第二章

 昔ながらの祝言ではなく、いま流行りの神前式で婚儀を行う事が決まり、四葉も高橋もその準備に追われている。

 とはいっても、四葉に婚儀を行えるだけの金などない為、高橋がほとんどを負担してくれるらしく、私の父母は「昨屋さんは本当に良くしてくれる」と口を揃えており、私はそれをとても遠い心持ちで聞いていた。

 現実味がまったくわかないまま、顔合わせだといって、両親に連れられて私は高橋家にやってきていた。

 普通なら顔合わせ、その挨拶となれば、嫁となるこちらが頭を下げるものなのかもしれないが、いかに落ちぶれた家であっても、気位が高い華族の家、我が両親は高橋に頭を下げなかった。代わりに高橋のほうが四葉に謝意を示している様子で、それがちぐはぐのように見える我が家のことが、私はとても恥ずかしかった。

 昨屋さんは挨拶をする自身の両親の横で、冷たい表情のまま座っている。

 昨屋さんの話によれば、私を娶ると言い出したのは昨屋さん本人である。それなら少し浮き足立っていても良いのではと思うが、昨屋さんの様子は「浮き足立つ」というより「不快で仕方がない」といった雰囲気であった。

 もしや、嫁となるこちらが頭ひとつ下げようとしないことに腹を立てているのだろうかと思えば、昨屋さんによるとこうである。

「いえ、あんずさんのご両親に落ち度などなにもありませんよ。それよりも、我が家の様子があまりにも笑えてくるのでね」

「笑っているようには見えなかったけれど」

「笑っていましたよ」

 そういって微笑んだ顔でさえ、どこかわざとらしいようにしか見えなかったのは、本当に何故なのだろう。

 高橋家の庭園は、それなりに広くて立派である。日本庭園に大きな池があって、そこには悠々と鯉が泳いでおり、そのそばに寄って、そんな押し問答をしている私と昨屋さんに、昨屋さんによく似ているけれど、もっと落ち着いた声が「昨屋」と名を呼んだ。昨屋さんが無表情で振り返る。

 昨屋さんはその、昨屋さんより背が高く痩せていて、丸眼鏡をかけた、どこか昨屋さんに雰囲気が似通ってはいるが、眉根を顰めている男を、ごく自然に「兄さん」と呼んだ。

「お兄さん?」

 昨屋さんに訊ねると、兄さんと呼ばれたその人が、からころと下駄を鳴らして近づいてくる。

「四葉さんですかな」

「四葉あんずです。これから、宜しくお願い致します」

高橋遠矢とおやと申します。以後お見知り置きを」

 こちらに差し出した、遠矢さんの日に焼けた手を握り返そうとすれば、それよりはやく昨屋さんがその手を軽く払いけた。

「兄さん。何の用事ですか」

「いや、ついにお前も所帯を持つのかと思ってな」

 しみじみとしているような言葉とは裏腹に、遠矢さんの視線は冷たく、昨屋さんのほうも「はあ」と気の無い返事をしている。そんな昨屋さんに「所帯を持つと、面倒なこともあるからな。お前は、そうはならないようにしておきなさい」

 遠矢さんの言葉がひどく嫌味っぽく聞こえるのは、その平坦な話し方のせいだろうか。昨屋さんのほうは、にっこりと口元だけで綺麗に微笑み「貴方のような人種には、所帯の良さは分からないでしょう」

 私がその昨屋さんの言葉につい驚いて「昨屋さ……」と名を呼ぼうとしたのを制止し、昨屋さんは私の背中を押した。「行きましょう、あんずさん」

 遠矢さんは、その場から離れる私達になにも言わず、遠くから見詰めているだけである。そんな兄を目で追ってから、その後すぐに一瞬だけ、昨屋さんは私の顔も振り返った。

「……なにかしら?」

「いえ」

 なにかを隠すように、否――名残惜しそうに、だろうか――私から顔を逸らし、「なんでもありませんよ」と、今度こそ、昨屋さんはこちらの目をしっかり見て笑ったのだった。

 高橋と四葉が集まり、食事をするというときになっても、昨屋さんはどこか不機嫌でいるようだった。義父母となる高橋の夫妻、その側に遠矢さんと大人しそうな女が座り、昨屋さんは私の隣に座っている。高橋家の食事は以前庭で見かけた老いた女中が給仕をしており、彼女は高橋家に一番長く仕えている者であるらしい。

