義父も義母も、昨屋さんでさえ、そんなこと気にするなとは言ってくれたが、しかしどこかそわそわとしてしまってうまく使えなかったので、ほかならぬ小雪さんが月毎つきごとに小遣いを貰い、それでやっていると言っていたのを、私は習うことにしたのだった。

 私が「うまく使えないから、それなりに制限して貰った方が有難いのよ」といえば、昨屋さんも「あんずさんがそういうなら、そうしましょう」と渋々頷いてくれたのだし、むしろ、後ろ暗い気持ちもなく、嫁入り前よりも少しだけ遊べるくらいの贅沢には丁度良い、と私はこっそり思っているのだった。

 昨屋さんは「金など気にせず、好きなだけ反物たんものでも紅でも買いなさい」と言うけれど、そんな金の使い方をすると、いつか、他ならぬ私が高橋家を食いつぶしてしまうのではないかと思うのだ。

 四葉の家がそうであったように、もしも私の贅沢で、高橋がそうなってしまったら……。

 四葉にいた頃の私のような苦労を、昨屋さんたちには絶対にしてほしくないのだ。高橋家は四葉とくらべものにならないほど裕福ではあるけれど、それでも私の胸には、そんな不安がずっと纏わりついている。

 ふと、人混みの中をすいすいと歩く、洒落た婦人の背中が目に入った。腰回りを絞めた流行りの服に身を包み、見事な黒髪を結って、その人は堂々と歩いている。どこかで見たが、どこだったろうとずっと見詰めていると、はたと私は合点した。小雪さんに似ているのだ。

 声を掛けようとしたが、女は歩くのが速く、なかなかに追いつけない。仕舞いにはこちらが疲れて足を止めてしまった上に、突然立ち止まったせいで、私の背にほかの女がぶつかった。

 女は短く甲高い声を上げ「なん、急に立ち止まらんでよ」と、ついこの間きいたような訛りでこちらを罵倒する。私は振り返り、その女を見た。女は色白で、平凡ではあるがそれなりに整った顔立ちをしており、その眉をしかめて此方こちらを睨んでいる。

 連れ合いらしい男性が「幸子さちこ、そげん言わんどきい」と女の肩を引き、それに女は唇を尖らせて「与一さん、あっちが突然立ち止まったとよ」

 その連れ合いを見て、驚いたのはこちらである。私がつい「あら、藤堂さん」とその男の名を呼ぶと、男はまじまじとこちらの顔を覗き込んで、それから朗らかに笑った。

「おう、誰かと思ったらあんずちゃんやないか」

 連れ合いの女が「与一さん、知っとる方なん?」と藤堂さんに耳打ちしている。藤堂さんは「話したろうもん。高橋くんの嫁さんの、あんずちゃん」

 女はその藤堂さんの紹介に得心したようで「ああ、あの子。おひい様とかいう」とやっとこちらに笑ってみせた。私はいまだに女が誰なのか分からず「藤堂さん、こちらはもしかして、藤堂さんの奥様なのかしら」と恐る恐る訊ねた。

 藤堂さんが私の問いに「そうたい。俺の嫁よ」と女の背を押したので「藤堂とうどう幸子さちこです」と女がそれに続いて名乗る。切れ長の目をした幸子さんが笑うと、狐のようなかおになったが、それもどこか愛嬌あいきょうがあった。

 会話の糸口を探そうと、私が「幸子さんはどこのお国の人なのかしら」と他愛なく訊ねると、幸子さんは睫毛をぱちぱちとして「博多よ。博多訛りがあるやろう」とけらけら笑う。藤堂さんのほうもそうなのだろうかと思ったので「藤堂さんも博多の方なの」と訊ねれば、藤堂さんが頭を掻く横で、幸子さんが率先して「この人はどことかっていう訛りじゃないとよ、ほら、小さい頃に方々ほうぼうを飛び回ってらっしゃったけんね」

 幸子さんに補足して「方々っていうか、家が商人あきんどやったけんね」と藤堂さんが照れたように笑う。藤堂さんと幸子さんの話によると、藤堂さんはもともと平凡な商人の家に生まれた三男坊で、軍人になった後に相当な苦労をして、いまの少尉という地位を得たらしい。

 藤堂さんのげんによれば「叩き上げのど根性だけやけど」ということであるらしく「高橋くんみたいに、そもそも家が立派やったら、こんなに苦労もせんでよかったんやろうねとは思うけど、まあ、今が良ければってやつよ」と本人がからから笑っている。

 私が返す言葉に困って「高橋は代々、将校の一族ですものね」と言った後、すぐにはたと返事のまずさに自分で気が付いたが、藤堂さんも妻の幸子さんも、そういった細かな言葉の響きなど気にも留めない様子で「そうそう」と言ったので、私のほうもいよいよ、この夫妻の気の良さが好ましく感じられてきた。

 藤堂さんは、ふと昨屋さんの不在に気が付いたようだ。きょろりと周囲を確認してから「ところで、高橋くんの姿が見えんけど、もしかして今日も仕事?」と私に問うので、私は頷いて「そうよ。野暮用が、と言って出て行ったわ」

