第三章

 ライリオン様のいる西の塔に行くのは、これでもう何度目だろう。

 その日も僕は、西の塔からの帰り道で、レオと連れ立っていたわけではなかったこともあり――レオは王族らしく、西の塔を嫌っている節があるのだ――、一人、東へ帰路についていた。

 マリア・ドルフォン=キングストーン、僕の父上であり、僕が父上だと認めたくない人物のことを、なんとなしに僕は考えているところだった。ライリオン様やメリエル様と会ったあとだと、考える頻度が高くなる気がするのだけれど、きっと気のせいではない。

 ライリオン様が、クレオの父親になる前ならば、僕にマリア様のことを考えさせてしまうのはメリエル様だけだったのだ。しかし、クレオが産まれてから、そのクレオが可愛くて仕方がない様子のライリオン様を見ていると、どうして僕はマリア様に愛されていないのか、と思ってしまう。

 ――どうして、と思ったところで、答えなんてでるはずもないのに。

 それでも考えてしまうのだ。「ライリオン様は、クレオ様が可愛くて仕方がないのですね」と僕が寂しく言ってしまったとき、ライリオン様は小さく「ローディアと俺の子だからな」と呟いていた。そういうことなのだろうか、と思えば、それならば、とますます、愛されていた母上の子であるはずの僕と比べてしまう。なにもかわらないはずなのに。――母上の血筋? 娼婦だった女性だから? でも、そんなことを、マリア様が気にしているようには、僕にはどうにも思えないのだった。

「訊きたいことがあれば訊けば良いんだ」

「それができないから悩んでいるってこと、わかっている?」

 光の眩しい、青々とした木々が身を乗り出したテラスで、僕の悩みをひとしきり聞いたレオは、しゃあしゃあと言い放った。僕は渋面をする。「レオほどお気楽だったらなあと、僕も思うんだよ」

「喧嘩を売っている? 買わないけどな」

「やだよ。レオと喧嘩なんてしたって、仕方がないじゃないか」

 「お。いうなあ」とレオはなぜか満足げに口角を上げる。なにが嬉しいのかよくわからないから、僕はそれを一瞥しただけで深いため息を吐く。「まあ、それは良いとして……クレオにはもう会ったの? レオ」

「クレオか。まだだ」

「会いに行く?」

「西の塔だろう、俺は遠慮しとくよ。会いたい気持ちは山々だけどな」

 やっぱりこれだ、と僕は二度目のため息。そのとき、僕たちが話しているところに、珍しくマリア様の声がかかった。「ロカ」

 僕は突然のマリア様の出現に驚いたのと、いつも声などかけないのにとそれに困惑してしまい、「えっ」と短く声をあげておずおずと体を向け、頭を下げた。マリア様は鼻から息を一つ吐き、「こちらへ」と呟いてふいと背を向けた。――ついてこい、ということだ。

 「レオ……」と僕がレオに助けを求めると、レオは「いってこい」と身振りする。僕は意を決して、そのマリア様の背中についていくことにした。

 マリア様は、テラスから出て曲がり角をひとつ曲がった、人気のないところで立ち止まり、おもむろに振り向いた。僕も足を止め、「なんでしょうか」と訊ねる。

「ロカ。西の塔にいったの?」

「えっ? はい、いきました、けど……」

 あまりに冷たい声色に、僕はマリア様から目を逸らしてしまう。その、僕と同じ青い目を見ていられなくて、視線は、肩に流した見事な金髪の一房に落ちる。――金髪。

「王族があんなところにいくなんて、感心しない。罪人の塔へなどと」

「……」

 薄暗闇の、塔の端にいるはずなのに、マリア様の金髪はぼんやりと浮かび上がって、こんな場所でも綺麗に整えられているのがわかる気がした。僕も、昔はこの金髪だったのだ。この金髪でこの顔立ちだったから、マリア様が僕を見つけて……あの片田舎から、母上と一緒に僕を……

 いや、それはきっと、「母上と一緒に」ではなく、僕こそおまけだったのだ。マリア様が王城に連れて行きたかったのは、母上だったんだろう。どうして僕は、なんでもないたったいま、この時に、気が付いてしまったのか!

「……マリア様は」

 ――一度そう思うと、心の中のパズルのピースがぴたりと収まった気がした。この人は、僕などどうでもよかったのだ。最初から僕は母上のおまけで、「愛する」「愛さない」の選択肢などなくって。

 この人は、僕の父親だという事実を持っている。だけど、この人のなかに、その事実は一片たりとも感情を伴わないのだ!