 義母はとても大人しい女で、しかしその仕草に艶があるのに対して、遠矢さんの隣に座っている女は義母より一層静かで、穏やかというより陰気な女であった。

 しかし遠矢さんはその女にとてもよく話しかけており、ふたりは仲睦まじそうにも見えた。女はどうも小雪と言う名で、私の兄嫁――義兄である遠矢さんの嫁だ――であるらしい。私は先刻に昨屋さんが発した「貴方には所帯の良さはわからない」という言葉を疑問に思っていた。

 不可思議なことはまだあって、昨屋さんがいる間は、遠矢さんはこちらを見もせず、また昨屋さんに話しかけても冷たい言葉ばかりなのに、昨屋さんが席を立つと、とても良く彼を褒めていた。曰く「昨屋は昔から何でも出来た」だとか「自慢の弟だ」だとか言う。

 それを隣できいている兄嫁、義母は楽しげであるが、当の本人である昨屋さんの目の前で、遠矢さんが誉め言葉を一切言わないせいなのか、昨屋さんはこの場と遠矢さんが嫌で仕方ないといったかおである。

 数度目に昨屋さんが席を立ったとき、昨屋さんの目を盗むようにして遠矢さんは私の手を取った。こちらが首を傾げると「あんずさん。昨屋を宜しく頼みます」と遠矢さんがはじめて、私に笑顔を見せた――「遠矢さんは、昨屋さんのことが本当に心配なのよ」と、その隣で、兄嫁が意外なほど軽やかに、鈴を転がしたような声で笑っている。

「昨屋さんにはお伝えされないのかしら?」

「昨屋に伝えたところで、偏った捉え方をするだけでしょうな。あれは少々、頭が固い。あんずさんが苦労するでしょう」

 遠矢さんの言葉に対して、私はつい「昨屋さんがそういう風だとは、私には見えなかったけれど」と口を滑らせてしまったが、遠矢さんはまばたきしてから豪快に笑っただけである。

「いや、これは一本取られました……」

「大人しい猫だと思っていれば、引っかかれるということですよ、あんずさん。あれは気が荒くて、一度思い込むとそうだとばかり決めつけるところがあるのでね」

 遠矢さんに追従するような義父の言葉に、私は首を傾げる。少しだけ表情を曇らせてしまったのは、致し方ない。

 困っていた私に、義母が柔らかな声音で「あんずさん。高橋の男子は、こういうところがあるのよ。どうか分かってくださいね」

 目を丸くして「こういうところ?」と返した私の隣で「大丈夫ですよ、昨屋さんのことなら。ねえ、あんずさん」と私の母が頷き、父が上機嫌に笑っていた。

 参進さんしんの儀を控え、白無垢に腕を通すとき、なんとも心寂しくなったが、隣に立つ昨屋さんの幸せそうな横顔を見詰めるほどに、私はそれを胸の内に仕舞い込むしかなかった。

 流行りの神前式で行いましょうと高橋がいうものだから、一体全体どれほどかと思っていたのだが、いざとなると、高橋がこの婚儀にどれだけの金をかけたのか、とそればかりが気になる。

 それほどまでに大層な儀式となっており、私が身に纏っているこの白無垢も、一級の仕立てであった。

昨屋さんの着ている紋付もんつき羽織はおりはかまも大したもので、胸に示している高橋家の家紋が、いかにも私は立派な家の男児ですよと胸を張っているように見える。

 実際に高橋は、もとの四葉であれば互いに遜色ないような家柄である。勿論、今となってみれば、高橋の方が四葉よりずっと格上であるが、高橋の家の者たちは、四葉にそれを感じさせないほどに腰が低く、いつでもこちらを敬ってくれている。

 私の父母はそういう高橋の態度を見て、ここに私を嫁がせることに決めたのだろうか。昨屋さんが願い出たとは言っていたものの、そういった部分も少しはあるのではないか、とこっそり思う。

 晴れの日に相応しいような青い空のもと、参進の儀として、家から神社まで、町の中を花嫁と花婿、そして四葉と高橋の両家が行列になって進んでいく。歩き慣れた道を、白無垢を引きずりながら歩くのはどれだけ心地よいだろうと夢想していた時期もあったのに、当人となってみれば、夢のなかであるかのような、あまりに現実味がないものであった。