 私の返事に藤堂さんは「はあ、本当にせわしか男やね。本当に同じ階級とかいな」とその逞しい顎を触る。その隣で幸子さんが、藤堂さんの袖を引いて「ほんと。与一さんも見習ったら」と笑った。

 藤堂さんがそんな冗談を言う幸子さんを見て「見習ったら寂しかろうもん」と言い返しても、幸子さんはしゃあしゃあとして「誰が」とほくそ笑んでいる。

「旦那がおらんほうが、すうっとするときもあるもんねえ、あんずさん」

 悪戯っぽく、幸子さんがこちらにそう目配せをしてくるので、私は困ってしまって「そうかしら」と苦笑したが、藤堂さんが「そんなもんなん?」と首を傾げているので、幸子さんがやれやれと腰に手を当てる。

「そんなもんよ。ああ、でも、いまは新婚さんやけん、らんと寂しいばっかかいな? いいねえ、そんな頃があったような、なかったようなよ」

 幸子さんがそう私を覗き込んだので、私は稍々考えた後「昨屋さんがいらっしゃらないのは、仕方がないと思っているもの」とつい頬を膨らませてしまった。

 それまではなんともないのに「寂しいのか」と聞かれると寂しくなるのはなぜなのだろう。それでも昨屋さんは一緒に居られるときには極力一緒に居てくれるのだし、それに文句を言ったほうが、きっと罰が当たると思うほどに大切にしてくれている。それでも寂しいものは寂しいのだと、ふと気が付いてしまって、私は目を伏せて唇を固く結んでしまった。

 幸子さんが「あんずさん?」と私の表情が変わったことに気が付いて声を掛ける。大丈夫だと言って繕ったとき、背後から「あんずさん」と昨屋さんのもののような声が聴こえて、私は振り返ったが、それは遠矢さんだった。藤堂さんが「高橋先生」と頭を軽く下げる。

 遠矢さんは「藤堂少尉。奇遇ですな」と笑い、私のほうを見て「あんずさん。小雪を見なかったかい」と私に訊ねたので、私は「小雪さん? いえ」と答える。遠矢さんはううんと唸って「いままで一緒に居たんだがね、いつの間にかはぐれてしまって」

 遠矢さんがばたばたと「まあいい。ぼちぼち見つかるだろう。心配をかけました」と人混みの中に早足で消えていくのを見ながら、私は「みんなお休みなのね」と呟いた。藤堂さんが「高橋先生は早番かなんかやったやろ。高橋くんが働き過ぎなんやと思うよ」とぼやく。

「帰ったらねぎらってやりいね、あんずちゃん。幸子、俺らも行くか」

 藤堂さんがそう幸子さんに声を掛けると「あら、もう?」と幸子さんが着物の袖を口元に当て「それじゃあ、また今度。失礼します」と笑い、藤堂さんと幸子さんは睦まじい様子で私に背を向けた。

 ひとり取り残された私は、なんだかどっと疲れてしまい、ふうと息を吐く。昨屋さんの顔が見たくてたまらなくなったこともあって、彼が帰ってきたら、たまにはこちらから甘えてみてもいいかもしれないとぼんやり思ったのだが、彼が帰ってきた時には、なんだか照れてしまって、それは想像で終わってしまったのだった。

「あんずさん、今日は随分そわそわと、一体どうされたのです」

 布団にはいってから、昨屋さんが遂にそう訊ねたのも、昨屋さんが帰ってきてからの私の挙動不審を見れば仕方のないことである。私は随分と迷った後、ようやく口を開いて「なんでもないの。……たまには甘えようかと」

 きょとんとした目をしたのは、昨屋さんのほうで「甘える?」と私の言葉を繰り返し「あんずさんが?」

 私は恥ずかしくなってしまって「なんでもないわ。私らしくないもの」と顔を背け、布団に潜り込む。そんな私の背中を抱いて「良いではないですか。ぜひ甘えてほしいものだ」と昨屋さんがくすくす笑っているのが耳をかすめる。

 私が「嫌な方」と呟いたのが照れ隠しだと分かるらしく、昨屋さんは「拗ねてしまった」と言う。

「寝て頂戴」

 私が昨屋さんのほうをくるりと振り向いて、その顔を平手でぱちんと叩くと、昨屋さんはさすがに驚いたように「大胆なことを」と口元に笑みを浮かべながら目を瞑った。私が「大胆?」と訊ね返せば、昨屋さんは閉じていた目蓋を上げて「寝ましょうか」と私の鼻に自分の鼻を寄せる。

 しばらくすると、昨屋さんは寝てしまったらしい。

 昨屋さんの穏やかな寝息をききながら布団の中にいると、なんだかとても心が休まるのだ。寂しいと思った昼間のことも帳消しにして、私は枕元の蝋燭を消し、暗闇の中、幸せな心地で目を閉じたのだった。

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