「マリア様は……どうでもいいものに、時間をお使いになるのですね。意外です」

 僕の口から、そんな言葉が飛び出した。マリア様が怪訝な顔をする。

「僕のことを王族だと思っていたなんて、笑えてくるようなことを言わないでほしい。貴方は僕のことなんてどうでも良いのに、こういう時ばかり……」

 父親面を、するのですね。

 僕の言葉は、尻切れに小さくなっていった。マリア様は腕を組んでいたけれど、その目が揺れている。怒っているのだ。この人がこんな風に、僕に感情を見せたことなんて、あっただろうか? 初めて見る感情が怒りだなんて、本当にどうしようもない。

 ――やはりこの人は、父などではないのだ。父などでは……。

「そういう風に思っていたのか」

 マリア様は、怒りに小さく震えながら、それでも努めて冷静だった。感情的に僕を打つこともせず、それだけ訊ねて口を堅く結ぶ。僕は微笑んだつもりだったけれど、それは酷く硬い表情であることも、僕自身で気が付いていた。マリア様は言う。「僕は確かに父らしくないだろうね。でも知っている、ロカ? 君は間違いなく僕の血を引いている。君は僕の子なんだ」

 それだけを言って、マリア様は僕のそばを通り抜けて去っていく。その後姿を振り返っても、僕は何の感動も覚えることができなかった。

 マリア様は、結局なにが言いたかったのだろう。いや、言いたかったことを、僕が遮ってしまったのだろうか。僕も、あんな風に感情的になる必要なんて、きっとなかったのに。どうして……。

「王族、か」

 王族だと、己の子だと思っているのなら、どうしてマリア様は、僕にあんなに冷たくするのだろう。僕が本当にメリエル様の子であれば、こんな思いはしなかっただろうに。レオが羨ましいよ。本当に、僕は、レオのことが羨ましくってたまらないのだ。


「おい、マリア様がお怒りだそうじゃないか。なにをしたんだ?」

「うん……」

 レオの問いに、僕は力なくベッドに横になって頷くだけだ。

 僕はあのあと、「すこし頭を冷やしなよ」というマリア様の命で、自室に三日軟禁されることになった。三日、というだけならまだ……という自分の認識が、城下に行って女の子と遊んでばかりだった自分にとっては、甘かったのだと痛感する。

「三日間も、この暇な一日が続くのかと思うと……」

「三日部屋に閉じ込められるくらいなら、まあまだ可愛い仕置きだともいえるけどなあ……でも、本当に何をしたんだ? ロカ」

 レオが、僕が寝転がっているベッドの端に腰をかける。にやにやと笑っているけれど、少しだけ心配もしているようだった。

「なにもしてないよ。ただ、マリア様は僕などどうでもいいでしょう、父親の顔をしないでほしいと言っただけ」

「……それは、すごいことを言ったなあ……」

 ――その、レオの心底驚いた顔に、僕はやっぱりまずいことを言ったのだろうなとぼんやり思った。でも、あの発言自体を反省するには、三日という刑罰は軽すぎる気がする。

 まあ、仕置きが優しいことには感謝しかないけれど……。

「どうしてロカは、マリア様をそこまで嫌うんだ? マリア様はロカの実の父親だろう。いつまでも俺の父上ばかり追っていても仕方がない」

「メリエル様は僕の実の父親だよ。僕と君は兄弟」

「前者はまあ良いとして、後者は同意しかねるな。なんとなくだけどな」

 そう、嫌そうに表情を歪めたレオは、本当に「僕と君は兄弟」という言葉が気持ち悪かったのだろう。言った僕もちょっとだけ、背筋がぞわぞわと粟立ったのだから、それもそのはずだ。

「まあ、それは良い。お前の落ち度は、父親面をするな、の点だろうな」

「やっぱりそうかな」

「マリア様は、多分、お前のことを自分の子だって思っているだろうと、俺は思う。だからそんなに邪険にせずさ」

「邪険にしたくないよ、僕だって。本当に、メリエル様が僕の本当の父親だったら……」

 天井を向き、目を閉じて大きくため息を吐いた僕に、レオは無言になる。どうしたのだろうと目を開いてレオのほうを見ると、レオは真剣な顔をしていた。レオは呟く。「本当に、そう思うのか?」