 隣を歩く昨屋さんをまじまじと眺めていると、私の視線を受け取った昨屋さんが目を細めたので、すぐに目を逸らす。

 その時だった。突然、前方になにかが飛び出してきて、一瞬であったそれに短い悲鳴すらまともにあげられず、私はつい足元をふらつかせた。昨屋さんが素早く支えてくれたお陰で、大事にならずには済んだが、代わりに心臓が激しく打つ。

 私が飛び出してきたそれを「なあに?」と見ると、それは小さな三毛猫であった。

「猫ですよ」

 昨屋さんがそう言った時、ふと義父が昨屋さんを猫に例えたことを思い出して、またしても私はじっと昨屋さんを見てしまった。

「なんですか。先刻さっきから見惚みとれてばかり」

 私の顔を覗き込んだ昨屋さんの揶揄いに、私はふんと鼻を鳴らす。

「天狗」

「天狗ですか、たしかにそうかもしれません」

 その昨屋さんの返しに、驚いてしまったのはこちらである。

「あら、認めてしまうの」

「こんなに綺麗な花嫁を貰って、天狗にならない男など」

 そう囁いた昨屋さんの鼻を私が軽く叩く。

 子猫が慌てて走り去っていくその小さな尻を見ながら、昨屋さんが私に叩かれた鼻をさすりつつ「猫を飼うのもいいかもしれないなあ」と呟き、それに私は「猫を?」と問い返した。

「あんずさんに似ている」

 私が閉口していると「ほらほら、ご両人」と列の先を行く神主と巫女がこちらを見て笑ったのだった。

 三献さんこんの儀や奉納などを滞りなく完遂し、荷造りも終わって幾分寂しくなった我が家で、昨屋さんを四葉家に一日だけ迎え、最後の親と子での食事を行った。昨屋さんはとても明るく饒舌であり、その様子に父母はますます昨屋さんを気に入ったようであって、私もそれなりに心地よく過ごした。

 しかし、四葉で食事となれば、この蜘蛛の巣屋敷のような我が家に昨屋さんが再び訪れるということで、それが恥ずかしくて仕方がない。しかしこれがその最後であると思えば、ぐっと我慢をするくらいなんてことはないのだと、自らの泥濘ぬかるみのような気持ちに蓋をしていた私をあざ笑うかのように、我が家の愚かな女中がへまを重ねるものだから、夜になると、私もほとほと疲れ果ててしまっていた。

 そんな私に、昨屋さんは「おや」と言って「大丈夫ですか? お疲れのようだ」という風に声をかけてくれた。私の部屋は屋敷の一番端にあり、広いが掃除も碌にされていない廊下はところどころに埃が落ちて、蝋燭も切らしているばかりにあたりは薄暗い。

「大丈夫よ。お気になさらず」

 自分の足元を気にして、昨屋さんの顔も見ずに、私は答える。そんな私に「婚儀も終えたばかりなのだし、疲れたって恥ずかしいことでもないでしょう」と昨屋さんは言った。

 私が頬を膨らませて「嫌な人。疲れてなんていないったら」

「何をそんなに意地を張る必要があるのか、あんずさん。今日はもうお休みになりなさいと言っているだけですよ」

「命令しないで」

 無性に苛立ってしまい、意地を張って顔を逸らせば、昨屋さんは「おや」と再びこぼし「貴女は私の妻でしょう。夫の言うことはきくべきだ」

「まあ、命ずるつもりもありませんが、こういう時くらいは僕の言葉を訊いてもらいたい」

 ぱくぱくと口を閉じたり開けたりする私に、昨屋さんは白い歯を見せた。

「ね? 今日はお休みになりなさい、あんずさん。無理はいけませんよ」

「……嫌な方」

「そうですかね」

 頬を掻く昨屋さんから再度目を逸らして、私はため息をつく。

「わかったわ。今日はもう寝ます」

 さっさとその場を後にする私の背に「おやすみ」と昨屋さんが声をかける。

 なんとなく振り向いてみれば、昨屋さんはその時にはもうすでに、来た道を引き返そうとしているところであった。

 神前式を無事に終えたので、私も正式に高橋家に嫁ぐことになったが、高橋家の様子に食事会のときのような冷たさは一切なく、どちらかといえばこの家の者は随分と朗らかであった。

 昨屋さんはといえば、私とふたりでいるときはとても幸せそうにしているのだが、父親といるときはもとより、やはりそのなかでも一際、遠矢さんといるときに不機嫌な様子である。

「昨屋さんは、遠矢さんを嫌っているの?」

 ある日、夫婦の寝室にふたりでいるとき、意を決し、昨屋さん本人にそう訊ねると、昨屋さんはにっこりと明るく笑って「そうですね。好んではいないな」

 好んではいない、という言葉を口の中で真似てから、私は首を傾げる。

「どうして? 遠矢さんは昨屋さんのことを、とても――」

 私の言葉に、昨屋さんは笑っていたはずの口元を強張らせる。

「僕のことを、なんですか?」

「……いえ、なんでもないわ」

 その昨屋さんの様子にこちらが言葉を呑んでしまったのは、いうまでもない。それと併せて、顔合わせの食事会のときに交わした遠矢さんの言葉――「お気遣い有難く思いますが、昨屋に言っても偏った捉え方をするだけでしょうな」――を思い出した。

 遠矢さんに関して、もうひとつ、其の嫁、小雪さんのことで疑問がある。

 小雪さんは、昼間になると家に居ることがほぼなく、いつもどこかに出かけている様子であった。私がそれを訊ねても、遠矢さんも小雪さんもうんともすんとも言わず、ただ笑って話を流してしまうだけであるのだ。

「一体全体、なにをしているのかしら」

 頬杖をついて、寝室でぼうっとしている私に、女中のとめが穏やかに言う。

「小雪さんは上品な良いお嫁さんですよ」

「上品……たしかに、大人しい方ではあるみたいね」

 それに返したとめの言葉が「ふふ、まるで借りてきたみたいに」である。

 昨屋さんは、昼間は家に居ない。昼間も夜も、朝でさえいないときもあるほどに忙しい彼の様子に、勿論疑っていたわけではないのだけれど、私はやっと「本当に昨屋さんは上役うわやくなのだ」と実感し始めていた。

 いつも彼は疲れ切って帰ってくると、そのまま寝台に寝転がり「おかえりなさい」や「ただいま帰りました」よりも早く眠り込んでしまうのだ。

 早朝に風呂に入っているなと思ったら、気が付けば家を出ている有様で、なんだかんだと言いつつも嫁入りした手前、会話も碌にないそれに、こちらが心寂しく感じてしまうのは致し方ない。

 高橋家に嫁ぐまでは、こんなに女中と話すこともほぼなかったのだが、こうも家人がみんな忙しくしているとなると、やはり話し相手に限られてしまうのだ。

 義父や義母が優しくはしてくれていても、やはりどこか近寄りがたいし、兄嫁は外出、義兄も夫も仕事で家を空けているのである。女中のとめとばかり会話しているとなんだか、自分も女中の一人になったようだと独り言ちてみたところで、現状は変わらないのだろう。

「小雪さん、どちらへ行かれるの?」

 或る日、またどこかへ出かける様子の小雪さんにそう訊ねると、小雪さんはこちらを振り返って目を細めた。

「あら、あんずさん」

「その大荷物はなにかしら」

「これ? ふふ、なんでしょうね……」

 食えない表情を浮かべながら、小雪さんは私の問いに答えず、こちらに向かって手を軽く振る。

「またあとでね、お夕飯までには帰ってくるから」

 ため息とともに私の口から出たのは「お夕飯までには、ねえ」というぼやきであった。

 小雪さんは、わりあい美しい女だ。豊かな黒髪を私とは少し違う形の耳隠しに結って、その着物は流行りのモダンとかいう柄であり、それがこの国の女らしい小雪さんの肌色によく似合っている。遠矢さんもそこに惚れたのだろうか、と想像するだけで、なんとなく愛やらなんやらの物語のように聞こえてくるから不思議である。

 小雪さんの話をするうち、とめが縫物の手を止めて「あんずさんも、習い事なんか始められたらよろしいのですよ」と呟いた。私は長机に頬杖をついた格好のまま「ううん」と唸る。

 そりゃあお琴だとか、茶道だとかの習い事には、人並みに憧れはあるけれど、華族であるのにそれらがすこしもできないことが、ひどく私の短所であるように感じられるし、それを先生に見せることになるのも、私はどうしても嫌なのだった。