「なに」

「……別に。お前も好きものだなと」

 レオがふいと顔を背けたことと、その言葉の冷たさに、僕はなんだかかちんときてしまう。「どういう意味?」

 でも、僕はまだ、レオの言った「好きもの」という言葉にきちんとした意味合いがあるのならば、許そうと思っていた。でもレオはいつものように笑おうともせず、こちらが眼前にちらつかせた喧嘩を、彼に珍しく買ったのだった。「幸せな奴だから、俺の言葉の意味もわからないんだな。恵まれた立場のお前に、恵まれてない俺と同じ立場になりたいと言われてしまうと、こんなにも鳥肌が立つんだな?」

 「レオ」と、僕はレオに「それ以上言うな」と制止をかけた。でもその制止はレオの為ではなく、そのレオの言葉や、それに続く言葉たちに、僕がひどく自尊心を傷つけられることを予想した、僕の為だった。

 レオも僕がレオを止める理由が分かっているらしく、彼らしくない下卑た笑いで顔を歪める。「俺の言っている意味が、本当に分からないんだなあ、ロカ。王太子候補であるのだから、自分のことを誇れば良いものを、って俺はずっと思っていたんだ。父に愛されないなんて、そんなことどうでも良いだろう。そんなことより大事なのは、王になるかならないかだ。違うか? ロカ・リメル=キングストーン。お前のその名は誰が与えたものだよ」

「なにが言いたいのか、全く分からないんだけど」

 僕が怒りを抑えても、僕自身の口調から、感情がはっきり漏れている。レオはしかし、こちらの怒りに屈しない。「マリア様から生まれたことを誇れと言っているんだ。……いや。そうだ、そんなに俺の父上が良いなら、父上に言っておこうか。ロカが父上が恋しいと泣いているって」

「レオ。いい加減に……」

「――俺はな? ロカ」

 僕の言葉を遮って、レオは言い募る。レオの双眸は苛立ちの炎を浮かべていたはずなのに、気が付くと、それは泣きそうに歪んでいた。「俺は、お前が羨ましい。俺はマリア様から生まれたかった。俺の人生を知っているか? 血筋は高貴でも決して王太子にはなれない王子、お前より劣っていて、なにをさせてもぱっとせず、することと言えば女遊びばかり。メリエル様の血を感じるのだと笑われる、俺の道化のような人生を、お前は生きたいというのか?」

 レオ、と彼の名を呼ぼうとしたのに、レオがそれを許さない。彼は言い捨てると、素早くベッドから降りて僕の自室から走り去る。一人寝台に残された僕は呆然としてしまって、レオから言われた言葉を反芻できずにいた。


 三日間の折檻は終わり、今日は晴れて自由の身になった一日目だった。レオにあんな顔であんなことを言わせてしまったことを、後々になってやっと悔いていても、こちらからは部屋を出ることもかなわず、僕は二日ほど、レオと仲違いしたまま、謝ることすらできなかった。

 ……いや、謝るべきなのだろうか、とも思う。僕に非はないようにどうしても思えるし、どちらかというと、突然癇癪を起したようなレオのほうに非があるように思えるのだ。

 でも、そんなことを言っていても……やはりこの胸にかかる靄が晴れないことには、なにをしても楽しくないだろうし……このままレオが僕と友達ですらいたくなくなってしまうことが――とても癪だけれど――嫌だと思うのも本当なのだ。

 でも、どうすればいいのか、さっぱり見えてこない。

 「ごめん。僕が悪かったよ」と謝るのは、一番簡単だ。でもさっさと謝ったところで、僕がメリエル様を父だと思いたいという気持ちを変えることなど無理なのだし、もっと根本的な解決は、と思うとますます目の前が真っ暗になる。

 根本的な解決なんて、無理だ。僕らはきっと、もともとから根本で互いを羨ましいと疎ましいの狭間で考えていて、それがこんな形で出てきた時点で、もはや友情など水泡に帰したのだ。そもそも、僕らの間に友情なんてあったのだろうか。どちらも相手を羨ましいと、どうして自分が相手の立場にいないのかと妬んでいた時点で、僕らは最初から友達などではなかったのかもしれない……。

 そのとき、扉が軽くノックされて、メディ様が顔を出した。「ロカ様」と僕に声をかける。僕は思考の波から揺り戻され、メディ様に近寄って声をかける。「メディ様。お久しぶりです」