 勿論、そんな話は誰にもしたことがない。金が無かったから仕方ないとはいえ、無いことに甘えていろいろなことから逃げ回るのが楽だったのも、最近ひしひしと感じるのは致し方ないだろう。

 その日も、結局なにもせずに一日を過ごし、夜半に帰宅した昨屋さんの気配で目を覚ます。昨屋さんはまた軍帽すら脱がずに寝台に倒れていて、私はそれにため息をついた。

「昨屋さん、軍服を脱がないと、寝苦しいでしょう」

 声を掛けても、寝ぼけた唸り声が返ってくるばかりである。私が軍帽を脱がせにかかると、昨屋さんは一瞬目をぱちりと開いて、それからうとうとと瞼を閉じた。

「あんずさん」と寝ぼけた様子で名を呼ばれる。

「なあに」

 眉間に皺をよせ「今日は……疲れた」と夢うつつで呟く昨屋さんに「今日もでしょう」と「も」を強調して私は不機嫌に返す。

「貴女には、寂しい思いを」とまで言って、昨屋さんは寝息を立て始めた。

「寂しい思いをしていることに、お気づきなの?」

 ふと呟いた言葉が我ながらに空虚で、私は深く息を吐いて脱力する。

「そうよ」と言葉を重ねたところで、肝心の昨屋さんは寝被っているのだから、何の意味もない。

「そうよ……」

 ――あの貧しい我が家に早々と帰りたくなるなど、嫁入り前にはちっとも考えなかったというのに……

 美しく整えられた高橋家の、夫婦の寝室をぼんやりと眺める。いっそ泣けたらどんなに楽だろうと思うのに、それすらできないほど意地っ張りらしい自分のことが、そのとき初めて情けなく思えたのだった。

 次の日の朝も、昨屋さんはさっさと仕事に行ってしまった。今日は偶然非番なのだという遠矢さんによると「昨屋は随分無理をして休暇を取っていましたからね」ということであって、そもそも婚儀までふらふらとできていたことのほうが奇跡であったらしい。

「無理をしていらしたの?」

「そうですよ。我が弟ながら妻思いなものだ」

 遠矢さんのしみじみとした言葉に「妻思いね」と私は口の中で言う。

「昨日、昨屋さん、言っていらしたのよ」とまで口に出してから、はたと気が付き私は口をすぼめた。

「いえ、なんでもないの」と勝手に自己完結した私に首を傾げただけで、遠矢さんも「まあ良いか」といった風に目を細めた。

「……寂しいわ、本当に」

 遠矢さんが居間を出た後に、こっそり声に出してみる。意地を張る方が得意だと自分でもわかっているせいで、こういう簡単な言葉が、他人の前では矢鱈やたらと喉に詰まってしまうのだ。

 誰も居ないのを良いことにか「嫁がなければ」という言葉まで唇から洩れそうになり、慌ててぐうと言葉を飲み込む。何度目かわからないため息を吐き出して、私は壁に寄り掛かった。

 華美な着物が昔のように母の仕立てたおさがりではなくなり、髪も上等な髪結に結ってもらえて、化粧品ですら一級品を揃えて貰っている。家の中は美しく清潔で広々としており、ここは夢の御殿のようであるというのに、この家に暮らし始めても、ちっともこの胸に蔓延はびこる虚無は消えない。それどころかどんどんと、我が身を侵食していくのであった。

 明くる日の夕刻に、珍しくも昨屋さんが「全く持って度し難い」と声を荒げて足音高く帰ってきた。苛立った様子である夫に無暗に近づけず、遠くから驚いて見詰めている私の姿を探して、昨屋さんのほうからとめに「あんずさんは何処どこです」と声を掛けているのが聴こえてくる。

「私は此処ここよ」

 柱の陰から恐る恐る顔を出し、そう小さく言うと、昨屋さんはこちらを見た後、ぐいと私の腕を荒く引いた。

「きゃっ」と短く悲鳴を上げた私を胸板に押し付けて、昨屋さんは深呼吸をしている。

 怖々と「どうかしたのかしら」と訊ねてみても、昨屋さんは「いえ」とも「なんでもないのです」とも言わず、いつもの「おや」と屈託のない口癖すらも辞めて、ただ黙している。

「今日は、本当に嫌なことがあったのです」

 愚痴るようにやっと呟いて、昨屋さんは私を閉じ込める腕にますます力を入れる。

「嫌なこと」と私が鸚鵡返しすると、昨屋さんは私の肩の向こうに顔を置いたまま「そうですよ」と子どもが拗ねたときのような口調でもごもご言っている。

「なにがあったの? あんなに楽しんで仕事なさっていたのに」

 そういう段ではないと分かってはいても、なんだか言っておきたくて、私はつい嫌味を吐いたが、そんな私の嫌味にも、昨屋さんはいつものように軽やかに返答できないほど心を摩耗しているようである。

「楽しんでなんかいませんよ」

たぬき親父おやじばかりなのです、今日だって訳の分からない難癖なんくせを。いつもいつも、僕が黙って聞いていると思わないで頂きたいものだ」

 私が「黙って聞いているの」と訊ねると、昨屋さんは「……黙ってはいないですね」と自分を省みているような間を置いて呟く。

「心の中で何度殴ったか、分からないくらいだ」

 私はさすがに「それは」と言葉を詰まらせた。昨屋さんの軍服を脱がせる途中だった為にこの場に居たとめが「昨屋さん、そういうことは心の中に留めておかなければなりませんよ」と言うと、昨屋さんはとめのほうにちらりと視線を投げる。

「今日は逃げて帰ってきてしまった。また明日から忙しくなると思いますが、あんずさん、今日だけはゆっくり過ごしましょう」

「ゆっくり?」

 抱きしめる腕をほどいて、昨屋さんは私の顔を覗き込む。情けない顔をしてこちらを見ている夫に、つい「子どものようなお顔」と、私も久方ぶりに心の底から笑ったのだった。

 昨屋さんのいう「ゆっくり過ごす」というのは、本当にゆっくり、なにもせずに過ごすということだったらしい。私は寝台に寝そべる昨屋さんの横に座り、いままで溜まりに溜まった私の愚痴や、話を訊かせていた。

 昨屋さんがやっと「本当に寂しい思いをさせていたようだ」と口を開いたときには、そうして私の小言を聞かせ始めて半刻は経過したあとだったので、流石に少々、申し訳なかっただろうかと思っている私に対して、昨屋さんは体の下に引いていないほうの腕を広げる。

「おいでなさい」と彼が言い、私は首を振った。

「いやよ」

 昨屋さんが「おや、拗ねている」と言葉を繋げたものだから、私はむっと頬を膨らませた。

「拗ねてはいないわ」

 昨屋さんが「お詫びですよ」と私の傍に体を寄せる。

 寝台の隅に座っていたものだから、これ以上避けるとなると立ち上がらなければならない――と言い訳をして、膨れ面のままではあるが、こちらも昨屋さんにすこし体を倒してやった。

「なんだか、夫婦みたいね」とぼやくと、昨屋さんが目を丸くする。

「随分と辛かったようだ」

「頭を下げてくだされば、許すわ」

 付け足すように「今回だけよ」と微笑むと、昨屋さんも溶けたような顔で口角を緩める。

「それは有難いですね」

 昨屋さんの横に寝そべって、その胸に頭を預ける。そういえばこうして体温を感じたこともなかったなと思えば、いままでのなにもかもを許せるような気持ちになるのが、どうも我が事ながら理解しがたい。

 昨屋さんが寝しなに「明日から、また馬車ばしゃうまです」と呟いたのに「そうね」と答えて「帰ってきたら、今日のように甘えても良いのよ」と、聴こえるか聴こえないかの声で囁いてみる。昨屋さんはぼんやりした目でこちらを見た後「そうですね」とだけ、短く返してすうすうと眠りに落ちて行った。

 昨屋さんに布団をかけようとやってきたのだろう、とめが「あんずさん、今日は幸せそうですね」とこちらを見て笑うものだから、私は「そうかしら」と顔色を隠した。

 この家をこんなにも優しく温かな場所に感じたのは、本当に初めてのことで、それが私にはどうも不思議に思われた――「あんなに人寂しかったのに」と独りごとを言ってから、昨屋さんの、意外にもあどけない子供のような寝顔を見る。

「もしかして、とても可愛い人なのかもしれないわね」

 可愛らしく見える夫の寝顔を見ながら、その少し硬い前髪に触れて、ふふと笑う自分が、いままでの自分とどこか違う気がして、それもいまは心地よかったのだった。

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