「いまよろしいかしら? マリア様に叱られて、部屋に閉じ込められていたと訊いたのだけれど」

「ああ……今日、命が解けたのです。もう外に出られます」

 メディ様の問いに、僕はそう微笑む。メディ様も笑った。「珍しいこともあるものだと、我が姉も驚いていましたわ。もちろん、マリア様には一言も言っていませんけれど」

「自分でも失言だと思うような言葉を吐いたんです。マリア様には、ますます顔向けできない」

 僕の言葉に、メディ様は「まあ」と驚いたような声を上げ、小首を傾げる。「顔向けできないようなことを言ってしまったの? それは謝らなければなりませんわ。できるだけ早く」

 その言葉をきき流して、僕は「メディ様」とメディ様の名を呼び、その呼びかけに、メディ様は答えてくれる。「はい?」

「その……レオがどこにいるのか、知っていますか?」

 僕の質問は、メディ様にはとても意外なものだったらしい。彼女は一瞬驚いて目を丸くした後、「謁見室の前にいましたわ」と教えてくれた。

 謁見室は、中央の塔にある。僕はレオがいなくならないように、できるだけ速くそこに向かった。謁見室の前でなにをしているのかは知らないけれど、メディ様の「早く謝らないと」という言葉が、レオを示唆しているように聞こえてしまって、いや、メディ様が言っていたのは十中八九、マリア様のことなのだろうけれど、僕は早くレオに謝りたくて仕方がなかった。

 ――今だって、勿論、謝ってどうするんだという気持ちはある。

 でも、心の内を吐露して僕に向かってきたレオに、なにもせず引くわけにいかなかった。友達でいてよなんて言うつもりもない。でも、言われただけで終わるのは、気が済まないのだ。

 走っていくと、レオはまだ謁見室の前でぼうっと立ちすくんでいた。なにをしているのだろうと思うが早いか、僕は「レオ!」と鋭くレオの名を呼んだ。レオは僕の声だとすぐに気が付いたのだろう、嫌そうなのを隠しもせず、不機嫌な顔でこちらを振り向いた。「なんだよ」

「あのさ。言われっぱなしだったから」

 「なんだよ……」とレオは二度目の言葉を吐く。僕は息を吸い、「僕だって、レオが羨ましい。父親に愛されて、なんでも持っていて、自由なレオが羨ましいんだ! 僕はなにも持っていないのに、王太子になれと言われるのが窮屈で……僕は、本当は……」

 ――騎士になりたいという夢さえ、捨てなければならない自分。

 ――親にすら、まともに愛して貰えない自分。

 そういったものに対する鬱屈や不満を、レオはきっと、持ったことがない。それが僕は疎ましくて、悔しくて、……羨ましいのだ。

 本当は、で僕は言葉を切ってしまう。そこから先を言うのは、怖い。レオにだけ伝わるのではなく、こんな場所で言えば、もしかしたら謁見室の中に陛下や、運が悪ければマリア様もいるかもしれないのに。

 騎士になりたいと思いながら、僕は尻ごみしているのだ。時期王太子という服を脱いでしまえば、僕なんてただの我楽多だから。それを知っているのは、きっと僕だけではなく皆だろう。

 「ロカ」と僕の名を呼んで、レオが一歩僕に近づく。一歩、二歩、三歩……僕の目の前にきて、レオが僕の顔を覗き込んだ。二センチ違うはずだった背丈が同じになっている、と僕は、場違いな思考に一瞬囚われる。そのときだった。ばちんとレオが僕の頬を打ったのだ。

 「なっ」と僕は声を上げ、やりかえそうと手を振り上げた。なのに、レオの顔を見て、その手はゆるりと降りてしまう。「なに……」と僕から出たのは、情けなく泣きそうな声。

「御相子だ。俺を殴れ。俺もお前も、同じこと考えてたみたいだから」

「……殴らない」

 にっと不敵に笑ったレオの言葉に、僕は意味のない、でも必要な意地を張る。レオは稍々考えたあと、僕の振り上げ下ろした情けない腕を掴み、手に力を思い切り込める。「いたた!」と僕が悲鳴を上げると、レオは大声で笑った。「ほんと、育ちが良いな、ロカは」

「言っておくけど、王子なのは君もだからね」

「それもそうだな」

 僕の憎まれ口にあっさり頷き、レオはううんと唸る。「なに?」と僕が訊ねると、レオは「いや」となにかを否定した。

「父上が言っていたんだ。俺たちは本当に、互いの親に似ているんだってな。俺は父上に同じようなことを話して、お前は本当に若い時の俺そっくりだと言われた。ロカは? と訊ねたら、マリアそっくりだよって笑っていたよ」

「……」

 その話を嬉しいと思えず、僕はこぶしを握る。レオは続けた。「――でも、マリア様と違うのは、女漁りに城下に下りていくところだってさ。そこは俺に似たな、まあ俺はあいつの父でもあるもんなって、言っていたよ」

 「喜べ、兄弟。俺は複雑だけどな」と付け足し、レオは僕の肩をぽんと叩く。「なにそれ……」と泣きごとのように言った僕の、泣きそうに歪んだ顔を見て、レオは鼻で笑った。こいつが弟なんて嫌だなと思うのに、レオが語ったメリエル様の話が事実ならば、と、嬉しい気持ちになるのはなぜなんだろう。決まっている。


 ――でも、マリア様に謝るまで、僕の気持ちが行きつかない。僕はやっぱりマリア様を父と認めたくなくて、でも認めなければならないことも、本当はきちんと分かっているのだ。

 普段、足を踏み入れることのない、母上とマリア様の離宮――マリア様が十五の誕生日に貰ったという離宮だ――に、僕は居た。

 ちらりとでも、見てみる気になったのは、僕にしてはとても珍しいことだった。マリア様と母上の思い出は僕にとって遠いものであって、触れることすら許されていないように思っていたのだけれど、気がつくと僕は、一度だけ許してほしい、と母上に願い出ていたのだった。

 母上に「あの場所には行きたくない、でもあんたが行くのは構わない」と言われたから、僕は一人で離宮に向かい、こうしてひとりぼっちで庭園を歩いている。庭園は美しく、色とりどりの花が咲き誇って、王城のそれと見劣りしないどころか格段に上な気がするほどだった。

 城内に入り、一部屋一部屋見ていく。途中で、何部屋か気になる部屋を見つけた。

 ひとつは、入って左に小さな書斎、真ん中に応接用の小さな間、右側に寝室のある部屋だった。

 綺麗な花柄の壁に、若いころの母上だろうか、と思うような肖像画が、二枚飾ってある。一枚は母上らしくない笑顔のものと、もう一枚は不愛想なもので、母上の笑顔は泣きそうな顔だと知っている僕は、その笑顔の肖像画からすぐに目を逸らし、母上らしい仏頂面のほうばかり眺めてしまった。

 もう一部屋は、立派な応接間だ。一品ものだろう、硝子のように透き通ったテーブルと赤いソファがあり、その暖炉の上に小さな円形の、なにも飾られていない写真立てが置かれており、それを間に挟むようにして、王妃様とセルフィウス様――だろうか、セルフィウス様ではなく幼いマリア様かもしれない――の若く、幼い肖像画が貼られている。

 最後は、なにもない部屋だった。ここまで見たものはなにかしらあったのに、その部屋にはなにも、いや、服をかけるようなマネキンや、ラックといったものが散乱していて、でも一着のドレスもなく、まるで物置だった。

 でもそれらは綺麗に整列していて、なぜか埃をかぶっていなかった。綺麗に毎日拭きあげているのだろうか、と思ったけれど、なぜそう思ったのかは分からない。

 僕はなんとなく、最後のその部屋に入って、壁掛けの大きな全身鏡に近づいた。その傍に転がっている瓶が、無性に気になったのだ。

 拾い上げればそれは何のことはない香水瓶で、振りかけるとまだ香りがわずかに残っており、甘ったるい匂いがした。

 その瓶の下、床の上に無造作に置かれていたメッセージカードに目を落とす。「マリア」と書かれているそれは、間違えることなど絶対にない、母上の字だった。

「……?」

 無造作に置かれていたのだから、埃をかぶっていても良さそうなそのカードと瓶は、埃一つ被っておらず、むしろ鏡の前に、窓から差し込む光に煌めいていたのだ。もしかして「無造作に置いていた」のではなく、「供えられていた」ようなものだったのでは、と気が付き、僕はなんだか胸が苦しくなる。

 ――この城は……。

 母上とマリア様が、この城で一体どんな風に暮らしていたのか。なにを思っていたのか。そんなことがくみ取れるような、超人では、僕はない。でも、この城にある記憶のようなものは、なんだか愛しくて泣きそうな気持ちにさせるものばかりだった。

 母上は、ここに軟禁されていたのだという。それは僕の侍女から、こっそり聞いたことがあった。でも、こんなきれいな字で、マリア様の名前を書くほどに、――母上も、確かにマリア様を愛していて。

 そして、マリア様も、母上が立ち去り寄り付かなくなったこの離宮に、いまだに母上の仏頂面を飾るほど、こんな部屋を残しているほどに愛していた、いや、愛しているのだろう。

 ――それならば、僕は?

 僕は、なぜ、マリア様から愛して貰えないのだろう。

「ロカ、ここにいたの」

 庭園に再び戻って、東屋に座っていた僕に声をかけたのは、マリア様だった。僕は「なぜマリア様がここに?」と咄嗟に思ったあと、なぜ、なんて馬鹿げている問いだったなと、ここがそもそも「マリア様の」離宮であったことを思い出して、目を伏せ黙す。

 マリア様は僕に近づき、その隣に座った。マリア様は石鹸の匂いがして、あの鏡の前に置かれた香水の甘ったるい匂いとは全く違うものだった。

「僕とミーシャは、ずっとここにいたんだ。多分、一年もなかったと思う。半年か……それより、もう少し長かったか」

 僕が無言でいても、マリア様は話し続ける。語るような口調なのに、思い出を綴る口はむしろ空虚だった。「僕は、ミーシャを愛していた。君を無理やり身ごもらせるくらいには、愛していたんだ。だけど」

「だけど……君も、ミーシャも、決して僕を見ない。メリエル兄上にすべて奪われてしまったような気がして、仕方がないんだ」

 マリア様の言葉に、僕はなにも言わない。顔を下げて、両手で膝を強く握っているだけだ。「でも、僕は君の父親でありたいと思っている。それでもどうしていいのか分からなくて……ロカ、君、もしかして、王にはなりたくないの?」

 僕はそのマリア様の問いかけに驚いてしまい、掠れた声で反射的に聞き返していた。「どうしてですか」

「あのとき、レオと君が喧嘩を……していたのかな? 仲直りも早かったけれど、あのときだね。あのとき、謁見室にいたんだ、僕」

「ああ……」

 ――運が悪かったんだな、と僕は思う。あのとき、勢いですべて話していなくてよかったと思っていたのに、やはりマリア様は謁見室の中にいたのだ……。

「君が、王になりたくないというのは、気持ちがすごくわかる。僕だって、王になどなりたくはない。僕は母上の傀儡でしかなくて、きっと王になれば、今以上にもっと、操り人形になるだろう。でも、君は違う。君は自分の足で立つ王になれるんだ。それでも嫌かな」

「……僕は」

 ――そんなこと、考えたこともなかった。

 マリア様の語るものに、嘘偽りがあるとは、思っていない。でも、マリア様の言葉があまりにも見当違いで……でも、大事なのはきっと、そこではなくて。「僕は……迷っているのです」

「母上のために、王になるのは、僕自身良いと思っています。それが僕の在る意味ならばと思う。でも、そこに僕はいない。僕がそれで、幸せになる未来が見えないんです」

 「そんな先を見ているのが、だんだんつらくなってきて……僕はもっと、自由に生きたい。沢山の選択肢の中から、これだと自分で掴み取ってみたいのです」と僕が途切れ途切れに言うと、マリア様はこちらを見つめる真摯な瞳をわずかに揺らした。「そう……」

 マリア様は、そう、とだけで口を閉ざしてしまう。数分の間の後、またマリア様は口を開いた。「……僕は、自分が王になって、傀儡になる未来しか見たことがなかった。僕より君の方が、随分強いみたいだ」

 マリア様はこちらを見て、朗らかに笑う。「強さは、選択肢だ」

「もう、君に王になれとは言わない。でも、それは松明の灯を消すようなものだよ。君は真暗な道を歩かなければならない。それでも良いというのなら、君に、王以外のなにかになる道を開いてあげる」

 「僕の権力を見ていなよ、文句を言うものは蹴散らすから」と、マリア様は笑えない冗談を言う。僕はなにもかもに驚いていて、お礼が言えずにいたけれど、そんな僕の頭を軽く撫でて、マリア様は東屋を出て行った。

 僕は慌てて立ち上がろうと、マリア様を呼び留めようとしたのに、なぜか涙が、嗚咽が出て止まらない。――この溢れるものはなんだろう? 嬉しいとか、悲しいとか、なにもかもが混ざった、この驚くほど澄んだものはなんだろう!

「父上……」

 僕は初めてマリア様を父と呼んで、そのまま東屋で屈みこみ、日が落ちるまで激しく咽び泣いた。


Fin.

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volaille -揺り籠の王国 ひなた @aohi31

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